梨歩にプロポーズをした日の晩。
俺は、宿泊先のホテルの部屋でなかなか寝付けずにいた。
プロポーズが成功した高揚感からだろうか。
世の男たちは、この瞬間のためにいろいろと下準備やシチュエーション、タイミングを考えて、一世一代と張り切る。
昔の俺なら、そんなものは必要ないとか、そもそも結婚すら考えていなかった。
(人生、何が起こるかわからないものだな)
そう思った時だった。
仄暗い部屋の片隅から、僅かに乾いた物音がした。
開けた覚えのない窓の隙間から、夜風が流れ込む。
そして、夜風に運ばれた桜の花びらが一枚。
一枚だけ、蝶が舞うようにひらひらと浮遊した後、俺のヴァイオリンケースの上に着地した。
俺が花びらに触れようとした瞬間、それはたちまち白い光に包まれた。
「何だ……?」
*
これは、夢か。
あたりは白一色。
先程、俺がいた場所ではない。
どこまでも無機質な空間。
時間の流れも感じられない。
それなのに。
何故か、風が僅かに吹いているのを感じた。
そして、桜吹雪。
遠目に、人影が現れた。
「誰だ」
返事はないが、徐々に近づいてくる。
次第に鮮明になっていく、一人の男の姿。
俺と同じ歳くらいの、冴えない男。
無造作に伸びた前髪の隙間から覗く男の目だけは、どこか揺るぎない芯の強さを感じた。
そして。
――君が、亞紗斗くんか?
その男は、俺に言った。
「何故、俺の名を……」
そう言いかけて、俺は悟った。
彼と面識はない。
だが、このタイミングで俺の前に現れたとするなら、俺ではなく梨歩に関係のある人物だろうと、俺は推察した。
そう考えた瞬間――たった一人だけ、思いあたる人物がいた。
「まさか……涼平、なのか?」
――さすが。察しがいいね。
涼平。
梨歩が、決して忘れることのなかった男。
この男が。
――亞紗斗くん。
「何だ」
――ありがとう。
「何がだ」
――――。
無言。
「おい」
――ぷっ。
「何故笑う」
――ごめん。あまりに俺とタイプが違いすぎるから。
「それが何だ」
――梨歩が、君を選んだのが不思議だったけど。
涼平は続ける。
――君だから、選んだんだなって思って。
「どういう意味だ」
――こういう意味だよ。
涼平は、小さなキャンバスを差し出した。
そこに描かれていたのは、抱き合う俺と梨歩。
そして、梨歩の左手の薬指には、桜の指輪と、俺が贈った指輪が重なって光っていた。
――すごく、かっこ良かった。君のプロポーズ。
「見ていたのか」
――うん。
「それは、いつ描いたんだ」
――見ながらだけど。
写真と見紛うほど緻密で、繊細な筆遣い。
そういえば、彼は美大生だったか。
あの、月ヶ丘美術大学――精鋭中の精鋭が通うと言われている、プロ顔負けの学生が多いと聞いたことがある。
なるほど。彼も、そのうちの一人だったらしい。
「……すごい才能だな」
――ありがとう。
「それで、俺に何の用だ」
――用なら済んだよ。
「なら帰れ」
――え、冷たくない?
「ならそこにいろ」
――まあ、あまり時間ないから長居はできないけど。
「ならとっとと済ませて帰れ」
一体何がしたいのか、俺には理解できなかった。
――この絵、記念にあげるよ。
「そうか」
――俺からの、結婚祝い。いや、プロポーズ記念か? うーん……
「とりあえず、もらっておく」
――あ、梨歩には秘密にしてくれると助かるんだけど。
「何故だ」
――梨歩には一度、死んでから会っているんだ。
「なら別に問題ないだろう」
――あの別れの時の余韻を、無駄にしたくないから。
「何だ、その妙なこだわりは」
妙なところにこだわる性格が、彼の絵にも少なからず表れているのだろうか。
改めて見ると、線の一本一本にまで神経が行き届いている。
観察力だけでは補えないほどの、精巧な筆遣い。
相当な技量を持っていたのだろうと感じた。
――とにかく、これは俺と君の秘密だ。口外したら、化けて出るから。
「好きにしろ」
――ああ、待って! 冗談だから。
「どこからが冗談だ」
――化けて出るってとこ。
「梨歩に今のこのやりとりを話すな、というのは本気か」
――うん、それは本気。
「まあ、お前が本気を出したところで、何も変わらないと思うがな」
――梨歩が騒ぐと思うよ。「涼ちゃんに会ったの!? それいつ? どこで? 何時何分何秒?」って。
「…………確かに、言いそうだな」
この瞬間、涼平は本当に梨歩の隣で生きてきたのだと悟った。俺の知らない梨歩を、この男は知っている。そう思うと、少しばかり妬けてしまう自分がいることに気づいた。
――亞紗斗くん。
「何だ」
――俺の指輪まで、受け入れてくれてありがとう。
「別に、お前を受け入れたわけじゃない」
――それでも、ありがとう。
涼平の体が透け始めた。
――あ、もう時間だ。それじゃ、亞紗斗くん。梨歩のこと、よろしくお願いします。
「ああ」
――末永く、お幸……せ、に……
消えた。
そして、気がつけばホテルの部屋の中。
夢、だったのだろうか。
いや。
俺の手には、涼平から受け取ったキャンバスが。
「あいつ……」
すると、急に文字が浮かびだした。
――Happily ever after――
彼に託された、この夢の続きを。
今度は俺が、描いていこう。
俺はそっと、キャンバスをヴァイオリンケースの隣に置いた。
俺は、宿泊先のホテルの部屋でなかなか寝付けずにいた。
プロポーズが成功した高揚感からだろうか。
世の男たちは、この瞬間のためにいろいろと下準備やシチュエーション、タイミングを考えて、一世一代と張り切る。
昔の俺なら、そんなものは必要ないとか、そもそも結婚すら考えていなかった。
(人生、何が起こるかわからないものだな)
そう思った時だった。
仄暗い部屋の片隅から、僅かに乾いた物音がした。
開けた覚えのない窓の隙間から、夜風が流れ込む。
そして、夜風に運ばれた桜の花びらが一枚。
一枚だけ、蝶が舞うようにひらひらと浮遊した後、俺のヴァイオリンケースの上に着地した。
俺が花びらに触れようとした瞬間、それはたちまち白い光に包まれた。
「何だ……?」
*
これは、夢か。
あたりは白一色。
先程、俺がいた場所ではない。
どこまでも無機質な空間。
時間の流れも感じられない。
それなのに。
何故か、風が僅かに吹いているのを感じた。
そして、桜吹雪。
遠目に、人影が現れた。
「誰だ」
返事はないが、徐々に近づいてくる。
次第に鮮明になっていく、一人の男の姿。
俺と同じ歳くらいの、冴えない男。
無造作に伸びた前髪の隙間から覗く男の目だけは、どこか揺るぎない芯の強さを感じた。
そして。
――君が、亞紗斗くんか?
その男は、俺に言った。
「何故、俺の名を……」
そう言いかけて、俺は悟った。
彼と面識はない。
だが、このタイミングで俺の前に現れたとするなら、俺ではなく梨歩に関係のある人物だろうと、俺は推察した。
そう考えた瞬間――たった一人だけ、思いあたる人物がいた。
「まさか……涼平、なのか?」
――さすが。察しがいいね。
涼平。
梨歩が、決して忘れることのなかった男。
この男が。
――亞紗斗くん。
「何だ」
――ありがとう。
「何がだ」
――――。
無言。
「おい」
――ぷっ。
「何故笑う」
――ごめん。あまりに俺とタイプが違いすぎるから。
「それが何だ」
――梨歩が、君を選んだのが不思議だったけど。
涼平は続ける。
――君だから、選んだんだなって思って。
「どういう意味だ」
――こういう意味だよ。
涼平は、小さなキャンバスを差し出した。
そこに描かれていたのは、抱き合う俺と梨歩。
そして、梨歩の左手の薬指には、桜の指輪と、俺が贈った指輪が重なって光っていた。
――すごく、かっこ良かった。君のプロポーズ。
「見ていたのか」
――うん。
「それは、いつ描いたんだ」
――見ながらだけど。
写真と見紛うほど緻密で、繊細な筆遣い。
そういえば、彼は美大生だったか。
あの、月ヶ丘美術大学――精鋭中の精鋭が通うと言われている、プロ顔負けの学生が多いと聞いたことがある。
なるほど。彼も、そのうちの一人だったらしい。
「……すごい才能だな」
――ありがとう。
「それで、俺に何の用だ」
――用なら済んだよ。
「なら帰れ」
――え、冷たくない?
「ならそこにいろ」
――まあ、あまり時間ないから長居はできないけど。
「ならとっとと済ませて帰れ」
一体何がしたいのか、俺には理解できなかった。
――この絵、記念にあげるよ。
「そうか」
――俺からの、結婚祝い。いや、プロポーズ記念か? うーん……
「とりあえず、もらっておく」
――あ、梨歩には秘密にしてくれると助かるんだけど。
「何故だ」
――梨歩には一度、死んでから会っているんだ。
「なら別に問題ないだろう」
――あの別れの時の余韻を、無駄にしたくないから。
「何だ、その妙なこだわりは」
妙なところにこだわる性格が、彼の絵にも少なからず表れているのだろうか。
改めて見ると、線の一本一本にまで神経が行き届いている。
観察力だけでは補えないほどの、精巧な筆遣い。
相当な技量を持っていたのだろうと感じた。
――とにかく、これは俺と君の秘密だ。口外したら、化けて出るから。
「好きにしろ」
――ああ、待って! 冗談だから。
「どこからが冗談だ」
――化けて出るってとこ。
「梨歩に今のこのやりとりを話すな、というのは本気か」
――うん、それは本気。
「まあ、お前が本気を出したところで、何も変わらないと思うがな」
――梨歩が騒ぐと思うよ。「涼ちゃんに会ったの!? それいつ? どこで? 何時何分何秒?」って。
「…………確かに、言いそうだな」
この瞬間、涼平は本当に梨歩の隣で生きてきたのだと悟った。俺の知らない梨歩を、この男は知っている。そう思うと、少しばかり妬けてしまう自分がいることに気づいた。
――亞紗斗くん。
「何だ」
――俺の指輪まで、受け入れてくれてありがとう。
「別に、お前を受け入れたわけじゃない」
――それでも、ありがとう。
涼平の体が透け始めた。
――あ、もう時間だ。それじゃ、亞紗斗くん。梨歩のこと、よろしくお願いします。
「ああ」
――末永く、お幸……せ、に……
消えた。
そして、気がつけばホテルの部屋の中。
夢、だったのだろうか。
いや。
俺の手には、涼平から受け取ったキャンバスが。
「あいつ……」
すると、急に文字が浮かびだした。
――Happily ever after――
彼に託された、この夢の続きを。
今度は俺が、描いていこう。
俺はそっと、キャンバスをヴァイオリンケースの隣に置いた。



