「樟大?」
この声は?
「樟大なのね?元気そうで良かった」
優しく柔らかく、少し舌足らずな喋り方はたしかに母さんの声だ。
でも姿が見えない。
滄海の上に一人佇む自分がいる。
どこまでも広がる青。
陸地と呼べるものは何ひとつ見当たらない。
魔法のように自分の身体だけが海の上にある。
ここは一体どこだ?
どうして海の上に立っている?
そんな疑問の解決策もわからないまま声のする方に足を動かす。
もう一度母さんに会える。そう思ったら足が勝手に動いていた。
しかし、どれだけ歩いても声が近づくことはない。むしろ少し遠ざかっていっている気さえする。
何度か踵を返して声のする方に向かうが一向に姿が見えることはない。
むなしく母さんの声だけが海面に木霊する。
その後も声のする方に向かって海の上を歩き続けた。
どこまでも続く同じ景色は時という概念を持たない無限ループの世界なんじゃないかと錯覚させるほどに。
「樟大、あまり無茶しちゃダメよ。あんたいつも無口で何考えてるかわからないんだから。お姉ちゃんに甘えすぎないでね。健康にも気をつけて。どんなときも人に優しくすることを忘れちゃだめよ」
その言葉を最後に母さんの声は聞こえなくなった。
**
昨日の出来事はなんだったのだろう。
目が覚めたとき、僕は家にいた。
近くにいた姉さんに話したら怪訝な顔、というより変人扱いされた。
「何言っての?あそこはけっこう前から空き地だったはずよ」
そんなわけない。たしかにあったし、実際に店主と話している。
電子決済の履歴を辿るも支払った形跡がなかった。事実確認のため姉さんを連れてたしかめようと再度足を運んだが、そこだけ霧に覆われていて何も見えなかった。
「アキ、あんた疲れてんのよ。ちょっと休んだら?」
昨日起きたことはすべて夢?頭の中の妄想?
店内での会話やジンジャーエールの香りは偽り?
でもたしかにあった。あの公園の近くにそれが。
もやもやした気持ちが拭えないまま仕方なく近くのカフェに入る。
姉さんの奢りでケーキ2つとアイスティーを注文した。
「アキってけっこう欲張りなのね」
僕が甘えられるのはこうして姉さんと二人で外食するときだけ。
父さんが捕まってからというもの、母さんを楽にさせてあげるためずっと我慢してきた。姉さんのように思ったことをストレートに言えないし、相手を傷つけないよう精一杯言葉を選んで生きてきた。他人よりも神経を使い、気を使い、心を削ってきた僕が唯一甘えられる存在、それが姉さん。高校を中退するときも本音が言えなかった。
「クラスメイトと合わない」と言って辞めたけれどそんなことない。
少しでも嫌なことがあると、あの事件のことを言われているようで心の奥が騒ぎ立て、人目を気にして萎縮してしまう。本当はどこに行っても集団生活ができないだけ。
フリーターという社会的責任のない道を選んで心と身体に余裕を作っていた。いくつかのバイトをかけもちして食いつなぐ日々。一向に貯まらないお金。そろそろ社会人を経験しておかないといけないことはわかっている。でも踏み出す勇気がない。
前に進まなきゃいけないと知りながらもそれができない自分がもどかしくてならないんだ。応募しては履歴書を用意し、面接をして採用されたら新しい人間関係ができる。その都度我が家の過去を知るものが増えると思うと心がキリキリする。
前を向かなきゃいけないと思いつつ、上手く立ち回れない僕を心配した姉さんが仕事の手伝いを依頼してきた。
フリーランスで音楽活動をしている姉さんはとある人気の映画の曲に採用されるようになってから徐々に知名度を上げていった。バイラルヒットというわけではないが、少しずつその名が知れ渡りつつある。音楽のダウンロードサイトでも『IZUMI』と検索すると姉さんの作った曲が聴ける。
姉さんは昔からスケジュール管理が苦手だった。
スマホは滅多にいじらない人だし、メールも得意じゃないからよく期日を逃す。フリーランスとしては致命傷かもしれないが、売れっ子となった姉さんの曲を求める人は多い。
あの事件以降、姉さんも多くの人たちから連絡を閉ざされた。それでも折れずにネットに動画をあげたりして自力で這い上がった。
慎重派で良くも悪くもビビリな僕は細かな作業が苦手ではない。だから姉さんの苦手な事務作業やスケジュール管理を任せてもらっている。それによって姉さんは曲作りに集中できている。
僕が手伝うまで姉さんは屍のような顔をしていた。
タバコを吸う量もいまより多く、「私は『仕事』じゃなく『死事』をしている」なんてちょっと笑えない冗談を言っていたときもあったっけ。
とあるドラマの挿入歌に起用されてから、コマーシャルやゲームなどでも採用されるようになり、最近では依頼や問い合わせのメールの数が増えてきている。
曲を作らせさせたら天才的な分、細々としたことがてんでだめ。
家のことも同じだから僕が家事全般をやっている。
姉さんに任せたら整理整頓なんて概念がなくなってしまうから。
姉さんは作曲家としてご飯を食べていけるほどに成功した。タバコを吸わないとイライラするし、毒舌だし、何よりだらしない。
服も脱ぎっぱだし食器も洗わない。
高校を辞め、まともな仕事にも就いていないからこうしてやることが多いと満たされている気がする。
たまに姉さんの職場に付き合うことがあるが、見知らぬ大人たちに囲まれると胃が痛くなる。初対面の人が苦手なのに歳の離れた大人たちに囲まれるのは正直しんどい。
職場で猫をかぶっているかと思ったら普段のままで、毒舌でストレートに物を言うし、タバコを吸わないと露骨にイライラする。他人だったら絶対面倒くさいと思うが、姉さんには仲間が多い。
嘘をつくことは絶対にしないし、ミスをしたら素直に謝るし、人の成功を一緒に喜ぶ。姉さんはそんな人だ。だから多少期日が遅くても許してもらえるらしい。それだけ姉さんの作る曲は人の心を動かすようだ。神経質で小さなことをいちいち気にする僕のほうがよほど面倒くさいと思う。
あの日以降、人の目を気にして人の顔色を伺うようになった。
環境のせいにはしたくないけれど、事実としてある以上そうそう変わることはない。
誰かと深い関係になることを望んでも世間が赦さないだろう。
ー数ヶ月が経ち、仕事にも慣れてきた。
でも一つわからないことがある。というより、忘れてしまったことがある。
「姉さん、母さんってどんな人だった?」
頭でも打った?みたいな顔をしながら答える。
「何言ってんの?聖母マリアのように優しい人だったじゃない」
「母さんのこと、何も思い出せないんだ」
僕の表情から冗談を言っているように思えなかった姉さんがスマホの画面をスクロールし、写真を見せてくる。
「これが母さん?」
写真を見せられても思い出せない。
母さんがいたという記憶はある。でもそれ以外の記憶が一切ない。顔も声も名前も三人で暮らしていたことすらもすべて。
「ちょっと大丈夫?」
それから数日が経っても数ヶ月が経っても思い出すことはできなかった。思い出そうとすればするほど激しい頭痛に襲われる。
どうして母さんのことを忘れてしまったのかわからないまま時だけが過ぎていった。
ー高層ビルの隙間から差し込む細い光の道を歩く。
久しぶりに訪れる大きな町は僕の身体を萎縮させる。しかし、今日は大事な日だから行かないわけにはいかない。
外は晴れたり曇ったりの気まぐれな天気。
太陽から主役を奪うように、雲のマスクで光を遮り、地上まで降りてこない。そのおかげで風が少しだけ涼しい。
しばらくすると降ってきた雨が髪を濡らす。でも気分がいい。なぜなら僕は雨と風が好きだから。雨は僕の背負ったものを洗い流し、風は悲しみを吹き飛ばしてくれる。
姉さんが楽曲提供をしている仲の良い一つのバンドに新メンバーが加入したのでその顔合わせがある。
僕自身このバンドの人とメールではやりとりしていたが、実際に会うのははじめてだ。
ホテル内にあるカフェで待っていると、背の高い男性がやってきた。
短く揃った髪と眼鏡の奥から映る柔らかい瞳は余裕さと聡明さを感じた。
ラフな格好なのにどこか清潔感のある人で、こんな大人になりたいと思わせる人だった。
「維澄さん、この人は?」
「弟の樟大」
「君が樟大くんだね。いつもメールでお世話になってるSATORUと言います」
SATORUこと雲雀 暁さんは爽やかなお兄さんというイメージの人だった。
まるでどこかの歌劇団の名前のようだったが、本名らしい。
姉さんの前に座ったので、おしぼりをすっと差し出すと笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。
ずっと兄さんが欲しかった。べつに姉さんを否定しているわけじゃない。こんな僕を必要としてくれる姉さんが好きだし、姉さんがいなかったらいまごろ僕は身も心もこの星の外にあったと思う。ただ、もし兄さんがいたらどんな幼少期だったのだろうと想像してみたとき、一緒にゲームをしたり喧嘩をしたりしたのだろうか?
SATORUさんは『ファイブフラクタル』という5人組ピースバンドでギターを担当しているリーダー。
このバンドはインディーズでありながら全国ツアーをするほど人気があり、一部のファンの間では『ファイフラ』という愛称で親しまれている。
彼らの認知度が上がってきたのは、とあるVODのドラマで彼らの曲が挿入歌として使われてから。この時の曲を提供したのが姉さんで、それ以降、楽曲提供をしている。
僕はタスクをこなす姉さんの代わりにSATORUさんとメールでやりとりをしていた。
今日は新曲の候補として姉さんがいくつか作ってきた曲を次のアルバムに入れるかの打ち合わせ。挨拶も兼ねて僕も付き添った。
「うん、この曲とこの曲はイメージにピッタリです。あとはメンバーと話し合ってどっちかの曲もしくは両方を採用させてもらえればと思います」
「そしたらこの2曲はファイフラ用にとっておくわね」
「いつもありがとうございます」
イメージなど事前にすり合わせをしていたこともあってスムーズに話が進んだ。
「IZUMIさん、この後まだお時間ありますか?ちょっと紹介したい人がいまして」
SATORUさんの問いに姉さんが「後でタバコ吸う時間だけちょうだい」と冗談を言った。
しばらくしてやってきたのは黒く短い髪にインカラーで赤色を入れた目の大きな子。
「MIYABIです」
無表情で無愛想な彼女は一ノ瀬 未灼妃というらしいが、第一印象は正直言うとあまり良くなかった。声も小さいし覇気もないし、まったく目が合わない。外の雨のようにどんよりした雰囲気で、まるで気だるげに働く飲食店のバイトの子みたいな感じだった。
「すみません。彼女、人見知りなもので」
人見知りとはいえ、せめてもう少し声を出したほうがいいと思うけれど。
「さ、座って」
僕の前に座った彼女におしぼりを渡そうとすると、怯えた様子で距離を置いた。胸のあたりを抑えながら下を向いている。その手は震えていた。
唐突な拒否反応にショックが隠しきれない。
小さく「ごめんなさい」という声が聴こえた気がした。
「彼女はウチの新ヴォーカルで、次のライブからステージに立ってもらう予定です」
空気を変えるようにSATORUさんが紹介してくれたが、僕にはどうも腑に落ちないでいた。
こんなに声も気も小さい子がヴォーカル?
ファイブフラクタルは高校時代のクラスメイト五人ではじめたバンドだが、前回のライブを最後にヴォーカルが脱退した。
マチアプで知り合った年上の会社役員をつかまえ、妊娠を機に脱退した。
新しいヴォーカルを探していた際、数人からの応募があり、その中で初代のヴォーカルと近い声を持つ女性が採用された。しかし、その人は顔合わせのときになっても来ず、その後も音信不通になってしまった。
その理由はいまだにわからないまま。
そんなときMIYABIが加入したそうだ。
当時彼女は違うバンドにいたが、方向性の違いから解散してしまい、しばらく一人で活動していたが、この性格が故に交流が広くないためなかなか新しいメンバーが見つからずにいたとき偶然SATORUさんと知り合った。
今回はMIYABIと姉さんの初顔合わせだったようだ。
目の前に座る彼女のどこか儚げな顔が僕の目に焼き付いた。
ーそれから数週間、地下にある小さなクラブでイベントが開催された。僕と姉さんはそのライブに招待された。
今日は一日晴れていて、雲の存在がないに等しい。日中の眩い赤い太陽を見るたびあの日のことが蘇ってきてしまって気持ちが落ちていく。
せっかく呼んでもらった以上行かないわけにはいかないが、どうも気持ちが乗らない。
こういうときは音楽を聴きながら本を読みその世界に入り込む。
気づけば太陽は西に沈み、街灯が照らすオレンジへと色を変えた。
MIYABIが加入した新生ファイブフラクタルの初ライブ。
この間の打ち合わせで姉さんのつくった曲に詩を乗せた新曲の披露をしてくれる。
百人程度の小さな箱は人で溢れていた。トリで出てきたファイブフラクタル。ステージの右側に立ちギターを持ったSATORUさんはいつもの柔らかな雰囲気と違い、少しキリッとしている印象を受けた。反対側にはギター担当、その斜め後ろにベース、奥にはドラム担当がポジションを取っている。MCをするSATORUさんがみんなの前で口を開く。
「今日は新メンバーを紹介します。ヴォーカルのMIYABIです」
中央に立つMIYABIに手を伸ばし目線を彼女に向ける。
当の本人は緊張しているのか、無表情のままぺこりと小さく頷くと、観客からパチパチと拍手が起きた。
「早速、新生ファイブフラクタルの新曲聴いてください。Take Your Time.〜あなたのペースで〜」
ドラムのスティックに合わせて各々が楽器を奏でると、MIYABIは一度目を閉じ、呼吸を整え、マイクに手を当てて歌い出した。
♪
あの子は輝いている。
私のことなんて誰も受け入れない。
存在価値は一体どこ?
でもね、誰かと比べてもキリがないじゃん。
そんなことで自分の心擦り減らしたって大切なもの失っちゃうよ?
だってそうでしょ?
あなたはこの世界に一人しかいないのだから。
Take Your Time. (きみのペースでいいよ)
焦って前が見えなくなるくらいなら一度立ち止まって足元見てみたら?
You Don't Have to Rush. (急ぐ必要ないよ)
そしたらいつもの道が違って見えるかもよ?
いつもの無表情からはまったく想像もつかない透き通るような高く綺麗な声はその場の空気をまったく別のものにするほど魅力的だった。
あっという間に曲が終わると、その後も数曲を歌った彼女。
口数は少ないものの不思議な魅力にその場にいる全員が一瞬で心を奪われた。
カーテンコールが起き、再登場したメンバーが歌ったのは未発表の曲。そう、姉さんが提供した未発表曲だ。
〝Harvest Moon.〟
四分ほどの曲だが、MIYABIの歌声と全員の楽器が見事にマッチしている。中には彼女の歌声で泪を見せていた人もいた。
大歓声のなか、ファイブフラクタルのメンバーが裏に消えていく。
はじめてMIYABIを見たとき不思議な感覚に誘われた。
なんだろう、この悲しく切なそうな表情は。心の奥底に深い闇を抱えているようで、そこから抜け出すことができない。
どこか同じ匂いを感じた。
そんな彼女がステージの上では別人のようにキラキラと輝いていた。
歌っている姿は一ノ瀬 美灼妃ではなく、MIYABIというアーティスト。
二つの顔を持つ彼女はまるでこの世界で生きることを義務づけられたかのように美しく輝いていた。
ライブを見てからというもの、自分が一番びっくりするような予想外なことが起きる。
恋に奥手なはずの僕が彼女にアプローチをした。
いままで自分から積極的に話しかけたことなんてないし、あの日から他人に心を拓こうなんて思いもしなかった。傷つきたくないからと先に言い訳をして自己防衛に走る。そうやって好きな人がまったく振り向かない人生を歩んできた。
結果、その都度傷ついて後悔する。そんな僕が無意識に彼女を追いかけていた。
SNSを見たり少しでもつながっていたくて接点を見つけてはアプローチしていた。もっと彼女のことを知りたい。他の男に取られたくない。そう強く思ったのだ。姉さんの協力も得ながら連絡先を交換し、彼女と色々なところに行った。
はじめは互いを知らないから王道のスポットに行ってみたけれど、人混みが苦手ですぐに静かなところに行く。
家デートが好きで、外に出るなら夜景の美しい場所という共通点を知ってから選択肢を絞ることができた。
次第に『自分』を出せるようになってきた僕は、数ヶ月も経つと自然体でいられた。
思っていた以上に自分が嫉妬深いことやたまに見せる彼女の笑顔がとても愛おしいことに気付かされる。何より一緒にいると疲れが取れる癒しの存在であること。良い意味で甘えられてわがままを言える。
それが彼女のことが好きな一番の理由。
そうして僕たちは付き合うことになった。
家で一日中ゲームをして、出前をして家から一歩も出ないなんてこともよくあった。負けず嫌いな彼女は自分が勝つまでやめなかったり、ちょっと子供っぽくなる。結構料理が得意なところ、片付けは少し苦手なのに洗濯物を畳むのは好き。
そういう一面を知っていくうちに胸の奥にある深い傷が癒えていく。そんな気がした。一緒に過ごすたびに思うんだ。
この人となら辛い過去を忘れることができるんじゃないかと。
彼女と出会ってちょうど一年。僕たちは一緒に住むことを決める。
姉さんをひとりきりにするのは少し心配もあったけれど、そこまで遠くない距離だし、僕も自立する良い機会だと思った。
「いいよ」
案外あっさりしていた。
姉さんのことだから断ることはしないと思っていたけれど、それにしてもだ。
「色々あったけどさ、やっぱりアキは私の弟だし、唯一の家族だから幸せになってほしいんだよ」
普段言わないようなことをさらっと言ってきたから少し驚いた。
「でも未灼妃ちゃんを不幸にしたら承知しないよ。私の大切な『妹』だからね」
いつの間にそんなに仲良くなったんだよと思いながらも、そのおかげで僕は何のしがらみもなく未灼妃と住む決断ができた。
未灼妃と一緒に住むことになってからは幸せな日々が続いた。
毎日声を交わし、ご飯を食べて日常を共有する。たまに喧嘩もするけれど、それでも頭の中には常に彼女がいる。
こんな僕が幸せになる権利なんてあるのかって思ったけれど、口にしたらきっと姉さんにも未灼妃にも怒られるからやめておこう。
この声は?
「樟大なのね?元気そうで良かった」
優しく柔らかく、少し舌足らずな喋り方はたしかに母さんの声だ。
でも姿が見えない。
滄海の上に一人佇む自分がいる。
どこまでも広がる青。
陸地と呼べるものは何ひとつ見当たらない。
魔法のように自分の身体だけが海の上にある。
ここは一体どこだ?
どうして海の上に立っている?
そんな疑問の解決策もわからないまま声のする方に足を動かす。
もう一度母さんに会える。そう思ったら足が勝手に動いていた。
しかし、どれだけ歩いても声が近づくことはない。むしろ少し遠ざかっていっている気さえする。
何度か踵を返して声のする方に向かうが一向に姿が見えることはない。
むなしく母さんの声だけが海面に木霊する。
その後も声のする方に向かって海の上を歩き続けた。
どこまでも続く同じ景色は時という概念を持たない無限ループの世界なんじゃないかと錯覚させるほどに。
「樟大、あまり無茶しちゃダメよ。あんたいつも無口で何考えてるかわからないんだから。お姉ちゃんに甘えすぎないでね。健康にも気をつけて。どんなときも人に優しくすることを忘れちゃだめよ」
その言葉を最後に母さんの声は聞こえなくなった。
**
昨日の出来事はなんだったのだろう。
目が覚めたとき、僕は家にいた。
近くにいた姉さんに話したら怪訝な顔、というより変人扱いされた。
「何言っての?あそこはけっこう前から空き地だったはずよ」
そんなわけない。たしかにあったし、実際に店主と話している。
電子決済の履歴を辿るも支払った形跡がなかった。事実確認のため姉さんを連れてたしかめようと再度足を運んだが、そこだけ霧に覆われていて何も見えなかった。
「アキ、あんた疲れてんのよ。ちょっと休んだら?」
昨日起きたことはすべて夢?頭の中の妄想?
店内での会話やジンジャーエールの香りは偽り?
でもたしかにあった。あの公園の近くにそれが。
もやもやした気持ちが拭えないまま仕方なく近くのカフェに入る。
姉さんの奢りでケーキ2つとアイスティーを注文した。
「アキってけっこう欲張りなのね」
僕が甘えられるのはこうして姉さんと二人で外食するときだけ。
父さんが捕まってからというもの、母さんを楽にさせてあげるためずっと我慢してきた。姉さんのように思ったことをストレートに言えないし、相手を傷つけないよう精一杯言葉を選んで生きてきた。他人よりも神経を使い、気を使い、心を削ってきた僕が唯一甘えられる存在、それが姉さん。高校を中退するときも本音が言えなかった。
「クラスメイトと合わない」と言って辞めたけれどそんなことない。
少しでも嫌なことがあると、あの事件のことを言われているようで心の奥が騒ぎ立て、人目を気にして萎縮してしまう。本当はどこに行っても集団生活ができないだけ。
フリーターという社会的責任のない道を選んで心と身体に余裕を作っていた。いくつかのバイトをかけもちして食いつなぐ日々。一向に貯まらないお金。そろそろ社会人を経験しておかないといけないことはわかっている。でも踏み出す勇気がない。
前に進まなきゃいけないと知りながらもそれができない自分がもどかしくてならないんだ。応募しては履歴書を用意し、面接をして採用されたら新しい人間関係ができる。その都度我が家の過去を知るものが増えると思うと心がキリキリする。
前を向かなきゃいけないと思いつつ、上手く立ち回れない僕を心配した姉さんが仕事の手伝いを依頼してきた。
フリーランスで音楽活動をしている姉さんはとある人気の映画の曲に採用されるようになってから徐々に知名度を上げていった。バイラルヒットというわけではないが、少しずつその名が知れ渡りつつある。音楽のダウンロードサイトでも『IZUMI』と検索すると姉さんの作った曲が聴ける。
姉さんは昔からスケジュール管理が苦手だった。
スマホは滅多にいじらない人だし、メールも得意じゃないからよく期日を逃す。フリーランスとしては致命傷かもしれないが、売れっ子となった姉さんの曲を求める人は多い。
あの事件以降、姉さんも多くの人たちから連絡を閉ざされた。それでも折れずにネットに動画をあげたりして自力で這い上がった。
慎重派で良くも悪くもビビリな僕は細かな作業が苦手ではない。だから姉さんの苦手な事務作業やスケジュール管理を任せてもらっている。それによって姉さんは曲作りに集中できている。
僕が手伝うまで姉さんは屍のような顔をしていた。
タバコを吸う量もいまより多く、「私は『仕事』じゃなく『死事』をしている」なんてちょっと笑えない冗談を言っていたときもあったっけ。
とあるドラマの挿入歌に起用されてから、コマーシャルやゲームなどでも採用されるようになり、最近では依頼や問い合わせのメールの数が増えてきている。
曲を作らせさせたら天才的な分、細々としたことがてんでだめ。
家のことも同じだから僕が家事全般をやっている。
姉さんに任せたら整理整頓なんて概念がなくなってしまうから。
姉さんは作曲家としてご飯を食べていけるほどに成功した。タバコを吸わないとイライラするし、毒舌だし、何よりだらしない。
服も脱ぎっぱだし食器も洗わない。
高校を辞め、まともな仕事にも就いていないからこうしてやることが多いと満たされている気がする。
たまに姉さんの職場に付き合うことがあるが、見知らぬ大人たちに囲まれると胃が痛くなる。初対面の人が苦手なのに歳の離れた大人たちに囲まれるのは正直しんどい。
職場で猫をかぶっているかと思ったら普段のままで、毒舌でストレートに物を言うし、タバコを吸わないと露骨にイライラする。他人だったら絶対面倒くさいと思うが、姉さんには仲間が多い。
嘘をつくことは絶対にしないし、ミスをしたら素直に謝るし、人の成功を一緒に喜ぶ。姉さんはそんな人だ。だから多少期日が遅くても許してもらえるらしい。それだけ姉さんの作る曲は人の心を動かすようだ。神経質で小さなことをいちいち気にする僕のほうがよほど面倒くさいと思う。
あの日以降、人の目を気にして人の顔色を伺うようになった。
環境のせいにはしたくないけれど、事実としてある以上そうそう変わることはない。
誰かと深い関係になることを望んでも世間が赦さないだろう。
ー数ヶ月が経ち、仕事にも慣れてきた。
でも一つわからないことがある。というより、忘れてしまったことがある。
「姉さん、母さんってどんな人だった?」
頭でも打った?みたいな顔をしながら答える。
「何言ってんの?聖母マリアのように優しい人だったじゃない」
「母さんのこと、何も思い出せないんだ」
僕の表情から冗談を言っているように思えなかった姉さんがスマホの画面をスクロールし、写真を見せてくる。
「これが母さん?」
写真を見せられても思い出せない。
母さんがいたという記憶はある。でもそれ以外の記憶が一切ない。顔も声も名前も三人で暮らしていたことすらもすべて。
「ちょっと大丈夫?」
それから数日が経っても数ヶ月が経っても思い出すことはできなかった。思い出そうとすればするほど激しい頭痛に襲われる。
どうして母さんのことを忘れてしまったのかわからないまま時だけが過ぎていった。
ー高層ビルの隙間から差し込む細い光の道を歩く。
久しぶりに訪れる大きな町は僕の身体を萎縮させる。しかし、今日は大事な日だから行かないわけにはいかない。
外は晴れたり曇ったりの気まぐれな天気。
太陽から主役を奪うように、雲のマスクで光を遮り、地上まで降りてこない。そのおかげで風が少しだけ涼しい。
しばらくすると降ってきた雨が髪を濡らす。でも気分がいい。なぜなら僕は雨と風が好きだから。雨は僕の背負ったものを洗い流し、風は悲しみを吹き飛ばしてくれる。
姉さんが楽曲提供をしている仲の良い一つのバンドに新メンバーが加入したのでその顔合わせがある。
僕自身このバンドの人とメールではやりとりしていたが、実際に会うのははじめてだ。
ホテル内にあるカフェで待っていると、背の高い男性がやってきた。
短く揃った髪と眼鏡の奥から映る柔らかい瞳は余裕さと聡明さを感じた。
ラフな格好なのにどこか清潔感のある人で、こんな大人になりたいと思わせる人だった。
「維澄さん、この人は?」
「弟の樟大」
「君が樟大くんだね。いつもメールでお世話になってるSATORUと言います」
SATORUこと雲雀 暁さんは爽やかなお兄さんというイメージの人だった。
まるでどこかの歌劇団の名前のようだったが、本名らしい。
姉さんの前に座ったので、おしぼりをすっと差し出すと笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。
ずっと兄さんが欲しかった。べつに姉さんを否定しているわけじゃない。こんな僕を必要としてくれる姉さんが好きだし、姉さんがいなかったらいまごろ僕は身も心もこの星の外にあったと思う。ただ、もし兄さんがいたらどんな幼少期だったのだろうと想像してみたとき、一緒にゲームをしたり喧嘩をしたりしたのだろうか?
SATORUさんは『ファイブフラクタル』という5人組ピースバンドでギターを担当しているリーダー。
このバンドはインディーズでありながら全国ツアーをするほど人気があり、一部のファンの間では『ファイフラ』という愛称で親しまれている。
彼らの認知度が上がってきたのは、とあるVODのドラマで彼らの曲が挿入歌として使われてから。この時の曲を提供したのが姉さんで、それ以降、楽曲提供をしている。
僕はタスクをこなす姉さんの代わりにSATORUさんとメールでやりとりをしていた。
今日は新曲の候補として姉さんがいくつか作ってきた曲を次のアルバムに入れるかの打ち合わせ。挨拶も兼ねて僕も付き添った。
「うん、この曲とこの曲はイメージにピッタリです。あとはメンバーと話し合ってどっちかの曲もしくは両方を採用させてもらえればと思います」
「そしたらこの2曲はファイフラ用にとっておくわね」
「いつもありがとうございます」
イメージなど事前にすり合わせをしていたこともあってスムーズに話が進んだ。
「IZUMIさん、この後まだお時間ありますか?ちょっと紹介したい人がいまして」
SATORUさんの問いに姉さんが「後でタバコ吸う時間だけちょうだい」と冗談を言った。
しばらくしてやってきたのは黒く短い髪にインカラーで赤色を入れた目の大きな子。
「MIYABIです」
無表情で無愛想な彼女は一ノ瀬 未灼妃というらしいが、第一印象は正直言うとあまり良くなかった。声も小さいし覇気もないし、まったく目が合わない。外の雨のようにどんよりした雰囲気で、まるで気だるげに働く飲食店のバイトの子みたいな感じだった。
「すみません。彼女、人見知りなもので」
人見知りとはいえ、せめてもう少し声を出したほうがいいと思うけれど。
「さ、座って」
僕の前に座った彼女におしぼりを渡そうとすると、怯えた様子で距離を置いた。胸のあたりを抑えながら下を向いている。その手は震えていた。
唐突な拒否反応にショックが隠しきれない。
小さく「ごめんなさい」という声が聴こえた気がした。
「彼女はウチの新ヴォーカルで、次のライブからステージに立ってもらう予定です」
空気を変えるようにSATORUさんが紹介してくれたが、僕にはどうも腑に落ちないでいた。
こんなに声も気も小さい子がヴォーカル?
ファイブフラクタルは高校時代のクラスメイト五人ではじめたバンドだが、前回のライブを最後にヴォーカルが脱退した。
マチアプで知り合った年上の会社役員をつかまえ、妊娠を機に脱退した。
新しいヴォーカルを探していた際、数人からの応募があり、その中で初代のヴォーカルと近い声を持つ女性が採用された。しかし、その人は顔合わせのときになっても来ず、その後も音信不通になってしまった。
その理由はいまだにわからないまま。
そんなときMIYABIが加入したそうだ。
当時彼女は違うバンドにいたが、方向性の違いから解散してしまい、しばらく一人で活動していたが、この性格が故に交流が広くないためなかなか新しいメンバーが見つからずにいたとき偶然SATORUさんと知り合った。
今回はMIYABIと姉さんの初顔合わせだったようだ。
目の前に座る彼女のどこか儚げな顔が僕の目に焼き付いた。
ーそれから数週間、地下にある小さなクラブでイベントが開催された。僕と姉さんはそのライブに招待された。
今日は一日晴れていて、雲の存在がないに等しい。日中の眩い赤い太陽を見るたびあの日のことが蘇ってきてしまって気持ちが落ちていく。
せっかく呼んでもらった以上行かないわけにはいかないが、どうも気持ちが乗らない。
こういうときは音楽を聴きながら本を読みその世界に入り込む。
気づけば太陽は西に沈み、街灯が照らすオレンジへと色を変えた。
MIYABIが加入した新生ファイブフラクタルの初ライブ。
この間の打ち合わせで姉さんのつくった曲に詩を乗せた新曲の披露をしてくれる。
百人程度の小さな箱は人で溢れていた。トリで出てきたファイブフラクタル。ステージの右側に立ちギターを持ったSATORUさんはいつもの柔らかな雰囲気と違い、少しキリッとしている印象を受けた。反対側にはギター担当、その斜め後ろにベース、奥にはドラム担当がポジションを取っている。MCをするSATORUさんがみんなの前で口を開く。
「今日は新メンバーを紹介します。ヴォーカルのMIYABIです」
中央に立つMIYABIに手を伸ばし目線を彼女に向ける。
当の本人は緊張しているのか、無表情のままぺこりと小さく頷くと、観客からパチパチと拍手が起きた。
「早速、新生ファイブフラクタルの新曲聴いてください。Take Your Time.〜あなたのペースで〜」
ドラムのスティックに合わせて各々が楽器を奏でると、MIYABIは一度目を閉じ、呼吸を整え、マイクに手を当てて歌い出した。
♪
あの子は輝いている。
私のことなんて誰も受け入れない。
存在価値は一体どこ?
でもね、誰かと比べてもキリがないじゃん。
そんなことで自分の心擦り減らしたって大切なもの失っちゃうよ?
だってそうでしょ?
あなたはこの世界に一人しかいないのだから。
Take Your Time. (きみのペースでいいよ)
焦って前が見えなくなるくらいなら一度立ち止まって足元見てみたら?
You Don't Have to Rush. (急ぐ必要ないよ)
そしたらいつもの道が違って見えるかもよ?
いつもの無表情からはまったく想像もつかない透き通るような高く綺麗な声はその場の空気をまったく別のものにするほど魅力的だった。
あっという間に曲が終わると、その後も数曲を歌った彼女。
口数は少ないものの不思議な魅力にその場にいる全員が一瞬で心を奪われた。
カーテンコールが起き、再登場したメンバーが歌ったのは未発表の曲。そう、姉さんが提供した未発表曲だ。
〝Harvest Moon.〟
四分ほどの曲だが、MIYABIの歌声と全員の楽器が見事にマッチしている。中には彼女の歌声で泪を見せていた人もいた。
大歓声のなか、ファイブフラクタルのメンバーが裏に消えていく。
はじめてMIYABIを見たとき不思議な感覚に誘われた。
なんだろう、この悲しく切なそうな表情は。心の奥底に深い闇を抱えているようで、そこから抜け出すことができない。
どこか同じ匂いを感じた。
そんな彼女がステージの上では別人のようにキラキラと輝いていた。
歌っている姿は一ノ瀬 美灼妃ではなく、MIYABIというアーティスト。
二つの顔を持つ彼女はまるでこの世界で生きることを義務づけられたかのように美しく輝いていた。
ライブを見てからというもの、自分が一番びっくりするような予想外なことが起きる。
恋に奥手なはずの僕が彼女にアプローチをした。
いままで自分から積極的に話しかけたことなんてないし、あの日から他人に心を拓こうなんて思いもしなかった。傷つきたくないからと先に言い訳をして自己防衛に走る。そうやって好きな人がまったく振り向かない人生を歩んできた。
結果、その都度傷ついて後悔する。そんな僕が無意識に彼女を追いかけていた。
SNSを見たり少しでもつながっていたくて接点を見つけてはアプローチしていた。もっと彼女のことを知りたい。他の男に取られたくない。そう強く思ったのだ。姉さんの協力も得ながら連絡先を交換し、彼女と色々なところに行った。
はじめは互いを知らないから王道のスポットに行ってみたけれど、人混みが苦手ですぐに静かなところに行く。
家デートが好きで、外に出るなら夜景の美しい場所という共通点を知ってから選択肢を絞ることができた。
次第に『自分』を出せるようになってきた僕は、数ヶ月も経つと自然体でいられた。
思っていた以上に自分が嫉妬深いことやたまに見せる彼女の笑顔がとても愛おしいことに気付かされる。何より一緒にいると疲れが取れる癒しの存在であること。良い意味で甘えられてわがままを言える。
それが彼女のことが好きな一番の理由。
そうして僕たちは付き合うことになった。
家で一日中ゲームをして、出前をして家から一歩も出ないなんてこともよくあった。負けず嫌いな彼女は自分が勝つまでやめなかったり、ちょっと子供っぽくなる。結構料理が得意なところ、片付けは少し苦手なのに洗濯物を畳むのは好き。
そういう一面を知っていくうちに胸の奥にある深い傷が癒えていく。そんな気がした。一緒に過ごすたびに思うんだ。
この人となら辛い過去を忘れることができるんじゃないかと。
彼女と出会ってちょうど一年。僕たちは一緒に住むことを決める。
姉さんをひとりきりにするのは少し心配もあったけれど、そこまで遠くない距離だし、僕も自立する良い機会だと思った。
「いいよ」
案外あっさりしていた。
姉さんのことだから断ることはしないと思っていたけれど、それにしてもだ。
「色々あったけどさ、やっぱりアキは私の弟だし、唯一の家族だから幸せになってほしいんだよ」
普段言わないようなことをさらっと言ってきたから少し驚いた。
「でも未灼妃ちゃんを不幸にしたら承知しないよ。私の大切な『妹』だからね」
いつの間にそんなに仲良くなったんだよと思いながらも、そのおかげで僕は何のしがらみもなく未灼妃と住む決断ができた。
未灼妃と一緒に住むことになってからは幸せな日々が続いた。
毎日声を交わし、ご飯を食べて日常を共有する。たまに喧嘩もするけれど、それでも頭の中には常に彼女がいる。
こんな僕が幸せになる権利なんてあるのかって思ったけれど、口にしたらきっと姉さんにも未灼妃にも怒られるからやめておこう。



