大正道楽事件簿

先の震災の傷跡は、この帝都からすっかり消え失せていた。

美しく整備された街では人々が行き交い、それぞれの時を謳歌している。

そんな帝都の片隅で、二人の若者だけが、途方もなく暇を持て余していた。

「……今日も、することがない」

九条伯爵家の末息子、晴人(はるひと)は、端正な顔立ちを歪め新聞を畳んだ。

「昨日もそう言ってましたね」

行きつけのカフェのマスターが、カップを拭きながら晴人をからかう。

「いや、マスター。俺たちは、暇人だから、やることがないのが仕事なのだ」

その向かいに座る銀行家・田村家の末息子、明は、晴人とは対照的に人好きのする笑みを浮かべていた。

「昨日と今日では日付が違う。暇の種類も異なるのだよ」

わかったようなことを晴人が言う。

「そうそう」

明も何か同意して、コーヒーを飲んだ。

すると──。

「ダニエル!やっぱりここにいたのね!助けてほしいの!」

カフェの扉が勢い良く開き、流行りの断髪ワンピース姿の女が飛び込んできた。

「……なんだい、雅子。君は、田上伯爵家のご令嬢だろう?」

はしたないと言いたいのか、晴人は肩をすくめた。

「あぁ、もう!あなた本当にダニエルだわ!その理屈っぽいところ!」

「こいつの理屈っぽいのは今日始まったものじゃないし……婚約者ならそれくらいは知ってるでしょう?」

すかさず明が口を挟む。

「それはそうだけど……」

雅子が拗ねる素振りを見せた。

「で?いい加減そのダニエルと呼ぶのは辞めてくれないか?」

晴人は、新聞をテーブルに置いて懐をまさぐった。

「タバコ?私のをあげましょうか?」

雅子がクラッチバッグからシガレットケースを取り出す。

「いや、結構。まだ、婚約中だからね。たとえタバコでも共有財産ではない。頂戴するわけにはいかないよ」

「まっ、口達者」

雅子は、呆れながら晴人の隣に座り、シガレットケースからタバコを取り出した。

「ちょっと屋敷で事件が起こったの。ダニエル、あなたなら解決できると思って……」

雅子は、タバコに火を付けると紫煙をくゆらす。

「だから、雅子。そのダニエルはやめてくれ。どうも耳障りだ」

「あら、焼いてるの?ヨーロッパ時代に付き合ってた人の名前だから?あなた、彼に似てるのよ。色白の所とか線が細い所とか。だから、つい、ダニエルって呼んでしまうのよ」

言って雅子はふうと、煙を吐き出した。

「おやまあ、親が決めた婚約者なのに、いつも仲がいいね。君たちは」

ふっと、明が笑う。

「ありがとう。田村さん、あなたも早く婚約したら?」

雅子は、挑発的に明へ言った。

「……そんなことより、雅子。何なんだ?」

「そう!指抜きが無くなったの!」

雅子は思い出したと、晴人に訴える。

「指抜きって、裁縫の時に使う、指を守るためのあれですか?」

明が不思議そうに言うと、コーヒーのおかわりを頼んだ。

「ええ、それよ。でもね、無くなったのは金の指抜き。我が家に代々伝わるものなの」

当主の妻に引き継がれてきた年代物で、当主の妻の印とも言える大切なものなのだと雅子はまくし立てた。

「……それは確かに大変だ」

晴人は別段驚く訳でもなく、冷めかけたコーヒーを飲んだ。

「マスター、入れ直してくれないか?」

落ち着き払う晴人の態度に雅子が苛つく。

「来週、軽井沢で療養されてる大伯母様が来られるの。その時、金の指抜きを確認されるはずなの」

「それがないと、どうなるんです?」

明が興味深げに言った。

「……とにかく困るのよ。大伯母様は、あの指抜きを当主夫人の証のように考えているの。もし無くなったと知ったら……」

雅子は煙草を灰皿に押しつけた。

「今の母が、ふさわしくないと思われるわ」

「……確か、君の母上は後妻だったな。それも、元は妾……」

「そうよ、ダニエル。大伯母様は母のことを気に入ってないの。だから、指抜きが無いとわかったら……」

「……君が板挟みになると」

晴人は、やっと親身に雅子の話を聞き始めた。

「屋敷の中の話だ。心当たりは?」

晴人が言った。

「あーー、それね……」

「あるんですか?!」

明が身を乗り出して、雅子へ続きを催促する。

相棒の軽さに、晴人はコホンと咳払いした。

「盗んだのは、裁縫係りの美里。でも、指示したのは女中頭の竹田だと思うの」

「ああ、あの竹田が絡んでいるのか……」

晴人は言い渋る。

「そうなのよ。竹田は私が生まれる前から仕えているし、大伯母様にも気に入られているから……」

「あー、それで雅子さんは晴人を頼りにしていると」

「そういうこと。この際だから、田村さんでもいいわ。何か良い知恵を貸してちょうだい」

雅子は、困り果てた顔をして言った。

「……一ついいか?」

「何かしら?」

「なぜ、君が気づいたんだい?」

「ああ、それは私がお裁縫をしようとしたから。その時気がついたの」

雅子の言葉に晴人と明は固まった。

ヨーロッパ遊学を経て、自由気ままな暮らしぶりの雅子が、裁縫をするとは思えなかったからだ。

「あら、失礼ね。私だって縫い物くらいできるわよ」

男二人の様子に何を思っているのか雅子も勘づいたようだった。一気に機嫌が悪くなり、席を立った。

「じゃあ、要件は話したから。後はよろしく」

それだけ言うと、雅子はさっさと店を出て行った。