初恋ノクターン


「……え?」
 瑠花が瞬きをする。

「今、なんて言った?」

「別れたほうがいいって」
「なんで?」
「だから、二年も――」
「なんで?」
 さっきより強い声だった。

「瑠花を待たせることになるから」

「あたしが待てないって言った?」
「言ってないけど」

「寂しいから別れたいって言った?」
「……言ってない」
「じゃあ、なんで律が決めるの?」

 返す言葉がなかった。

「オレは……瑠花に寂しい思いをさせたくない」
「もうしてるけど」
「え?」
「別れるなんて言われた今が、一番寂しい」

 胸を抉られた。
 自分が瑠花を傷つけたのだという実感が、遅れて鋭く胸に突き刺さる。

「でも二年って長いんだぞ」
「わかってる」
「瑠花は二十歳から二十二歳になる。その二年間を、オレなんかのために――」
「オレなんかって言わないで」
 瑠花が遮った。

「あたしが好きなのは律なんだから」
「……瑠花」
「勝手に決めないでよ」
 瑠花の瞳に、少しずつ涙が溜まっていく。

「律の夢を諦めてなんて、絶対言わない」
「……」
「でも、だからってあたしまで諦めないでよ」
 一粒。
 頬を涙が伝った。

「あたし、別れないから」
 はっきりと言い切った。
 その声は震えていたけれど、そこには揺るがない意志があった。
「律がプロのヴァイオリニストになって帰ってくるまで、ここで待ってる」
「二年だぞ」
「二年でしょ」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ!」
 瑠花の声が震えた。

「寂しいよ。会えなくなるなんて嫌だよ。クリスマスも誕生日も、今までみたいに一緒にいられないんでしょ?」
「……うん」
「抱きしめたいときに抱きしめられないし、キスだってできない」
「瑠花……」
「嫌に決まってるじゃん」
 ぽろぽろと涙をこぼす。

「でも、それと別れるのは違う」
 瑠花がオレをまっすぐ見た。
「あたし、待ってる」
「……」
「二年でも、三年でも待つ」
「瑠花」
「だから、ちゃんと帰ってきて」
 その言葉が、涙で濡れた部屋の空気に静かに落ちた。
 そして。

「プロのヴァイオリニストになって、あたしのところに帰ってきてよ」

 その瞬間。
 ずっと張り詰めていたものが、切れた。
 瑠花の寂しさを思うほど、別れを選ぼうとした自分の身勝手さが悔しくなった。守るつもりで、いちばん傷つけていた。


「……ずるい」
「え?」
「そんなこと言われたら……別れられないじゃん」
 瑠花は泣きながら笑った。
 その笑顔が愛しくて、同時に、二年間もこの笑顔をそばで見られないことが苦しかった。

「最初から別れるつもりないもん」
 オレは立ち上がった。
 テーブルを回り込み、瑠花の前に膝をつく。
「……ごめん」
 抱きしめた。

「勝手に決めて、ごめん」
「ほんとだよ」
「うん」
「あたしの気持ち、一回も聞かないで」
「……ごめん」
「バカ」
「うん」
「律のバカ」
「うん」
 背中に瑠花の腕が回る。

 その温もりを感じるほど、離れたくないという思いが強くなった。それでも行かなければならない。腕の中の瑠花を、二年後まで待たせるのだ。

「……行っておいで」
 耳元で、瑠花が言った。
「ウィーン」
「うん」
「いっぱい勉強して」
「うん」
「いっぱいヴァイオリン弾いて」
「うん」
「もっともっと上手くなって」
 少しだけ身体を離した瑠花が、涙を拭って笑う。

「帰ってきたら、一番最初にあたしに会いに来て」
「絶対行く」
「約束ね」
「約束する」

 その約束は、ただの言葉ではなかった。
 離れてしまう二年間をつないでくれる、オレたちの約束になった。
 瑠花の涙も、震える声も、抱きしめた腕の温もりも、全部を胸に刻んで、必ず帰ってこようと思った。

 二年後。

 この約束を果たすために。
 オレは、ウィーンへ行く。