初恋ノクターン


 *

 十八歳になった頃。
 音が変わった。
 自分でも、それがわかった。
 技巧だけじゃない。
 一つのフレーズをどう歌わせるのか。
 どこで息をするのか。
 何を伝えたいのか。
 初めて、自分で考えるようになった。

「以前よりいい」
 そう言われた日。
 嬉しかった。
 ほんの一言。
 それだけなのに。
 認めてもらえた気がした。

 その夜。
 真っ先に瑠花へ連絡した。
『今日、褒められた』
『え、珍し』
『おい』
『うそうそ。よかったじゃん!』
『少しは上手くなったかも』
 すると。

『少しじゃ困る』
『二年待つんだから、めちゃくちゃ上手くなって帰ってきてもらわないと』
「……ハードル上げんなよ」
 でも。
 嬉しかった。
 帰る場所がある。
 待っている人がいる。
 それは。
 思っていた以上に、大きな支えだった。

 *

 二年目。

 演奏の機会も増えた。
 小さなホール。
 学生同士の演奏会。
 室内楽。
 時には、ソロ。
 ステージへ立つたびに。
 客席のざわめきが静まり、照明の熱が頬に触れる。譜面台の白い紙がわずかに揺れ、弓を握る手のひらに汗がにじんだ。最初の音を出す直前の、息を呑むような沈黙。その静けさが、いつも胸を高鳴らせた。

 父さんのことを思い出した。
 子どもの頃。
 ステージの袖から見た父さんは、いつも大きかった。
 何千人もの観客を前にしても。
 堂々と立ち。
 一本のヴァイオリンだけで、会場全体を自分の世界へ連れていく。
 弓が弦を擦る音。
 木の箱から生まれる深い響き。
 それがホールの壁を震わせ、客席の隅々まで満たしていく。

 ずっと。
 あんなふうになりたかった。
 でも。
 二年間学んで、少しだけ考えが変わった。
 父さんになりたいわけじゃない。
 父さんと同じ音を出したいわけでもない。
 オレは。
 オレの音を見つけたい。
 そう思うようになった。

 *

 もちろん。
 順調なことばかりじゃなかった。
 上手く弾けない日もある。
 何度練習しても、納得できない。
 周りとの差に落ち込む。
 自分には才能がないんじゃないかと思う。
 そんな夜は。
 瑠花に電話した。

「もしもし」
『んー……』
「寝てた?」
『寝てない……』
「寝てる声じゃん」
『律だから起きた』
 そこで。
 何も話せなくなる。

 窓の外では、ウィーンの夜が静かに更けていた。遠くを走る路面電車の音が薄い壁を震わせ、冷えた窓ガラスに自分の顔がぼんやり映っている。

『どうしたの?』
「……別に」
『またそれ?』
「え?」
『律、しんどいとき絶対“別に”って言うじゃん』
「……」
 敵わない。

「今日、全然ダメだった」
『そっか』
「同じクラスの奴がめちゃくちゃ上手くて」
『うん』
「オレ、何やってんだろって思った」
『うん』
 瑠花は。
 無理に励まさなかった。
 ただ聞いていた。
「……ごめん」
『なんで謝るの?』
「こんな話」
『いいじゃん。彼女なんだから』
 その言葉だけで。
 救われた。

 *

 日本では。
 瑠花も大学生活を送っていた。
 友達が増えた。

 授業。
 レポート。
 アルバイト。
 サークル。
 オレの知らない瑠花の時間が、少しずつ増えていった。

 写真を見て。
 知らない男が写っているだけで、妙に気になる。

『こいつ誰』
『同じゼミ』
『近くない?』
『集合写真なんだけど』
『瑠花の隣じゃん』
『めんどくさ』
「……」

 自分でも面倒くさいと思う。
 遠距離なんて余裕だと思っていた。
 全然そんなことなかった。
 瑠花が何をしているのか。
 誰と一緒にいるのか。
 見えない分だけ、不安になる。
 でも。
 それは瑠花も同じだった。

『律さ、この前一緒に演奏してた女の人誰?』
『ピアノ伴奏』
『美人だった』
『だから?』
『別に』
「……」
 同じじゃん。
『妬いてる?』
『妬いてない』
『ふーん』
『何その返事!』
 画面を見ながら笑う。
 離れているからこそ。
 言葉にしないと伝わらないことがある。

 不安も。
 寂しさも。
 格好つけずに話すようになった。
 それも。
 留学する前のオレには、できなかったことだった。

 *

 二年目の冬。
 大きな演奏会への出演が決まった。
 ソリストとしてではない。
 それでも。
 オレにとっては、今までで一番大きな舞台だった。

 本番。

 ステージに立つ。
 照明が落ちる。

 客席の気配が一斉に沈み、何百人もの呼吸がひとつの静けさに溶けていく。指先に弦の硬さを感じ、松脂の乾いた匂いが鼻をかすめた。

 弓を構える。
 その瞬間。

 瑠花の顔が浮かんだ。


『プロのヴァイオリニストになって、あたしのところに帰ってきてよ』


 まだ。
 プロにはなっていない。
 でも。
 二年前のオレとは違う。
 そう思えた。

 弓を下ろす。
 最初の一音。

 細い音が静寂を切り裂き、やがてホールの奥へ伸びていく。弦の震えが指先から腕へ伝わり、床と空気を通して客席へ広がっていくのがわかった。

 その瞬間。
 初めて。
 自分の音だと思えた。

 *


 演奏が終わったあと。
 最後の響きが消えても、しばらく耳の奥には音が残っていた。拍手が波のように押し寄せ、熱を帯びた空気がステージを満たす。

 すぐにスマホを開いた。
『終わった』
 送る。
 少しして。
『どうだった?』
 返ってきた。
 オレは少し考えて。
『今までで一番よかった』
 そう送った。
『じゃあ帰ってきていいよ』
「何その許可」
 笑った。
『もう二年だもん』
 その文字を見て。
 胸が鳴った。
 もう。
 二年。
 長かったはずなのに。
 振り返れば、一瞬だった。

『瑠花』
『なに?』
『もうすぐ帰る』
 しばらく。
 返事が来なかった。
 そして。
『うん』
 たった一文字。
 そのあと。
『待ってる』
 二年前と、同じ言葉。
 でも。
 オレには、その重さがわかった。
 瑠花は本当に。
 二年間。
 待っていてくれた。


 *


 十九歳。

 帰国の日。
 スーツケースに荷物を詰める。

 ヴァイオリンケースを手に取った。
 二年前。
 ここへ来たときより。
 少しだけ身体も大きくなった。
 髪も伸びた。
 声も変わった。
 そして。
 ヴァイオリンも。
 たぶん。
 オレ自身も。
 変わった。
 部屋を見渡す。

 窓の外には、薄い朝霧の向こうにウィーンの街並みが広がっていた。石畳を踏む靴音、遠くで鳴る鐘、冷たい空気に混じるコーヒーの香り。そのすべてが、もう二度と同じ形では戻らない時間のように感じられた。

「……帰るか」

 日本へ。
 父さんと母さんのところへ。
 そして。
 誰より先に。
 瑠花のところへ。


 二年前。
『帰ってきたら、一番最初にあたしに会いに来て』
 そう言われた。
 約束した。
 だから。
 次に瑠花と会ったら。

 最初に言う言葉は、もう決めている。

 ――ただいま。

 ヴァイオリンケースを肩に掛ける。
 二年間。
 ずっと止まらずに進んできた。

 夢を追うために。
 そして。

 待っている人のもとへ帰るために。
 オレは、ウィーンをあとにした。