生き神様は籠の鳥

​さわさわと、遠くで風が木々を揺らす音が聞こえる。

「カタクリ、遅いなぁ……」

文机に頬を寄せたまま、私はぽつりと呟いた。

​神職達が本当に全員帰ったか見に行くと言って部屋を出ていったカタクリは、なかなか戻ってこない。彼が消えてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。

​(一人になると、余計なことばかり考えちゃうな……)

​さっきまでの巫女の祈るような表情や、拝殿で見た旅人の深い目が、頭の中で重なっては消えていく。

​『自分勝手なのかな』
​昼間、自分で自分に投げかけた問いの答えは、いくら頭を抱えて考えても出ない。

​​村のためにここに残り、生き神として生きるのが『正しいこと』だと分かっていても、私の心は逃げ出したいような、外の世界を見てみたいような、抑えきれない欲望で波立っている。

その時――。

​カサッ……と、外で小さな音が聞こえた。

​引きずるような、どこかおぼつかない足音。

草木に足をとられるようなその響きはカタクリのものでも、神職達のものでもない。

​(えっ……?)

​私は体を起こし、固唾を飲んで竹格子が嵌められた窓から見つめた。

​そこに立っていたのは――困惑したような表情で山の中を彷徨(さまよ)う、あの旅人の姿だった。

​​夕方以降、社を出て境内を歩き回ることは固く禁じられている。

もし神職達に見つかれば、「逃げ出そうとした」と厳しく咎(とが)められ、二度と外の空気を吸うことすら許されなくなるかもしれない。

​夕日に照らされた旅人の立ち姿は、迷子になった子供のように途方に暮れて見えた。

​(やっぱり、カタクリの言っていた通り境内から出られなくなってるんだ……)

​助けようと戸に手を伸ばしかけて――ふと動きを止める。

​​私一人で声をかけても、余計に混乱させるだけかもしれない。こんな時、カタクリがいれば何か良い解決策を冷静に思いついてくれるはずだ。

彼は私と違って頭が切れ、この山の裏道にも詳しいから。

​まずはカタクリを探して、それから旅人に声をかけよう。

神職達の様子を見てくるって言ってたから、拝殿の近くにいるかもしれない。

戸を開け、渡り廊下を歩く。

走ったら見つかってしまいそうなので足音を立てないようにする。

拝殿に続く戸を開けようとしたが頑丈な鍵はびくともしなかった。

「……あれ?」

目を凝らしてみると、戸の合わせ目に錠(じょう)がかけられていた。

鍵が閉まっている。

カタクリは、鍵を開けずに行ってしまったみたい……。

拝殿に通じるこの重い扉が開かなければ、境内はおろか、山を下りるどころの話ではない。

……待って。ここの鍵は確か、私も予備を持っていたはず。

「そうだった、鍵!」

​文机の引き出しの中、小さな木箱の中にしまってあった鍵の存在を思い出し、私は大急ぎで部屋へと引き返した。

木箱から取り出した鍵を握りしめ、再び足早に向かう。

拝殿へ続く重い木扉の前で立ち止まり、震える手で鍵穴に鍵を差し込む。

カチリ――。

(開いた!)

それだけで、胸の奥からわっと胸が躍(おど)るような嬉しさがこみ上げてくる。

(まずは、カタクリを探さなきゃ。彼なら拝殿の近くにいるはず……)

しかし、拝殿の奥へと向かっても、カタクリの姿は見当たらなかった。

「カタクリ……?どこにいるの?」

​暗がりの中で小声で呼びかけてみるけれど、返ってくるのは風が社を揺らす澄んだ音だけ。

拝殿の静けさが、いつも以上に冷たく感じられて胸がすっと冷えていく。

​(どうしよう……カタクリがいない。それに、あの旅人さんも境内で迷ったまま……)

​拝殿の奥を覗き込んでも、影ひとつ動く気配はない。

もしかしたら境内にいるのかもしれない。外の様子を伺いに行ってくれているのかも。

​私は決意を固め、拝殿の脇にある出入り口に向かった。庭下駄を足に引っ掛けて、境内へと足を踏み出す。

名前を呼びながら、手水舎(ちょうずや)の方まで来てみたけれど、それらしい人影は見えなかった。

​仕方なく一旦部屋に戻ろうと足を進めたその時、奥の道具小屋の陰からカタクリが歩いてくるのが見えた。

「カタクリ!」

​あまりの安堵感に緊張の糸が切れ、私はホッとして彼の方に駆け寄った。

「アンズ?……いや、待て―――」

カタクリの顔がにわかに引きつり、制止の手を差し伸べようとした、その瞬間だった。

「生き神様!!」

切迫した叫び声が、静寂を切り裂いた。

​暗闇の奥――鳥居の影から飛び出してきたのは、帰ったはずの若手の神職だった。

松明の火揺れる炎が、彼の血の気の引いた顔を赤く照らし出している。

「あ……」

私の足が凍りついたように止まる。

「なぜ……なぜ境内に出られたのですか!?」

「お戻り下さい!」

慌てふためいた様子の神職達が数人、松明を掲げてぞろぞろとこちらに向かって走ってくるのが見えた。

私が鳥居のすぐ近くにいたため、外へ逃げ出そうとしているように見えたのかもしれない。

鳥居はすぐそこだ。

今なら全力で走れば外に出られるかもしれない。
​外に出たら神の声をキくこの異才も、生き神としての価値も失われる。
そうすれば、神職達も私を引き戻す理由がなくなるのではないか……?
恐怖の中で、そんな甘い考えが頭をよぎる。
​私はすがるようにカタクリの方に視線をずらした。

「大人しくしていろ」

彼は低い声で短く命じる。

「でも……」

「良いから」

​鳥居まではほんの数十歩。

​(でも……今一人で走ったら、カタクリが取り残されちゃう)

​私が葛藤(かっとう)している間に、神職達が周囲を取り囲むように間合いを詰めてきた。

私に逃げ出す気がないと悟ったのか、彼らは荒い息を整えながら、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

「ごめんなさい、勝手に外に出てしまって……」

「お送りしなさい」

​囲みの奥から、重厚(じゅうこう)な衣をまとった宮司が静かに現れ、後ろで震えていた一人の若い巫女に指示を出す。そして、私と目線を合わせるように、私の目の前でゆっくりと膝をついた。

「生き神に選ばれし者の魂はいずれ、月峰神様に捧げられ、その御許(みもと)で永久の幸福を享受(きょうじゅ)するのです。その使命が果たされなければ月峰神様は荒み……やがて山を地を、人を祟るでしょう。……どうか我々に正しき道を示し、この地を守る神とおなり下さい」

​幼い頃から何度も何度も叩き込まれてきた言葉。

村の平和と、数多の人々の命。それら全てが私の小さな肩に重くのしかかっているのだと言わんばかりの圧力。
完全に逃げ場を失った私は、ただ唇を噛み締めてコクンと小さく首を縦に振ることしかできなかった。

​「さぁ、お部屋へ戻りましょう」

​巫女がそっと私の袖に手を触れる。

そのぬくもりのある手に引かれ、重い足取りで歩き出しながら、私は思わず振り返ってカタクリを見つめた。

​カタクリは松明の光が届かない神職達の輪の外側で、じっと動かずに私を見つめている。

その黄色の瞳には怒りも失望もなく、ただ深い静けさだけが宿っていた。

✳✳✳

結局、いつもの見慣れた部屋に連れ戻されてしまった。​文机の位置も、お供えされた神饌(しんせん)も、壁にかけられた一輪挿しも、何も変わらない。

……戸に外から鍵がかけられたこと以外はいつもの景色だ。

生き神の使命が果たされないということは、この村に住まう人々にとって、私が思っていた以上に恐ろしいことなのだと思い知らされた。

鳥居の向こうに広がる世界を、ほんの少しだけ夢見た代償。それはあまりにも大きくて重かった。

「もし、私が外に出たらこの山はどうなっていたの?」

「宮司が言っていたことを気にしているのか?お前が気にすることではない」

出窓の縁に座っていたカタクリは、爪で剥いていた栗を一旦置き、まだ剥かれていない硬い栗を私の方に投げてきた。

「気にすることではないって言われても……気になっちゃうよ」

手のひらの中で栗をころころと転がしながら、私は文机に向かって呟く。

「カタクリは……ずっとここにいるの?」

「オレがこの山から出ることはない」

淡々としたその言葉に、胸の奥がキュッと縮む。
彼はずっとここにいて、私がこの土地に残ってもこの土地を出ても、変わらずこの山で生き続けるのだろう。

「そっか、そうだよね……」

「お前は、お前の好きに生きれば良い」

​カタクリの声には嘘がなかった。彼が本気でそう言っているのだと分かり、目頭が熱くなる。
鳥居から外を見た時、心臓の音が聞こえた。たくさん走ったわけでも、緊張していたわけでもないのに。

「……アンズ、書くものを用意してくれ。紙は文机にあるやつと、あと墨も頼む」

思案(しあん)に暮れる私を呼び戻すように、カタクリが言った。

「え?」

「ほら、矢立てだ。神職のをくすねた」

カタクリは袂(たもと)から取り出した矢立てを文机に置く。

相変わらず手癖が悪いというか、この状況で度胸があるというか……。

「どうして?」

「力を貸してやると言ったろう」

私は不思議に思いながら文机の引き出しから、折り目のついていない和紙を何枚か取り出し、カタクリに渡した。

「まずは部屋から出ないとな」

​カタクリは受け取った和紙の一端をびりっと小さく破り取ると、指先で器用に、固く細くよじり合わせて『こより』を作り上げる。

さらに爪先で手際よく先端の形を微調整していく。

​「何してるの……?」

​「鍵開けだ。昔、こういう鍵の外し方を見たことがある」

カタクリは格子窓の隙間から細い手を伸ばし、外側の鍵穴にこよりを差し込んでカチャカチャと動かし始めた。だが角度が悪いのか、それとも鍵が複雑なのか上手くいかないらしい。

「……手が届かないな」

「その鍵開け、成功している場面は見たことあるの?」

「ないな。これを考えた少女も成功する前にこの技術が不要になったからな」

「不要になったって……言い方」

​思わず口を尖らせると、カタクリは呆れたように小さくため息をついた。

​「事実だ。ま、鍵が開かないなら別の方法を考えるか」

「別の方法って……?窓の格子は固いし、壁を壊すわけにもいかないよ」

​​八方塞がりの状況に焦りを募(つの)らせていると、カタクリは何か悪巧(わるだく)みでも思いついたように人差し指をピンと立てた。

「外にいる旅人に開けてもらえば良い。お前の足では一日かけてもそう遠くへは行けないだろう。なるべく早くここを出た方が良い」

「……カタクリ」

「ん」

「その旅人さん、境内から出られなくて困ってるんじゃないの?」

「多分、大丈夫だろう」