大正道楽事件簿

「深淵を長く見つめるなら、深淵もまたこちらを見つめるっていう有名な一節があるだろう?」

いつものカフェで、晴人《はると》は言った。

「なんだよ、その呪文みたいな文言は」

これだから伯爵家の子息は厄介なんだと言いたげに、明は眉をひそめる。

「まあ、君の家は銀行家だからね、哲学は興味ないか」

「いや、興味というより、小難しいことが嫌いなだけさ」

ケラケラと明は笑う。

「晴人、どうでもいいけど、それで暇つぶしになるというのか?」

「いえ、田村様。それが九条様は暇じゃないと……」

明のためにコーヒーを運んできたマスターが言った。

「は?!暇じゃない?!じゃあなんで、カフェにいるんだよ?!」

「気分転換だ」

「いや、晴人。それを暇と言うんじゃないのか?」

明の一言に、晴人は考え込む。

「……そういう考え方があったか……」

言って、コーヒーを一口飲み、積み上げている本を一冊手に取った。

「……で、晴人。なんでそんなに本があるんだ?」

「古書店で買ったのだ。実に興味深い事があった……」

ニーチェの本をペラペラとめくり、見てみろと晴人は、明に差し出した。

本のページには、線が引かれ、何やら書き込みがされている。

「元の持ち主が書き込んだようだ……」

どこか嬉しそうに晴人は言った。

「ああ、古本なら。たまに書きこみがあるからな」

明は、よくあることだと言いつつ、気にしてないのかと晴人に質問した。

「いや。これが実に興味深くてな。おかげで友を見つけられた」

「はあ?」

話が見えない明に、晴人は最後のページを見せる。

「……神田旭町、中村達夫……?」

余白に達筆で書かれてある。

「前の持ち主……というわけか?」

明の疑問に晴人は頷く。

「ああ、つまり、この人物が書きこんでいたという訳だ」

ペラペラと晴人はページをめくるが、けっこうな量の書き込みがある。

何か必死に究めようとしてる。そんな気迫が伺われた。

「で?この中村って人に何かしたのか?」

晴人のことだ、好奇心から何か起こしたに違いない。

明の読みは正しかった。

「ああ、手紙を出した」

「は?」

「返事が来た」

「えっ?!」

意外な展開に明は驚く。

十日程前、晴人は退屈しのぎにと、神保町で書店巡りを行った。

その一軒の古書店でニーチェ、ショーペンハウアー、カントなどの哲学書を手に入れた。

晴人はすでに新刊を入手済みだったが、興味を引かれたのは、元の持ち主が書き込んだであろう数々の疑問だった。

つまり、本のページの中で、哲学論議が繰り広げられていたのだ。

さらに、どの本にも、神田旭町、中村達夫と書かれていた。

これだけの書き込みを残した人物が、どんな人間なのか。晴人を刺激するには十分だった

そして、思い切って、中村という人物に手紙を出したという訳だ。

すると程なくして、相手から返事が来た。

こうして、今では、晴人は中村と哲学談義を手紙で行っているのだという。

「しかしだ。なかなか鋭いのだよ……」

相手の中村の言葉が、深いのだと晴人は言うと、ニーチェの本を読み始める。

「考えを求められてね。確かに中村君の疑問も一理あるんだ」

返事を書くために、本を再読しているのだと。そのため、暇はないのだと晴人は言った。

「それなら、家の書斎でやればいいだろう?」

明は理解できないとはかりに晴人へ言う。

「そうしていた。しかし、俺も行き詰まった」

だから、何か新たなひらめきを求め、カフェで本を読んでいるのだとか。

さも当然とばかりに、晴人はページをめくっている。

「あっ!いた!」

入り口ドアが開き、流行りの断髪、ワンピース姿の女性が入ってきた。

雅子だった。

「もう!ダニエル!なに本の虫になっているの?!昨日の観劇すっぽかして!」

婚約者なのだから、二人で出かけても良いだろうと雅子は少々ご立腹だ。

「雅子、今は忙しい。で、昔付き合っていた人物を重ねて、俺をダニエル呼ばわりするのは、どういう心理なのか?というよりも……フロイトを読んでみるか……君のこと、いや、女性心理が理解できるかもしれない」

現れた雅子に、晴人はすまして答えた。

「あーー、もう!田村さん聞いて!一事が万事これなのよ!訳の分からないこと言って!」

「ははは、こりゃ、当分暇にはならないな」

明は、肩をすくめる。

どうやら晴人は、中村という人物との文通──、哲学論議に夢中のようだった。

「で?その中村という人物、どういう人間なんだい?晴人、お前と文通できるぐらいだ、暇人なのか?」

「……さあ、良くは知らないのだ。個人的なことはあまり記さないからね」

「へえー、よく知らない相手と文通が続くな……」

明が感心した。

「ふうん、なんだか奇妙な話ね」

言うと、雅子は積み上げられている本を一冊取った。

ペラペラとページをめくり、

「……では、真理を見極めた後、人は何者になるのか?……はあ?!」

中村の書き込みを読み上げる。

「これは、お手上げね」

と、明に同意を求めた。

「ああ、雅子さん。暇なら、晴人の代わりに付き合いますよ?確か浅草オペラで、新しい演目始まってたはずです……」

「あら、浅草オペラ!久しぶりだわ。田村さん行きましょうよ!」

構わないかしら、と、雅子は晴人に伺いを立てる。一応は婚約者の自覚があるようだ。

「ああ、別に構わないさ。明と行ってくるといい」

言いながらも、晴人は本から目を離さない。

それほど本に夢中になっていた。