レンズ越しの彼らは恋を知らない


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「充のやつ、自分が誰よりガバガバ飲んでんのにな~」
「だね」

 コンビニからの帰り道を、鴫原と歩く。ジャンケン1戦目で僕と鴫原が綺麗に負けたので、2人で買い出しに出ることになった。
 学校最寄りのコンビニは徒歩5分ほどの距離だ。今日は曇っているけれど、湿度が高いせいかジトッと蒸し暑い。一人ひとつずつコンビニ袋を持ち、僕は空いているほうの手で額に滲んだ汗を拭った。
 もう6月が終わる。これからどんどん暑くなっていくだろう。

「それにしても、この学校はお菓子持ち込みOKでありがたいわ」

 唐突に鴫原が言うので、僕は一瞬きょとんとした。

「この学校って……ああ、編入してくる前の学校はできなかったのか?」
「できなかった。かなりカタいとこでさ。ここも校則それなりにうるさいけど、前んとこよりはマシ。おかげで前よりはまだ楽しいほう」
「へえ……」

 校則は社会全体的に緩和の流れがあるし、我が森宮高校でも僕たちが入学する数年前に、生徒運動によりスマホの持ち込みが解禁されたと聞いている。実際には解禁前からみんなこっそり持参していたそうだし、どの学校にも形ばかりの校則というのは多そうだけれど。
 でも鴫原がこう言うってことは、前の学校は本当にお菓子の持ち込みが固く禁止されていたということで……。

「前の学校、かなり厳しかったんだな」
「そうなのよ。生徒の大半がボンボンの、お坊ちゃん高校だったからねー」

 鴫原は当時の心象を表すように、しおれた顔でどっぷりと肩を落とした。

「お坊ちゃん……」
「そそ。実は、こう見えてけっこういいとこのお子さんなの、俺」

 自分の顔を指差しながら、なんでもないことのように話す。
 そうだったのか。いや、急にそんな話をされても、聞かされる側はちょっと戸惑うんだけれど。

「充と一緒だったのもお受験で入った私立小学校で、そこから別の中高一貫学校に進んだ。ほんっと、退屈なうえに窮屈だったわ~。充と匡がいなかったら息抜きの場所なかったかも」
「……大変だったな、それは」
「うん。だから転校できてよかった。あ、転校は、学校の理事長とうちの父親がケンカしてくれたおかげでできたんだよね」
「は? どういうこと?」
「もともと高校の理事長と、うちの父親が仲良くて。その縁で入れって言われて入ったとこなんだよ。けど、投資問題で2人が揉めて絶縁してさ。『もう寄付金なんぞ1円も入れん! 転校する気はあるか』って聞かれたから、喜んでするって答えた」
「な、なるほど……」

 一般家庭育ちの凡人には馴染みのない世界だ。にわかに頭が追いつかない。話自体が唐突だし。

「というか、どうして僕にそんな話を?」
「さっき、俺らの馴れ初め聞いて気になってたんじゃないかと思って」

 ああ、だからか。僕が軽く混乱したことに気づいてたんだ。

「それは……うん。よくある親の転勤とかで、他県から来たのかと思ってたから」
「だよな」

 鴫原はニッと笑う。両家の子息だというが、それを鼻にかけるような、居丈高な空気はまったくない男だ。そこまでカタい学校より、うちのほうが合っていると僕も思う。

「よかったな、森宮に来れて」

 自然と微笑みが浮かぶのを感じながら、そう告げた。
 鴫原が望んでここに来て、前よりはいい環境だと思えているなら、同じ学校の生徒として単純に嬉しい。風紀委員長としては、問題は起こさないでほしいけれど。

「……」

 鴫原は、無言でレンズの向こうの目をわずかに丸くした。
 何を驚いたんだろうと、僕も目を瞬く。

「どうした?」
「いや。……家のこととか、聞こうとしないんだ?」
「鴫原の家のこと? うん、別に聞かないけど」
「なんで?」
「……なんでと言われても、聞く必要ないし。さっきの転校の事情みたいな、つじつま合わないことがあると少し気になるけど。そうじゃなければ、特に」

 つじつまが合わないと気になって明確な正解を求めたくなるのも、僕の個人的な性分だ。不躾だろうし、尋ねるつもりはなかった。

「そもそも言いたいことなら君、自分からどんどんしゃべるだろ。話したいなら聞いてやるよ」

 そう続けると、鴫原は我慢できなくなったようにプッと噴き出す。

「やー、はは。そういうとこ、ホント真瀬だよな~」
「何、それ。どういうとこ?」
「僕いいトコのお坊ちゃんです、なんて聞いたら、色々下世話なこと探りたくなるもんでしょ。つっても、俺も真瀬なら平気かなと思って話したんだけど」
「……? どんな家かに関係なく、他人の家庭事情に興味はないよ」
「あはははっ。そうだなー、それでいいよなー」

 何がそんなにおかしいのか、鴫原はずっとニマニマしている。
 変なやつだと呆れ始めた時、ポツッと頭に冷たいものが落ちてきた。

「あ……」
「うわ、雨か」

 鴫原も左の手のひらを上向け、空を仰ぐ。
 気づいていなかったけれど、学校を出た時より雲の濃さが増していた。
 あっという間に、ポツポツポツッと連続して水滴が落ちてくる。学校まではあと2分というところだ。

「走るか」

 言うと同時に鴫原が走り出した。僕も「うん」と後に続く。
 けれど、雨の勢いは予想以上だった。瞬く間に本降りになってしまう。シャツがどんどん濡れていく。

「ヤバ、ゲリラ豪雨じゃん! 真瀬、急げっ」

 鴫原が僕を振り返った。情けないかな、僕も懸命に走っているのだが、足が遅いので鴫原に追いつけない。むしろ差が開いていっている。

「急げって!」
「い、急いでるけどっ。リレーに選抜される君と同じように走れると思わないでよっ……!」
「あー、はいはい、そうね。わかったよ、じゃあ──」

 鴫原の左手が伸びてくる。僕の手を掴み、ぐいっと引いた。

「え、なっ……?」

 いきなりのことに、一瞬心臓が大きく跳ねる。

「ほら、引っ張ってやるから!」
「ええっ……!?」

 言葉通り、鴫原はぎゅっと繋いだ手を遠慮なく引いて、走るスピードを上げた。
 速い。僕は足をもつれさせないよう必死でついていく。

「校門見えたぞ、あと少しっ」
「ま、待って……!」

 すでに地面もすっかり濡れていて、バシャバシャと音を立てながら懸命に走った。
 鴫原、本当に足速いな。なんとかついていき、ようやく昇降口に駆け込む。

「うあー、冷たっ」

 繋いでいた鴫原の手が離れた。彼はその手で、濡れた前髪を掻き上げる。
 ……鴫原って指長いんだな。
 繋いでいた時のすっぽり包み込まれるような感触がまだ残っていたので、ついぼうっと見ながらそんなことを考えた。

 待て、違う。ぼうっとしているのは頭じゃなくて視界そのものだ。眼鏡のレンズが濡れてしまって、よく見えない。
 僕は眼鏡を外して、荷物を提げたほうの手でズボンのポケットを探った。

「びしょ濡れは免れたな。けどけっこう濡れたぁ」

 言いながら、鴫原も同じように眼鏡を外している。僕は裸眼だと両目で0,3くらいなので、もう彼の姿もだいぶぼやけているけれど。

「シャツ張り付いてキモ。あー、眼鏡拭くものなんもないや。服も濡れてんし」
「待ってて、僕のハンカチ貸す」

 ちょうどポケットからハンカチを引っ張り出した僕は、まず自分の眼鏡を拭き始めた。
 と、ガサッとコンビニ袋の音がして鴫原の気配が近づく。
 待てないのかよせっかちだなと思いつつ顔を上げた僕は、思わず息を詰めた。
 鴫原の顔が、すぐ目の前にある。それこそ、裸眼なのにちゃんと見えるくらい。

「え、近っ……な、なに?」

 特徴的なワインレッドフレームの眼鏡がない鴫原は、なんだか別人みたいに思えた。長いまつ毛に縁取られたアーモンド形の目やまっすぐな鼻筋の、造形のよさが際立つ。
 今さらだけど、とんでもなく綺麗な顔だ。こんな綺麗な顔のドアップは心臓に悪い。けれど鴫原のほうは平然として、

「眼鏡かけてない顔見たいなって。けどここまで近づかないと見えないから」
「み、見なくていいでしょ、そんなの」

 僕は顔を背けて視線から逃げる。

「いやいや、見たことない顔は見たいっしょ。印象変わるじゃん」

 言うなり、鴫原は僕の顎を掴んだ。クイと正面を向かされ、再び視線がかち合う。

「ちょっ、離せ……!」
「ふーん。そっかそっか、眼鏡ないとこんな感じか~」
「っ、おいっ!」

 指3本で固定されているだけなのに、力が強くて顔を動かせない。しかもさっきよりじーっと覗き込んでくる。
 本気で近すぎるんだが。なんでそんなに楽しそうなんだ。眼鏡がない鴫原は普段より柔らかい印象なので、余計にそう見えるのか?

「幼くなるなぁ。中ボーみたい」
「はぁっ!?」

 中学生だと? とたんにカチンと来て、強硬手段に出た。顎を掴んでいた手を思い切り引っぱたいてやる。

「いたっ。何すんだよ」
「うるさい、こっちのセリフだ」

 やっと解放された僕は背中を向けて眼鏡を拭き、急いで装着した。振り返ると、鴫原はケロッとしている。

「拗ねた?」
「拗ねてない」
「えー。その表情は拗ねてるだろ」

 嬉しそうにニコニコしながら、今度は左手を僕の腰に回してきた。なぜ腰を抱く必要がある?

「真瀬ってそういうとこ可愛いよな」
「拗ねてないって言ってるだろ、離せよ」

 巻きつく腕を強引に引き剥がし、その手にハンカチを押し付けた。

「さっさと拭け」
「はいはい。ありがたく借りる」

 苦笑混じりに言い、眼鏡を拭いてかける。いつもの姿に戻ると、何事もなかったように靴箱のほうを向いた。

「戻って着替えよ。俺ら実験で汚れた時用に、着替え常備してるから貸すよ」
「……ありがたく借りる」

 その後、理科室に戻って借りた服に着替えて。打ち上げは、下校時間間際まで続いた。
 帰り道でのことなんてもう忘れたかのように、鴫原は普通だ。僕の素顔を見て幼いと言ったことも、彼にとっては大した意味もないのだろう。
 僕はほんの少しだけ、それが面白くなかった。……断じて拗ねているわけじゃないけど。