狛犬の向きが、水路の栓か何かと繋がっていたのだろうか。
水が出てホッと胸を撫で下ろす。
良かった、これで元通り……。
手水鉢を満たしていく澄んだ水面には、不安げな自分の顔が映っている。
手水舎の周りをもう一度入念に探してみたけれど、目当ての形代らしきものは何も落ちていなかった。私は手水舎をあとにし、社の裏手にひっそりと佇む『お地蔵様の庭』へと向かうことにした。
木々に囲まれたそこは、日差しが届きにくく、いつもひんやりとした空気が漂っている。
苔のむした小さな石のお地蔵様達が、整然と不規則に並んでいた。
このお地蔵様達は、私のような生き神が神様に捧げられるたび、その数だけ造られてきたものだという。
……私もいつか、ここに冷たい石となって彼女達の仲間入りをするのだろうか。
ふとよぎった暗い考えに胸がキュッと締め付けられる。
(ううん、先に形代を探さないと……)
私はぶんぶんと首を振り、弱気な自分を無理やり追い払った。頬を両手で軽く叩き、お地蔵様の足元へと目線を落とす。
ここには過去の生き神達の祈りと、悲しい願いが静かに眠っている。
けれど、今の私は立ち止まって泣いているわけにはいかないのだ。
意を決してお地蔵様の庭をあとにし、私はしんと静まり返った拝殿へと向かった。
軋む床板の音を立てて拝殿の中へ進む。
奥に進むと、ぽつんと置かれた小さな文机と、壁に掛けられた立派な額縁、そして古い木箱が視界に入った。
吸い寄せられるように近づき、その木箱をそっと持ち上げてみる。
ずっしりと重い木箱には、無機質な四桁の番号錠が二つかかっており、固く口を閉ざしていた。
よく見ると、片方の番号錠の金属部分、その文字盤のすぐ横に、細い針で引っ掻いたような小さな文字が刻まれていることに気づく。
『三十四ノ一』
『三十九ノ二』
『三十三ノ一』
『三十八ノ二』
……これは、何だろう?
もしかしたら、単なる数字の羅列ではないのかもしれない。
社や拝殿にある何かと、この数字の組み合わせが鍵になっているのだろうか。
私は視線を木箱から外し、拝殿の中をゆっくりと見回した。
額縁には、この土地に伝わる生き神の伝承がびっしりと達筆な文字で書かれている。
いくら目を凝らしても、拝殿の中には答えらしい答えが見当たらない。
焦りから拝殿内をウロウロと行き来していると、渡り廊下の方からギシギシと足音が近づいてきた。
「お、ここにいたか。何か見つけたか?」
ひょっこり顔を出したのは伊織さんだった。知っている人の声を聞いて、少しだけ安心する。
「いえ、まだ何も……」
「そうか……。俺は小屋の方を見てくる」
伊織さんはそれだけ言って、また境内の方に向かって行く。
その背中を見送りながら、私はもう一度、手の中の木箱と壁の額縁を見比べた。
✳✳✳
(カタクリなら、何か知っているかもしれない……)
そう思い立った私は部屋に戻り、一人静かに本を開いていたカタクリに声をかけた。
彼はどうやら、外の水路を見に行って戻ってきたばかりらしい。
……私と伊織さんに任せないで、少しくらいカタクリも手伝ってくれても良いような気がする。
そんな小さな不満が頭をよぎりつつも、彼が手にしている古い本に目を向けた。
「何の本を読んでいるの?」
「ん、ああ……」
カタクリは読んでいる最中だった本をめくり、私に見せてくれた。
そこには、たくさんの人の名前が書かれていた。
四十一代、ユリ。
四十代、タチアオイ。
三十九代、スミレ。
三十八代、ヒナギク。
三十七代、ウメ。
三十六代、モクレン。
三十五代、サザンカ。
三十四代、ヒグルマ。
三十三代、ムクゲ。
「なにこれ」
「過去の生き神の名前と代数が記された過去帳だ」
カタクリは感情の読めない淡々とした声で答え、めくっていたページをそっと指で押さえた。
「忘れないようにつけてる」
「そうなんだ……」
過去帳に書かれた生き神達の名前と代数。
そして、木箱にかかった四桁の番号錠に刻まれた謎の文字――。
(――あっ!!)
私はハッと息をのみ、思わずカタクリの手首を強く掴む。
「ちょっと来て!」
「うわっ……!」
突然の行動に珍しく驚くカタクリを引っぱるようにして、私は一気に拝殿まで走って連れて行った。
「代数だよ!木箱に彫られたあの文字は、本に書かれていた『生き神の代数』のことだったんだよ」
興奮気味に叫んだ私だったが、すぐに「でも……」と頭をひねった。
番号錠は『零』から『九』までの数字を組み合わせる仕組みだ。ヒグルマやスミレといった名前に、数字なんて一文字も入っていない。
「……ひふみ祝詞を忘れたか?ヒナギクの二番目はナ。つまり、七だ」
「ナ……が、七……?」
私はカタクリの言葉を頭の中で反復した。
「あっ……じゃあ、『ひ』が一、『ふ』が二、『み』が三……!」
名前に含まれるひらがなを、祝詞の並び順に当てはめて数字にするんだ!
「……よく覚えていたな」
カタクリは少し微笑みながらそう言うと、退屈そうに過去帳から目を離した。
私は急いで、木箱の文字盤と過去帳の文字を頭の中で照らし合わせていく。
ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と……。
頭の中で祝詞を指折り数えながら、木箱に刻まれた文字と過去帳の名前を一つずつ当てはめていく。
『三十四ノ一』。
三十四代はヒグルマ。その一文字目は祝詞の最初だから――『一』。
『三十九ノ二』。
三十九代はスミレ。二文字目はミ。ひ・ふ・みの三番目だから――『三』。
『三十三ノ一』。
三十三代はムクゲ。一文字目は『ム』。ひ・ふ・み・よ・い・むの六番目だから――『六』。
『三十八ノ二』。
三十八代はヒナギク。二文字目は『ナ』。ひ・ふ・み・よ・い・む・なの七番目だから――『七』。
「一……三……六……七……!」
声に出しながら、カチカチと合わせていく。
四つの数字を揃え、最後に小さな仕掛けをぐっと押し下げた。
カチリ。
静かな拝殿の中に、金属が外れる小さく明快な音が響いた。
重く閉ざされていた鍵が外れ、片方の番号錠が力なく解ける。
「やった……!」
思わず跳ね上がるような声を上げると、横で腕を組んでいたカタクリが「へぇ」と小さく感心したように眉を上げた。
「よく解いたな」
カタクリに褒められて照れくさそうに笑ったのも束の間、私の視線はもう片方の番号錠へと吸い寄せられた。
木箱の蓋を固く留めている錠は、まだもう一つ残っている。
よく見ると、こちらの番号錠の横には、文字ではなくごく小さな『絵』が繊細に刻まれていた。
鳥居と絵馬掛け所と賽銭箱と小屋?
一つ目の番号錠が『文字を数字に変える仕掛け』だったのに対して、こちらは境内にある具体的な場所を示しているようだった。
「どうした?」
片方の鍵が外れた木箱を覗き込みながら、カタクリが声をかけてくる。
「今度は文字じゃなくて、境内にある建物の絵が彫られてるの。……ほら」
木箱を少し傾けて見せると、カタクリは目を細めて文字盤の横をじっくりと観察した。
「指定された場所に行ってみると良い。何かあるかもしれない」
水が出てホッと胸を撫で下ろす。
良かった、これで元通り……。
手水鉢を満たしていく澄んだ水面には、不安げな自分の顔が映っている。
手水舎の周りをもう一度入念に探してみたけれど、目当ての形代らしきものは何も落ちていなかった。私は手水舎をあとにし、社の裏手にひっそりと佇む『お地蔵様の庭』へと向かうことにした。
木々に囲まれたそこは、日差しが届きにくく、いつもひんやりとした空気が漂っている。
苔のむした小さな石のお地蔵様達が、整然と不規則に並んでいた。
このお地蔵様達は、私のような生き神が神様に捧げられるたび、その数だけ造られてきたものだという。
……私もいつか、ここに冷たい石となって彼女達の仲間入りをするのだろうか。
ふとよぎった暗い考えに胸がキュッと締め付けられる。
(ううん、先に形代を探さないと……)
私はぶんぶんと首を振り、弱気な自分を無理やり追い払った。頬を両手で軽く叩き、お地蔵様の足元へと目線を落とす。
ここには過去の生き神達の祈りと、悲しい願いが静かに眠っている。
けれど、今の私は立ち止まって泣いているわけにはいかないのだ。
意を決してお地蔵様の庭をあとにし、私はしんと静まり返った拝殿へと向かった。
軋む床板の音を立てて拝殿の中へ進む。
奥に進むと、ぽつんと置かれた小さな文机と、壁に掛けられた立派な額縁、そして古い木箱が視界に入った。
吸い寄せられるように近づき、その木箱をそっと持ち上げてみる。
ずっしりと重い木箱には、無機質な四桁の番号錠が二つかかっており、固く口を閉ざしていた。
よく見ると、片方の番号錠の金属部分、その文字盤のすぐ横に、細い針で引っ掻いたような小さな文字が刻まれていることに気づく。
『三十四ノ一』
『三十九ノ二』
『三十三ノ一』
『三十八ノ二』
……これは、何だろう?
もしかしたら、単なる数字の羅列ではないのかもしれない。
社や拝殿にある何かと、この数字の組み合わせが鍵になっているのだろうか。
私は視線を木箱から外し、拝殿の中をゆっくりと見回した。
額縁には、この土地に伝わる生き神の伝承がびっしりと達筆な文字で書かれている。
いくら目を凝らしても、拝殿の中には答えらしい答えが見当たらない。
焦りから拝殿内をウロウロと行き来していると、渡り廊下の方からギシギシと足音が近づいてきた。
「お、ここにいたか。何か見つけたか?」
ひょっこり顔を出したのは伊織さんだった。知っている人の声を聞いて、少しだけ安心する。
「いえ、まだ何も……」
「そうか……。俺は小屋の方を見てくる」
伊織さんはそれだけ言って、また境内の方に向かって行く。
その背中を見送りながら、私はもう一度、手の中の木箱と壁の額縁を見比べた。
✳✳✳
(カタクリなら、何か知っているかもしれない……)
そう思い立った私は部屋に戻り、一人静かに本を開いていたカタクリに声をかけた。
彼はどうやら、外の水路を見に行って戻ってきたばかりらしい。
……私と伊織さんに任せないで、少しくらいカタクリも手伝ってくれても良いような気がする。
そんな小さな不満が頭をよぎりつつも、彼が手にしている古い本に目を向けた。
「何の本を読んでいるの?」
「ん、ああ……」
カタクリは読んでいる最中だった本をめくり、私に見せてくれた。
そこには、たくさんの人の名前が書かれていた。
四十一代、ユリ。
四十代、タチアオイ。
三十九代、スミレ。
三十八代、ヒナギク。
三十七代、ウメ。
三十六代、モクレン。
三十五代、サザンカ。
三十四代、ヒグルマ。
三十三代、ムクゲ。
「なにこれ」
「過去の生き神の名前と代数が記された過去帳だ」
カタクリは感情の読めない淡々とした声で答え、めくっていたページをそっと指で押さえた。
「忘れないようにつけてる」
「そうなんだ……」
過去帳に書かれた生き神達の名前と代数。
そして、木箱にかかった四桁の番号錠に刻まれた謎の文字――。
(――あっ!!)
私はハッと息をのみ、思わずカタクリの手首を強く掴む。
「ちょっと来て!」
「うわっ……!」
突然の行動に珍しく驚くカタクリを引っぱるようにして、私は一気に拝殿まで走って連れて行った。
「代数だよ!木箱に彫られたあの文字は、本に書かれていた『生き神の代数』のことだったんだよ」
興奮気味に叫んだ私だったが、すぐに「でも……」と頭をひねった。
番号錠は『零』から『九』までの数字を組み合わせる仕組みだ。ヒグルマやスミレといった名前に、数字なんて一文字も入っていない。
「……ひふみ祝詞を忘れたか?ヒナギクの二番目はナ。つまり、七だ」
「ナ……が、七……?」
私はカタクリの言葉を頭の中で反復した。
「あっ……じゃあ、『ひ』が一、『ふ』が二、『み』が三……!」
名前に含まれるひらがなを、祝詞の並び順に当てはめて数字にするんだ!
「……よく覚えていたな」
カタクリは少し微笑みながらそう言うと、退屈そうに過去帳から目を離した。
私は急いで、木箱の文字盤と過去帳の文字を頭の中で照らし合わせていく。
ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と……。
頭の中で祝詞を指折り数えながら、木箱に刻まれた文字と過去帳の名前を一つずつ当てはめていく。
『三十四ノ一』。
三十四代はヒグルマ。その一文字目は祝詞の最初だから――『一』。
『三十九ノ二』。
三十九代はスミレ。二文字目はミ。ひ・ふ・みの三番目だから――『三』。
『三十三ノ一』。
三十三代はムクゲ。一文字目は『ム』。ひ・ふ・み・よ・い・むの六番目だから――『六』。
『三十八ノ二』。
三十八代はヒナギク。二文字目は『ナ』。ひ・ふ・み・よ・い・む・なの七番目だから――『七』。
「一……三……六……七……!」
声に出しながら、カチカチと合わせていく。
四つの数字を揃え、最後に小さな仕掛けをぐっと押し下げた。
カチリ。
静かな拝殿の中に、金属が外れる小さく明快な音が響いた。
重く閉ざされていた鍵が外れ、片方の番号錠が力なく解ける。
「やった……!」
思わず跳ね上がるような声を上げると、横で腕を組んでいたカタクリが「へぇ」と小さく感心したように眉を上げた。
「よく解いたな」
カタクリに褒められて照れくさそうに笑ったのも束の間、私の視線はもう片方の番号錠へと吸い寄せられた。
木箱の蓋を固く留めている錠は、まだもう一つ残っている。
よく見ると、こちらの番号錠の横には、文字ではなくごく小さな『絵』が繊細に刻まれていた。
鳥居と絵馬掛け所と賽銭箱と小屋?
一つ目の番号錠が『文字を数字に変える仕掛け』だったのに対して、こちらは境内にある具体的な場所を示しているようだった。
「どうした?」
片方の鍵が外れた木箱を覗き込みながら、カタクリが声をかけてくる。
「今度は文字じゃなくて、境内にある建物の絵が彫られてるの。……ほら」
木箱を少し傾けて見せると、カタクリは目を細めて文字盤の横をじっくりと観察した。
「指定された場所に行ってみると良い。何かあるかもしれない」



