レンズ越しの彼らは恋を知らない


「……なんなんだよ、こんなところまで連れてきて」

 僕が掴んでいた手を離すと、鴫原はため息混じりに毒づいた。
 強引に彼を引っ張ってきたのは本館の屋上。体育祭前、割れないシャボン玉の試し打ちを行ったのと同じ場所だ。

「ちゃんと話がしたいって言っただろ」

 1メートルほどの距離を開け、鴫原と向かい合う。
 まずは伝えなくちゃいけない。僕が思っていることを全部、きちんと。

「鴫原があの質問した時、すぐに返事できなかったこと、あれからずっと後悔してた」
「っ……」

 話し始めると、鴫原は苦いものを飲み込んだような顔で目を伏せた。
 でも立ち去ろうとはしない。そのことに勇気をもらって、僕は先を続ける。

「一瞬考えてしまったんだ。言い訳にしかならないけど、大事なことほどよく考えて、正しい答えを出さなきゃいけないって思う性分だから。慎重派ってわけじゃないけど……」

 正確に明確に、正解を導きたい。昔からの癖みたいな思考。
 けれど今は、大事なことはそれだけじゃないとわかっている。
 直感や、直情的でいい時だってあるんだ。あの時は、僕がどうしたいかをただ伝えればよかったんだ。

「あの日に答えられなくてごめん。けど僕は、こんなふうに鴫原たちと疎遠になるのは嫌だ。周囲の目なんて関係ない。そんなことより、自分たちの意思を大切にしたい」
「…………」

 鴫原は聞いてくれている。でも、目が合わないのがもどかしい。
 だから数歩進んで開いている距離を埋め、もう一度鴫原の腕に触れた。
 震えるように顔を上げた鴫原と、ようやく視線が重なる。

「鴫原といるのは……もう生活の一部になってるっていうか、そのほうが自然だから。これからも、普通に付き合っていきたい」
「真瀬……」

 目を見て告げると、鴫原は瞳を揺らして空気のような声を落とした。

「鴫原、あの時言ったよな。僕につらい顔をさせたいわけじゃないって」

 風評被害で僕を苦しめたくない。そんなことを、彼は気にしていたようだけれど。

「僕は日野会長に責められたことより、君に絶縁宣言されたことのほうがつらかった。それに、さっきも」
「……さっき?」
「そうだよ。風紀委員の子たちがいれば自分は要らないだろ、みたいな言い方。なんなんだよ、あれ。はっきり言ってかなりグサッと来た」
「……!」

 鴫原が目を見張って息を詰める。

「……だって……実際、あの子らと楽しそうに……」
「うん、楽しいよ。いろいろ考え方が変わって、鴫原の言う通り風紀委員の仲間とも距離が縮まった。でも、それでどうして鴫原たちとの縁は不要って話になるんだよ」

 僕は鴫原とも付き合っていきたいのに。というか、むしろ──

「特別なのは、鴫原のほうなのに」
「えっ?」

 鴫原が弾かれたように肩を揺らした。再び、見開いた目でまじまじと僕を見つめてくる。

「特、別……?」

 あ、なんだか重たい言い方をしてしまっただろうか。
 でも、本当にそうなんだ。人間関係に比重をつけるなんてよくないのかもしれないが、委員の子たちとカフェに行った時痛感してしまった。

「うまく言えないけど、僕は鴫原たちといる時のほうが心地いいし、ワクワクするっていうか。君流に言えば、一番『いい感じ』になれるんだよ」
「……『いい感じ』」
「そう。だからその鴫原にああいう言い方されて、さっきはかなり堪えた。逆に風紀委員の子が同じことを言ったとしても、こんなには堪えないと思う」

 鴫原の上腕を握る手に、ギュッと力を込めた。
 どうか届いてほしい、伝わってほしい。

「僕につらい顔をさせたくないなら、これまで通り普通に接してよ」
「…………」

 鴫原の喉が小さく動く。結んだ口元に葛藤が滲んでいた。
 とても長く思える無言の間を、僕はじっと待つ。
 やがて、鴫原が細く息を吐いて沈黙を解いた。

「……さっきの言葉は謝る。悪かったよ」

 それを聞いて少しほっとする。でも、彼の声と表情はまだ硬い。速い鼓動を感じながら、「うん」と一言だけ返した。

「けど、現実問題、あのボヤ騒ぎのせいで生徒会長には俺らの悪いイメージが固定しただろうし……」

 鴫原の目線が逃げていく。腹の奥のほうがじくりと熱くなった。

「他にも同じように感じる生徒はいるはずだ。俺たちがつるんでたら、いい目では見られないよ。だからもう──」
「なんでそんなに遠慮するんだ」

 どうしてもその先を言わせたくなくて、僕は強い語気で邪魔をした。
 本当に、何をそこまで気にしているんだという気持ちだ。僕がかまわないと言ってるのに。

「僕のことが嫌になって、もう関わりたくないって言うなら受け入れるよ。けど違うよな」

 逃げた視線の先に回り込んで、正面から瞳をとらえて問う。鴫原の体がギクッと強張るのが、触れた部分から伝わってきた。

「切りたくない関係なら切らなくていいだろ。自分がしたいようにしろよ。会いたい時に会いに来て、話したい時に電話して、誘いたい時に誘ったらいいだろ。今、全部我慢してるんじゃないのか。誰かに遠慮するなんて似合わないことするなよ」
「は? 別に、我慢なんてしてな──」
「じゃあ、これは?」

 たまりかねたように鴫原が反論しかけるが、それも遮った。だって、彼の本音は目の前に見えているんだから。
 グッと掴んだ鴫原の右肩のバッグを、彼にも見えるように胸のほうへ引き寄せる。

「まだ大事に、毎日持ち歩いてくれてるのに?」
「……っ!」

 バッグを見た鴫原の頬にさっと朱が走った。

「これはっ……」

 見えていたマスコットを押し込み、急いでファスナーを閉める。けれど、今さらそんな行為に意味はない。
 こんなにわかりやすく慌て、赤面する顔も初めて見た。
 何を抑え込んでも、隠してもいない、素の表情だ。
 確信はあったが、やっぱり間違っていなかったと安堵する。同時に、無性に胸が熱くなった。

 ──鴫原のこういう顔を、もっと見たい。

「つまらないことを気にするの、やめないか。前みたいに戻ってよ」

 鴫原が俯き、再び沈黙が横たわる。トクトクと焦燥を追い立てる拍動を、僕は奥歯を噛んで耐えた。

「……はぁ、完敗」

 コンクリートの床に気の抜けたような息が落ちた。次に僕を見た鴫原は、笑っている。
 苦笑だが、どこかすっきりして見えた。

「わかったよ。今まで通りに戻る」
「……! あ、ありがとう」

 よかった。やっと心の底から安心して、一気に体の力が抜けた。へなへなと座り込んでしまいたいくらいだ。思わず中腰になり、膝に手を置いてはぁーっと腹の奥から息を吐き出す。
 そんな僕に、頭上から鴫原の声が降ってきた。

「けど、ひとつだけ訂正していい?」
「え……訂正?」

 なんだろう。体を起こすと、鴫原は穏やかな微笑を浮かべて、

「真瀬は俺が遠慮してるって言ったけど、それは違うよ。誰にも遠慮なんかしてない。単に、俺が嫌だったんだ」
「嫌って、何が」
「だから、あの時言った通り、真瀬につらい顔をさせるのが。あと、俺がそんな真瀬の顔を見るのが。ただ本当に、それが嫌だっただけ」

 話しながら上体を少し屈め、僕と目線の高さをぴったり合わせてくる。

「俺のせいで真瀬がつらい顔や悲しい顔をするのは、俺的に絶対NGなの。ほら、俺っておまえの表情フェチだから」

 なんだかいい顔でまた奇妙なことを言い出した。しかし、鴫原はいたって真面目でふざけている様子はない。

「驚いてたり、慌ててたり、もちろん笑顔とか照れた顔も。そういうのはすごくいい。『この表情は俺が引き出したんだ、やったな』って思う。けど、おまえがつらそうなのはダメ。だから、俺がその原因になるんだったら関わるのはやめようと思った」

 そう言うと、鴫原は自嘲的にふっと笑った。

「おまえ、前よりずっと表情豊かになったし。楽しそうにしてんのをたまに見かけられたら、それでいいかって思ってた──はず、だったんだけど」

 ──え、『だけど』?
 意味深な接続詞で止められ、つい眉を寄せて首をかしげる。鴫原は困ったように肩をすくめた。

「これは俺も今日初めて気づいたんだけど、違ったみたい。だから自分でも軽く動揺しちゃってて、さっきああいう言い方になった。ごめん」
「……よくわからない。どういうことだ?」
「おまえが風紀委員の子たちと楽しそうに話してるの見て、よかったって思えなかった。それどころか、なんかイラッとした。他のやつに笑いかけてるの見ても嬉しくない」
「え……」

 もしかして、あの時どこか怒っているように見えたのはそういう理由だったのか? いや、でも、

「なんで?」

 疑問をそのままぶつけると、鴫原も思案するように視線を宙へ巡らせた。

「なんでだろ……面白くないんだよな」

 うーんと唸り、顎に指を当て、鴫原は一人で悩み始める。口を挟むこともできず見守っていると、しばらくして彼は「あ」と声をあげた。そして急いた様子でバッグを開けると、先ほど押し込んだサルのマスコットをペンケースごと取り出す。
 サルがどうしたと思っている僕に、鴫原はそいつのちょっと間抜けな顔を向けて、

「真瀬、これくれた時、俺が一番だって言ってくれただろ。真瀬に楽しいことを教えた一番の人は俺、みたいなこと」
「ああ、うん」

 たしかに言った。そのお礼として渡したマスコットだ。
 鴫原は、今度は自分にサルの顔を向け、親指と人差し指でふにふにとつまんだ。

「だから、真瀬の笑顔は俺の発掘したものなのに、他のやつに向けられてるのが面白くないのかも。それには俺のRマーク付いてんだぞ、的な」
「は……Rマークって、登録商標の? なんだよ、それ」

 さらに突飛なことを言い出したと思わず失笑すると、鴫原はすねたような半目になった。

「自分が見出したものにその証のマーク付けるのは、研究者にとっちゃ超大事なことなんだよ」
「いや、意味わからない。勝手に人にマーク付けようとするな」

 これを冗談でなく本気で言っているようなのだから、やっぱり絶妙に感覚のずれた男だ。
 すっかり毒気が抜かれてしまい、僕はクスクスと笑い続ける。ほら、こんなふうに予想もつかないことで笑わせてくるのだって、鴫原だけだ。

「まぁとにかく、避けたりしないで普通に接してくれるならそれでいいよ。僕、君といればいくらでもいろんな表情引き出されてくと思うから」

 スイッチが入ってしまって、クックと喉を鳴らしながら告げる。
 と、鴫原の靴底が床を擦る音がした。
 伏し目がちになっていた僕は顎を上げる。

「まな──」

 いつの間にか、鴫原の顔が近くなっていた。左手が伸ばされ、頬に触れようとしている。

 ──え?

 僕を呼びかけた鴫原の声は途中で切れ、一人分くらいの距離を開けてレンズ越しの瞳がぶつかった。
 え……なんだ?
 ドクンと心臓が大きく弾んだのとほぼ同時に、鴫原はハッと我に返ったようだった。速い瞬きを数回して、サッと手と体を引く。
 そしてその後は、呆けたような顔で自分の左手を見ていた。

「……鴫原?」
「あ……うん、ごめん」

 ためらいがちに呼ぶと、取り繕うような謝罪が返ってくる。微妙な空気が漂った。

 ──なんだったんだ、今の。
 聞きたいけれど、聞けない。当の鴫原も状況がのみ込めないような表情をしている。
 本当に、僕には予想のつかないことばかりする男だ。距離感もおかしくて、ベタベタ触れてくることも多いし。
 ……けど、さっきのは……。

「帰ろっか」

 空気を変えるような鴫原の声が、思考に割り入ってくる。僕はビクッと肩を跳ねさせ、ぎこちなく口角を上げた。

「そ、そうだな」

 ──とりあえず、やっと関係を修復できたんだ。今は余計なことを考えるのはやめよう。
 意識を切り替え、2人で屋上を後にした。