初恋ノクターン

 *
 日本に着いた。
 二年ぶりに踏む、日本の地。
 長いフライトを終えて入国審査を抜け、預けていたスーツケースを受け取る。

 右手でキャリーケースを引き。
 左肩には、二年間ずっとオレと一緒だったヴァイオリンケース。
 到着ロビーへ続く通路を歩きながら、妙に心臓がうるさかった。
 演奏会の本番でも、こんなに緊張しなかった。
「……いるかな」

 いや。
 いる。

『何時に着くの?』
『絶対迎えに行くから』
 数日前から何度も確認された。
 飛行機が遅れたことも連絡してある。

 二年間。

 画面越しには、何度も見た。
 声だって、何度も聞いた。
 それでも。
 直接会うのは、二年ぶりだった。
 自動ドアが開く。

 到着ロビー。
 大勢の人。
 名前を書いた紙を持っている人。
 家族を待っている人。
 スマホを見ている人。
 その中を。
 探す。


 どこだ。
 瑠花。



 ――いた。

「……」


 一瞬。
 足が止まった。

 二年前より髪が伸びていた。
 服装も、少し大人っぽくなっている。
 十九歳だった頃の面影を残しながら。
 二十二歳になった瑠花が、そこにいた。
 スマホを握ったまま、落ち着かない様子で何度も到着口を見ている。
 その姿を見ただけで。

 二年間という時間が、一気に押し寄せてきた。

 会いたかった。
 ずっと。
 本当に。

 ウィーンの部屋で一人、練習を終えた夜も。
 窓の外に雪が降るのを眺めながら、誰とも言葉を交わさなかった夜も。

 演奏がうまくいかず、悔しさを抱えたまま眠った夜も。
 スマホに届いた瑠花の「おやすみ」を何度も読み返して、それだけを頼りに目を閉じた。

 時差のせいで、話したいときに話せない日もあった。
 声を聞きたいのに、瑠花が眠っている時間だったり。
 向こうが寂しいときに、オレは練習中だったり。
 画面の中の笑顔に触れることもできず、通話が終わったあとに残る静けさだけが、部屋いっぱいに広がった。
 それでも。

 毎日を過ごせたのは、瑠花が待っていると知っていたからだ。
 帰る場所があると、信じていたからだ。

「瑠花」
 声に出した。
 人の声に紛れるくらいの、小さな声だった。
 聞こえるはずなんてない。
 なのに。

 瑠花が、顔を上げた。
 目が合った。

「……律?」
 唇が動く。
 次の瞬間。

「律!」
 走ってきた。

「え、ちょ――」
 ドン。
「うわっ」
 勢いそのままに飛び込んできた瑠花を、両腕で受け止める。

 懐かしい。
 匂いも。
 温もりも。
 抱きしめた感触も。
 全部。


 二年間。
 どれだけ欲しかったかわからないものが。

 今。
 腕の中にある。

 抱きしめた瞬間、張りつめていたものが切れた。

 会える日を何度も想像した。

 空港で瑠花を見つけたら、まず何と言うか。

 どんな顔をするか。

 泣くのか、笑うのか。

 そんなことを、遠い異国の部屋で何度も考えた。
 でも。


 実際に腕の中へ飛び込んできた瑠花の重さと温かさに触れたら、考えていた言葉は全部消えた。

 ただ、ここにいる。
 ちゃんと生きて、待っていてくれた。
 オレも、帰ってこられた。
 その事実だけが、胸の奥で何度も繰り返された。

「……瑠花」
「律……」

 ぎゅっと。
 背中へ回された腕に力が入る。

「律」
「うん」
「律……!」
「うん」
 何度も。
 名前を呼ばれる。

「本物だ」
「何それ」
「だって……」
 声が震えていた。

「ずっと画面の中だったから……」
 胸が締めつけられた。

「……うん」
 オレも。
 同じだった。

 スマホ越しの笑顔じゃない。
 手を伸ばせば。
 ちゃんと触れられる。
 抱きしめられる。

 この温もりを、二年間ずっと覚えていた。
 忘れないように、忘れてしまわないように。

 通話のあと、画面に残った瑠花の顔を見つめながら、何度も思い出した。
 けれど、記憶の中の温もりは、どれだけ大切にしても記憶でしかなかった。
 今、腕の中にいる瑠花は違う。

 呼吸をして、震えて、オレの服を掴んでいる。
 待っていた時間が、ようやく現実に戻ってきた気がした。

「瑠花」
「……なに?」
 少しだけ身体を離す。
 目が合った。
 泣いていた。

「……泣くなよ」
「誰のせいよ」
「オレ?」
「律以外に誰がいるの」
「ごめん」
「二年も待ったんだから」
「……うん」

 二年前。

『あたし、待ってる』
 そう言った。
 そして。
 本当に待っていてくれた。
 だから。
 言わなきゃいけない。

 二年間。
 ずっと言いたかった言葉を。

「瑠花」
「うん」
 笑う。