オレが通う音楽科の高校は、音大まで続く一貫校だ。
十七歳の夏、留学が決まった。
「オレが、ですか?」
思わず聞き返した。
かつて父さんも、こうして海外へ留学した。
本場で技術を学び、さらに腕を磨いて、今ではプロのヴァイオリニストとして国内外のステージに立っている。
幼い頃から、ずっとその背中を追いかけてきた。
時には親子で同じステージに立つこともあった。
けれど、父さんと並んで弾くたびに思い知らされる。
まだ、遠い。
同じ音を奏でているはずなのに、父さんのヴァイオリンには、オレにはまだない深さがある。
「本校としても、ぜひ君を推薦したい」
願ってもない話だった。
留学して、もっと実力をつけることができれば。
いつか父さんと同じように、ソリストとして世界の舞台に立つ道だって開けるかもしれない。
「はい。ぜひ、行きたいです」
迷いはなかった。
*
「――というわけで、校内推薦で留学の話をもらったんだ」
その日の夜。
夕食の席で、オレは両親に話した。
「え、すごいじゃん! 律が留学なんて!」
母さんが目を丸くした。
そして、すぐ隣にいる父さんの腕を叩く。
「ねえ、亞紗斗さん! 律が留学だって!」
「知っている」
「え、なんで?」
「今、律が話しているだろう」
「ああ、そうか。そういえばそうだ」
母さんは一人で納得して笑っている。
……母さんの笑いのツボは、十七年一緒に暮らしていても、いまだによくわからない。
そんな母さんとは対照的に、父さんは静かだった。
箸を置く。
しばらくオレを見つめたあと、低い声で訊いた。
「律は、どうしたいんだ」
「オレは……行きたい」
「本当にか」
短い問いだった。
けれど、逃げ道を残さない声だった。
「うん」
「誰かに言われたからじゃないな」
「違う。オレが行きたい」
父さんは、黙ってオレを見た。
止めることも、喜ぶこともない。
けれど、それが父さんなりの答えなのだとわかっている。
「期間は二年。行き先は――オーストリアの、ウィーン」
その瞬間。
父さんの目が、ほんの少しだけ変わった。
「ウィーンか」
「うん」
ヴァイオリンを学ぶ者にとって、特別な場所。
音楽の都。
そして――父さんも、若い頃に何度も演奏で訪れた街だ。
「遊びに行くわけじゃない」
「わかってる」
「今まで通用していたものが、通用しなくなることもある」
「うん」
「自分より上手い奴なんて、いくらでもいる」
「……うん」
「言葉も文化も違う。音楽だけやっていればいいわけでもない」
父さんの声が、少しだけ低くなる。
「それでも行くか」
試すような声音ではなかった。
ただ、本当にオレ自身が選んだのか。
父さんは、それを確かめているだけだった。
だからオレも、まっすぐに答えた。
「行く」
父さんは数秒、黙っていた。
それから、静かに頷く。
「なら、行ってこい」
「……父さん」
「二年でどこまで変わるか、楽しみにしている」
その言葉に、胸が熱くなる。
「うん。絶対、変わってくる」
「律なら大丈夫だよ!」
母さんが笑う。
「寂しくなるけど……いっぱい勉強して、いっぱい弾いて、いっぱい食べて帰っておいで!」
「食べるのは関係ないだろ」
「海外でちゃんとご飯食べるの、大事じゃん!」
「母さん……」
いつもの調子だ。
思わず笑ってしまった。
留学。
二年間。
ウィーン。
夢に、また一歩近づける。
ずっと欲しかったはずのチャンスだ。
嬉しくないはずがない。
――なのに。
自分の部屋へ戻った瞬間、浮かんだ顔があった。
瑠花。
スマホを手に取る。
メッセージ画面には、つい数時間前に届いた言葉が残っていた。
『明日、学校終わったら会える?』
いつもなら、何も考えずに返せる。
会えるよ。
そう打てばいいだけなのに。
指が止まった。
二年。
オレが日本を離れる頃、瑠花は二十歳。
帰ってくる頃には、二十二歳になる。
今までみたいに、会いたいときに会えない。
手を伸ばしても、触れられない。
声を聞きたいと思った瞬間に、そばにはいられない。
そして何より。
オレの夢のために、瑠花を二年間も待たせることになる。
「……どうすんだよ、オレ」
留学すると答えたときは、迷いなんてなかった。
なのに。
瑠花のことを考えた途端。
初めて――。
二年間という時間が、途方もなく長く感じた。
十七歳の夏、留学が決まった。
「オレが、ですか?」
思わず聞き返した。
かつて父さんも、こうして海外へ留学した。
本場で技術を学び、さらに腕を磨いて、今ではプロのヴァイオリニストとして国内外のステージに立っている。
幼い頃から、ずっとその背中を追いかけてきた。
時には親子で同じステージに立つこともあった。
けれど、父さんと並んで弾くたびに思い知らされる。
まだ、遠い。
同じ音を奏でているはずなのに、父さんのヴァイオリンには、オレにはまだない深さがある。
「本校としても、ぜひ君を推薦したい」
願ってもない話だった。
留学して、もっと実力をつけることができれば。
いつか父さんと同じように、ソリストとして世界の舞台に立つ道だって開けるかもしれない。
「はい。ぜひ、行きたいです」
迷いはなかった。
*
「――というわけで、校内推薦で留学の話をもらったんだ」
その日の夜。
夕食の席で、オレは両親に話した。
「え、すごいじゃん! 律が留学なんて!」
母さんが目を丸くした。
そして、すぐ隣にいる父さんの腕を叩く。
「ねえ、亞紗斗さん! 律が留学だって!」
「知っている」
「え、なんで?」
「今、律が話しているだろう」
「ああ、そうか。そういえばそうだ」
母さんは一人で納得して笑っている。
……母さんの笑いのツボは、十七年一緒に暮らしていても、いまだによくわからない。
そんな母さんとは対照的に、父さんは静かだった。
箸を置く。
しばらくオレを見つめたあと、低い声で訊いた。
「律は、どうしたいんだ」
「オレは……行きたい」
「本当にか」
短い問いだった。
けれど、逃げ道を残さない声だった。
「うん」
「誰かに言われたからじゃないな」
「違う。オレが行きたい」
父さんは、黙ってオレを見た。
止めることも、喜ぶこともない。
けれど、それが父さんなりの答えなのだとわかっている。
「期間は二年。行き先は――オーストリアの、ウィーン」
その瞬間。
父さんの目が、ほんの少しだけ変わった。
「ウィーンか」
「うん」
ヴァイオリンを学ぶ者にとって、特別な場所。
音楽の都。
そして――父さんも、若い頃に何度も演奏で訪れた街だ。
「遊びに行くわけじゃない」
「わかってる」
「今まで通用していたものが、通用しなくなることもある」
「うん」
「自分より上手い奴なんて、いくらでもいる」
「……うん」
「言葉も文化も違う。音楽だけやっていればいいわけでもない」
父さんの声が、少しだけ低くなる。
「それでも行くか」
試すような声音ではなかった。
ただ、本当にオレ自身が選んだのか。
父さんは、それを確かめているだけだった。
だからオレも、まっすぐに答えた。
「行く」
父さんは数秒、黙っていた。
それから、静かに頷く。
「なら、行ってこい」
「……父さん」
「二年でどこまで変わるか、楽しみにしている」
その言葉に、胸が熱くなる。
「うん。絶対、変わってくる」
「律なら大丈夫だよ!」
母さんが笑う。
「寂しくなるけど……いっぱい勉強して、いっぱい弾いて、いっぱい食べて帰っておいで!」
「食べるのは関係ないだろ」
「海外でちゃんとご飯食べるの、大事じゃん!」
「母さん……」
いつもの調子だ。
思わず笑ってしまった。
留学。
二年間。
ウィーン。
夢に、また一歩近づける。
ずっと欲しかったはずのチャンスだ。
嬉しくないはずがない。
――なのに。
自分の部屋へ戻った瞬間、浮かんだ顔があった。
瑠花。
スマホを手に取る。
メッセージ画面には、つい数時間前に届いた言葉が残っていた。
『明日、学校終わったら会える?』
いつもなら、何も考えずに返せる。
会えるよ。
そう打てばいいだけなのに。
指が止まった。
二年。
オレが日本を離れる頃、瑠花は二十歳。
帰ってくる頃には、二十二歳になる。
今までみたいに、会いたいときに会えない。
手を伸ばしても、触れられない。
声を聞きたいと思った瞬間に、そばにはいられない。
そして何より。
オレの夢のために、瑠花を二年間も待たせることになる。
「……どうすんだよ、オレ」
留学すると答えたときは、迷いなんてなかった。
なのに。
瑠花のことを考えた途端。
初めて――。
二年間という時間が、途方もなく長く感じた。



