*
十七歳の秋。
オレは、日本を発った。
飛行機の窓から小さくなっていく街を見ながら、ポケットの中のスマホを握りしめる。
搭乗する直前、瑠花から届いたメッセージ。
『いってらっしゃい』
『ちゃんと帰ってきてね』
その下には、泣いている顔のスタンプ。
最後まで笑って見送ってくれたくせに。
「……泣いてんじゃん」
小さく笑った。
『行ってくる』
『二年後、絶対帰るから』
送信して。
オレはスマホをしまった。
ここから二年間。
ヴァイオリンだけに向き合う。
そう決めて、ウィーンへ向かった。
*
――なんて。
そんなに格好よく始まるわけがなかった。
「……全然わかんねえ」
ウィーンに到着して、最初にぶち当たった壁は音楽ですらなかった。
言葉。
生活。
文化。
空港を出た瞬間、冷たい風が頬を撫でた。石畳の道には見慣れない看板が並び、路面電車の金属音が遠くで響いている。カフェからは濃いコーヒーの香りが漂い、行き交う人々の会話が、波のように耳へ押し寄せてきた。
留学前にそれなりに勉強してきたつもりだった。
でも、教科書で覚えた言葉と、実際に耳へ飛び込んでくる言葉はまるで違う。
相手が何を言っているのかわからない。
聞き返して。
また聞き返して。
それでもわからなくて、曖昧に笑う。
こんなことで、本当に二年間やっていけるのか。
最初の数週間は、それだけで疲れ果てた。
部屋へ戻るころには、足の裏がじんじん痛み、知らない街の夜気がコートの隙間から入り込んできた。窓の外では、誰かの笑い声と車の走り去る音が重なっている。けれど、そのどこにも自分の居場所はなかった。
それでも。
ヴァイオリンを構えた瞬間だけは違った。
木の胴から伝わるかすかな振動が、顎と肩に触れる。弓を弦へ置くと、乾いた部屋の空気が一音で震えた。
言葉が通じなくても。
国が違っても。
楽譜に書かれた音は同じだった。
だから、弾いた。
朝から弾いて。
レッスンを受けて。
指摘された部分を直して。
また弾いて。
何度も繰り返すうち、指先は赤く腫れ、弦の擦れる音が耳の奥に残った。夜になって部屋へ帰ると、腕が重くて上がらない日もあった。
それでも。
ここへ来た意味を失いたくなかった。
*
そして、父さんの言っていた意味もすぐにわかった。
『自分より上手い奴なんて、いくらでもいる』
本当に、その通りだった。
「……すげえ」
同年代。
年下。
自分より遥かに上手い奴が、当たり前のようにいる。
幼い頃からコンクールで賞を取っている奴。
すでにオーケストラと共演経験がある奴。
音を一つ鳴らしただけで、空気を変えてしまうような奴。
誰かが弓を引くたび、教室の空気が変わった。細い弦の音が天井まで伸び、低い音は床を伝って足元を揺らす。自分の音を出す前から、胸の奥を掴まれているようだった。
日本にいた頃。
オレは、自分がそこそこ弾ける人間だと思っていた。
それが。
ここでは何の意味もなかった。
「もう一度」
何度も止められる。
「そこじゃない」
「はい」
「音程だけ合わせても意味がない」
「……はい」
「君は何を表現したい?」
答えられなかった。
正確に弾く。
美しく弾く。
間違えずに弾く。
そんなことばかり考えていた。
でも。
それだけじゃ、人の心には届かない。
父さんのヴァイオリンにあって。
オレにはなかったもの。
ずっとわからなかったものの正体を、少しずつ突きつけられていった。
*
夜。
部屋へ戻る。
窓の外では、雪の気配を含んだ風が細く鳴っていた。暖房の乾いた匂いがこもる部屋で、オレはベッドに倒れ込み、スマホを見る。
瑠花からメッセージが届いていた。
『今日どうだった?』
「……最悪」
声に出してから、返信する。
『ボロクソ言われた』
すぐには既読にならない。
当たり前だ。
日本とウィーンでは生活する時間も違う。
こっちが話したいときに、瑠花が起きているとは限らない。
付き合い始めてから。
こんなに長く返事を待ったことなんてなかった。
しばらくして。
『生きてる?』
返ってきた。
『ギリ』
『じゃあ大丈夫』
「なんだよ、それ」
思わず笑う。
『何言われたの?』
『音に何もないって』
少し時間が空いた。
『じゃあ、これから入れればいいじゃん』
「簡単に言うなよ……」
でも。
瑠花は、いつもそうだった。
オレが難しく考えていることを。
驚くほど単純な言葉で返してくる。
『律ならできるよ』
その一言を見て。
もう少しだけ、頑張ろうと思えた。
*
最初の冬。
初めて、瑠花のいないクリスマスを迎えた。
街は華やかだった。
明かりが灯り。
音楽が流れ。
楽しそうな人たちが歩いている。
石畳は夜露で濡れ、街灯の光をぼんやりと映していた。焼き栗の甘い香りが風に混じり、遠くでは教会の鐘が低く鳴っている。通りを歩く恋人たちの笑い声が、冷えた空気の中でやけに鮮明に聞こえた。
なのに。
「……つまんね」
去年までなら、隣にいた。
『イルミネーション行きたい』
留学を打ち明けた日。
瑠花がそう言っていたことを思い出した。
スマホを取り出す。
ビデオ通話。
「律!」
画面いっぱいに瑠花の顔が映った。
「メリークリスマス!」
「そっち何時?」
「気にしない気にしない」
「寝ろよ」
「クリスマスくらいいいじゃん」
笑っている。
でも。
画面越し。
触れられない。
「瑠花」
「ん?」
「……会いたい」
一瞬。
瑠花が黙った。
「うん」
それから。
「あたしも」
その一言だけで、どうしようもなく胸が痛くなった。
「帰ろうかな」
「ダメ」
即答された。
「冗談だよ」
「律なら本当に帰ってきそうだから」
「さすがに帰らないって」
「ちゃんと二年やってきて」
「……うん」
「中途半端で帰ってきたら怒るからね」
「怖」
「誰のために待ってると思ってんの」
「……オレのため?」
「自惚れんな」
「どっちだよ」
画面越しに、二人で笑った。
会えない。
触れられない。
それでも。
付き合っていた。
ちゃんと。
オレたちは、恋人だった。
十七歳の秋。
オレは、日本を発った。
飛行機の窓から小さくなっていく街を見ながら、ポケットの中のスマホを握りしめる。
搭乗する直前、瑠花から届いたメッセージ。
『いってらっしゃい』
『ちゃんと帰ってきてね』
その下には、泣いている顔のスタンプ。
最後まで笑って見送ってくれたくせに。
「……泣いてんじゃん」
小さく笑った。
『行ってくる』
『二年後、絶対帰るから』
送信して。
オレはスマホをしまった。
ここから二年間。
ヴァイオリンだけに向き合う。
そう決めて、ウィーンへ向かった。
*
――なんて。
そんなに格好よく始まるわけがなかった。
「……全然わかんねえ」
ウィーンに到着して、最初にぶち当たった壁は音楽ですらなかった。
言葉。
生活。
文化。
空港を出た瞬間、冷たい風が頬を撫でた。石畳の道には見慣れない看板が並び、路面電車の金属音が遠くで響いている。カフェからは濃いコーヒーの香りが漂い、行き交う人々の会話が、波のように耳へ押し寄せてきた。
留学前にそれなりに勉強してきたつもりだった。
でも、教科書で覚えた言葉と、実際に耳へ飛び込んでくる言葉はまるで違う。
相手が何を言っているのかわからない。
聞き返して。
また聞き返して。
それでもわからなくて、曖昧に笑う。
こんなことで、本当に二年間やっていけるのか。
最初の数週間は、それだけで疲れ果てた。
部屋へ戻るころには、足の裏がじんじん痛み、知らない街の夜気がコートの隙間から入り込んできた。窓の外では、誰かの笑い声と車の走り去る音が重なっている。けれど、そのどこにも自分の居場所はなかった。
それでも。
ヴァイオリンを構えた瞬間だけは違った。
木の胴から伝わるかすかな振動が、顎と肩に触れる。弓を弦へ置くと、乾いた部屋の空気が一音で震えた。
言葉が通じなくても。
国が違っても。
楽譜に書かれた音は同じだった。
だから、弾いた。
朝から弾いて。
レッスンを受けて。
指摘された部分を直して。
また弾いて。
何度も繰り返すうち、指先は赤く腫れ、弦の擦れる音が耳の奥に残った。夜になって部屋へ帰ると、腕が重くて上がらない日もあった。
それでも。
ここへ来た意味を失いたくなかった。
*
そして、父さんの言っていた意味もすぐにわかった。
『自分より上手い奴なんて、いくらでもいる』
本当に、その通りだった。
「……すげえ」
同年代。
年下。
自分より遥かに上手い奴が、当たり前のようにいる。
幼い頃からコンクールで賞を取っている奴。
すでにオーケストラと共演経験がある奴。
音を一つ鳴らしただけで、空気を変えてしまうような奴。
誰かが弓を引くたび、教室の空気が変わった。細い弦の音が天井まで伸び、低い音は床を伝って足元を揺らす。自分の音を出す前から、胸の奥を掴まれているようだった。
日本にいた頃。
オレは、自分がそこそこ弾ける人間だと思っていた。
それが。
ここでは何の意味もなかった。
「もう一度」
何度も止められる。
「そこじゃない」
「はい」
「音程だけ合わせても意味がない」
「……はい」
「君は何を表現したい?」
答えられなかった。
正確に弾く。
美しく弾く。
間違えずに弾く。
そんなことばかり考えていた。
でも。
それだけじゃ、人の心には届かない。
父さんのヴァイオリンにあって。
オレにはなかったもの。
ずっとわからなかったものの正体を、少しずつ突きつけられていった。
*
夜。
部屋へ戻る。
窓の外では、雪の気配を含んだ風が細く鳴っていた。暖房の乾いた匂いがこもる部屋で、オレはベッドに倒れ込み、スマホを見る。
瑠花からメッセージが届いていた。
『今日どうだった?』
「……最悪」
声に出してから、返信する。
『ボロクソ言われた』
すぐには既読にならない。
当たり前だ。
日本とウィーンでは生活する時間も違う。
こっちが話したいときに、瑠花が起きているとは限らない。
付き合い始めてから。
こんなに長く返事を待ったことなんてなかった。
しばらくして。
『生きてる?』
返ってきた。
『ギリ』
『じゃあ大丈夫』
「なんだよ、それ」
思わず笑う。
『何言われたの?』
『音に何もないって』
少し時間が空いた。
『じゃあ、これから入れればいいじゃん』
「簡単に言うなよ……」
でも。
瑠花は、いつもそうだった。
オレが難しく考えていることを。
驚くほど単純な言葉で返してくる。
『律ならできるよ』
その一言を見て。
もう少しだけ、頑張ろうと思えた。
*
最初の冬。
初めて、瑠花のいないクリスマスを迎えた。
街は華やかだった。
明かりが灯り。
音楽が流れ。
楽しそうな人たちが歩いている。
石畳は夜露で濡れ、街灯の光をぼんやりと映していた。焼き栗の甘い香りが風に混じり、遠くでは教会の鐘が低く鳴っている。通りを歩く恋人たちの笑い声が、冷えた空気の中でやけに鮮明に聞こえた。
なのに。
「……つまんね」
去年までなら、隣にいた。
『イルミネーション行きたい』
留学を打ち明けた日。
瑠花がそう言っていたことを思い出した。
スマホを取り出す。
ビデオ通話。
「律!」
画面いっぱいに瑠花の顔が映った。
「メリークリスマス!」
「そっち何時?」
「気にしない気にしない」
「寝ろよ」
「クリスマスくらいいいじゃん」
笑っている。
でも。
画面越し。
触れられない。
「瑠花」
「ん?」
「……会いたい」
一瞬。
瑠花が黙った。
「うん」
それから。
「あたしも」
その一言だけで、どうしようもなく胸が痛くなった。
「帰ろうかな」
「ダメ」
即答された。
「冗談だよ」
「律なら本当に帰ってきそうだから」
「さすがに帰らないって」
「ちゃんと二年やってきて」
「……うん」
「中途半端で帰ってきたら怒るからね」
「怖」
「誰のために待ってると思ってんの」
「……オレのため?」
「自惚れんな」
「どっちだよ」
画面越しに、二人で笑った。
会えない。
触れられない。
それでも。
付き合っていた。
ちゃんと。
オレたちは、恋人だった。



