レンズ越しの彼らは恋を知らない


 放課後。逸る鼓動を懸命になだめながら理科室に行くと、室内は無人だった。
 鍵は開いていた。でも、誰もいない。

「……鴫原?」

 返事がないのは承知だが、つい呼んでみる。
 部活じゃないんだろうということは予想がついていた。そうでなければ僕にだけこっそりと囁く理由がない。
 十中八九、昼間の件について追及するためだろう。あの場ではそこまで気にしていないふうを装ったが、実際にはものすごく怒っているのかもしれない。
 そう思って緊張しながらやってきたのだが、数分待っても鴫原は現れなかった。

『もう理科室に来てる。そっちはどこ?』

 メッセージを送ってみるが、既読はつかない。
 仕方なく座って待つことにした。バッグから本を取り出す。数日前から読み始め、今朝も読んでいた本だ。
 15分ほど、黙々と読んでいただろうか。集中していて、足音が近づいていることに直前で気づいた。すぐにドアが開き、急ぎ足の鴫原が入ってくる。

「ごめん、担任に呼ばれてた」
「あ、うん」

 僕は慌てて膝の上の本を閉じた。

「待たせたよな。本読んでたの? なんの本?」
「そ、そんなに待ってないよ」

 早口に答えながら本をバッグに突っ込む。座って顔を突き合わせると余計に緊張しそうなので、椅子からも立った。
 鴫原はそんな僕の落ち着きない姿を、観察するような目で見てくる。どことなく面白がっているようにも見えた。

「……それで、今日はここで何するんだ?」

 無言の眼差しがひしひし刺さるのに耐えかね、自分から切り出す。
 鴫原は悪戯っぽく目を弧にした。

「わかってるくせに」
「……っ」
「前に真瀬が俺を屋上に引っ張ってった時と同じ。誰にも邪魔されないで話すため」

 さらりと言いながら、1歩僕との距離を詰める。
 核心を突かれる前に謝ろう。ドクッと鳴った脈動に押されるように、僕は口を開いた。

「昼間は仲間外れみたいなことしてごめん。でも悪気は全然なくて、鴫原がいると嫌だとか、そういうのじゃないから」
「えっ?」
「え?」

 鴫原は意表を突かれたようにきょとんとする。想定外の反応に、僕も面食らった。

「なに、真瀬、昼休みのことまだ気にしてたの?」
「や、だって……それを怒ってて呼び出したんじゃないのか?」
「怒ってないよ。まぁ多少は充と匡にムカついたけど。そもそも、怒ってたらその場でもっとキレてる」

 僕の勘違いに気づき、鴫原はクスクスと笑い出した。そしてからかうように目を細める。

「真瀬がわざわざ俺抜きであの2人としたかった話なんて、簡単に想像つくし」

 歌うように言いながら、テーブルに腰をあずけた。少し背を丸めてポケットに両手を入れ、流し目でこちらを見る。

「まどろっこしいことしなくても、俺と直接話せばよくね?」
「……!」

 そうか、何もかも見抜かれていたのか。僕は心の中で白旗を揚げた。
 僕だって、最適解を導きたいなら本人に聞くのが一番だということくらいわかっている。うっすら出ている回答の答え合わせも、鴫原がいなければできないのだ。

「俺、前におまえの表情フェチなだけじゃないみたいって話しただろ」

 心を決めて、鴫原が続ける話に耳を傾けた。彼の声は穏やかで、緊張している素振りはまったくない。余裕のある態度が、なんだか少しだけ悔しいけれど。

「最近は触ったりもしたいし、触れると嬉しいんだよね。って、口でも言ってるからご存知の通りだけど」
「……うん」

 そう。御崎が『ウケる』と言うくらい、もう何度も聞いていた。

「んで、俺がいっぱい触るとさ──」

 ふいに鴫原の上体が傾く。ポケットから出た左手がこちらに伸びて、するりと僕の手を取った。絡み合わされた指に、僕は体を硬くする。

「な、なんだよ」
「そう、それ。おまえ、目元がちょっとだけ赤くなんだよな。眼鏡でわかりにくいけど」

 やっぱり顔にも動揺が出ているのか。平然とごまかせているとは思っていなかったけれど、指摘されるとさらに恥ずかしい。

「そういう反応見るとヤバッて思って、もっと触りたくなる」

 擦るように指を動かされ、思わず手を引きそうになった。でも、鴫原がギュッと力を込めてきて叶わない。

「真瀬は俺に触られた時、どんなこと考えてんの?」
「どんなことって……」

 顔を覗き込むように尋ねられ、僕は視線を彷徨わせた。

「……困ってるよ。どうしていいかわからなくて」

 これが一番正直な答えだ。今だってそわそわしてしまうし、言ったそばからこの返答でよかったのかと心配にさえなってしまう。

「『困る』と『嫌』は別だよな。嫌ではない?」

 鴫原は相変わらず楽しげだった。テーブルに浅く座った体勢のままさらに体を寄せてきて、膝がぶつかるくらい近くなる。

「……嫌では、ないけど」
「そっか、じゃあ──」
「え、ちょっ……?」

 抱き寄せられそうになって、僕はとっさに身じろいだ。その時、動かした腕がテーブルの端に置かれたバッグにぶつかる。

「あっ」

 バッグは床に落ちて、開いたままだった口から中身がいくつか飛び出した。そういえばさっき急いで本をしまった時、閉められていなかった。

「余裕なくなると割とドジなとこあるよな、真瀬」

 鴫原が腰を屈め、自分の傍に落ちた本を拾ってくれる。でもその瞬間、僕は再びあっと声をあげた。つけていたブックカバーがペラッと外れ、表紙が──。

「……へぇ」

 本に視線を落とした鴫原が、小さくつぶやいた。カバーをつけ直して、そっとテーブルに置く。
 ……ああ、どうしよう。黙るよりむしろ何か言ってほしい。羞恥心で死にそうだ。

「真瀬ってほんと、俺を刺すのうまいよなぁ。やること可愛すぎ」

 鴫原は堪え切れないというように、口元をむずむずさせて笑っている。本に添えられていた手が僕の手首を掴み、引き寄せた。
 音もなく、手の甲に鴫原の唇が落ちる。

「俺の触りたいって、こういうこともしたくなる感じなんだけど」
「っ……」

 僕は何も言えない。耳の裏まで熱くなっているのを感じながら、じっとしていることしかできない。
 口を開いたところで、言い訳めいたことか微妙にずれたことしか出てこない気がする。でもきっと、鴫原は僕の心を見抜いているはずだ。その一端はさっき、もうさらけ出してしまった。
 言えないし、言うだけ無駄。

「これって、どういうことだと思う?」

 言葉のない僕を、体を屈めた鴫原が下から覗き込んでくる。

「答え、この本に書いてた?」

 ちらりと置かれた本に目をやった。再びカバーが着けられ、表紙は見えない。
 でも、その下にあるタイトルは──『恋愛指南書・初心者編 ~恋ってどんな気持ち? 好きに気づく100パターン~』。
 最適解を見つけようと、ここ数日ですでに3往復くらい読んだ本だ。だけど。

「……ぴったりくるのは、なかった」

 消え入りそうな声で答えた。頭の奥で響く心音がうるさい。
 鴫原はふふっとおかしそうに息をこぼして、

「そっか。でも、そんな本読んでる時点でほとんど答え出てるよね」
「…………」

 やっぱり返す言葉もない。
 その通りだ。納得したかったというか、確信が持ちたかったというか。その程度のもの。

「あーもー、ほんっといい顔する!」

 いきなり大声で言って、鴫原はガバッと僕に抱きついてきた。
 ビクッと体をすくめる僕。鼓動がますます高鳴り、でたらめなリズムを刻み始める。
 心臓がついていけずに爆発しそうだ。でも……死ぬほどドキドキしているけど、嫌ではない。

「きょ、許可取れよ……」
「抱きしめるのに? 取らないって」

 しどろもどろでつまらないことを言う僕を、肩に顔をうずめた鴫原は楽しそうな声でさらりとかわした。

「俺って、そういうの要らない特別でしょ」
「……確定事項みたいに言うな」

 まだ。まだだ。この期に及んで足掻くのかとツッコまれるかもしれないが、それでもまだ、100%じゃない。
 だって自信が持てない。そういう経験がこれまでにないから、正解にたどり着けているとは断言できない。色々と、普通じゃないとも思うし。

「えー。もう確定だと思うけどなぁ」

 鴫原は、いかにもやれやれという様子で抱擁を解いた。でも体は寄せたまま、両手で僕の眼鏡をすいっと外す。

「じゃ、もうちょっと試してみよっか」
「え──」

 唇をふさがれ、声の続きを封じられた。
 視界はワインレッドに染まっている。ああ、鴫原の眼鏡の色かとやや遅れてぼんやり思った。
 柔らかい感触は、僕の反応を確かめるようにゆるっと押し付けを強めてくる。背筋をなんとも言えない感覚が走って、僕は喉を震わせた。
 何秒くらいそうしていたのかよくわからない。鴫原がそっと唇を離すまで、完全に僕の時間は止まっていた。

「……真瀬?」

 目の前で、鴫原は妙に甘い声で僕を呼ぶ。

「鴫っ……君、なっ、何し──」
「キスした」

 言いながら、もう一度、今度は音を立てて短い吸い付くようなキスをした。
 ──こいつ。2回も、勝手に……!
 凍っていた思考がようやく動き出す。同時に燃えそうなくらい顔が熱くなってきた。

「いっ、一方的にするな!」

 盛大にひっくり返った声で叫んで、鴫原の肩を押し戻す。
 遠退くと鴫原の顔がよく見えなくなった。眼鏡がないからだ。

「ていうか眼鏡返せっ! なんで僕のを取るんだよ!」
「俺は真瀬の顔ちゃんと見たいもん」

 僕が眼鏡を奪い返してかけ直す横で、悪びれもせず言ってのける鴫原。
 何が『もん』だ。不意打ちをかましておいてどこまで調子がいいんだと、腹の中がぐらぐらする。
 ──悔しい。どうしてこの男はこうなんだ。こいつだけいつも余裕なんだ。
 ……僕は動揺やら羞恥やら混乱で、ほとんどパニック状態なのに。こんなに全身が熱くて、苦しいくらいドキドキしているのに。

「それよりどう、確定した? 俺はもうはっきりしてるけど」

 見透かすような瞳で艶っぽく微笑まれ、思わずぐぅっと唸ってしまった。

「……だとしても君には言わないっ!」

 すぐに冷静さを取り戻せるほどの、強靭なメンタルは持ち合わせていない。
 情けないけれど子供みたいなことを言ってうつむくと、長い腕がふわっと包んでくる。

「俺に言わなくてどうすんの」

 やっぱり楽しそうに、鴫原は笑っていた。