生き神様は籠の鳥

かつて、この山に土地を守る月峰神(つきみねがみ)がいたという。

その神は『懸けましくも畏(かしこ)き神』として恐れられ、同時に麓(ふもと)の村人達から深く途切れることのない信仰を集めていた。

その村ではごく稀に、人の身でありながら神の声をキくことの出来る少女が生まれた。

血筋の導きか、はたまた神の気まぐれな恩寵(おんちょう)か。人の身に宿るその異才(いさい)は、厳しい自然と共に生きる村にとって、何物にも代えがたい宝であった。

『ああ、稀代(きたい)の宝だ』
『ようやく現れた生き神様だ』

村の人々は涙を流して歓喜した。

その少女は神の御心(みこころ)を聞き受け、村に神託(しんたく)として授けて人々を導いた。

少女の口から発せられる言葉は、神そのものの意思であった。少女の神託に従った年は必ず豊作となり、災害も免れる。

故に村では、その神の子を『生き神』と呼び、月峰神と共に崇めたのだという―――。

幼くして人の理(ことわり)から外れることになった彼女は、神職や村人によって蝶よ花よと大切に育てられ、いつしか十四の可愛らしい娘に育っていた。


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神の声をキき、人々に届ける。
​それが私の、生き神として生まれた者の使命だ。

​私――アンズは、物心がついた時から神の声がキこえていた。生まれてから一度もこの社(やしろ)の外へ出たことがないから、私は外の世界のことをほとんど知らない。

​『境内から一歩でも出れば、神の加護は失われ、災いが降りかかる』

​大人達は口を揃えてそう言う。その言葉に込められた圧倒的な恐怖と崇拝の重みに、私はいつも小さく頷くことしかできなかった。

だから、朱色の鳥居で切り取られたこの社と境内だけが、私の知る世界のすべてだ。

毎朝、伝えられた神託を聞いた村の長(おさ)は、深々と頭を下げて退出していく。

村人達の安堵(あんど)した表情を見るたび、胸の奥が温かくなる。

私の言葉ひとつで、あの人たちの暮らしが守られる。私の存在が、みんなの幸せに繋がっている。

この身に宿る特別な力は、確かに村の命運そのものだった。ここにいることには意味があるのだと、そう思いたかった。
自分がただの飾り物ではないのだと、自分自身に言い聞かせたかった。

​けれど、境内の向こう側へと去っていく人々を見送るたび、心のどこかで冷たい風が吹き抜けるのも事実だった。

あの鳥居の向こうには、一体どんな世界が広がっているのだろう?

​昔、神職の人が持ってきてくれた古めかしい本に載っていたような、聞いたこともない鮮やかな花が咲いているのだろうか。
海と呼ばれる、果てしなく続く大きな水たまりがあるというのは本当だろうか。
ここから見上げる狭い空ではなく、見上げるのが怖くなるくらい、どこまでも果てしなく広い空があるのだろうか。

生き神様ではなく、ただの『私』として立ち寄れる場所がどこかにあるのだろうか。

羨ましさと、それを望んでしまう自分への罪悪感がいつも胸の中で渦巻いていた。
​
「ねぇ、カタクリ。村の人はどうして、私をここから出してくれないのかな」

​私は畳の上に抱え込んでいた膝に顎(あご)を乗せ、傍らで分厚い古書を開いていた銀髪の少年――カタクリに視線を向ける。

ずっと一緒にいてくれて、私の身の回りの世話をしてくれる彼もまた、外の世界を知らない。それなのに、彼はいつだって私には見えない遠くを見つめているような気がしていた。

​カタクリは読破したばかりの本をパタンと閉じ、静かに私を見た。

​夕闇が差し込む部屋で、その黄色の瞳の奥には影のような深い静けさが宿っている。

​「もしも……もしもね。私がただの女の子だったら、あの鳥居の向こうを歩けていたのかな」

​ぽつりと零れ落ちた言葉は、誰に向けたものでもない私の小さな戯言(たわごと)だ。言ったところでどうしようもない、叶うはずのない虚しい問いかけ。

もし私が神の声なんて聞こえない、どこにでもいる普通の女の子として生まれていたら。

朝起きて、自分で選んだ服を着て、家族と一緒にご飯を食べて、友達とおしゃべりをしながら野原を駆け回る。
そんな、当たり前の日常が私にもあったのだろうか。
そんな考えても仕方ないタラレバを最近はふと考えてしまう。

カタクリはすぐには答えなかった。ただ、静まり返った室内で、じっと私の目を見つめている。

その沈黙が少し怖くなって、私は慌てて言葉を重ねた。

自分自身の浅ましい欲望を突きつけられるのが恐ろしかった。

「私、この山もこの土地も好きだよ。みんなの役に立てるのも嬉しい。でも……」

それは確かに本心だった。けれど、言いながら自分の声がかすれていくのが分かった。

​胸の中にずっと溜め込んでいた、言葉にしてはいけないはずの小さな願望が、一度溢れると止められずポロポロとこぼれ落ちそうになる。
外を歩いてみたい。自分の足で、どこまでも。

「アンズ。……ここから出たいか?」

その問いに、私は言葉を詰まらせた。何を言っているの?ここから出るなんて、そんなこと――。

「お前が本当に望むというのなら、オレはどんな手段を使ってでも力を貸してやる」

「っ……え?」

​カタクリの言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

いつも感情を表に出さず、ただ静かに私の傍らにいた彼が、まっすぐな瞳で私を見つめている。

「一度出れば、戻ることは許されない。それでも出たいか」

自分の胸に問いかけてみる。

怖さはあった。でも、それ以上に鳥居の向こうを見たいという想いが確かに熱を帯びていた。

「……うん」

「分かった」

​絞り出すような私の声に、カタクリの返答は呆気ないほど短かった。

「明日になれば村人が旅人を連れて来る。それまで待っていろ」

​旅人。
その言葉に、私はハッとした。
この土地に足を踏み入れた旅人には、神託を授ける決まりがある。

旅人に神託を授けるのはいつぶりだろう?確か前回は私がうんと幼い頃だった気がする。

​そしてもし、その旅人が山に招かれた『マレビト』であった場合、神職達は社を離れ、それぞれの家にこもって身を清める『潔斎(けっさい)』を行わなければならない。
汚れを恐れ、神の怒りを鎮めるための厳格な儀式。
―――つまり明日は、社を囲む神職や村人達の監視が最も薄くなる、唯一無二の日だった。

​​カタクリは、いつから気づいていたんだろう。私が本当は外に出てみたいと願っていたこと。そして、この日の訪れを。

それにしても……

「その柑橘(かんきつ)どうしたの?」

「さっき実っていたやつを取ってきた」