月の裏側に行ってみたい。※文字数24314(改行・スペースを含まない)


街の喧騒なんて別世界のような、俺たちの秘密の丘。

きっと昼間は違う顔をしてるんだ。
犬を散歩してる人がいたり、挨拶する声や笑い声が響いてたり。
学校にいる俺たちには分からない姿で、この丘は存在しているんだろう。

じわっと零れ落ちる夕陽を背に、駅裏の細い階段を駆け上がる。

うっそうと茂る葉をかき分け、丘へ飛び込む。

ふたりのリズミカルな呼吸だけが響く瞬間、ここは秘密の丘になる。


「……おい、朔(さく)。今日の空、イイな!空 × 透明度の高さ=深宇宙の極みっ。」

この声の主は――然(ぜん)。
顔も上げずに天体望遠鏡にかじりつく姿は定番だ。
今日もつむじが、嬉しそうに揺れている。

それを横目に、丸めた上着を枕に寝転がる。

ふわっと香る芝生の匂い。
目の前に広がる強烈なパノラマ。

黒に近い――群青。

“吸い込まれそうな星空”なんて言葉、誰が一番に言い出したのだろう。
肉眼で見える限りの星々を抱きしめる。
――この時間が、好きだ。

「なぁ、然。今、何見てる?」

「んー、月。」

「お前、月好きだな。」

「いつも思うんだ。裏側、見てみたいなって。ぐるっと回ってさ。」

「ロマンだよな。俺も見てみたいわ。」

然が、望遠鏡を覗いたまま小さく頷く。
下から見上げるその横顔は、星空に負けないくらい煌めいている。

迫るような月よ、営業スマイルもいいけど、たまにはオフモードも彼に見せてやってくれませんか?

パタッ……。
俺の頬に何か落ちてきたような気がする。

「あれ?雨?」

少し頭を上げ、ぐるっと空を見渡す。
俺たちの後方に、ぽっかりと黒く星空が抜けてる場所がある。

「通り雨が来るぞ。」

立ち上がり、レンズにくっ付いている然の背中を肘で小さく小突いてみる。
反応無し、は想定内だ。

「ほら、行くぞ。然。」

「んー。もうちょいしたら行く。」

パタパタパタッ!!
うわ、来た。
ぶわっと芝の香りが舞い上がる。

「おい、急げ。」

然のTシャツを引っ張った瞬間、ドォッと音を立てて雨が降り出した。
重く、強く、突き抜けてくる。

「やべぇ!然!行くぞ!」

Tシャツを掴む手に力を入れ、然をレンズから剥がす。
然はすぐさま俺の手を振り払い、またレンズにしがみついた。
どうしようもない奴にため息が出る。

「然っ!いい加減にしろ!」

「朔だけ行けよ。」

「は?お前も来い!」

引っ張ってもビクともしない。
業を煮やした俺は、然を力任せに抱き上げると、抱えたまま休憩スペースへと走った。

まったく……コイツは。

雨宿りの意味なんてなかったな。
俺たち見事にびしょ濡れだ。全身から大きな雫が落ち、濡れた服越しに肌が透けている。
ふたり揃って、実にみすぼらしい。

「ほら、座れ!」
ムッとした顔の然をベンチに下ろす。
触れたところが冷たい。

「冷えてる。」

「これくらい平気だよ。」

「平気じゃない。」

すぐ横の自販機にお金を入れ、ボタンを押す。

「ほら、これ飲め。」

「わぉ。ホットココア!」

コクッ……コクッ……と然の喉が上下するのを見届け、俺は胸を撫で下ろした。


「あーーっ!!」
然の叫び声に身体が跳ねる。

「ビックリした!なんだよ!?」

「俺の……天体望遠鏡……。」

「うわっ、忘れてた!」

もう一度、土砂降りの中に駆け出したのは言うまでもない。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

一夜明けての今日。

賑やかな教室の中、俺の手はポケットの中のスマホを弄んでいる。
朝からずっと。

俺は、起きてすぐ然にメッセージを送っていた。
『おはよう。風邪ひいてないか?』って。
そっから、うんともすんとも言わない寡黙なスマホ。
主の来ない然の席が、やたら目について困る。

「……アイツ、たまに急に休むし。」

意味もなくペンケースをいじる。

「体弱いとか聞いたことないし。」

シャーペンの芯を出したり引っ込めたり。

「でも。体、冷えてたもんな。」

然を抱き上げた時の、重み。
頬を伝う雫と濡れたまつ毛。
ホットココアを飲む柔らかい眼差し。

どうしたわけか、そいつらが俺の頭の中で、スローモーションを挟みながらループ再生をしている。

「何なんだ?俺、キモいな。もう嫌だ。」

「よぉ、百面相。誰がキモいって?」

カラカラと笑ってるコイツ、クラスメイトの――快(かい)。

悩みなんて無さそうな、暇さえありゃ球を追いかけてるような奴だ。
快は動いてなきゃ、多分死ぬ。確実に死ぬ。
俺のこの繊細なる心は、コイツには一生分からんだろう。
「いや、まぁ……?」

言葉を濁す俺に、快が目線で然の席を指す。
「気になるんだろ?様子見に行きゃいいじゃん。」

変なところで勘がいい。
でもそれは大きなお世話だ。
「お前はいいな。単純で。向こうで蹴鞠(けまり)でもしてこいよ。」

「うーわ。感じ悪っ。」

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

放課後、俺は然ん家の最寄り駅にいた。
『駅にいる。家どこだ?』
相変わらず、俺のメッセージは朝からずっと未読のままだ。

「アイツ……スマホくらい見ろよ。」

時計塔にもたれかかり、スマホの画面と睨めっこ。
来たはいいけど、その先を全く考えていなかった。さすがに途方に暮れる。

スマホを見つめる目の端に、コロンとした白いスニーカーが見えた。
――待ち合わせしてる人かな?
時計塔の側面へ身体をずらし、またスマホにかじりつく。

白のスニーカーが俺の足をコツンと蹴ってきた。

ビクッ!
――なんだ?この人。

顔を上げると、そこには一人の女の子が立っていた。
背が高くて、すらっとしていて……。
然にそっくりな、なかなかの美人で……。

「……え?然?……なわけない。」

何度もまばたきする。

「あ!……双子の妹さん?」

いや、アイツは一人っ子だ。
そんなことより、声が同じじゃないか。
――然と。

脳がフリーズした。



「おい朔、とりあえず俺ん家行こ。」

「……え?」

「ほら、行くぞ。」

「……あ、うん。いや、え?」


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


――来てしまった。
難しそうな本と見慣れた天体望遠鏡、あちこちに然を感じる部屋でなぜか正座している俺。


「お茶、どうぞ。」

然が差し出したマグカップを黙って受け取り、口に含む。
「あ。この紅茶うまいな。」
「だろ?」
「うん。色もいい。」

違うだろ。
「ちょっと待て。」
マグカップを置き、姿勢を正して座り直す。
「然、頼む。俺を引っぱたいて欲しい。」

「唐突になに。」

「元の世界に戻してくれ。切に願う。」

然が声を立てて笑う。
部屋に流れる音楽に身を任せ、フレーズを口ずさむ然の唇に、つい目がいってしまう。

まただ。
然、ごめん。俺、キモい。

そんな中、然は柔らかな声で話し出した。
「朔、俺さ、心が男の日と女の日があるんだ。」

「ん?なんだそれは。」
理解ができない。

「学校での俺は基本、男で過ごしてる。だけど、女でいたい日がある。今日みたいにな。」

「ああ、女装癖?趣味は個人の自由だ。安心しろ。誰にも言わない。」
俺、軽く動揺してる。

「プッ……ちょっと違うかな。」

「あ、違った?ごめん。」

然が指先で自分のこめかみをトントンとやった。
「ここがそうなんだよ。男だけど女でもある。正確に言えば“どっちでもない”。」


自分の膝に置いた拳に力が入る。
何も言葉が出てこない。



「おい、朔?」

「お前、辛くなかったか?」

「え?」

堰を切ったように言葉がこぼれる。
「悲しい思いは?悩んだんじゃないのか?男なのか女なのかって。あと、それから、えっと……」
本当はこんな事を言いたいんじゃない。
だけど、全部が押し寄せてくる。


「朔、落ち着け。これが“俺”だ。」

「でも……」

「俺はいつだって“俺”だ。悲しいとか、どっちだとか、そういう次元ではもう考えてない。」

頭では分かる。心が置いてけぼりだ。

俺たちの後ろで、Stand by meが流れてる。
歌詞と心がシンクロする。

“ぼくのそばにいて”

それは俺か?

然か?

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

無情にも朝は来る。
小鳥のさえずりの中、枕に顔を埋めて両端を握りしめる。

「学校行きたくない……。」

どんな顔して会えばいいんだ?
そもそも昨日、どうやって帰ってきた?
気づいたら家で飯食ってたぞ。

「ぐわぁーー!!」
めちゃくちゃに頭を掻きむしる。

「朝からうるさいよ!」

一階から響く母の怒声。
ハッと我に返る。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


教室の中、爽やかなおはようがあちこちから聞こえてくる。
然に出くわしたくなくて、超早く登校してしまった。
「こんなのダメだろ。」
机に突っ伏し、脱力する。
このまま机になってもいい。
もう、そうしてくれ。

バカな俺への制裁か、後頭部にドカッと何かが直撃した。


「――悪い!」

「快!またお前かよ!」


駆け寄ってきた快が、床に転がるサッカーボールを拾い上げる。
「今のは俺じゃねぇって。――おっ!然、おはよーっ!」

ドクッ……

その名前を聞いただけで、俺の鳩尾(みぞおち)が縮こまる。
さてどうする?
よし。寝たフリに決定。


「何やってんだ、朔。」

「快っ……しぃーーっ!」
薄く開けた目に全エネルギーを注ぎ、快を威圧する。

「やなこった!」
そう言うと快は、ボールを掴んだ手を然に向かって大きく振りかぶった。

「バカ!快、やめろ!」
俺の静止に構わず、快が然に声をかける。
「おい、然!おりゃぁ!」
投げるふりをする快に驚いた然が、近くの机に倒れ込んだ。

「うわ!然っ!大丈夫か!?」
然に駆け寄り、抱き起こす。
「何してんだ!バカ快!」

「悪ぃ……」
バツが悪そうに快が身を縮める。

腕に抱く然の前髪を、そっとかき分け頬に触れる。
「怪我してないか?」

然の手が、俺の腕を冷たく振り払った。
「余計なことすんな。俺は“オンナノコ”じゃねーんだよ。」

ふいっと立ち上がり、席へと向かう然の後ろ姿を、呆然と見送る。

なんだよそれ。
俺はただ、心配しただけだろう?



「どうした?お前ら喧嘩中なん?」

戸惑う快に目配せし、俺は情けなく肩をすくめた。
「風に当たってくる。適当に言っといて。」



屋上へ向かう。
扉に手をかけ、力なく開く。

抜けるような青空。
空気が美味い。

「うわっ。これ、いいやつ。」
カシャッ!とスマホが乾いた音を立てる。
そのまま画面上に指を滑らせる。
『然!今日の空最高!夜が楽しみだ!』
トトン。弾む指先。

「写メ送信っ……あっ、違う!」

慌てて画面を何度もタップする。
勿論、消せない。



……終わった。



屋上のベンチに仰向けに寝転ぶ。

さっきの然の眼差しは、悲しくも見えた。
心配しちゃいけなかったか?
俺の苦悩など関係なく、緩やかな風が静かに俺を撫でていく。





パチッ。

いつの間にか、寝てた?




「やっと起きたか。」

「えっ?」
体を起こし振り返ると、ベンチの端に然が座っていた。
「へ?なんで?」

「これ見て来た。今夜、楽しみだな。」

然が見せたスマホの画面には、さっき送った青空の写真。
言葉が出ない代わりに、何度も頷く。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


芝生を踏みしめる。
心臓よ鎮まれ。
お前が騒ぐと、いつもの丘が知らない丘みたいに見えるだろう?



「――おい。」



後ろからの然の声に、固まる。
振り返る勇気どっか行った。

「お前さぁ、マジでいい加減にしろよ?」

然の尖った声が、容赦なく俺の背中に刺さってくる。
然は、俺を追い越し、芝生の上に天体望遠鏡を置くとすぐにレンズを覗き始めた。


「朔、ちょっと来い。」
望遠鏡を覗きながら然が手招きする。

「なに?」
そっと近づいた俺の胸ぐらを、然の手が強く掴む。
「えっ、何?ちょっ……離せよ!」

「やだね。」

「痛いって!離せ!」
離れようと抵抗する。
然の細い指が、俺の胸ぐらを引きずりあげるように締め付ける。



負ける――!!



「離せ!この馬鹿力!!」
然の手首を掴み、力任せに突き飛ばす。
鈍い音を立てて、然は芝生の上に落っこちた。


「ごっ、ごめん!大丈夫か?」


寝転んだままの然が叫ぶ。
「妙なイメージ勝手に作ってんじゃねえ!この通り、俺は馬鹿力の野郎だ!髭もすね毛も生えてんだ!お前、考えすぎ!」


これは、然の心の叫びだ。


「……頼むから。構えないでくれ。」
ふっと、然の声が緩む。

何故か俺は泣きそうになった。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


望遠鏡の下、二人並んで寝転んでいる。
然の瞳はたくさんの星を映して煌めいている。
同じ星空を俺も眺めてる。
この時間がずっと続いて欲しい。



「然、ごめんな。」
俺の口から自然に溢れ落ちる。

「俺もごめん。」

「え。然が謝ることは何も。」

「分かって欲しくて無理に押し付けた。待つことも出来なくて、俺、ダセェな。」

掠れた然の声は、俺には相当堪える。

「そんな風に言うな。」
やっと絞り出した言葉は在り来り過ぎて、恥ずかしくなる。

然の口が静かに動く。
「だってお前、俺のこと超好きじゃん。」

助走もなく、俺の心臓が走り出す。
どんなに苦しくても、絶対に然に気づかれてはいけない。
俺が、俺たちを守らなきゃ。

「友達だからな。それがどうした?」

「お前が俺の事好きなの分かってて、俺はごねたんだ。狡いよな。」

「友情に甘えたってことか。よし、帰ろうか。」

逃げるように立ち上がろうとする俺のシャツを、然が掴んで引っ張った。

「話、まだ終わってないよ。」

「もう分かったって。」

「分かってない。」

多分、もう逃げ道はない。
眉をひそめ、ぶっきらぼうに返事する。
「まだ何かあんの?」

「お前――俺のこと、そういう目で見てるよな。」

ギリギリ耐えてたポーカーフェイスが、音を立てて崩れていく。
冷たい汗が俺の全身を包む。
うまい言葉のひとつも出やしない。



「朔、もっかい座れよ。な?」
然がまた俺のシャツを小さく引っ張る。
俺が芝生に体重を預けるまでを、然は見届けようとしている。

「逃げたりしないから、手、離してくんね?」


やっと手を離した然が口を開く。
「お前、何を悩んでる?話してよ。俺、大丈夫だから。」

俯き、唇を噛み締める。

然の願いを込めた瞳に負け、俺の口から思いがこぼれ落ちる。
「自分が分からないんだ。俺、然のことは好きだし、ずっと一緒に空を眺めてたい。」

「うん。」

「――でもさ。」

「うん。」

言ってもいいんだろうか。
「正直、戸惑ってるよ。」

然を傷つけないだろうか。
「俺が一緒に居たいのは……どっちの然、なのか。」



――言ってしまった。



「“俺”、じゃね?」

「へ?」

「お前は“俺”にしか会ってない。どっちの?とか以前にお前は“俺”しか知らない。」

「難しくて全く分からん。」

然が親指で自分を指差し、ニッと笑う。
「お前といる時は、いつだって“俺”だ。」

――あ。

口元を押さえる。

俺、やっぱり逃げてた。
親友にドキドキして、恥じてる自分がいた。
然はいつも然なのに。
俺の好きな――然なのに。

「然っ!本当に、ごめん。」
よくある謝罪の言葉を、俺の誠心誠意を込めて真正面から伝える。

然が、俺を見てる。
俺の瞳の、ずっと奥を。

月を、見てる時みたいに。

俺の気持ち、見えるか?
伝わったか?



「素直でよろしい。」
然は俺の額にツンッと触れ、そして笑った。

その笑顔は『今日の空いいな。』って、俺に向けられてきた笑顔だ。
俺だけの……。

たまらない気持ちが押し寄せる。

然の眼差し。
艶やかなまつ毛。
少しだけ歯が見える、その口元。

もっと、見たい。

1mmの誤差もないように。

覚えるまでずっと――。


気づけば、互いの呼吸が触れる位置にいる。
ふっと寄れば、届いてしまう。
その瞬間から俺たちは――。


ギュッ!と目を閉じる。

ゆっくりと、離れる。


然の口から小さくこぼれる。
「……しないのか?」



「しない。まだ、何もしない。」



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天体望遠鏡を拭きながら、朔との出会いを思い出す。

秘密の丘の星空は、ずっと俺のものだった。
星空と俺の間には何の概念もなく、俺はただ眩い光を、星から受け取るだけだ。
もしかしたら光しか存在してないかもしれない、その輝きを俺だけが記憶する。
見上げている間は、俺は何者でもなく“無”になれる。

ある日の夜。
俺の特等席にそいつは寝転がっていた。

「チッ。邪魔だな。」
すぐそばで天体望遠鏡を設置する。
レンズを覗こうとした時、そいつが俺に話しかけてきた。

「なぁ、ここの近くに住んでんの?」

「まぁ適度に。」
レンズに目をつけたまま、ぶっきらぼうに返事する。

「羨ましいな。俺、ここ気に入った。この空、全部俺のもんって感じがイイ。」

うるさいヤツだ。
この空はお前のもんじゃない。
俺のもんだ。

「あ、そう。」
そいつをちらりとも見ずに、短く済ませる。


「――うん。ちっぽけな自分が妙に愛しくなるわ。不思議だな。」

レンズから目を離し、初めてそいつの顔をちゃんと見た。
「……とても同意。」
俺の頬がわずかに緩む。


別れ際、そいつが缶を一本放ってよこした。


「おっ?ホットココアだ。」

「まだ少し温かいだろ?またな。」


手を振り駆け足で去っていく背中に、俺は声を張って叫んだ。
「おい!俺、然だ!」

そいつが立ち止まり、振り返る。

缶を高く持ち上げ、もう一度叫ぶ。
「これ!サンキュ!俺の名前は然だ!」

「いい名前だな!俺、朔!八朔(はっさく)の“朔”だ!ハハッ!またな!」

「八朔(はっさく)て。クスッ……朔、か。」



あの日から、俺はいつもホットココア
口に含むたび、芝生の香り、朔の声、ココアのほろ苦さ、全てがフラッシュバックする。

入学式で朔を見つけた時、心がぴょんと跳ねたのは俺だけの秘密だ。

遅かれ早かれ、話す日が来る。

朔は、きっと大丈夫――。



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「しない。まだ、何もしない。」

「なんでしないの?」

「お前は……何を期待してるんだ?」

「――知ってるくせに。」



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――ハッ!!
外はまだ薄暗い。

「……なんて夢見てんだ。」

昨夜のことが頭の中を駆け巡る。
今更だが、穴があったら入りたい。
そのまま隠居でいい。

「まだしないって、俺の口何言ってくれてんの。するとかしないとか、そうじゃないだろうよ。」

俺、さらっと認めてるじゃん。
ラブの方の好きって。

「ラブ……て。うお!なんだこの鳥肌っ!」

心理学で聞いたことあるな。
夜は人を開放的にするとか、判断力がどうとか、なんとか。

まんま俺のことじゃん。
あれ?ちょっと待てよ?

『……しないのか?』

然は俺にそう言ったよな。
で、その言葉聞いて、俺は『まだしない』と。

「然は何で俺にあんな事を言っ……」

――ドクン。

わわわ!
もう考えるのやめろ、俺!!

「鎮まれーっ!!バカ野郎!!」

吹っ切るように叫ぶ。


――ダダダダッ!
階段を駆け上がってくる音。

――バンッ!
勢いよくドアが開く。
「朔!まだ朝の4時!うるさい!」


母の鬼の形相にビビる。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


――体育館。

体育係の俺は、得点表の横からコートを見渡している。
快が力強いドリブルで駆け抜けていく。

「サッカー部なのにバスケ部抜いてくって。チートか?」
クッと笑う。


「然っ!!」
快の声が響く。

ゴール下に抜けた然に、風を切るようなパスが飛ぶ。
快からのパスを受け取った然が、軽やかに踏み込み、ふわりと跳ぶ。

スローモーションのような跳躍。

しなやかな手首。

連動する指先。

シュッ!

ネットが揺れる。


「よっしゃぁぁあ!」


然の跳ねる髪。

笑った横顔。

ジャージの裾をまくしあげ、汗を拭う。

俺の目がショボショボするのは、寝不足のせいだ。眩しいからではない。

「やるじゃん!」
快が然に駆け寄り、肩を組む。
頭を寄せ合い、ギャハハと笑っている。


待てコラ。
その肩は俺のだ。

快の野郎、離れろ。
離れろって。
は、な、れ、ろ!


然の目が、俺を振り返る。


あ。こっち見たっ。

危ねぇ……こんなことで単純に喜ぶなよ俺。

平常心になれ。
風呂入ってるカピバラ思い出せ。
よし。
いつもの俺、取り戻した。

「然、ナイス!」
親指を立て笑ってみせる。

然が目を細めて、俺に向かって笑う。
くるっと背を向け、ゲームへ戻っていく。

――キラッキラしてやがる。

なんだ、アレは。
眩しくて、可愛くて、カッコイイって。
俺の理想が3Dになってんのかな。
もう、ラブに抗うの面倒くさくなってきた。

「……尊いな。」
無意識に口からこぼれる。


ほけーー。


視線を感じる。

うわ、快と目が合っちまった。
今の顔、見られた?
俺の呟き、聞こえた?



にたぁ……。

コート上の快が笑う。



間違いない。見られたな。
お察しみたいな顔してる。

顎で“あっち行け!”と威嚇してやった。




体育の後のお片付けってのは、非常に面倒くさい。
クソ重い得点表を隅に置き、拭いたボールをカゴに投げ入れていく。

ガコン!

ガコン!

ガコンッ!

「うしっ!」

小さくガッツポーズ。
1人でドヤ顔をする。

「もう一声っ!」

ガツ、ン!コロコロ……
外に出ていくボール。

「チッ!こうなると思ったわ!」

取りに行こうと振り返ると、ドアの向こうからリズミカルなボールの音が聞こえてきた。
誰かが拾ってくれたみたいだ。

ボールを抱えた然が、ひょこっと姿を見せる。

「ああ、然だったのか。」

「うん。手伝うよ。」
然は俺の隣に立つと、ボールを拭き始めた

あれ?
俺、いつも然にどう接してた?
何を話せばいい?
「やっぱいい。タオル返して。」

「えっ?」

「もう終わるし。――行けよ、教室。」
目を逸らしたまま然の手からタオルを取り、言葉を吐き出す。
視界の端に、立ちすくむ然の足が見える。

しまった。
嫌な言い方した。


「手伝うのやーめた。」
挑発的な目をした然が、ボールをガッチリと抱きしめる。

「絡むなよ。」
然の手からボールを取り、カゴに投げ入れる。

――ガコンッ!

「遅れるぞ。ほら、教室いこ。」
踏み出そうとした瞬間、グッと腕を後ろに引っ張られる。
「なんだよ、然。さっきから変だぞ?」

変なのは俺だ。
然のせいにした俺は卑怯者だ。

緊張感の上に罪悪感。
最悪のトッピングだ。



「朔、ずっと俺の事見てたよな。なんで見てたの?」

「上手いなって見るくらい普通だろ。」

「へぇ。俺――勘違いしそうだった。」


――ぶわっ!!

心臓から頭まで突き抜けるような。
こんな感覚、知らない。

ヤバい。
俺、ぶっ倒れるかも。

「からかうのやめろよ。」
俺は逃げるように、ドアの外へ出ていった。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


朔の残した言葉に立ち尽くす。

面白がってるわけじゃない。

俺を追う朔の視線。
俺が跳ねると朔の表情も跳ねる。
その連動が嬉しくて、くすぐったかった。
反応する俺の心に素直に従っただけだ。

だって、俺の心をわかってくれる奴は俺以外いないだろう?
俺くらいは、俺を抱きしめてもいいじゃん。

でも俺、やっちまったんだな……。


倉庫の壁にもたれかかりながら、へたり込む。


積み上げた信頼関係。
共に空を眺めた時間。

必死に保ってきた朔とのギリギリのバランスを自分で崩すなんて。
アンバランスな今を甘く見てた俺はバカだ。

今日みたいな日は、朔の眼差し、後ろ姿、骨格、心地いい声、シャツから覗く首筋。

触れたい。
抱きしめたい。

飄々とした仮面を被りながら、頭の中では数え切れないほど朔に触れている。
拭えない背徳感。

見抜かれるかもしれない。
こんな俺に気付いて欲しい。
不安と願望の混在。

重くて痛い感情を抑え込んで、17歳まできたっていう誇りは、いつから驕りになったんだろうか。

「……つれぇ。」
膝に突っ伏す。


カタン……。

「……何、してんの?」


バッ!と顔を上げた俺の前に、寝ぼけ眼の快が立っている。

「お前こそ何してんの!授業は?」

「そこのマットで寝てた。」


見られた……?
緊張が一気に押し寄せる。
「いつから、居た?」

快はあくびをしながら俺の真ん前にしゃがみこんだ。
「最初からずっと。――悪い。」
俺の顔を覗き込み、困ったように眉を寄せている。

覚悟したのに、それ以上何も投げかけてこないなんて拍子抜けだ。
快に……話したい、かもしれない。

「……俺さ。揺らぐんだよね。」

快の目が微かに動くのを感じる。

快は何も言わない。
遮らない。
ただ、頷いている。

「揺らいでる日は休むって決めてたんだけど。――気まぐれで今日は来ちゃったんだよ。」

吸い込んだ空気をゆっくり吐くように快の口が開く。
「まぁ、好きな奴にはいつでも会いたいよな。」

「えっ?好きな奴?」

「俺、見たんだ。お前、街で色付きリップ?選んでた。」

「ちょ、ちょっと待って。一体何の話を?」

快がキョトンとする。
「お前って奴の話だよ。お前こそ何言ってんだ?」

「……俺って奴の話?」

「うん。リップ塗った顔、鏡で見てたぞ。帽子クイってやって、ん~って口して。あ~、見せたい奴いるんだなって思った。」

あちゃー……それ、覚えてる。
強烈に恥ずかしい。
「クククッ、何だか笑えてきた!」

可笑しくて可笑しくて。
俺は声を立てて笑っていた。

快も大きな声で笑う。
「ほら図星じゃん!俺ら、健康な高校生だもんよ。煩悩あってこそだ。アイツも同じだ。安心しろ!」

「アイツ?」

快の両手が、ワシャワシャと俺の頭を撫でる。
「そっ。あのムッツリすけべ!アイツ相当拗らせてるぞ。」

「それ、朔のこと?ブハッ!ダメだ。苦しい。」
涙が出てくる。
ポロポロ、ポロポロ、溢れては落ちていく。
「面白すぎて涙止まんない。悲しいわけじゃないからな。」

快がタオルを差し出す。
「わかってるって。ほら使え。ちょっと臭いかもだけど。」

「ハハッ……お前、最高だな。」


快のタオルは、おひさまの香りがした。


「さてと。俺、そろそろ行くわ。」
膝に両手をパンッと置き、快が立ち上がる。
「昼休みまたバスケやろうや。お前のプレーは最高。」
俺を振り返り、ニカッと笑う。

俺もニッと笑う。
「もちろん!手加減ナシだかんな?」

快に手を差し出し、握手を交わす。
「快、ありがとうな。」

「何がどうであれ、その気持ちは大事にしろよな。」


そうだな。
快が見かけた俺は、間違いなく、誰かに見せたくてリップを選んでた。
その“誰か”は、俺の心が一番わかってる。

理屈なんてない。
ただ、それだけのことなんだ。

何でも理由をつけたがる、証明したがる、そんな世の中にうんざりしてたのは俺じゃん。

うっかり“普通”ってやつに捕らわれかけてた。

真っ暗な夜空に、ひとつのきらめきを見つけた瞬間、たくさんのきらめきが見えてくる。
それにすごく、似てる。

落ち込むことはないんだ。
焦ることもない。

だって、悩んで戸惑ってる朔こそが、俺の知ってる“朔”って奴だ。

試すようなことをした俺が、今、すごく恥ずかしいよ――。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


「はぁ……然、戻って来ねえな。」

教室のドアに目をやる。

“からかうな”って言った時、僅かに揺れた然の瞳は、間違いなく傷ついてた。
なんか、ものすごく、深く、どん底級の反省。

いつもみたいに、スタスタと入ってこないかな。
あの角のとこで、チラッとこっち見て髪を揺らしニッと笑って――

「……くるわけないか。」

ぼんやり眺める教室の入口から、快が入ってきた。
すぐさま友達がわっと駆け寄る。

「お前どこ行ってたんだよ?」
「先生、超怒ってたぞ。」

「体育館倉庫で、寝てた。」


――体育館倉庫!?

てか、なんで俺を見ながら言う?
嫌な予感しかしない。

勢いよく快がこっちへ向かってくる。
まっすぐに、迷いなく。

ドカッ……!

快の脚が俺の椅子に重く乗っかった。
俺の身体にその振動が伝わってくる。


「……お行儀の悪いことで。」
俺を見下ろす快とその脚に、睨むような目線を二度、三度、行き来させる。

快は口の端だけで笑い、眉をひそめる俺にぐんっと顔を寄せた。
「よぉ、男子煩悩生。」

「変な呼び方すんな。足、どけろよ。」
肘で快の脚を払い落とそうとするも、ひょいっと片脚をあげて避けられる。

ドカッ……
快が、避けて上げた脚をまた同じ場所に乗せる。

今度は両腕で、奴の身体ごと押し戻すがビクともしない。

「めんどくせえな。なんだよ。」

「めんどくさいのは、お前だろ?」

この次、何を言われるのかすごく不安だ。
「何のことだ?サボりすぎてついに頭いかれたか?」

精一杯の威嚇。
予防線。

「そんなに尖るなよ。いいこと教えてやるから耳貸して。」
快が指をクイックイッとやる。
上目遣いでゆっくりと頭を近づける。


ボソッ……
『涙拭いてたら遅刻した…。』


俺の耳に、快の低い声が小さく落ちる。

快の肩をつかむ。
「それ、どういう意味だ?」

「気になるなら見てくれば?」


――ガタッ!ガタガタッ!!

「どけ!」

気づいたらバカみたいに走り出してた。



――その後ろ姿を見つめる快。

「おー、さすが煩悩。光より速い。バスケのメンツに入れとこ。」


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


長い廊下を走り抜け、滑るように階段を駆け下り、最後の数段はジャンプする。
走っては止まり、また走り出す。

「はぁっ……はぁっ……どこだよ。」

いつだって、
手の届く距離にいたのに。
いつだって、
俺の視界にはお前がいたのに。

然の姿が――見つからない。

当たり前が崩れると、こんなにも不安で苦しいんだな。

ごめん。
ホント、ごめん。
俺、情けなくてごめん。


廊下の向こうから水道の音が響いてくる。


――もしかして!!



また走る。

長い廊下の先。
水道の前に立つ、然の姿を見つける。


――居た!!


「はぁっ……はぁっ……」
呼吸を整えながら、ゆっくりと近づいていく。


「ふうっ……」
タオルから然の丸い目が顔を出す。
気持ちよさそうに、額や頬にタオルを押し当てている。

「然……?」

然が驚きながら俺の方を見る。
「あれっ、朔、どうしたんだよ。」

然のまつ毛が濡れてる。
親指の腹で濡れたまつ毛を拭う。
「泣いてた……のか?」

然がクスッと笑う。
「あぁ、これか。違う違う。快が可笑しくてさ。笑い過ぎて死ぬかと思った。ブハッ……!また笑えてきた。」

そう言って声を立てて笑っている。


「ホントに?」

「ホント!」

多分、嘘だ。
笑おうとしてる。
いつもみたいに。

こんな顔を俺がさせてるのか?

然が目元をこすりながら俺を見る。
「泣いてたって思ってんのか?そんなわけあるか。朔は、ほんっと馬鹿だなぁ。」
ふわっと目を細める。


俺の身体の奥からギュッと込み上げる、痛みにも似た――“衝動”。


もう、どうでもいい。

なにもかも。

どうでもいいよ。

ためらいなく抱きしめる。
頬に触れる然の髪が柔らかい。

――足りない。

そのまま、顔を埋める。
あの日の――然の部屋の香りがする。
ぎゅうっと腕に力を込める。


「えっ?朔っ!?ちょ……っ、痛いよ。」


もっと。
もっと、密着したい。


「……おいっ!朔!?」


絶対、離すもんか。
離したら、また遠くなる。
剥がれようとする然を、胸に押し込める。


「……やめろって、言ってんだろーが!」

――ドカッ!!

「うっ!!」

俺の下半身に然の膝がヒットした。

まさか、

そこ、

狙うなんて――

俺の視界が、斜めに落ちていく。

コイツ……

やっぱ……

鬼だ……


床に倒れ込んだ俺を、然がワナワナとしながら見下ろす。
「お前っ!やっぱりムッツリだな!」

「……ムッツリ?やっぱりって、なんだ?……くっ、痛ぇ……。」

「大バカムッツリ野郎!!」
そう言い捨てると、然は、俺の横を軽やかにすり抜けていった。

自覚した。

さっきのあの感覚。
危ういほどの衝動。
あれが俺の――本心だ。

俺、お前が好きだ。
難しいことは、もういい。

顔を上げ、然の背中に向かって叫ぶ。

「上等じゃねーか!!首洗って待っとけ!!」

もう迷わない。
本気になったら止められない。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



「は!?首を洗って待っとけ!?」

自分の耳を疑う。
弾むような足音を立てながら階段を駆け上がり、長い廊下を走る。

抱きしめられた圧力。
ゼロに近い距離。
密着した肌から伝わる、まるで侵食されるような、朔の体温。

もう俺は、俺でなくなるかもしれない。
ドクンドクンと、身体の奥底から俺を叩く音がする。

これは、漠然とした“不安”か。
あるいは、未知への期待か――。

不安だの、期待だの、いちいちしょうもなくて嫌になる。

「はぁっ……はぁっ……」

この長い廊下が、もっともっと続けばいい。
しがらみなんて、ぶっ倒れるくらい走れば置き去りにできるかもしれない。

揺さぶる度に見える朔の戸惑い。
ほんの一瞬だけ発熱する、朔の心の匂い。全てが俺には心地よかった。
本当は、裸の本音をぶちまけたい。

なのに。

なんで。

俺は今、必死に逃げてんだ!?

あのまま押し倒してやれば良かったんだ。
好機だったじゃん!!


――ドンッ!
一瞬、足が浮いたような気がした。


「すみません!大丈夫ですか!?」
褐色に焼けた腕が、俺をしっかりと抱きとめている。

おひさまの香りがする。


「快!?ごめんっ!」

「然!?」

どうやら、教室から出てきた快とぶつかったようだ。

口元を拭いながら横目で快を見る。
息が上がって話せない。
ゆっくりと、膝に手をつく。

「おい、然?何かあったのか?」

「はあっ……はあっ……」
目に入った快の腕を掴み、そこからよじ登るように快を捕まえる。

「うわわわ……妖怪かよ!なになに?」
驚きながらも俺の手を取る快。
その快に向かって、口早に吐き出す。
「やっぱり!ムッツリだった!煩悩まみれ!」

「――は?」

「アイツ!朔!快の読み通りムッツリ煩悩だ!」

「プッ……ムッツリ煩悩って!アイツ、一体何やらかしたんだ?超ウケる。」


快の腕をしっかり掴み直す。
その指に力を込める。
「笑い事じゃねぇぞ!アイツ、急にイカれちまった!」

「アハハハ!とんでもねぇな!パンパンになって弾けちまったのかもな!」

「コラッ!快っ!真面目に言ってんだぞ!」

「わかった、わかったって!――あ。」
笑っていた快がピタッと止まり、俺越しに視線を上げる。
自分の腕から、俺の手をそっと外す。
「ご本人と話してきな。」
快が顎で俺の後ろを指す。


そこには、腕組みして立つ朔がいた。


「ヒッ……」

さっきの膝蹴りシーンが、頭の中でクリアに再生される。全身の毛が逆立つ。

明るく笑い飛ばしてみるか?
三人で笑って楽しく切り抜けられるかも。

いや、真摯に謝るべき?
でも、朔があんなことするからだ。

頭の中をフル回転させる。

そんな中、俺を挟んで立つ二人は俺の事など見ていない。何だか物々しい雰囲気だ。

「どうも、男子煩悩生さん。」

「……やぁ、脳筋馬鹿男くん。」

「センスのない名前をありがとう。」

「……誰かさんの、真似をしただけですけど?」

バチッと火花が散る。

なんでこんなことなってんの!?
イカれた上に殺気立ってる朔と、二人きりにはなりたくない。
膝蹴りしたくせに、惜しいことしたとか考えて、すごくすごく、気まずい。
どの面下げて話せと!?


“このまま三人で居ようよ。”
指先で、快のシャツを掴む。


朔が、軽くため息をつく。
「……別に取って食わないよ。」

その目は、眉が下がり、黒く長いまつ毛は
瞳に影を落としている。
目線の先には、快のシャツを掴む俺の指。


あ……。


おずおずと、快のシャツを放す。

それを見届けると、快がパンッと手を叩いた。
「はい。後はごゆっくり!」
ひらひらと手を振り、行ってしまった。



しん……

辺りは賑やかなのに、俺たちの間だけ静まり返っている。


「さっきは、悪かった。」


険しい眉間、口を尖らせた顔。
そんな顔で謝る奴、小学生以来だ。

「別にいいよ。どうってことないし。」

「どうってことない?」
朔が更に眉をひそめる。
いちいち反応が怖いんだよ、もう。
「――本当は、まあまあ動揺してる。」
親指と人差し指で“ちょっと”のサインを見せる。

朔が頭をかきながら俺に言った。
「ちゃんと話したい。後で、いつもの丘な。」


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


――丘に続く階段の前。

階段を覆う茂みの先を見つめる。
あの向こうには丘しかないって分かってるけど、抜けるのがこんなに怖いとは。
深呼吸する。
葉っぱの匂いが、青臭い俺にやけに優しい。

然はどんな顔で現れるだろうか。

いつもみたいに笑うのか?
それとも、困った顔か?

快のシャツを指先で掴んでた然。
あんな顔をさせたいわけじゃない。

ガサッ……、茂みをかき分ける。

一面に星空が広がる。
目を閉じてめいっぱい吸い込む。

丘の上に人影がある。
傍らには、天体望遠鏡のシルエット。

「然……もう、来てる。」

安堵の声が漏れる。
でも、足が前に出ない。

「とりあえず……買ってくか。」

自販機コーナーの光が、常連の俺を呼んでいる。
煌々と光る自販機の前、押すボタンは決まってるのに、左から右へ指を滑らせる。

「ホットココア、と。」

ボタンを押す。

ガタンッ!

そんな大きな音を立ててくれるな。
余裕なんてもんは家に置いてきた。
いいんだそれで。
そのまんまで行け。


安堵と緊張――心がジェットコースターだ。
いつから俺は、こんな小心者になったんだろう。

近づいていく俺に気づくことなく、然はレンズにかじりついている。

おいおい、通常モードが過ぎるだろ。

ふっと肩の力が抜ける。
同時に俺の唇の端がキュッと上がる。

「然、早いな。」

然がレンズから目を離す。
「あぁ、朔。なんとなく月白(げっぱく)から見ようかなって。」

「月白?」

「――うん。月が昇る前に空が白むんだ。夜空にもいろんな顔があるんだよ。」

「へぇ……。いろんな顔、か。」

然の足元に、腰を下ろす。
昨日と同じ空はない。

天気、

湿度、

風、

日々、
刻々と変化する。

――まるで、俺たちだ。


夜空に夢中だった俺たちは

今、空を見上げて

別々のことを考えてる。


単にグズグズと悩んでたわけじゃない。
俺にとって然はかけがえのない存在だ。
一線を越えるなら、そりゃ考えもするだろう?


友達は永遠だ。

その美味しいカードを、手放す覚悟が俺には必要だったんだ。


今の俺は

喜んでそれを――手放すよ。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


なあ、然。
友情が終わる時は一瞬だ、って分かってるか?

まったく……そういうとこだぞ。

ほんの少しでいい。
意識してくれると嬉しいんだけどな。

まぁ、いいや。
これが然だ。

よし。いくか――。


「なぁ、然。座って話さないか?」


「……そうだな。よーいしょっと!」
然は静かにレンズから目を離し、いつもよりワントーン高い声で、俺の隣に腰を下ろした。

腕と腕が触れそうで触れない距離。
その隙間で二人の体温が混ざり合う。
お互いの存在を、肌で感じる。

然の目がまっすぐに空を見ている。
何を思っているんだろう。
そこに、俺は居るのかな。

「然、今日は悪かった。廊下で……あんなことして。お前と居ると、訳が分からなくなるんだ。」


然の瞳が俺へと動く。
ゆらっと光る。
「俺も――ごめん。」

「え?お前が謝ることは何も……」

「急所、蹴り上げてごめん。その痛みは俺も察するっていうか。その……。」

「……っ!!お前、今それ言う!?マジ死ぬかと思ったんだぞ!」

ブハッ!!然が吹き出す。
俺もつい笑ってしまう。
張り詰めていたものが、嘘みたいに解けていく――。

「よし。腹割って話すぞ!ほれ!飲め。」

ホットココアを投げる。
然の手が缶をキャッチする。

その缶を見つめながら然が目を細める。
「朔がくれるの、いつも適温だな。」

「ふふん、ひれ伏せ。」

「はいはい。さーんきゅっ。」

「おい。」

「アハハハッ!」

この広い丘の上。
在るのは星空と、俺たちの声だけだ。

コクッ……
然がココアを口に含む小さな音が、俺の中に心地よく、響いてくる。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


駅で会った時のことを思い出す。

然の“別の顔”を知ったあの時、俺は正直、戸惑った。

俺の心には、
既に――然が住んでたから。

自覚したのは、あの通り雨の日だった。

――なぜ、あの日だったんだ?

その疑問を投げかけてもいいのだろうか。
聞いてどうするんだろう、俺は。



「クスッ……俺から話すよ。その方がいいと思うから。俺の勘が当たってれば――答えは俺が持ってる。」

なんだ?
然はその質問が来ると分かっていたのか?

「うん、聞かせて。」
腕を組んで座り直す。


「俺さ、あの雨の日――揺らいでたんだよ。」


え?それって、どういう……

ドクッと、胸が鳴る。



「多分、無意識に、お前を誘惑してたんだ。」



まさかの直球勝負。
開いた口が塞がらない。
「ちょ……っと待て。いきなりぶっ込んでくるなよ。」

「ハハッ、そう言うと思った。」

然が小さく笑う。

甘くて、少し苦い。
ココアの香りがする。

「あの雨の日、俺がお前を誘惑した。即座にお前は反応した。ほら。単純な化学式だよ。」

「待てって。勝手な化学反応起こすな。ちょっともう、これ置け!」
然の手から缶を奪い取り、芝生に置く。
「お前、そうやって防衛線張るのやめろよな。」

「――防衛線?」

「潔さを見せてるようで、必死に自分守りしてるじゃん。」

「は?意味わかんね。」


然の目の温度が上がった。
よし、もう一息。


「俺は自然発火したんだ。お前が、発火させたんじゃない。自惚れんな。」

一瞬にして然の顔が険しくなる。
「なんっか言い方がムカつくな。」


その調子だ。下りてこい。
やり合おうぜ。
俺の胸ぐらつかんだときみたいに。

次の一言で間違いなく然は、来る。


「フン、お前の仮面なんかとっくに剥がれてんだよ。」


微かに然の目が開く。
冷静な瞳の奥で、本性が牙を覗かせている。

「……帰る!」

然は立ち上がると、冷たくも見える眼差しで俺に一瞥を投げた。
背中を向け、服に着いた芝生を丁寧に払い落としている。
でも、明らかな動揺が見える。



「黙って帰すわけないじゃん。」



そっと、立ち上がる。
後ろから、然を包み込む。

「隙を見せるなよ。俺は、煩悩まみれの危ないヤツ――なんだろ?」


然の身体が一瞬跳ねる。
「……っ!!……違う。」

「違わないよ。」

「違うんだ……。だから頼む。朔、お前、早く逃げろ。危ないのは、俺なんだ。」


――来た!

抱きしめる腕に
軽く力を込める。

「俺が逃げると思うか?」

「離せ、朔。マジで言ってる。お願いだから……離してくれよ。」

離せと言いながら然の抵抗はない。
腕を緩め、もう一度、ぎゅう……っと抱きしめる。
今度は深く、優しく――。


「月の裏側見てみたいってお前、言ってただろ?俺、着地したくなってきたわ。」

「は?着地……?この状況で何言ってんだ?」

「そう、着地。見てるだけじゃ、つまらんからな。」

「何言ってる?興味本位で俺に踏み込むな。そんな簡単じゃねぇんだよ……」

「分かってるよ。だから俺ら、こんなに拗らせてるんだろ?」


然が俺の腕の中にいる。
微かに震えて――ここにいる。
本当はもっと強く抱き込んでしまいたい。
くっついて離れないくらいに。


今は、まだ我慢だ。
男子煩悩生、荒ぶる煩悩をなだめるのも大切な仕事なのだ。



静かに、

俺たちの友情は

形を変えようとしている――。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


“ 危ないのは――俺だ ”

あぁ……ついに言ってしまった。
口から出た言葉は、宙を舞って、いとも簡単に降ってしまう。

相手の耳に。
心に。

振り向くのが――怖い。

そういうことか、って。
俺のせいじゃないじゃん、って。
呆れてるかもしれない。

この臆病な背中を、朔はどんな気持ちで抱いているんだろう。


「――やっと認めたな。」

「……っ……声、近いよ。」
俺の耳に落ちてくる朔の声に、こんな状況でも反応してる自分が心底嫌だ。

俺の腹の奥から、痛みを伴ってゾクゾクと湧き上がってくる。


“邪(よこしま)な心”。


こんな汚い感情を、俺は親友のお前に持ってる。
賢者みたいな顔しながら、誤魔化して、隠して、俺自身を守ってきたんだ。

お前の言う通りだ。
もう、素直に“やっと認めて”やるさ。
やっと、な。

あれ?
――やっと、認めた?

振り返って朔の顔を見る。
朔が舌を出して笑っている。


――うわ、やられた!


「お前、わざと煽ったな!今すぐ離せ!」

最悪だ。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
見ないでくれ。

心が揺れ動く度にお前のせいにして、自分は安全地帯で悠々としてた。
狡くて卑怯な俺を、見ないで欲しい。

朔の前から逃げたい一心で暴れる。

抱きしめる朔の腕が、俺からほどけそうになる度、離さないよう逃がさないよう、また優しく包み込んでくる。

やめろ……。
そんな優しさは要らない。

「マジで!離せって!」

「嫌だ、離さない。」

「逃げないから、離せ。」

「捕まえてるわけじゃない。」

「じゃぁ、何だよ。」

「そうしたいだけ。」


背中から伝わる

朔の体温、

息遣い、

胸の鼓動、

心地よくて本当は離れたくない。

逃げたいっていうのは、嘘だ。



俺は、暴れるのをやめた。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

「然……もう少しだけ、このままで居させて。」
然の頭がすぐそこにある。
時折、少しだけ動く。
然が呼吸する度に、俺の腕も微かに揺れる。
ここに、確かに、然がいる。

「然……。」

また、口からこぼれ落ちる。

「さっきからそればっか。なに。」
その呆れたような声は、俺の耳に届く前に、然の体から腕を震わせ届いてくる。
初めて、然を、ちゃんと抱きしめてる。

然が俺の髪をクシャクシャと掴む。
「……そろそろ離せよ。」

「ん。」
俺は名残惜しくも然を解放した。

どちらからともなく芝生に座り直す。
少し前までのぎこちなさは、もうない。

「然、俺の話していいか?」

然の横顔が『ご自由に』と言ってる。
ツンッとした態度に安堵する。

「俺はずっと、狭間にいた。だけど――俺の心は、出会った時からお前にあったと思う。」

この気持ちは見ないようにしてた。
頭をもたげる度、ギュッと押し込んで……。
一度でも見てしまったら、お前を失いそうで……。


俺は変わることを拒んでいたんだ。


“ご名答――それから、どうする?”
そう俺に問いかける星たちの光は、容赦なく俺たちに降り注ぐ。



「気持ちの……盛り上がりじゃね?ちょっと、珍しいもん、見つけた、みたいな?」



然が肩を竦めて笑う。
散々煽っておいて、また怖がってる。

「とことん往生際の悪い奴だな。もう、観念しろ。」
然の頬を軽くつまみ、ニッと笑ってみせる。
目をまんまるにしている然に思わず吹き出す。
「百面相かよ!」

「うるせぇ!とっとと続き話せよ!」

「荒ぶるのは、お前の膝だけにしてくれ。」

クッと笑う俺に然がムッとしている。

「まぁ、そう怒るなよ。俺だって真面目に考えたんだ。」

「真面目に、ね。それで?」
仏頂面が俺に目線を投げる。

「うん、それで……」

俺は、この丘で、お前と一緒に夜空を眺めるのが本当に好きだったんだ。
雨の日はガッカリしたし、曇りの日は空が晴れるのを願った。
約束してるわけじゃないけど、ここに来れば“お前”に会えた。

俺はここで会う“お前”が大好きだった――。

然、俺はもう迷わない。



「俺さ、お前のことがめちゃくちゃ好きなんだ。」



然の瞳が、グンと温度を増す。
一秒もないその輝きを、俺の目は逃さない。

「これは一瞬の気分じゃない。」

「そんなこと、何で分かる?」

「真面目に考えた。って言ったじゃん。お前の揺らぎは、全く、関係ない。」

然の目はまだ俺を信用していない。
簡単にいくなんてハナから思ってない。
お前は、今までそうやって自分を守ってきたんだ。

だから――

急ぐつもりはない。

だけど――

お前に近づきたい。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


朔の声が俺の話をしてる。
心地いい声で。

嬉しい。
今すぐ抱きしめたい。

苦しい。
今すぐ逃げたい。

愛しい。
俺のことを話すその唇に触れたい。

だけど、怖い。

ずっと、一緒にいたいから。

親友のままなら、それが叶うから。
恋に永遠なんて、ないんだ。

一緒に空を眺めてたい。

今すぐ俺だけのものにしたい。

いつまでも笑い合ってたい。

永遠が欲しい。

全部、欲しい。

欲深くて泣きたくなる。


「俺は違う!俺にとって、揺らぎは関係なくないっ……!」
声がうわずる。

「そうだろうな。俺が言ってるのは、“俺は”って話だ。これから俺に、その然の世界を教えて欲しい。」

朔の声は落ち着いている。

どうしよう……抱きしめたい。
いや、抱きしめて欲しい。

あーもう、どっちなんだ……。

違うだろ、俺。
今から言わなきゃいけないことがあるだろ。

朔のことが好きだから――。
後悔して欲しくないから――。

「俺も、話がある。短いけど重いよ?」

「うん。重くても聞きたい。」

「そか。」

じっ……と月を見上げる。

――あの裏側はロマン、か。
雨の日の朔の言葉を思い出す。

俺は今から、勇気を出して、“それ”を朔に、見せるんだ。
それは決してロマンなんかじゃない。


月は、

今夜も大きく

青く

俺を照らしている。

まるで俺に、“それでいいんだ”って言ってるみたいだ。




「――朔。」

少しだけ上がる朔の眉は、既に聞く準備を終えているように見える。



「お前が思うほど、俺の揺らぎは甘くない。」




朔の喉がごくんと動く。
瞬きもせずに俺の目だけを見据えている。

悪いな、俺はどうしても譲れないんだ。

「朔、知ってるか?俺の“揺らぎ”は、社会的には語尾が“障害”で終わる名前で呼ばれてるんだぞ。」

「……障害?」

「定期的にメンクリに通院してる。小学生の頃からずっとだ。意味、分かってるか?」

……うん

……うん

と、噛み砕くように朔が頷く。
「意味――とは?」


今夜は夜空が“見える日”だ。
少しの湿り気もない澄んだ空気。
朔の低い声が俺の耳によく届く。

俺の言葉も、

透明度を保ったまま、

お前の中に降ってほしい――。

「教えてやるよ。初めて診断が下った時、俺は理由が分かってホッとした。だけど、親は泣いたんだ。お前も親泣かせるのか?」

静かに俺を見つめる朔の口元が、微かに動く。何か言いたげに。
だけど、出てくる言葉はなさそうだ。

困らせてごめんな。
避けては通れないんだ。

お前は……大変さ(リアル)を知らないだろうから。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


然の淡々とした声が、俺の心を鋭く突き抜ける。

痛い……。
強烈に、痛い。

自然と呼吸が浅く短くなる。
こんな痛み、然には悟られたくない。

「……然。」

「なに。」

「一旦……、一旦!!持ち帰らせてください!」

――ガバッ!
深々と頭を下げる。

「えっ?」

然の口が開いたままだ。
でも、ごめん。
今すぐ返事するのは違うと思うんだ。

俺はちゃんと冷静に向き合いたい。
一語一句濁さずに、ちゃんと俺の考えを伝えたい。

この星空のように、澄みわたった言葉を――。


「そう……来たか……」
然の声が震えている。

あぁ、俺はまた、お前を泣かせるのかな……。
ここまで来て焦らすなよ!って怒鳴ってもいいんだぞ。

そっと、顔を上げる。

そこには、俺に背中を向けて肩を震わせている然がいた。

「――え。……然?」

指先でまつ毛を拭いながら、然が俺を振り返る。
「朔らしく在りすぎだろ!なんだよそれ、“持ち帰らせて”って。課題かよ!アハハハ!!」

えーーー!!笑ってる!!
「笑うところ、どこにあった!?」
どこから出てるか分からない、自分の間抜けな声にうんざりする。


然が、

大きく一歩、

俺に近づく。


「朔!――俺、お前が好きだ。」


そう言って、満面の笑みを浮かべた。

「ちょっ、ちょっと待て。この流れでその着地?心底、分からない。いっ……今のは、聞かなかったことにしたい。」

然がまた声を立てて笑う。
「そういうとこだよ!」

「ヤバい、分からない。もし夢なら起こして欲しい。大事な瞬間なんだ。――頼む。」

「朔!もうやめてくれっ!腹が痛い!!」

ついに然は
芝生に転がってしまった。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


笑いながら、本当の涙を俺は隠していた。
この本音は、俺だけが知っていればいい。

俺、すごく怖かった。

朔が一瞬でも怖気付く顔を見せたら、俺はおとなしく、身を引くつもりだった。

お前を苦しませたくない。
無理をさせたくない。

何より、俺は“俺”も傷つけたくない。

身を引けば一瞬で済むんだ。
深い傷になることはない。

だけど、一度、心を通わせてしまったら……
お互い混ざりあってしまったら……
無傷ではいられないんだよ。

お前は、その場しのぎで、俺のことを語ったりしない奴なんだ。
それは分かってた。
だから、言えたんだ。

けどさ、まさか潔くテイクアウトするとは、ね。

俺、そんなお前が大好きだ。
お前が欲しいって、そう思ってしまうんだ。


どうか、

この先もずっと、

永遠に、

並んで星空を見られますように。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


初めて、俺の“揺らぎ”に名前がつけられた時、『分かって良かったね!』って親を見上げた。
いつも親が不安な目をしてたから、これでもう安心だって思った。

だけど。
その時の空気は、きっと一生忘れない。

妙な沈黙と、初めて見る親の涙。

不思議だけど、部屋いっぱいに悲しい香りが広がったんだ。


“お前も、親泣かせるのか?”


この言葉は、いつか大切な人が出来た時、その人に伝えようって心に決めてた。

俺と心が通じた瞬間から、課せられるリアル。

時代は変わったっていうけど、そんなに甘くはない。

“多様性”って親切で便利な言葉も生まれて、人々の目は温かくなったかもしれない。

でも、朔。

考えてみて?
想像してみて?

恋人として紹介する時、

デートで手を繋いでる時、

カフェでの食べ合いっこすら、

有名人でもないのに“見られる”ことが始まる。

俺は街に出かける度、人がそっと耳打ちする瞬間をたくさん見てきた。
もう気にすることもめんどくさくて、お好きにどーぞって思ってる。

だけど、隣に立つお前は……

きっと、怒るだろ?
それに、悲しむよな。
あと、元気づけようとするかもな。

だけど、俺はそんなこと必要としてないんだ。

皆が特別視したとしても、俺とお前は、いつだって“スタンダード”で居たい。
ささやかな願いと世の中とのギャップで、俺たちは傷つき、ぶつかり、涙を流すこともあるだろう。

このリアルを伝えることは、俺からの精一杯のハグなんだ。

感情に任せて、お前の告白に頷くこともできたけど、それはフェアじゃない。

お前には、誠実でいたい。



俺には珍しく肉眼で、部屋の窓際から見える夜空を眺めている。

いつも寝転んで自由に空を眺めてる朔。
お前が見てる世界を、俺も、ただ、感じたくて――。

「確かに。肉眼も悪くないな。」


なぁ、朔。

お前、今どうしてる?


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


「朔ー!お風呂湧いてるよー!」

一階から母の声が響いてくる。

勉強机の灯りの下、止まったまま動かないシャーペン。

「あー、もういいや。無理。」

開いたノートの上で、小さな音を立ててシャーペンが転がる。

「朔ー?寝てるのー?」

「起きてるよ。今行くー。」

パタン!とノートを閉じ、浴室に向かう。


湯船の縁に腕をひっかけ、大きく深呼吸。

「風呂、最っ高!!」

上がる湯気を浴びながら目を閉じる。
ふと、お前も親泣かせるのか?と言った然の顔が浮かぶ。

――バシャッ!
両手で顔を拭う。
天井を仰ぐ。

「ふぅ……。然、何してっかな。」

リュックを床に転がしたまま、望遠鏡にかじりついてる姿を思い浮かべる。

「クスッ……ちゃんと、宿題やれよ?」

「朔~、ちょっと入るね。」

浴室ドアのガラス越しに母さんの影が見える。

「ここ、着替え置いとくね。」

「サンキュー。」

――パタン。パタパタパタ……
母さんの足音に耳を澄ます。


「親、泣かせるかっていうの!いざ、参りますか。」


さっとシャワーを浴び、外に出る。
鏡に映る自分と、目を合わせる。

「待っとけ、然。」

髪を拭きながら、リビングへ向かう。
ガラス戸の向こう、洗濯物を畳む母さんの姿が見える。

カチコチと壁時計が鳴っている。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


長い夜が明けた。

いつものように授業を受け、休み時間にはアホな話で笑ったりする。
変わらない日常がいつもとは違うような、束の間の平穏を噛み締めるような。
そこに居ながら遠くから眺めている、そんな感じだ。

濃い夕日が差し込む学校の玄関。

「また、後でな。」

「うん。じゃあな。」

小さくなっていく然の足元を、細く長い影がゆらゆらと追いかけている。
凛とした背中の向こうで、どんな顔をしてるんだろう。
今日だけは“じゃあな”なんて言葉は嫌いだ。

リュックの肩紐にきゅっと手をかけ、足を踏み出す。

家路に急ぐ。

早くあの丘で――然に会いたい。

家の玄関を開けると同時に、リュックを放り込む。
床に落ちたリュックが、大きな音を立てて転がる。

「コラ!朔っ!」

「母さんごめん!行ってきます!」

勢いよく閉めたドアの音を合図に、地面を蹴り、走り出す。

遠くの空に見えた一番星は、一つまた一つと小さな仲間を引き連れ、心強い伴走者みたいな顔をしている。

丘に続く階段を二段飛ばしで駆け上がる。

重なる枝を、腕の一振りで突破する。
突如現れた満天の星空にハッとする。

また、地面を蹴る。

駆ける。


――居た!


体温が上昇する。

風を切る。

芝生を踏みしめる。

青い匂いが

舞い上がる。

「――然っ!!」

振り向くのを待たずに、飛びつくように
抱きしめる。
抱きしめたまま大きく左右に揺さぶる。
勢いが空回りしてる。

「何してんだよ!登場の癖が強いっ!」

然の笑い声が、身体を伝って心地よく響く。
なだめるような手つきで、絡みついてる俺をゆっくりと離していく。

「嫌だ!然っ……!」
また抱きしめる。
今度は解けないように両手の指を重ね、強くロックする。
また左右に大きく揺さぶる。

「だーかーら、癖強いって!」
ドンッと俺の下半身に、然の腰がヒットする。

「うっ!……デジャブ。」
前を押えて芝生にへたり込む。
「それは……ないんじゃ……ない?」

自分の服を整え、然が大きなため息をついた。
「お前こそ、昨日の今日でそれはないんじゃね?」

「――だって……。」

「だって何だよ。一回、座れ。」

向き合って座る俺たちを、星たちが見下ろしている。
果てのない彼らにしたら、俺らの悩みなんて塵一つにも満たないのかもしれない。

その限りない世界観で、青臭い俺たちを笑ってて欲しい。


「えっと、然は、その、親とは大丈夫なのか?」

「心配してくれてたんだ?」

「当たり前だろ。それ思ったら、とにかくもう、早く会いたくて。」

「そか。」
然が目を細める。
「……その時はショックだったよ。でも、後からちゃんと話してくれた。」

「うん……。」

「“それを背負って生きてく俺を思ったら、涙が出てしまった”――って。」

「そうか……良かったぁ……。」

全身の力が抜けていく。
倒れるように、大の字に寝転がる。

青白い月の光が、真正面から瞳に飛び込んでくる
眩しさに目を細める俺の視界に、然の笑顔が入り込む。

「お前って意外と本能で動くんだな。」

然の瞳の中、間抜け面した俺と目が合う。

光を帯びて交互に揺れる然の瞳が、深い瞬きと共に、掠れた声を落としてくる。

「……さっき、グッときた。」

その声が、俺の耳に心の奥に、じんわりと染み込んでいく。

視界が更に、深く、暗くなる。

鼻先にかかる然の呼吸が、1℃上がる。

咄嗟に、俺の手は然の唇を覆っていた。

然の目が、キョトンと丸くなって俺を見ている。

ぶわっと汗が滲む。

「えっと……これは拒絶じゃない。今は違うっていうか……。」


然は、俺からさっと離れると、手のひらの芝を払いながら言った。
「謝るなよ。こんなの、忘れて。」

「忘れる!?そんな勿体ないことできるか!」
慌てて飛び起きる。

然が僅かに首を傾げる。
「で、なに?何かあるんだろ?」

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昨夜のこと。

「――なぁ、母さん。」

洗濯物を畳む母さんの手が止まる。
母さんは俺の顔を見ると、少し微笑んでソファに座り直した。

「お風呂と着替えサンキュ。」
タオルを肩にかけて、母さんの足元にあぐらをかく。
「然……のことなんだけど。」

「あぁ、あの夜空友達ね。」

「もう夜空友達じゃなくなるかも……。」

「喧嘩?いや、逆かな?」

「えっ……」

「何、今更驚いてんの?毎晩走って出かけてたじゃない。」

ぐうの音も出ない。

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「然、聞いてくれ。母さん、俺より早く気づいてた。超、怖い。」

然が笑う。
「お前、走って出てきてたんだ。」

「う、うるさい。」
めちゃくちゃ恥ずかしい。


「でも……驚いた。俺のこと親に話すとか気まずくねぇの?」

「別に。俺そっくりな生き証人から話が聞けるなんて、最高じゃねーか。」


然がまた笑う。
「朔って感じ!それで?続きあるんだろ。」

「今日、然に会ったら電話しろ、と。」


然の長いまつ毛が高速で上下している。

――あ。間違えたかも。
「……困るよな?無理にじゃない。」

「困ってない!ビックリしただけだ。俺も話したい。……朔がいいなら、だけど。」

いいに決まってる。
嬉しさのあまり、返事をするのを忘れたまま、ポケットのスマホを高速発信した。


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電話越しの朔のお母さんの声は、落ち着いたトーンで、まるで朔と話してるような気持ちになる。

「然くん、こんばんは。」

「は、はい。こんばんは。」

緊張して手が震えてしまう。

「これだけは伝えたくて。少しだけいいかしら。」

ドキンと心臓が強く打つ。
俺に何を伝えたいのか、怖くてたまらない。

「……はい。あの、ごめんなさい。」

「えっ?何で謝るの?私は貴方にありがとうを言いたくて。」

ありがとう?この俺に?

「朔に、ちゃんと話してくれたこと感謝してるのよ。とても勇気がいることだと思うから。それだけ伝えたくて。」

何も言えない……。いや、喋れないんだ。
傍に立ってる朔が慌ててスマホを奪い取る。

「母さんごめん!然は今話せません!じゃっ!」


俺は地べたに座り込んで、声をあげて大泣きしていた。


その後の朔といったら、周りをウロウロしたかと思えば抱きしめたり、服を脱いで俺の頭から被せたり、ひたすらポンコツぶりを発揮。
挙句、勝手に疲れて俺の足元に寝転ぶ始末。


俺も、朔も、完璧じゃない。

いつだって手探りで、答えのない問題を必死に解いてるんだ。
良かったかどうかなんて、何十年も先にしか分からないかもしれない。

だけど、自分の心には、誠実でいたい。

それがきっと自分を大切にするってことなんじゃないかと、俺たちは思う。