まほろばストレンジ〜あなたの|未来《アヴニール》に介入します〜

ある日、リーダーである暁さんとご飯に行くことになった。
いつも姉さんと一緒だから二人きりは少し緊張する。

「急に呼び出してすまないね」

「いえ」

「好きなの頼んでいいよ」

「ありがとうございます」

ハイボールで乾杯するも、うまく喉が通らない。

「MIYABIから訊いたよ。一緒に住むことになったんだって?」

「すみません」

「謝らなくていいんだ。出会って恋に落ちるのは素敵なことだからね」

「彼女の過去、知ってるかい?」

そういえばあまり深く訊いたことがなかった。
僕自身、過去を掘り下げられたくないタイプから彼女のこともあえて訊かないようにしていた。
彼女の過去を訊こうとすればこちらの過去も話さないといけない。
その結果、大切な人が僕のそばから去っていくのがこわかった。

「実はね、彼女からお願いされたんだ」

いつか自分の過去を話さないといけない。
そう思っていたが勇気とタイミングが出なかったから暁さんから伝えてほしいとお願いされたらしい。

「君にとっても辛い話になるけどいいかい?」

ジョッキいっぱいだった氷は半分ほどになっている。
少し薄くなったハイボールをぐびっと飲む。

「はい」

未灼妃にはお兄さんがいる。といっても血はつながっていない。
父親の前妻の子で、年齢も一回り以上離れている人だから親戚のお兄ちゃんみたいな感覚だったらしい。
いつも遊びに付き合ってくれる優しいお兄さんのことが彼女は大好きだった。そのころの彼女は天真爛漫(てんしんらんまん)な子で暑い日も寒い日も外を駆け回るような子だったらしい。
そんな彼女が小学生のとき、事件が起きた。
未灼妃に対する猥褻(わいせつ)行為。
いつもニコニコしていて優しい印象だったお兄ちゃんが学校の帰り、彼女の風呂上がりを襲った。
あまりに突然のことで彼女は事態を把握するのに時間がかかった。そのため、事の重大さに気づいたのはすべてが終わってから。
彼女の『はじめて』は血のつながっていない兄による暴行。それは僕の父さんが捕まったときと同じ暑い夏の日だった。だから彼女は突然距離を詰められると怯えたような態度をする。初顔合わせでおしぼりを渡そうとしたとき、胸を抑えて震え出す原因はそれだった。
その後、兄は捕まったが、十年経って出所した。未灼妃に二度と会わないことを条件に。
いまどこで何をしているのか知らないらしい。いや、知らなくていい。知ったところで彼女の傷が深くなるだけ。
身も心も深い傷を負った彼女が唯一救われていたのが音楽。たまたま耳にした曲が冷たく凍える孤独感から解放してくれたという。
音楽。それだけが一ノ瀬 未灼妃の存在意義だった。
自分だけだと思っていた。でもこんなに近くにいた同じ境遇の人。しかも僕よりもずっと生きる力に変えている。癒えない傷を背負いながらも前を向く未灼妃がとても眩く美しく見えた。
掘り起こすことができないくらい深い傷を負った人ほど誰かのぬくもりを求める。でもそれを出すタイミングが見つからない。ここだ。って思っても踏みとどまってしまうんだ。その後のことを考えるとこわくて仕方ないから。
たった一度のことで人生を台無しにする。
やり直し期間をもらえるとはいえ、加害者であることに変わりはない。被害者は一生消えない傷を負う。
僕と同じように家族の過ちによって拭いきれない心の傷を背負う人がたくさんいる。
姉さんがいなかったらきっと死んでいた。
被害者にも加害者にもなりたくないが、こればかりは自分の意思でどうこうできる話じゃない。
いまも父親のことは受け入れられない。あの日から一度も面会に行っていないし、手紙も返していない。
謝罪の手紙は僕たち家族じゃなく遺族の方たちだけでいい。
僕も姉さんも彼によって人生を狂わされた。
恨んだところでどうにもならないのはわかっている。
でもそうしないと心の置き場所がないんだ。

「たしかにきみのお父さんは加害者だ。でも、樟大くんの人生は樟大くんにしかないし、誰かに決められるものじゃない。被害者からしたら加害者の家族も加害者と思うかもしれない。でも維澄さんのように生きる必要もない。どう生きるかは君の自由だ」

暁さんの言葉は深く傷ついた心を優しく包み込んだ。
そして、残り少ない珈琲を飲み切ると、口を開いた。

「維澄さんが引っ越さない理由知ってるかい?」

以前、この家の更新時期がやってきたときに話したことがある。
立地の良い場所やタワマンに住むとかそういった理想がないって言っていた。
普段はあまり家に帰ってこない人だから、帰ってきても寝泊まりするだけのことが多い。
スケジュールはすべて共有のアプリに入れてリマインドをかけているから日々の業務に問題はない。
曲作りのときはスタジオに籠(こも)っているし、僕らが一緒に行動するのは打ち合わせのときやイベントのときくらい。

「樟大くんのためだよ」

僕のため?

(あの子って豆腐メンタルだし、考え込んでそこから抜け出せなくなるタイプなの。嫌なことがあるとその記憶が蘇ってしまって人間関係を閉ざしちゃうの。あの事件のことをずっと引きずっていて、不定期に蘇ってきては重たい扉を閉めちゃうの。私たちの仕事って不安定じゃない?だからいまのうちに貯めておけば万が一のときにあの子が困ることはないと思うの)

姉さんは僕の将来のために貯金を?でもそれじゃあ姉さんの幸せはどこに?
姉さんが家に帰ってきていた。
ブラックコーヒーを飲みながらスマホをいじっている。
こんな姿を見たのは久しぶりでちょっと驚いた。

「おかえり」

「ただいま。この時間に家にいるなんて珍しいね」

「この前、企業からネット広告で作曲の依頼が来てたでしょ?あの件ですり合わせする予定だったんだけど、先方が体調不良になってキャンセルになったのよ」

コーヒーを飲み、スマホを机に置くと、こちらを見ながらこう言ってきた。

「樟大、アシスタントやめなさい」

急になんだよ。

「そろそろ安定した収入を得た方がいい」

でも、べつにやりたい仕事なんかないし。

「この仕事は安定しない。いまはこうしてたくさん仕事をもらえているけど、急になくなることもある」

「姉さんは僕が邪魔なの?」

全力でサポートしてきたつもりだった。
どんなに大きな羽があっても踏み込むだけの足がなければ空は飛べない。
僕は朝比奈 維澄という鳥の羽になったつもりだったし、これからもそのつもりだった。

「未灼妃ちゃんと一緒に住むってことはあの子の人生も背負うってことでしょ?だったらちゃんと支えてあげなさい」

「それとこれとは話が違うじゃん」

「一緒よ。私はね、アキも未灼妃ちゃんも大切なの。二人とも幸せになってほしいの。そのためには安定した収入が必要よ」

あの事件があって以降、姉さんはより働くようになった。昔のように『死事人間』ではなく『志事人間』として。
それは僕に少しでも苦労させないように身を削ってくれていた。
自分の幸せよりも家族の幸せ、きっと母さんもこんな人だったのかな?

「中途半端な付き合い方をして彼女を不幸にしないでほしいの」

僕たちが幸せになる権利なんてないって思っていた。そんなことをすれば被害者のご両親がどう思うかわからないから。でも暁さんに言われて自分も幸せになる権利があるって知った。そして自分が幸せになることと同じくらい幸せにしたいと思える人に出会った。
ファイブフラクタルは姉さんにとっても特別な存在だろう。
一緒に切磋琢磨(せっさたくま)してきた大事な仲間。そのメンバーと付き合う以上、幸せにする義務がある。
姉さんってけっこう義理深い人なのだと気づいた。

「就職活動は手助けする。だから私のアシスタントは今日でおしまい」

勝手に決めないでくれ。そう叫ぼうと思ったが、自分が思っていたよりも切り替えは早かった。
姉さんは誰よりも僕の幸せを願っていたことを知ったから。
後日、就職活動をはじめた。
人生ではじめてリクルートスーツを着て、履歴書を書いて面接を受けた。
やりたいことなんてない。でも姉さんの言うとおり一緒に住むってことは彼女の人生を背負う必要があるし、覚悟だけじゃ何も変わらない。誰かを幸せにするにはそれなりの力がいる。
高校を中退した理由は絶対に聞かれるから練習していたけれど、実際に聞かれるとやっぱり辛い。
これが生きるということ。これが大人への道だということなのだろう。
輝く未来なんて僕にはない。父さんと同じようなスーツの人を見るたびに思い出すし、姉さんのように強くない。けれど、ファイブフラクタルのメンバーに出会って生きる目標ができた。
姉さんの作った曲とSATORUさんの書いた歌詞、IZUMIの歌声は人の心を動かす。何より、未灼妃という心を許せる人に出会えたことが一番だった。
裏から誰かを支えることがこんなにも楽しいなんて。

「俺が言うのは違うかもしれないけど、MIYABIのこと幸せにしてあげてほしい。あの子は大事な仲間であり、俺たちの妹みたいなものだから」

暁さんから言われた言葉が蘇る。姉さんだけじゃない。暁さんの思いも含めて僕は未灼妃を幸せにする。
結局就職活動はやめた。
姉さんの気持ちは嬉しかったけれど、気持ちの乗らない表面上の面接では面接官に届かない。それに、僕はいまこうして姉さんを支えていることが幸せなんだ。
たしかに収入は安定しない。でも僕は誰かを影で支えるのが好きで、姉さんがこうして忙しいおかげでご飯を食べていけている。
その意志を伝えてもう一度アシスタントとして働くことになった。
将来のことは彼女と二人で歩んでいけばいい。
一歩一歩少しずつ。

**

未灼妃と付き合ってからずっと隠していたことがある。
我が家の闇だ。
本当のことを言ったら離れていってしまう。
もしかしたら他の誰かのところに行ってしまう恐怖だってある。でも話すべきだと思った。
僕だけ相手の過去を知っているのはアンフェア。それに直接伝える義務があると思ったから。そんな恐怖と隣り合わせだったからずっと潜めていたが、彼女と過ごしていくうちに見えてくる未来を失いたくない。
大事なことを隠しているのは違うと思った。

「樟大どうしたの?」

口に出そうとするとあのときのことが鮮明に蘇ってくる。
心臓の鼓動が呼応し全身の震えへと伝播(でんぱ)する。

「具合悪いの?」

心配そうに見つめる彼女を安心させたいという思いと、真実を口に出すことで幻滅とこの恋の終焉(しゅうえん)を迎えてしまうのではないかという恐怖でさらに口を紡(つむ)がせる。

「病院行く?」

「ずっと黙っていたことがあるんだ」

平凡な日常が一夜にして崩れたあの日のことを曝け出した。
こうして一緒にいられるのももしかしたら今日で最後かもしれない。
そう思ったらどんな顔をしているのかこわくて彼女の目を見られなかった。
でも伝えなきゃいけない。
彼女と一緒にいたいと思っているから。
しばらく間があった後、ぎゅっと手を握ってくれた。

「……話してくれてありがとう」

顔を上げると彼女の瞳には光るものがあった。

「辛かったね、ずっと頑張ってきたんだね」

その言葉に唇が震えている自分に気づく。
長い間溜まっていたものが飛び出してきそうだ。

「私ね、樟大は強くて優しい人だと思うの」

強くて優しい?僕が?

「だって、こんなに辛い経験したのにこうして立ってる。誰かを恨んだりしないで前に進もうとしてる」

あの事件以降何度も目を閉じて現実逃避していたけれど、僕らは立つしかなかった。屹立(きつりつ)するほどにはまだ至らないけれど、それでも腰を上げることで命を繋いでいた。
人生、生きるか死ぬかの二択しかない。姉さんがいなきゃきっと生きていられなかっただろう。

「私が同じ境遇だったら引きこもって世の中を恨むもの」

世の中を恨んだ。
父さんを恨んだ。
人を殺して家庭を壊して母さんも殺したあの人を。

「私が樟大の支えになる。だから辛くなったらこうして手を握っていて」

姉さん以外の人の前ではじめて泣いた。
声が枯れるまで泣き続けた。
こんなの誰にも言えない。
朝比奈 樟大という人間を受け入れ包み込んでくれた。
だからここに誓う。
一ノ瀬 未灼妃を幸せにするって。

**

涼しいを通り越して寒いと感じる夏の夜風を浴びながらも身体の中はぽかぽかしていた。家に帰ると未灼妃がご飯を作ってくれていた。僕が大好きなチーズハンバーグとマッシュポテト。それにアボカドを使ったサラダもあった。未灼妃の作る料理はいつも美味しい。
一人暮らしをはじめてから料理にハマっていた時期があり、こうして時間があるときは手料理を振る舞ってくれる。

「いつも美味しい料理ありがとう」

「樟大ってちゃんと口に出してくれるから嬉しい」

ある日を境に想いを口に出すことができるようになった。もちろん本音の半分も言えないし、言葉も拙(つたな)い。でも以前みたいに心の中に沈めて押し殺すことはなくなった。いつからかはわからないけれど、気持ちを言葉にするってこんなにも大切で素敵なことなんだと気付かされた。
ご飯を食べ終え、二人ソファに並んで録画していた恋愛ドラマを見ていた。中盤のなんてことないシーンを見ているときだった。
どうしてだろう。
いつもなら考えて考えて話すのに、口が先に開いていた。

「なあ未灼妃」

「ん?」

「こんな僕だけど一緒にいてくれない?」

「それ、プロポーズ?」

クールな顔を崩してこっちを見た彼女は少しいたずらめいていたように見えた。

「え?うん、まぁ」

「樟大らしいね」

「どういう意味?」

「相手に気を遣いすぎてうまく言葉にできない不器用なとこ」

本当そうだ。プロポーズと呼ぶには程遠い拙い言葉。僕はこういうときいつも期待外れなことをする。ことごとくクラムジーだと思う。

「でもね、そういうところが好きなの」

「え?」

「誰かの期待に応えようと必死になるのにいつも空回りするところ」

「褒められてる気がしないんだけど」

「ううん、そんな樟大がいいの。饒舌(じょうぜつ)に述(の)べた薄っぺらい言葉なんて結局相手を不快にするだけ。不器用でもその言葉に偽りはなくてさ、相手のことを常に考えられる根っからの優しさを持つ樟大が私は好きなの。愛想もないしオブラートに包むってことできないこんなありのままの私を抱きしめてくれるのは世界中であなただけだから」

いつになく真剣な表情でそう言う未灼妃を見て、いつまでもネガティブ思考な自分じゃダメだとようやく気づく。
こんなにも想ってくれて理解してくれる人が傍にいるのだから。

「それにさ、欲しい理想を並べてもキリがないしね」

「なんかミュージシャンっぽいこと言うね笑」

「一応ミュージシャンなんだけど笑」

二人目を合わせくすくすと笑う。
僕たちは笑うタイミングが同じ。これが居心地良くて淀んだ心が清らかになる瞬間。

「私ね、音楽以外やりたいことなかった。音楽以外信じられるものがなかった。いや、本当は信じたいけどそれができなかったのかもしれない。でもようやく出会えた。信じられる人に。樟大に」

僕が彼女を変えたなんて大袈裟かもしれない。
でもそう思ってくれているだけで僕の存在意義がある気がした。

「これから『朝比奈』って名乗る練習しておかなくちゃね笑」

少し照れた様子でそういう彼女に頭の中で想像が巡る。
一ノ瀬から朝比奈に変わるというのはどういう感覚なのだろう。
嬉しいのだろうか?それとも寂しいのだろうか?もしかしたら半々かもしれない。いずれにしても世界中から僕を選んでくれたことを嬉しく思うし、頼りも幸せにしなきゃいけないと意志を強くする。
横目に見ると喜びを噛み締めているように見えた。

「未灼妃」

「ん?」

「明日、役所行こう」

「うん」

しばらく見つめ合うと、自然と顔を寄せ合いキスをした。

「お風呂入ってくるね」

ー翌日、右手に婚姻届、左手に彼女のぬくもりを感じながら役所に提出し、晴れて僕らは夫婦になった。出会ってから七年の月日が経っていた。
未灼妃と結ばれることになったのは必然なのか偶然なのかわからないが、この世界に生きていて本当に良かったいまと思う。
何度も諦めようとした『生きる』ということ。でもいまはこうして喜びを分かち合える人がいる。
恋愛って本当に不思議だ。
赤の他人が恋に落ち、赤い糸で結ばれる。
世界中でそれが行われ命と命が繋がれていく。
環境に恵まれず、歪んでしまった心。
まっすぐな心で包み込んでくれたことでそれを取り戻してくれた。
きっと僕と同じような境遇の人がいて、もしその人と出会うことがあればこう伝えたい。
たまに思うんだ。
もし普通の家庭で育っていたらこんなに苦しまなくていいんだろうなって。でも、この経験があったから出会えた人もいて、痛みを知って臆病な自分から抜け出せた。
人生は誰かによって左右されるが結局は自分だけのものだから。
歩幅は人それぞれだから自分なりの生き方でいい。

**

人には心がある。
その心が壊れればそのつないできた命を絶たれてしまう。
人には感情がある。
それによって望まぬかたちで失う命もある。
それが他人によってだったり自らだったりするけれど、残った命は失った命の分まで背負わなくてはいけない。
でも生きることを諦めてはいけない。
僕は最近そのことを強く感じた。
姉さんだけじゃない。
暁さんやファイブフラクタルのメンバー。そして愛する人。
自分のことを愛してくれる人が身近にいるんだ。そのすべてをつなげてくれた場所があった気がするが全く思い出せない。思い出そうとすると頭の奥がキーンと痛む。
母さんの記憶と同じように。
それでもいまの僕は守りたいと思える人、心を許せる人にようやく出会えた。
いままでのことを考えるとこんなに幸せなことはない。
誰かのために生きようと思える、いや、死んじゃいけないって思えるようになったから。
姉さんや暁さん、そしてこれからの日々を未灼妃と一緒に過ごしていこうと思う。