あっという間に過ぎていった桜の季節と別れ、今年もやってきた永い永い夏の時期。
早くも鳴り始めた蝉時雨が真夏の襲来を告げ、これでもかというくらいに紫外線を浴びる。
まばゆい太陽の光は僕の心を燃やすほどに熱く照らしている。暑さとの闘いだけで疲弊するのに、僕と姉さんの場合、この時期になると嫌でも思い出してしまう。
小さなアパートの部屋に差し込む光が電気の代わりになってくれているなんて思うのはほんの一瞬で、この光はあの日のことを思い出すだけ。こんな熱くむさ苦しい夏なんて早く過ぎ去ってしまえばいいのに。
いまから約七年前、僕はまだ中学生、姉さんは高校生だったころ、地元で残虐な暴行事件が起きた。
そこは県内の端にある静かな街。その事件が起きたのは夏休みがはじまる直前の深夜。駅からいくつかのマンションへとつながる裏通りがある。管理されていない草木と細く狭い道。表通りに比べてショートカットできるというわけでもないし、街灯やお店もほとんどないから地元民でも通る人は少ない。そんな道でスーツ姿の会社員が酒に酔った勢いで相手を負傷させ死亡させてしまった。
相手はまだ10代の男子学生だった。
その子は部活帰りにスマホ越しで友人と会話をしていた。
すれ違いざまその会社員と一瞬目が合った。
すると突然、その男性が持っていたビールの空き缶を彼に投げつけたのだ。さらにビジネスバッグで男子学生の頭を複数回叩き、起き上がれなくなるほどに蹴りを入れて再起不能な状態にした。その顔は原型を留めないほどに変形していたという。
それだけじゃない。
たまたま近くを通っていた女性を追いかけ、光の当たらない草むらで性的暴行を加え、その後身体をバラバラにして埋めた。
この事件はメディアでも大きく取り上げられ、地元の治安を一気に悪化させた。
しばらくしてから犯人が捕まった。
加害者は、僕の父親だった。
ー窓から差し込む朝日、外にはひまわりが咲いていた。
インターホンの音と合わせてやってきた数人の警察官が父さんを連れ去った。そのときの母さんの表情がいまも頭から離れない。
あの切なさと悔しさと虚しさが組み合わさったような筆舌に尽くし難い表情が。
当時について父さんは、酔っていてうろ覚えだが、その少年に睨まれて暴言を吐かれたと証言しているが、ただの思い込みでしかない。
ギャンブル好きで休みの日はいつも何かの賭け事をしている父さんは昔から酒癖が悪く、たまに母さんに暴力を振るったり、近所の人とトラブルを起こしたこともある。だからお酒を飲むのは一日一本(缶ビールのみ)の約束をしていた。
しかし、その日はアルコールを大量に摂取していた。
後日会社の人から聞いた話だと、父さんの部下が仕事で大きなミスを犯して会社に大損失を与えてしまった。直属の上司である父さんもこっぴどく叱られ、むしゃくしゃしていたらしい。
亡くなったその男子学生は来年、有名な進学校に進む予定で、将来は税理士になりたかったそうだ。さらに通報しようとしてバラバラにされた女性は来月婚約予定で、お腹には新しい命が宿っていたそうだ。
小さな街に故に噂が広まるのは一瞬。近所の住人からの視線は冷たく、SNSの拡散もあって僕らは居場所を失った。
仲の良かった友達も「人殺しの子とは付き合うな」と親に言われて突き放された。
学校も街も僕らを遠ざけた。
被害者の親族からは『息子の将来を奪った悪魔』と罵倒され、女性の婚約者からは『一生かけて恨み続ける』と冷徹な言葉を浴びせられ、近所からは関わりをシャットアウトされた。
事件以降両親は離婚し、すぐに地元を離れ、母さんと姉さんと三人で遠くの街に引っ越した。
これで平穏な日常が戻るかと思ったが、噂というものはおそろしく、あそこは人殺しが住んでいる家としてSNSから拡散されていった。さらにその炎が消えることはなく、灯火にすらならないまま時だけが過ぎていく。
「人はね、良いことも悪いことも循環するの。どんなに苦しくても復讐心に犯されてしまってはダメ。良いことを繰り返していれば必ず良いことが返ってくる。だから人のためになると思ったことはたくさんしてあげてね」
この母さんの口癖はたまに辛いことがあると思い出す。
僕も姉さんも母さんが大好きで、父さんから暴力を振られたときも不倫が発覚したときも僕らには笑顔でこの言葉を言っていた。
どんなにしんどくても笑顔を絶やさず、僕らを包み込んでくれて、人のために生きている。そんなような人だった。
しかし、あの日から体調を崩しやすくなった母さんは仕事を休むことが多く、パートを転々としていたが、あのときの衝撃は余程のことだったようで、似たような事件が起きたり、噂を耳にするたびに思い出し、肉体的にも精神的にも安定しなくなりになってしまった。
三年の月日が経ち、僕と姉さんでなんとか母さんのことを支えようとしたが及ばなかった。最期に「ごめんなさい」の言葉を残して……。
僕はまだ16歳、姉さんは21歳だった。
あの日は日差しの強い朝だった。
皮肉にも親戚はみな先に旅立っていたから人殺しの子供を受け入れてくれる場所はなく、僕らは二人きりとなり、遠く離れたこの霞夜町にやってきた。この町は年々人口減少が進んでいて、住人のほとんどがシニア。観光スポットと呼べるものもないため観光客も少ないから認知度が低い。駅前には駅直結の小さなショッピングセンターが一つあり、ドラッグストア、ファストフードやカフェも数えるくらいしかない小さな町。おかげで僕らのことを知る人はいないからあのときの傷が抉られる心配は減った。ただ、買い物をするには少し不便で、とくに家電や家具は電車を乗り継いで大きな町に向かうかネットとなる。
姉さんは一部の商品を除き、ネットでの買い物を信用していない人。
以前、ネットで買ったものが広告とまったく違うもので、それを問い合わせようとしたが、そこは海外のメーカーで連絡がつかず泣き寝入りせざるを得なかった。それ以降、自分の目で確かめてから買うことにしている。
そういった一面もあって、この辺では一番大きな町まで出てきた。
「日本ってマジで喫煙者に優しくない。都心部なのにどこにも喫煙所がないわけ?ったく、喫煙者だけ税金安くしろっつーの」
文句を言いながら隣を歩く姉さんが喫煙所を探している。
ニコチン欠乏症でイライラしている姉さんはとにかく口が悪い。普段から口が悪い人だが、長時間タバコを吸わないといつも以上に毒を吐くようになり、さらにその時間が延びると手がつけられないほど猛毒になる。さらにこの暑さ。
40度近い太陽の光と強烈な湿気が人類を破滅に導こうとしている気がしてならない。風のない町は熱を帯びたアスファルトの照り返しで立っているだけで絶望的。暑さはひとまず置いておいて、タバコに関してはそんなに文句言うくらいならいい加減やめればいいのにと毎回思う。
とりあえず駅前の喫煙所で一本だけ吸ってきてくれれば良かったのに、「おっさんどもに囲まれて吸うタバコほどまずいもんはない」と世の男性を敵に回すような毒を吐いていた。
若い人もたくさんいる気がするけれど。
「アキ、調べといて」
そう言ってまた雑な指示を出してきた。相変わらず人使いが荒い。
スマホをいじる癖のない人だからネットで調べるのはいつも僕の仕事。タバコを吸わないのに僕のスマホには『カフェ 喫煙可』とか『コーヒー タバコ』といった履歴ばかりが残る。喫煙できるカフェを探すもなかなか見つからない。やっと見つけたと思ったが、生憎そこは満席だった。
昔からせっかちで待つことを嫌う姉さんは何をするにしても10分も待てない。行列のできているお店には絶対に並ぼうとしないし、歩くのだって僕より早い。だから買い物もサクッと済ませるし、とにかく面倒くさがり屋。かといって免許も持っていないから僕に免許を取らせたがる。
本当にわがままな姉さんだ。そう思いながらも僕の家族は姉さんだけ。
あの事件以降、姉さんの存在は大きくなった。精神崩壊しそうな僕を支えてくれた唯一の人だから。
ようやく見つけたカフェに入るや否やいつもの頼んでおいてと言ってそそくさと喫煙所に向かった。
姉さんはブラックしか飲まない。サイズはM一択。Sだと少ないし、Lだと多すぎるらしいが、お店によって大きさが違うことに対しては目を瞑っている。コーヒーが苦手な僕からすると、よくもあんな苦いものを毎日好んで飲めるなと思うが、「あんたもいつか飲める日が来るよ」と言われ、いつかそんな日がくることを静かにそして薄く淡く願っていようと思う。
タバコを吸い終えた姉さんの顔はまるでサウナで整えてきたかのように清々しかった。
席に戻り、コーヒーを一口飲むとようやくHPが回復したようだ。
音楽と同じくらいタバコとコーヒーがないと生きていけない人、それが朝比奈 維澄という女性なのだ。
「姉さん、タバコ臭い」
ニコチンの強烈なニオイと酸味の強いコーヒーのニオイとが重なり眩暈がした。僕と二人のときは気が抜けているのかエチケットをしない。なんならちょっとニオイを嗅がせてくる。
「いい匂いでしょ?」
「どこかだよ」
電子タバコとはいえ、タバコはタバコ。非喫煙者からすれば洟をつむぐような独特なニオイであることに変わりはない。
「アキも吸ってみる?」
「僕がタバコ苦手なの知ってて言ってるでしょ」
こんな軽口を言い合えるのも二人きりになってからだ。
まだ我が家がごく普通の家庭だったころ、僕は姉さんとほとんど口を利かなかった。
誰の血を引いたのか、気が強く血の気の多い姉さんは高校生のとき揉め事を起こしてはよく母さんが呼び出され謝罪していた。それを知った父さんは姉さんと毎日口論していた。
酒癖が悪く、普段から少し棘のある言い方をする父さんと、オブラートに包むということを知らない姉さんはいつもバチバチで、当時のリビングの空気は最悪だった。
僕はそんな二人が嫌で、いつも母さんの部屋に逃げては本を読んでいた。そのときから漫画や絵本、小説を読むようになり、いまの僕の趣味の一つになっている。
喧嘩、喫煙、深夜の徘徊。
当時、問題ばかり起こす姉さんを僕は疎ましく思っていた。
どうして親に迷惑をかけるようなことをするんだって。でも父さんが逮捕され、母さんが亡くなってから姉さんに対する見る目が変わった。たしかに昔はやんちゃしていたけれど、母さんの力になるために専門学校を辞めて働いたり、父さんの代わりに僕のことを叱ってくれたり、何より自分軸を持っていて他人に流されない。
僕と違って思ったことを押し殺したりしないから、良くも悪くもストレスを溜めない人。行動に移すことで証明してみせる姿はかっこよかった。
一方の僕は一度考えて計画を立ててから行動に移すタイプだから、思い立ったら即行動タイプの姉さんからしたらじれったくて仕方ないだろう。
買い物を済ませ、家に戻る途中の電車で姉さんが口を開いた。
「アキ、あれからどう?良い人はできた?」
またそれか。
一緒に出かけるたびにそんなこと聞かないでくれ。
「そんなのいないよ……」
仮に良い人がいたって結局僕は幸せにはなれないし、相手を幸せになんかできっこない。いままで友達だと思っていた子たちも急に連絡がつかなくなったし、気になっていた子も事件のことを知った途端に遠ざかっていった。
(朝比奈の父親は人殺し)
その事実が呪縛のように僕の心身を縛りつける。だから成人式も同窓会も参加しなかった。
当たり前だ。人殺しの子と会いたいなんて思う人、いるわけがないんだから。
「あんたの気持ちもわかるけどさ、高校まで辞める必要なかったんじゃない?」
青春の代名詞の一つ、高校。学園祭や修学旅行、多くの出会いと思い出ができる玉手箱。しかし、それはあくまで普通に生活してきた人たちに限る。学費のこともあるし、姉さんばかりに負担をかけさせるわけにはいかない。それに正直言うとクラスに馴染めていなかった。
母さんが死んで生きる理由を見失った僕には普通に生活しているクラスメイトが眩しくも遠く見えてならなかった。教室の後ろでTikTokを撮る女子たちや校内で誰が一番可愛いかを話し合っている男子を見る度、その輪の中に入ることは決してないのだとわかっていた。安易に仲良くなって過去を知られたらまた距離が遠くなってしまうから。
心を開けば開くほど苦しみという名の重石の重量が増していく。だから当たり障りのない一定の距離を保つことでギリギリの綱渡りをしていた。その環境が苦しくて辛くて次第に僕の身体を止めていく。
周囲と異なる環境になってしまった人間にとって学校は監獄でしかない。
他人なんてみんな簡単に裏切る。
「もう、いいんだ」
友達なんて……そんなの、いらない。
早くも鳴り始めた蝉時雨が真夏の襲来を告げ、これでもかというくらいに紫外線を浴びる。
まばゆい太陽の光は僕の心を燃やすほどに熱く照らしている。暑さとの闘いだけで疲弊するのに、僕と姉さんの場合、この時期になると嫌でも思い出してしまう。
小さなアパートの部屋に差し込む光が電気の代わりになってくれているなんて思うのはほんの一瞬で、この光はあの日のことを思い出すだけ。こんな熱くむさ苦しい夏なんて早く過ぎ去ってしまえばいいのに。
いまから約七年前、僕はまだ中学生、姉さんは高校生だったころ、地元で残虐な暴行事件が起きた。
そこは県内の端にある静かな街。その事件が起きたのは夏休みがはじまる直前の深夜。駅からいくつかのマンションへとつながる裏通りがある。管理されていない草木と細く狭い道。表通りに比べてショートカットできるというわけでもないし、街灯やお店もほとんどないから地元民でも通る人は少ない。そんな道でスーツ姿の会社員が酒に酔った勢いで相手を負傷させ死亡させてしまった。
相手はまだ10代の男子学生だった。
その子は部活帰りにスマホ越しで友人と会話をしていた。
すれ違いざまその会社員と一瞬目が合った。
すると突然、その男性が持っていたビールの空き缶を彼に投げつけたのだ。さらにビジネスバッグで男子学生の頭を複数回叩き、起き上がれなくなるほどに蹴りを入れて再起不能な状態にした。その顔は原型を留めないほどに変形していたという。
それだけじゃない。
たまたま近くを通っていた女性を追いかけ、光の当たらない草むらで性的暴行を加え、その後身体をバラバラにして埋めた。
この事件はメディアでも大きく取り上げられ、地元の治安を一気に悪化させた。
しばらくしてから犯人が捕まった。
加害者は、僕の父親だった。
ー窓から差し込む朝日、外にはひまわりが咲いていた。
インターホンの音と合わせてやってきた数人の警察官が父さんを連れ去った。そのときの母さんの表情がいまも頭から離れない。
あの切なさと悔しさと虚しさが組み合わさったような筆舌に尽くし難い表情が。
当時について父さんは、酔っていてうろ覚えだが、その少年に睨まれて暴言を吐かれたと証言しているが、ただの思い込みでしかない。
ギャンブル好きで休みの日はいつも何かの賭け事をしている父さんは昔から酒癖が悪く、たまに母さんに暴力を振るったり、近所の人とトラブルを起こしたこともある。だからお酒を飲むのは一日一本(缶ビールのみ)の約束をしていた。
しかし、その日はアルコールを大量に摂取していた。
後日会社の人から聞いた話だと、父さんの部下が仕事で大きなミスを犯して会社に大損失を与えてしまった。直属の上司である父さんもこっぴどく叱られ、むしゃくしゃしていたらしい。
亡くなったその男子学生は来年、有名な進学校に進む予定で、将来は税理士になりたかったそうだ。さらに通報しようとしてバラバラにされた女性は来月婚約予定で、お腹には新しい命が宿っていたそうだ。
小さな街に故に噂が広まるのは一瞬。近所の住人からの視線は冷たく、SNSの拡散もあって僕らは居場所を失った。
仲の良かった友達も「人殺しの子とは付き合うな」と親に言われて突き放された。
学校も街も僕らを遠ざけた。
被害者の親族からは『息子の将来を奪った悪魔』と罵倒され、女性の婚約者からは『一生かけて恨み続ける』と冷徹な言葉を浴びせられ、近所からは関わりをシャットアウトされた。
事件以降両親は離婚し、すぐに地元を離れ、母さんと姉さんと三人で遠くの街に引っ越した。
これで平穏な日常が戻るかと思ったが、噂というものはおそろしく、あそこは人殺しが住んでいる家としてSNSから拡散されていった。さらにその炎が消えることはなく、灯火にすらならないまま時だけが過ぎていく。
「人はね、良いことも悪いことも循環するの。どんなに苦しくても復讐心に犯されてしまってはダメ。良いことを繰り返していれば必ず良いことが返ってくる。だから人のためになると思ったことはたくさんしてあげてね」
この母さんの口癖はたまに辛いことがあると思い出す。
僕も姉さんも母さんが大好きで、父さんから暴力を振られたときも不倫が発覚したときも僕らには笑顔でこの言葉を言っていた。
どんなにしんどくても笑顔を絶やさず、僕らを包み込んでくれて、人のために生きている。そんなような人だった。
しかし、あの日から体調を崩しやすくなった母さんは仕事を休むことが多く、パートを転々としていたが、あのときの衝撃は余程のことだったようで、似たような事件が起きたり、噂を耳にするたびに思い出し、肉体的にも精神的にも安定しなくなりになってしまった。
三年の月日が経ち、僕と姉さんでなんとか母さんのことを支えようとしたが及ばなかった。最期に「ごめんなさい」の言葉を残して……。
僕はまだ16歳、姉さんは21歳だった。
あの日は日差しの強い朝だった。
皮肉にも親戚はみな先に旅立っていたから人殺しの子供を受け入れてくれる場所はなく、僕らは二人きりとなり、遠く離れたこの霞夜町にやってきた。この町は年々人口減少が進んでいて、住人のほとんどがシニア。観光スポットと呼べるものもないため観光客も少ないから認知度が低い。駅前には駅直結の小さなショッピングセンターが一つあり、ドラッグストア、ファストフードやカフェも数えるくらいしかない小さな町。おかげで僕らのことを知る人はいないからあのときの傷が抉られる心配は減った。ただ、買い物をするには少し不便で、とくに家電や家具は電車を乗り継いで大きな町に向かうかネットとなる。
姉さんは一部の商品を除き、ネットでの買い物を信用していない人。
以前、ネットで買ったものが広告とまったく違うもので、それを問い合わせようとしたが、そこは海外のメーカーで連絡がつかず泣き寝入りせざるを得なかった。それ以降、自分の目で確かめてから買うことにしている。
そういった一面もあって、この辺では一番大きな町まで出てきた。
「日本ってマジで喫煙者に優しくない。都心部なのにどこにも喫煙所がないわけ?ったく、喫煙者だけ税金安くしろっつーの」
文句を言いながら隣を歩く姉さんが喫煙所を探している。
ニコチン欠乏症でイライラしている姉さんはとにかく口が悪い。普段から口が悪い人だが、長時間タバコを吸わないといつも以上に毒を吐くようになり、さらにその時間が延びると手がつけられないほど猛毒になる。さらにこの暑さ。
40度近い太陽の光と強烈な湿気が人類を破滅に導こうとしている気がしてならない。風のない町は熱を帯びたアスファルトの照り返しで立っているだけで絶望的。暑さはひとまず置いておいて、タバコに関してはそんなに文句言うくらいならいい加減やめればいいのにと毎回思う。
とりあえず駅前の喫煙所で一本だけ吸ってきてくれれば良かったのに、「おっさんどもに囲まれて吸うタバコほどまずいもんはない」と世の男性を敵に回すような毒を吐いていた。
若い人もたくさんいる気がするけれど。
「アキ、調べといて」
そう言ってまた雑な指示を出してきた。相変わらず人使いが荒い。
スマホをいじる癖のない人だからネットで調べるのはいつも僕の仕事。タバコを吸わないのに僕のスマホには『カフェ 喫煙可』とか『コーヒー タバコ』といった履歴ばかりが残る。喫煙できるカフェを探すもなかなか見つからない。やっと見つけたと思ったが、生憎そこは満席だった。
昔からせっかちで待つことを嫌う姉さんは何をするにしても10分も待てない。行列のできているお店には絶対に並ぼうとしないし、歩くのだって僕より早い。だから買い物もサクッと済ませるし、とにかく面倒くさがり屋。かといって免許も持っていないから僕に免許を取らせたがる。
本当にわがままな姉さんだ。そう思いながらも僕の家族は姉さんだけ。
あの事件以降、姉さんの存在は大きくなった。精神崩壊しそうな僕を支えてくれた唯一の人だから。
ようやく見つけたカフェに入るや否やいつもの頼んでおいてと言ってそそくさと喫煙所に向かった。
姉さんはブラックしか飲まない。サイズはM一択。Sだと少ないし、Lだと多すぎるらしいが、お店によって大きさが違うことに対しては目を瞑っている。コーヒーが苦手な僕からすると、よくもあんな苦いものを毎日好んで飲めるなと思うが、「あんたもいつか飲める日が来るよ」と言われ、いつかそんな日がくることを静かにそして薄く淡く願っていようと思う。
タバコを吸い終えた姉さんの顔はまるでサウナで整えてきたかのように清々しかった。
席に戻り、コーヒーを一口飲むとようやくHPが回復したようだ。
音楽と同じくらいタバコとコーヒーがないと生きていけない人、それが朝比奈 維澄という女性なのだ。
「姉さん、タバコ臭い」
ニコチンの強烈なニオイと酸味の強いコーヒーのニオイとが重なり眩暈がした。僕と二人のときは気が抜けているのかエチケットをしない。なんならちょっとニオイを嗅がせてくる。
「いい匂いでしょ?」
「どこかだよ」
電子タバコとはいえ、タバコはタバコ。非喫煙者からすれば洟をつむぐような独特なニオイであることに変わりはない。
「アキも吸ってみる?」
「僕がタバコ苦手なの知ってて言ってるでしょ」
こんな軽口を言い合えるのも二人きりになってからだ。
まだ我が家がごく普通の家庭だったころ、僕は姉さんとほとんど口を利かなかった。
誰の血を引いたのか、気が強く血の気の多い姉さんは高校生のとき揉め事を起こしてはよく母さんが呼び出され謝罪していた。それを知った父さんは姉さんと毎日口論していた。
酒癖が悪く、普段から少し棘のある言い方をする父さんと、オブラートに包むということを知らない姉さんはいつもバチバチで、当時のリビングの空気は最悪だった。
僕はそんな二人が嫌で、いつも母さんの部屋に逃げては本を読んでいた。そのときから漫画や絵本、小説を読むようになり、いまの僕の趣味の一つになっている。
喧嘩、喫煙、深夜の徘徊。
当時、問題ばかり起こす姉さんを僕は疎ましく思っていた。
どうして親に迷惑をかけるようなことをするんだって。でも父さんが逮捕され、母さんが亡くなってから姉さんに対する見る目が変わった。たしかに昔はやんちゃしていたけれど、母さんの力になるために専門学校を辞めて働いたり、父さんの代わりに僕のことを叱ってくれたり、何より自分軸を持っていて他人に流されない。
僕と違って思ったことを押し殺したりしないから、良くも悪くもストレスを溜めない人。行動に移すことで証明してみせる姿はかっこよかった。
一方の僕は一度考えて計画を立ててから行動に移すタイプだから、思い立ったら即行動タイプの姉さんからしたらじれったくて仕方ないだろう。
買い物を済ませ、家に戻る途中の電車で姉さんが口を開いた。
「アキ、あれからどう?良い人はできた?」
またそれか。
一緒に出かけるたびにそんなこと聞かないでくれ。
「そんなのいないよ……」
仮に良い人がいたって結局僕は幸せにはなれないし、相手を幸せになんかできっこない。いままで友達だと思っていた子たちも急に連絡がつかなくなったし、気になっていた子も事件のことを知った途端に遠ざかっていった。
(朝比奈の父親は人殺し)
その事実が呪縛のように僕の心身を縛りつける。だから成人式も同窓会も参加しなかった。
当たり前だ。人殺しの子と会いたいなんて思う人、いるわけがないんだから。
「あんたの気持ちもわかるけどさ、高校まで辞める必要なかったんじゃない?」
青春の代名詞の一つ、高校。学園祭や修学旅行、多くの出会いと思い出ができる玉手箱。しかし、それはあくまで普通に生活してきた人たちに限る。学費のこともあるし、姉さんばかりに負担をかけさせるわけにはいかない。それに正直言うとクラスに馴染めていなかった。
母さんが死んで生きる理由を見失った僕には普通に生活しているクラスメイトが眩しくも遠く見えてならなかった。教室の後ろでTikTokを撮る女子たちや校内で誰が一番可愛いかを話し合っている男子を見る度、その輪の中に入ることは決してないのだとわかっていた。安易に仲良くなって過去を知られたらまた距離が遠くなってしまうから。
心を開けば開くほど苦しみという名の重石の重量が増していく。だから当たり障りのない一定の距離を保つことでギリギリの綱渡りをしていた。その環境が苦しくて辛くて次第に僕の身体を止めていく。
周囲と異なる環境になってしまった人間にとって学校は監獄でしかない。
他人なんてみんな簡単に裏切る。
「もう、いいんだ」
友達なんて……そんなの、いらない。



