生き神様は籠の鳥

カタクリと伊織さんと一旦別れ、私は一人で手水舎の方へと向かった。

冷たい石造りの手水舎に近づき、深くかがみ込んで足元や棚の狭い隙間を覗き込む。

「あれ、水と柄杓(ひしゃく)がない……」

​いつもなら山から汲み上げられた澄んだ水がたっぷりと溜まっていて、冷たい水面が光っているはずだった。

なのに、今日は不気味なほど空っぽだ。

底に沈んだ灰色の石が、乾ききって寒々しく剥き出しになっている。

神様へのお参り前に身を清める大切な場所に、水も道具もないなんて……いつも綺麗に整えられているこの神社では、絶対にあり得ないことだった。

「まずは柄杓を探さないと」

私はぐっと拳を握りしめて立ち上がり、手水舎の周りをぐるりと見渡した。

​古びた柱には、長年の風雨でかすれた文字で手水の作法が書かれている。

柄杓はいつもなら、手水鉢の縁に並べられているはずなのに、影も形もない。私は手水舎の裏側や、近くにある石灯籠の影まで落ち葉を分け入るようにして、かがみ込みながら探し始めた。

​(どこかに落ちてるのかな……もしかしたら参道の方にあるのかも!)

​直感を信じて手水舎を離れ、まっすぐ伸びる参道へ向かった。

石畳の両脇には、古びた石灯籠が並んでいる。

そして鳥居の手前には、いつも私達を見守っている二体のヤマイヌの神使像が鎮座(ちんざ)している。

この像は月峰神の眷属(けんぞく)なんだって。昔、神職が言っていた。眷属ってどういう意味なんだろう……あとでカタクリに詳しく聞いてみようかな。

「……あれ?」

参道の真ん中で私はピタリと足を止めた。

神使像の足元をじっと覗き込むと、落ち葉の中に一本の不自然な木の枝が転がっている。

拾い上げてよく見てみると、枝の先端には白く細い糸のようなものが固く巻き付けられており、刃物で削ったような奇妙な溝(みぞ)が刻まれていた。

(これ、柄(え)の部分だ……)

なら近くに水を掬(すく)う部分も……。

胸騒ぎを覚えながらキョロキョロと辺りを見渡すが、それらしい物は見つからない。

「何してんだ」

「わっ!」

​突如、すぐ背後から低い声をかけられて、私は跳ねるように肩をすくませた。
振り返ると、いつの間にかカタクリがすぐ後ろに立っていた。
足音もなく近づいてきた彼に、心臓がトントンと早鐘を打つ。

​「カタクリ……!びっくりさせないでよ」

​​胸を押さえながらホッと大きな息を吐き、手の中に握りしめていた木の枝を見せる。

「柄杓の柄、見つけたの」

「……柄杓?」

​カタクリに手渡すと、彼は片眉を少し上げてまじまじとそれを見つめた。ざらついた木肌を指でなぞり、ふと上を仰ぎ見る。

「そういえば手水舎の屋根に合(ごう)が乗っていたな」

「本当!?」

「ああ」

合とは柄杓の水を掬う部分だ。

もしかしたらこれと組み合わせたら、また使えるかもしれない。

「屋根に?」

「ああ」

「どうしてそんなところに乗ってるの?」

「さぁ。誰かが乗っけたんじゃないか?」

「神職達はそんなことしないよ」

​「まぁ、理由を考えても仕方ない。取ってくる」

​カタクリは柄を片手に、手を伸ばしてツンツン突いて屋根の上に乗っていた合をヒョイと器用に手元へ取り下ろした。

​「取れたぞ」

「ありがとう!」

削られた溝と突起(とっき)がカチリと心地よい音を立てて噛み合い、巻きつけられていた糸をきゅっと結び直すと、見事にもと通りの柄杓になる。

「あ、柄杓になったよ」

「よし。次は水だな」

​カタクリは空っぽの手水鉢の前に立つと、水が湧き出る木製の吹き出し口をじっと覗き込んだ。

「……どう?」

不安を拭いきれないまま、私も隣からそっと覗き込む。
​普段なら、ここから細く澄んだ水の流れが絶えず湧き出している。
​山から直接引かれた水がここまで流れてくる仕組みになっているのだ。

けれど――。

「なんにも流れてこないね……」

「ああ、水路を見てみるか」

私達は手水舎を離れ、山の方へ続く細い道を歩き始めた。
この水は、山の中腹から引かれている。
落ち葉が詰まっていないか。
枝が入り込んでいないか。
石が塞いでいないか。
毎月のほか、大雨の後などにも神職の人達がきちんと手入れをしていると聞いたことがある。 
だから、水が突然止まるなんてことは今まで一度もなかったのに……。

「水路を見てくる」

「うん。いってらっしゃい」

カタクリはそう言うと、山へ続く細い道を歩いていった。

私はその背中を見送る。

やがて木々の向こうへ姿が消えると、辺りは急に静かになった。

「……」

私は手水舎の前に一人で立ち尽くした。

さっきまでカタクリと話していたから気にならなかったけれど、こうして一人になると妙に静かになる。

ふと、違和感を覚えて視線を手水鉢へ戻した。

(あれ、この狛犬(こまいぬ)、この向きだっけ?)

手水鉢の左右にちょこんと置かれている小さな二体の石造りの狛犬。
いつもは二体がお互いに向き合い、仲良く顔を合わせているのに……。
​今は片方は鳥居の方を向き、もう片方は山奥の方を向いて、背を向け合うような格好になっている。

怖さを紛らわすように息を呑み、そっと狛犬の台座に近づいてみた。冷たい石の感触に触れ、そっと両手に力を込める。

​両手の力を調整し、二体の狛犬が互いに顔を見合わせるようにゆっくりと回転させた。

ズズ……と石が擦れる音がして。

(動いた!)

カチリ、と小さな仕掛けの動く手応えが手に伝わった、その瞬間――。

​―――チョロチョロチョロ……。

​乾ききっていた木管から、待ち望んでいた水が澄んだ音を立てて湧き出し始めた。