翌日。
カタクリの言った通り、太陽が空の真上に差し掛かる頃、神職の人達に連れられて旅人が社を訪れた。
神託を授けるため、冷ややかに澄んだ空気が満ちる拝殿に向かうと、神職達の前に一人の男性がぽつんと座っている。
あまり見たことのない、使い込まれた頑丈そうな布地の旅装束。
見たことのない革の金具がついた大きな荷物。
そして、私が今まで見たことのないような遠い場所を知っている目。
ああ、この人は外から来たのだ。私の知らない風をまとって、ここへ辿り着いたのだ。
彼が、カタクリの言う『マレビト』なのだろう。
「彼はマレビトです。今晩は山に留まってください」
事前にカタクリから教えられていた言葉を、私は神託としてそのまま反復する。
神職達は「承知いたしました」と深く平伏し、何が起きたのか分からず困惑している旅人を、社の奥へと連れて行った。
✳✳✳
「……旅人さんは大丈夫なの?」
自分の部屋に戻り、文机の横に腰を下ろすと、お供え物を物色しているカタクリに尋ねた。
私が部屋に戻る直前、彼は「ちょっと様子を見てくる」と言って旅人のところへ向かっていたのだ。
「無理に下山しようとして神社から出られなくなっていた。……多分、大丈夫だろう」
カタクリはお供え物の干し柿をもぐもぐと頬張りながら、いつものように素っ気なく答える。
……それって、本当に大丈夫と言えるのだろうか?
微妙に噛み合わない彼の答えに、私は苦笑いするしかなかった。
「お前も食うか?多少腹は膨れる」
「私は大丈夫」
「そうか」
カタクリは差し出していた干し柿を巾着の中に入れた。巾着には銀色の糸でヤマイヌの刺繍が施されている。
私はさっき夕餉を食べたばかりだし、何より緊張で胸がいっぱいで、お腹なんて空いていない。
「さて……お前も分かっている通り、お前が外を出歩くことを歓迎する奴はいないよ」
「うん……」
「まずは明日の用意でまだ残っている神職達を帰すんだ。そうしないと社から出ることもできないだろう。……余計なこと言うなよ」
「うん、気をつけるよ」
(余計なことを言わないように気をつけないと)
胸の鼓動が早くなるのをごまかすように、自分の身なりに視線を落とす。
真っ白な白衣から覗く椿の花のような深紅色の掛衿。下は同じ色の緋袴、上には千早と呼ばれる羽織を被っている。
そのままでは可愛くないからと、千早にはところどころ髪飾りと同じ花の装飾が施されているが、白と赤を基調としたこれは巫女装束と呼ばれる服装だと、昔カタクリが言っていた。
肩まで伸びた黒髪は、軽く結っている。
そこに飾っているのは、夕焼け色の花の髪飾り。七歳の誕生日に、カタクリが贈ってくれたものだ。
何の花かは分からないけれど、可憐で温かみがあって、私の一番の宝物だった。
逃げ出す時も、これだけは絶対に持って行こうと心に決めている。
深く呼吸を整え、文机の上に置いてあった赤い紐が付いている鈴を手に取った。
チリンチリンと澄んだ音を響かせて、一人の若い巫女を呼び寄せる。
「生き神様、いかがされましたか」
「あの、明日の準備が済んだのなら今日はもう、みんな村にお帰りください」
「はい。わたくしめ、明日の確認を済ませてから帰らせて頂きます」
巫女は深く深く頭を下げると、祈りを捧げるように両手を胸の前で固く重ね合わせた。
「生き神様、どうか末永くこの村をお守り下さい」
「……はい」
胸の奥が痛みにきしむ。
偽りの返事が、喉の奥につっかえて上手く声にならない。
巫女はもう一度一礼し、静かに部屋を後にした。
足音が廊下の奥へと消えていく。
その音が完全に聞こえなくなるまで、私は息をひそめてじっと待っていた。
「本当に……いいのかな」
思わず口をついて出た言葉に、カタクリは小さく息を吐いた。
「ここに残るか?お前の意志で決めたのなら、オレは構わない」
「……」
「よく考えるんだ。時間はまだある、急いで決めるものでもないよ」
その言葉に、私はぎゅっと着物の袖を握りしめた。
「私、私は……ここに残るべきだって思う。そのために生まれて、そのために育てられてきたから。でも……外の世界を見てみたい気持ちはやっぱり変わらないよ」
「そうか。……念のため、神職達が本当に全員帰ったか見てくる。お前はここで待っていろ」
カタクリの足音が静かに遠ざかり、広々とした部屋には私ひとりが残された。
ひんやりとした文机におでこを押しつけるようにして突っ伏し、目を瞑って思考の海に沈む。
『生き神様、どうか末永くこの村をお守り下さい』
さっきの巫女の言葉が、頭の中で何度も響く。
村人達の顔が浮かぶ。
豊作を喜んで涙を流していたおじいさん。無事に子供が生まれたと嬉しそうに報告に来た若いお母さん。私を神様だと信じて、疑うことなく手を合わせていた幼い子供達。
あの期待と安堵に満ちた笑顔を思い浮かべるたび、胸がギューッと握りつぶされるように締めつけられた。
もしも私がこの山を去ったら、どうなるのだろう?
明日からの神託は絶え、村人達は道標を失う。長年当たり前に存在していた守り神が消え去ったとき、村を包むのは激しい混乱と絶望に違いない。
自分達を裏切り、捨て去った私に対して、彼らは深い呪詛の言葉を吐くだろのだろうか。あるいは、生き神を失った村に災いが降りかかることを恐れて、震え上がることになるのだろうか。
そう思うと、差し出された自由への鍵が、ひどく重いものに思えた。
(私は……みんなを裏切ってまで外に行きたいなんて、本当に、自分勝手なのかな)
カタクリの言った通り、太陽が空の真上に差し掛かる頃、神職の人達に連れられて旅人が社を訪れた。
神託を授けるため、冷ややかに澄んだ空気が満ちる拝殿に向かうと、神職達の前に一人の男性がぽつんと座っている。
あまり見たことのない、使い込まれた頑丈そうな布地の旅装束。
見たことのない革の金具がついた大きな荷物。
そして、私が今まで見たことのないような遠い場所を知っている目。
ああ、この人は外から来たのだ。私の知らない風をまとって、ここへ辿り着いたのだ。
彼が、カタクリの言う『マレビト』なのだろう。
「彼はマレビトです。今晩は山に留まってください」
事前にカタクリから教えられていた言葉を、私は神託としてそのまま反復する。
神職達は「承知いたしました」と深く平伏し、何が起きたのか分からず困惑している旅人を、社の奥へと連れて行った。
✳✳✳
「……旅人さんは大丈夫なの?」
自分の部屋に戻り、文机の横に腰を下ろすと、お供え物を物色しているカタクリに尋ねた。
私が部屋に戻る直前、彼は「ちょっと様子を見てくる」と言って旅人のところへ向かっていたのだ。
「無理に下山しようとして神社から出られなくなっていた。……多分、大丈夫だろう」
カタクリはお供え物の干し柿をもぐもぐと頬張りながら、いつものように素っ気なく答える。
……それって、本当に大丈夫と言えるのだろうか?
微妙に噛み合わない彼の答えに、私は苦笑いするしかなかった。
「お前も食うか?多少腹は膨れる」
「私は大丈夫」
「そうか」
カタクリは差し出していた干し柿を巾着の中に入れた。巾着には銀色の糸でヤマイヌの刺繍が施されている。
私はさっき夕餉を食べたばかりだし、何より緊張で胸がいっぱいで、お腹なんて空いていない。
「さて……お前も分かっている通り、お前が外を出歩くことを歓迎する奴はいないよ」
「うん……」
「まずは明日の用意でまだ残っている神職達を帰すんだ。そうしないと社から出ることもできないだろう。……余計なこと言うなよ」
「うん、気をつけるよ」
(余計なことを言わないように気をつけないと)
胸の鼓動が早くなるのをごまかすように、自分の身なりに視線を落とす。
真っ白な白衣から覗く椿の花のような深紅色の掛衿。下は同じ色の緋袴、上には千早と呼ばれる羽織を被っている。
そのままでは可愛くないからと、千早にはところどころ髪飾りと同じ花の装飾が施されているが、白と赤を基調としたこれは巫女装束と呼ばれる服装だと、昔カタクリが言っていた。
肩まで伸びた黒髪は、軽く結っている。
そこに飾っているのは、夕焼け色の花の髪飾り。七歳の誕生日に、カタクリが贈ってくれたものだ。
何の花かは分からないけれど、可憐で温かみがあって、私の一番の宝物だった。
逃げ出す時も、これだけは絶対に持って行こうと心に決めている。
深く呼吸を整え、文机の上に置いてあった赤い紐が付いている鈴を手に取った。
チリンチリンと澄んだ音を響かせて、一人の若い巫女を呼び寄せる。
「生き神様、いかがされましたか」
「あの、明日の準備が済んだのなら今日はもう、みんな村にお帰りください」
「はい。わたくしめ、明日の確認を済ませてから帰らせて頂きます」
巫女は深く深く頭を下げると、祈りを捧げるように両手を胸の前で固く重ね合わせた。
「生き神様、どうか末永くこの村をお守り下さい」
「……はい」
胸の奥が痛みにきしむ。
偽りの返事が、喉の奥につっかえて上手く声にならない。
巫女はもう一度一礼し、静かに部屋を後にした。
足音が廊下の奥へと消えていく。
その音が完全に聞こえなくなるまで、私は息をひそめてじっと待っていた。
「本当に……いいのかな」
思わず口をついて出た言葉に、カタクリは小さく息を吐いた。
「ここに残るか?お前の意志で決めたのなら、オレは構わない」
「……」
「よく考えるんだ。時間はまだある、急いで決めるものでもないよ」
その言葉に、私はぎゅっと着物の袖を握りしめた。
「私、私は……ここに残るべきだって思う。そのために生まれて、そのために育てられてきたから。でも……外の世界を見てみたい気持ちはやっぱり変わらないよ」
「そうか。……念のため、神職達が本当に全員帰ったか見てくる。お前はここで待っていろ」
カタクリの足音が静かに遠ざかり、広々とした部屋には私ひとりが残された。
ひんやりとした文机におでこを押しつけるようにして突っ伏し、目を瞑って思考の海に沈む。
『生き神様、どうか末永くこの村をお守り下さい』
さっきの巫女の言葉が、頭の中で何度も響く。
村人達の顔が浮かぶ。
豊作を喜んで涙を流していたおじいさん。無事に子供が生まれたと嬉しそうに報告に来た若いお母さん。私を神様だと信じて、疑うことなく手を合わせていた幼い子供達。
あの期待と安堵に満ちた笑顔を思い浮かべるたび、胸がギューッと握りつぶされるように締めつけられた。
もしも私がこの山を去ったら、どうなるのだろう?
明日からの神託は絶え、村人達は道標を失う。長年当たり前に存在していた守り神が消え去ったとき、村を包むのは激しい混乱と絶望に違いない。
自分達を裏切り、捨て去った私に対して、彼らは深い呪詛の言葉を吐くだろのだろうか。あるいは、生き神を失った村に災いが降りかかることを恐れて、震え上がることになるのだろうか。
そう思うと、差し出された自由への鍵が、ひどく重いものに思えた。
(私は……みんなを裏切ってまで外に行きたいなんて、本当に、自分勝手なのかな)



