初恋ノクターン

「ただいま」


 一瞬。
 瑠花の顔がくしゃっと歪んだ。


 そして。
「……お帰り」

 涙を流しながら。
 笑った。



「律」
「うん」
「お帰り」
「……ただいま」

 その言葉を聞いた瞬間。
 二年間、胸の奥に抱えていた孤独が、静かにほどけていった。
 遠く離れた場所で、何度も帰りたいと思った。
 けれど、帰るということが、ただ日本へ戻ることではないと気づいていた。

 オレが帰りたかったのは、瑠花が待っている場所だった。
 待っていると言ってくれた、その言葉の中だった。
 だから今、瑠花の声で「お帰り」と言われて。
 ようやく、二年間ずっと宙に浮いていた自分の時間が、ここへ戻ってきた気がした。

 それだけで。
 二年間が、全部報われた気がした。
 瑠花が、オレの頬に触れる。

「大きくなったね」
「身長?」
「それも」
「何センチだと思ってんの」
「知らない。でも前より高い」
「瑠花が縮んだんじゃない?」
「縮んでないし」
 泣いていたくせに、いつもの顔で睨んでくる。
 懐かしくて。
 笑った。

「あと」
「ん?」
「なんか……男っぽくなった」
「二年経ったからな」
「声も」
「さすがに十九だし」
「……変なの」
 瑠花が、オレを見上げる。
 その視線に。
 今度はオレのほうが気づく。

「瑠花も」
「え?」
「変わった」
「どこが?」
「……大人になった」
 二年前にも十分大人だったはずなのに。
 今、目の前にいる瑠花は。
 記憶の中よりずっと綺麗だった。
「何それ」
「そのまま」
「……」
 瑠花の頬が赤くなる。

「二年ぶりに会って、いきなりそういうこと言う?」
「思ったから」
「律のくせに」
「何だよ、それ」
 また笑う。
 こんな会話さえ。
 ずっと恋しかった。

 そして。
 ふと。
 瑠花の表情が変わった。

「ねえ」
「ん?」
「あたし、ちゃんと待ったよ」

 その一言に。
 胸の奥が熱くなった。

「うん」
「二年間」
「うん」
「浮気もしないで」
「そこは疑ってない」
「律は?」
「してない」
「ほんと?」
「する暇もなかった」
「暇があったらするみたいな言い方やめて」
「しないって」
「……ならいい」

 瑠花が。
 少しだけ背伸びをした。

「え――」
 頬に触れていた手が、そのまま首へ回る。
 そして。
 唇が重なった。

「……」

 二年ぶりのキス。

 一瞬。
 頭が真っ白になった。

 触れただけ。
 ほんの短いキス。
 それなのに。

 二年間触れられなかった分まで、一気に胸へ流れ込んでくる。

 瑠花が離れる。
 頬を赤くして。
 でも。
 嬉しそうに笑っていた。

「……お帰りのキス」
「ここ空港」
「知ってる」
「人いるけど」
「知ってる」
「……恥ずかしくないの?」
「二年待った彼氏にキスして何が悪いの」
「……」

 強い。
 やっぱり。
 瑠花には敵わない。
 でも。
 二年前のオレなら。
 たぶん、真っ赤になって固まっていただけだった。
 今は。

「瑠花」
「なに――」

 今度は。
 オレから。
 唇を重ねた。

「……っ」

 さっきより。
 少しだけ長く。


 二年間。

 会いたかった。
 触れたかった。
 抱きしめたかった。
 全部を伝えるみたいに。

 ゆっくり離れる。

「……律」
「何」
「二年前より、積極的になってない?」
「ウィーンで成長したから」
「そこ成長する必要あった?」
「知らない」
 瑠花が吹き出した。
 その笑顔を見て。
 やっと。
 本当に帰ってきたんだと思った。

 二年間。
 ずっと夢見ていた場所。

 日本でもない。
 家でもない。
 オレが帰りたかった場所は。
 たぶん。
 最初から。
 ここだった。

 瑠花の隣。

「行こう」
「どこ?」
「家。一回荷物置く」
「うん」
「それから」
「それから?」
 オレは瑠花の手を取った。
 二年ぶりに握る手。
 指を絡める。
 その手を離したくないと思った。

 ウィーンで何度も、隣に誰もいないことを思い知らされた。
 嬉しいことがあっても、最初に伝えたい相手は遠くにいた。
 苦しい夜も、抱きしめてくれる腕はなかった。
 だから今度こそ。

 この手の温度を、記憶に戻したくなかった。
「瑠花の部屋、行っていい?」
「……いいよ」
 少しだけ間があった。
 それから。
 瑠花がオレの手を強く握り返す。
「今日、帰さないから」

「え?」
 瑠花が笑う。
「今夜、泊まって」

 心臓が。
 大きく跳ねた。
 二年前。
 十七歳だったオレは。
 瑠花を置いていくことが怖くて、一度は別れようとした。

 でも。
 二年間離れて。
 ようやくわかった。
 離れていても。
 好きでいることはできる。
 待つことも。
 待たれることも。
 一人じゃできない。
 二人で続けてきたから。
 今日がある。

 オレは。
 瑠花の手を握ったまま、笑った。

「……うん」

 二年間。
 待たせた。
 その間、寂しい思いも、不安な思いもさせた。
 それでも、瑠花は待っていてくれた。
 だから。

 今度はもう。
 簡単には、この手を離さない。