あの日、僕らの未来(レール)は目視できた。

6-1 一晩
 家に帰ったのは十時過ぎだった。
 母は起きていて、廊下の明かりをつけたまま居間にいた。僕が上がってくるのを見て、何か訊こうとして、やめた。僕のほうも何も言わずに階段を上がった。あの人に報告すべきことは何もないし、報告したところで、たぶん二人とも苦しくなるだけだった。
 部屋の電気をつけずに、僕は床に座った。
 フェリーの時刻表の内容は、頭に入っている。八月三十一日、二十二時十分発、御崎島行き。乗り場は、坂の途中から見えるあの桟橋だ。
 明日の二十二時十分に、あそこへ行けば会える。
 そこまでは簡単だった。問題はその先で、考えはもう一時間近く、同じところを行ったり来たりしている。
 明日、僕には二つのことができる。
 ひとつは、朝から港へ行って待つこと。切符売り場の前でも、待合所でも、桟橋の入口でもいい。一日じゅうそこにいれば、彼女が現れた瞬間に必ず捕まえられる。確実だった。確実なぶん、それは絵を諦めるということでもある。
 もうひとつは、旧美術棟で絵を完成させること。
 残っているのは上の三分の一、空の面だった。面積でいえば全体の三割近い。今日までの経験で言えば、あの広さを一人で塗るには丸一日ではとても足りない。朝から休まずに塗り続けても、二十二時十分までに終わる見込みはなかった。
 壁を選べば、彼女は島へ行って、僕は塗りかけの壁の前に立っている。港を選べば、絵は終わらないまま、九月一日に建物ごと壊される。
 両立しない。
 どちらかを選ぶと、もう片方が確実に手から落ちる。こういう形の選択を、僕はこれまで一度もしたことがなかった。四月からこっち、僕の前にあったのは三本の線で、どれを選んでも大きくは外れないと説明されていた。外れない選択肢が三つ並んでいるものを、選択とは呼ばない。
 僕は膝を抱えて、暗い天井を見上げていた。窓の外で、どこかの家のエアコンの室外機が回っている。夏の終わりの音だった。
 会いたい、と思った。
 思ったことを、僕は自分ではっきり認めた。一週間かけて探して、走って、知らない家の玄関にまで立って、ここまで来たのは、あの人にもう一度会って話をするためだ。訊きたいことがある。謝りたいこともある。何より、この夏のことを終わらせないまま行かせたくない。
 会いたいという気持ちは、疑いようがなかった。
 だから僕は、港へ行くべきだった。
 それでも、僕の手は明日の予定を組み立てるとき、必ず壁のほうへ向かう。何度考え直しても同じ場所へ戻る。理由が自分でわからなくて、僕は一時間そこで詰まっていた。
 置手紙のことを、もう一度考えた。
 あの三行には、絵のことが一文字もなかった。書かなかったのではなくて、書けなかったのだと僕は思っている。触れれば行けなくなるから、触れなかった。
 つまり、あの人はあれを捨てていない。
 捨てたのではなく、置いていった。置いていくしかない状況に追い込まれて、追い込んだのは僕の母で、母を動かしたのは僕の線で、僕の線を消したのは僕自身だ。順番に辿ると、全部こちらから始まっている。
 あの壁は、二十年以上前に一度止まっている。
 止めたのは澪という人で、その人は決めに戻ってこなかった。娘が戻ってきて、四月から壁に通って、下地を整えて、夏じゅう塗って、七割まで進めて、そこで二度目に止まった。
 同じ場所が、二回止まった。
 三回目を作るわけにはいかない。
 そう考えたとき、僕は自分の中で何かが定まるのを感じた。感じたというより、ずっと前から決まっていたものの名前が、そこでようやくわかった。
 僕が明日やるべきなのは、会うことではない。
 あの人が捨てていったものを、あの人のいないところで終わらせることだ。
 それは、会えなくなるかもしれない選択だった。
 塗り始めれば港へは行けない。行けないまま二十二時十分が来て、船が出て、僕は絵の前に立っている。一人で塗る以上、そういう終わり方になるのはほとんど確実だった。
 それでも、港で待つという選択肢の中身を、僕はもう一度点検した。
 一日じゅう桟橋の前に立って、彼女が来て、僕が捕まえて、それで何を言うのか。助けようとしてごめん、と言うのか。行かないでくれ、と言うのか。どちらも、あの人がいちばん言われたくない言葉に思えた。
 この夏、僕がやってきたことは全部そうだった。相手が何を必要としているかを訊かないまま、自分がやりたいことを助けると呼んできた。港で待つのは、その続きだ。
 だから僕は、会えなくなることを承知した上で、刷毛を取ることにした。
 決めてしまうと、今度は別の問題が出てきた。
 空の色が、決まっていない。
 澪は、あとで決めると書いて、決めなかった。娘は配合表に何の印もつけなかった。六十枚の板のどれにも、あの面に使うという指定がない。
 つまり、決めるのは僕だということになる。
 その事実に行き着いたとき、僕は初めて怖くなった。
 人の絵だ。二十年以上前の人が構図を作って、その娘が色を決めてきた絵で、僕はこの夏ずっと、指定された番号の色で決められた面を埋めてきただけだ。何を塗るかを自分で決めたことが、一度もない。
 四月からのことを思い出した。
 進路希望票を二分で埋めた。線が示した学部を書いた。判定を受け取って安心した。合っているところがいちばんいいと母に言われて、うなずいた。決めるということを、僕は十七年間まともにやっていない。
 やっていないまま、明日それをやる。
 決めるというのが、こんなに体力を使うものだとは思わなかった。
 時計を見ると三時を回っていた。眠っていない。眠れる気もしない。頭の中では、まだ二つの案が交互に出てくる。決めたはずなのに、決めたことが何度も揺れる。揺れるたびに、僕はさっきの理屈を最初から並べ直した。
 窓の外が少し明るくなってきたころ、僕は立ち上がった。
 鞄に入れるものを並べた。財布と鍵とタオル、着替えが一組、水が二本。それから、机の一番下の引き出しを開けて、封筒を取り出した。三行の置手紙は、結局どこにも持っていく理由がない。あるのは持っていきたいという気持ちだけだったので、僕はそれをポケットに入れた。
 部屋を出るとき、廊下で母と会った。
 起きていたのか、起きてきたのかはわからない。母はパジャマの上にカーディガンを羽織っていて、僕の鞄を見て、それから僕の顔を見た。
「行ってくる」
 そう言った。どこへ、とは訊かれなかった。
 母は何秒か黙っていて、それから台所へ入っていった。戻ってきたとき、手にビニール袋を持っていた。中にパンと、ゼリー飲料と、小さいペットボトルが入っている。
「持っていきなさい」
 僕はそれを受け取った。
 受け取るときに、母の指が少し震えているのがわかった。震えているのに、渡し方はしっかりしていた。この人はいつもそうだ。中身がどうであれ、動作だけは最後まで丁寧に終わらせる。
「ごめんね」
 僕の顔を見ないまま、母が言った。
 僕は何も答えられなかった。答える言葉を用意していないまま玄関を出て、外の空気がもう秋に近いことに気づいた。
 八月三十一日の朝だった。

6-2 完成
 裏門から入って、渡り廊下の札をまたいだのが、朝の六時半だった。
 鍵を開けて、扉を押す。中は涼しくて、埃と乾いた絵の具の匂いがする。窓から入る光はまだ弱くて、壁の下三分の二の色が沈んで見えた。
 上の三分の一は、白いままだった。
 僕は鞄を置いて、窓を二つとも開けて、扇風機を出した。バケツに水を汲みに本校舎まで往復した。脚立を壁の前へ出して、ビニールシートの位置を直して、刷毛を並べた。
 準備を終えて、僕は缶の前に座った。
 赤が二つ、黄色が一つ、青が二つ、白の大きいのが一缶、黒の小さいのが一缶。どれも残りが少ない。夏じゅう使ってきた缶で、底のほうに固まりかけたのが残っている。
 混ぜはじめて、最初の失敗をしたのは二十分後だった。
 空だから青だろうと、僕は単純に考えた。青に白を足して、灰色を少し混ぜて、板に塗って乾かした。乾いたものを壁に当ててみると、まるで合わない。下の帯に使った二十三番の青と近すぎて、画面が上下で反復してしまう。
 二枚目も違った。三枚目も違った。
 一枚ごとに十五分の乾燥を待つ。待っているあいだに次を混ぜて、乾いたものを壁に当てて、外して、また混ぜる。板は夏じゅう使ったものを洗って使い回した。洗って、乾かして、塗り直す。その手順を足すと、一枚にかかる時間はさらに延びた。
 四枚目を塗り終えたころ、僕は自分が何をしているのかわからなくなってきた。合わない、というのはわかる。何と合わないのかもわかる。それなのに、では何なら合うのかが出てこない。
 彼女はこれを毎日やっていた。
 一日に何十回も混ぜて、塗って、乾かして、壁に当てて、違うと言って捨てる。僕はその横で番号を書いていた。書いているあいだ、僕は一度もその判断の中身を見ていなかった。番号と配合を記録するだけで、なぜその色が採用されたのかを訊いたことがない。
 昼になった。
 母のくれたパンを食べて、水を飲んで、また混ぜた。八枚目も九枚目も外した。時計を見ると一時を過ぎていて、僕は一色も壁に置いていない。
 焦りはじめた。
 焦って混ぜたものは、さらにひどかった。十二枚目は濁って、十五枚目は明るすぎた。午後の三時を回ったころに数えたら、外した板が十九枚あった。
 二十枚目を板に塗ったところで、僕は刷毛を置いて、壁から離れた。
 五メートル下がって、絵の全体を見た。
 中央の曲線が右上へ向かっている。右上の隅には、彼女の引いた黄色がある。下の帯は深い青で、その周りを灰と緑が囲んでいる。全部が、ある一点へ向かって傾いている。
 あかるいほう、と彼女は名づけた。
 この絵は明るいほうを向いていて、そこに到達していない。到達していないことが、この絵の形だった。
 それなら、空は。
 到達点として塗るのか、それとも、まだ届いていない距離として塗るのか。
 僕はそこで、ようやく自分が色の話をしていないことに気がついた。何色を混ぜるかを考えていたのが、いつのまにか、この絵が何を言っているのかを考える話になっている。
 夕方の光が窓から入ってきた。
 四時を過ぎて、日が傾いて、壁の色が変わった。同じ面が、朝と昼と夕方でまるで違って見える。この夏、僕は毎日それを見ていたのに、色を決める手がかりにしようと思ったことは一度もなかった。
 空は、いつの空なのか。
 朝の空なら青が強い。昼なら白が勝つ。夕方なら赤と黄が入る。この絵の空がいつなのかを、下絵は指定していない。輪郭だけがあって、時刻が書かれていない。
 決めていいのだと、そこで思った。
 あの人は右上の隅で同じことをした。母親が下絵に迷ったまま残した三通りの線のどれも選ばずに、自分の線を引いた。いいのかと僕が訊いたとき、あの人はこう答えた。いいよ、あの人、もう決められないから。
 今、決められない人が二人いる。
 その光を見ながら、僕は缶を開け直した。
 白を多めに取った。そこへ黄色をほんの少し、青をもっと少なく、赤を耳かき一杯ほど入れた。混ぜると、色とも言えないような、薄くて温度のある白になった。
 板に塗って、扇風機の前に置いた。
 乾くのを待つ十五分が、この夏でいちばん長かった。
 乾いた板を持って、壁の前に立った。上の白い面に当てて、少し離れて、また当てた。
 合った。
 正確に言えば、合っているかどうかを判断したのは僕で、判断が正しい保証はどこにもない。それでも、その板を当てたときに、下の三分の二が上へ向かって伸びた。中央の曲線が、行き先を得た。
 五時十分だった。
 残り時間を計算して、僕はあらためて面積の広さを思い知った。今から一人で、あの高さを塗り切るのに何時間かかるのか、正直なところ見当がつかなかった。
 それでも脚立に上がった。
 上から塗る。垂れた滴が下を汚さないように、段取りを守る。一往復で塗れる幅を決めて、その幅を守って隣へ移る。肩ごと動かす。教わったとおりにやった。
 三十分でシャツが絞れるほど濡れた。
 一時間で腕が上がらなくなった。脚立を降りて、位置を変えて、また上がる。その繰り返しだけで体力が減っていく。上の段は日が落ちると見えにくくなって、僕は投光器を引っ張り出した。一人で脚立を動かすなと言われていたことを思い出して、それでも動かした。
 七時を過ぎた。
 塗れたのは、空の面の三分の一だった。
 このままでは終わらない。終わらないことが、数字ではっきりわかった。僕は脚立の上で刷毛を止めて、そこで初めて、間に合わないという事実を体で受け取った。
 二十二時十分。
 あと三時間。塗り終えるのに、たぶん四時間か五時間かかる。
 脚立を降りて、僕は床に座り込んだ。
 息が上がっていた。手が震えていた。ここまで来て、どちらも手に入らない形になっている。港へ行けば絵が止まる。絵を続ければ船が出る。あの一晩で僕が選んだのは、こういう終わり方だった。
 扉が開いたのは、そのときだった。
 光が床に四角く落ちた。
 顔を上げると、陸が立っていた。練習着ではなくてTシャツで、後ろにバレー部の三人がいる。誰も中に入ってこない。入った瞬間に何が起きるかを、陸だけは知っている。
「言っとくけど、俺は反対のままだからな」
 入口に立ったまま、陸はそう言った。
「お前のやってることは間違ってると思う。今もそう思ってる」
 僕は座ったまま、何も言えずにいた。
「おばさんに、あの子の住所を渡したのは俺だ」
 知ってる、と僕は言った。
「そうか」
 陸は一歩だけ中へ入った。自分の足元を見て、また顔を上げた。あのときのようにうろたえはしなかった。
「俺、あれからずっと考えてたんだよ。あの日ここに来て、線が消えて、お前の足元も何もなくて。怖かったんだよな、正直。だから止めなきゃって思って、いちばん効くやり方を選んだ」
 効いた、と僕は言った。
「効いたよ。効きすぎた」
 陸は壁を見上げた。
 初めてまともに見たのだろう。下三分の二の色と、上の白と、途中まで塗られた空。しばらく黙ってから、陸は後ろの三人を振り返って、顎で中を示した。それから、僕のほうへ向き直った。
「棒に振るなら、せめて最後までやれ」
 そう言って、陸は僕の前まで歩いてきた。
「何時までだ」
「十時十分。その時間の船で、星野さんがこの街を出ていく」
 陸はそれ以上何も訊かなかった。
「じゃあ九時半までにここを出る。塗るのはお前だけな。俺ら、絵は無理だから」
 四人が動きはじめた。
 誰も筆を持たなかった。陸は脚立の位置を僕が言うより先に読んで、四人がかりで持ち上げて動かした。一人がバケツの水を替えに走り、一人が絵の具を溶いて次の分を用意した。もう一人は、陸の兄に電話をかけて車を回してもらった。そのワゴンのヘッドライトを、僕らは窓の外から壁へ向けた。
 塗りはじめて、僕は自分の見積もりが外れていた理由に気づいた。
 一人でやっていたとき、塗っている時間は全体の半分もなかった。脚立を降りて、位置を直して、また上がる。絵の具が切れれば溶きに行く。水が濁れば替えに行く。暗くなれば投光器の角度を直す。そのたびに手が止まっていた。
 今は、僕が脚立の上から降りない。降りなくていいように、下で四人が動いている。
 投光器が二台と、車のライトが二つ。それだけの光が一度に当たって、壁は昼より明るくなった。
 僕は塗った。上の段から下へ、幅を守って、肩ごと動かして。腕が上がらなくなると、誰かが後ろから脚立を支えた。汗が目に入ると、誰かがタオルを渡してきた。水を飲めと言われて飲んで、また上がった。
 九時十分に、最後の一往復が終わった。
 刷毛をバケツに戻して、僕は脚立を降りた。
 五メートル下がって、全体を見た。
 絵が、繋がっていた。
 下の深い青から、灰と緑を通って、中央の曲線が右上へ向かう。右上には彼女の黄色がある。その上を、薄くて温度のある白が全部覆っている。空だった。到達点ではなくて、まだそこまでの距離が残っている空だった。
 後ろで、誰かが小さく息を吐いた。
 陸は何も言わなかった。壁を見上げたまま、腕を組んで、そこに立っていた。
 九時十五分になっていた。
 汗がひいて、体がいきなり冷えはじめた。指の関節が固まっていて、力を入れると痛む。爪のあいだに白が入り込んでいて、たぶん何日かは落ちない。
 僕はポケットからスマートフォンを出した。
 画面を上げて、壁に向けた。構えたまま、指がシャッターに届く位置で止まった。
 それから、僕はそれをポケットに戻した。
 撮らなかった理由を、その場ではうまく言葉にできなかった。ただ、写真は絵じゃない、と六月の図書室で言われたことが頭にあった。見に行けなくなった時点で、その絵は終わり。あの人はそう言った。
 終わるものを、終わらせておきたかった。
「九時二十分だ」
 腕時計を見て、陸が言った。
「走れ」

6-3 港へ
 道具を置いたまま、僕は外へ出た。
 片づけはしなかった。刷毛は水に浸けたまま、缶は蓋も閉めていない。明日になれば重機が入る建物で、道具の始末をする理由がどこにもなかった。
 渡り廊下の札をまたぐ。足元に何も生えない。生えないことが、もう驚きではなくなっていた。
 裏門まで走った。陸の兄のワゴンが停まっていて、助手席のドアが開いている。
「乗れ」
 運転席から陸の兄に言われて、僕は助手席に体を押し込んだ。座った瞬間に、腕と腰が一斉に痛みはじめた。四時間近く同じ動きをしていた体が、止まった途端に文句を言い出している。汗と絵の具でシャツが張りついていて、髪も固まっていた。
 陸が後ろの席に飛び込んできて、ドアが閉まりきらないうちに車が動き出した。
 九時二十五分だった。港までは車で十分ほどの距離で、普通に走れば充分に間に合う計算だった。
 計算が崩れたのは、県道に出たところだ。
 信号の手前で、車の列が動かなくなった。前を見ると、赤い回転灯が見える。事故の処理をしているらしく、片側の車線が塞がっていた。
 九時三十五分。
 列はほとんど進まなかった。三十八分になっても、車一台ぶんしか動いていない。
「無理だな」
 ハンドルを握ったまま、陸の兄がそう言った。
 僕はドアに手をかけた。
「降りる」
「おい」
「走ったほうが早い」
 陸が後ろの座席から身を乗り出した。
「ここから三キロあるぞ」
 わかってる、と僕は答えた。
 わかっていなかった。三キロという数字を聞いても、それが今の自分の体で何分になるのかが計算できない。
 わからないまま、僕はドアを開けて外へ出た。
 夜の県道は、車のライトで明るかった。歩道へ上がって、僕は港の方向へ走り出した。
 交差点をひとつ越えた。
 最初の三分ほどは体が動いた。
 それを過ぎると息が上がって、腿が重くなり、そのうち腕を振るのさえ面倒になった。四時間壁を塗った体で走るというのは、こういうことなのだと走りながら知った。
 足元に、線はない。
 街灯の下を通ると、自分の影だけが伸びる。影は僕の動きについてきて、街灯を過ぎると足元へ戻ってくる。それだけだ。青は一本もない。どこを曲がればいいかを教えてくれるものは、僕の頭の中にしかなかった。
 商店街に入った。
 シャッターの下りた店の前を走り抜ける。すれ違う人の足元から青が伸びていて、それが僕の走る場所を横切っていく。僕はその上を踏んで走った。踏んでも何も起きない。当たり前だった。
 角を曲がるとき、僕は自分で判断した。
 こっちが近い、と思って左へ折れた。根拠は、七月からこの道を毎日歩いていたという記憶だけだ。合っているかどうかは、着くまでわからない。
 合っていた。
 坂の途中に出た。そこから海が見える。フェリー乗り場の明かりが、泊まり込みの夜に堤防から見たときと同じ位置にあった。船は、まだ着いている。
 九時五十二分。
 坂を下った。下りは足が勝手に出て、そのぶん止まらなくなった。カーブのところで踏み外して、僕は転んだ。
 膝と手のひらをアスファルトに擦った。
 息が上がりすぎて、痛みは遅れて来た。僕は両手をついて起き上がって、膝の血を見て、それから走り出した。転ぶのがこういう感覚だったことを、走りながら思い出した。
 線に従っていれば、僕は転ばなかった。
 四月にそう習った。線に沿って歩けば、転ばないし、人にも自転車にもぶつからないし、事故に遭う確率が下がる。実際、敷設の日から今日まで、僕は一度も転んでいない。
 今は転ぶ。
 転んで、起き上がって、また走る。誰も僕の足元を計算していない。計算していないから、どこで転ぶかも誰にもわからない。
 息が焼けるようだった。
 倉庫の前を通って、駐車場を抜けて、桟橋の入口が見えた。照明がついている。待合所の窓に明かりがあって、その手前に人が何人か立っていた。
 乗船の列だった。
 僕は速度を落とさずにそこへ突っ込んだ。係員が何か言ったのが聞こえたけれど、意味は入ってこなかった。人の足元から青が伸びている。何本も、何本も、船のほうへ向かって。
 その列のいちばん後ろに、空白があった。
 リュックを背負っていて、使い込んだ紙の筒を脇に抱えている。髪を後ろで結んでいて、僕が夏じゅう見ていた後ろ姿が、そこに立っていた。
 彼女はまだ気づいていない。
 係員が切符を確かめていて、列が一人ずつ前へ進んでいる。あと三人か四人で、あの背中は船へ渡る通路に入る。
 僕は声を出そうとした。
 息が入ってこなくて、最初の一回は音にならなかった。二回目でようやく、掠れた形で名前が出た。
 彼女が振り返った。

6-4 汽笛
 彼女は、僕を見てもすぐには動かなかった。
 列から半歩だけ横へ出て、リュックの肩紐を握ったまま、僕の顔を見ている。汗と絵の具でひどい格好をしているはずだった。膝から血が出ていて、シャツの前が白く汚れている。
 係員が彼女に何か言った。彼女は首を振って、列を離れた。
 僕は膝に手をついて息を整えた。整えているあいだに、彼女がこちらへ歩いてくる足音が聞こえた。桟橋のコンクリートの上で、上履きではない靴の音がした。
「なんで来たの」
 最初の一言がそれだった。
 顔を上げると、彼女はすぐ近くに立っていた。照明の下で見る顔は、夏じゅう見ていたのと同じ顔で、ただ、目のあたりが赤かった。
 今泣いているのではない。とっくに泣き終えて、乾いたあとの顔だった。待合所で一人でいた時間に何があったのかを、僕は訊かなかった。
「あなたの線、全部消えちゃったじゃない」
 僕は動きを止めた。
 この人には見えない。四月からずっと、自分の足元にも他人の足元にも何もない世界で生きてきた人だ。僕の線が何本あるかを、この人が自分の目で確かめる方法はない。
 だから、聞いたということになる。
「母さんが」
 僕がそう言うと、彼女はうなずいた。
「うちの前で待ってた。浅野くんのお母さんだって名乗って、それで、あなたと会うようになってから線が消えていってるって」
 彼女の声は震えていなかった。
 震えていないのに、息の吸い方だけが不規則になっている。泣くのを我慢している人の呼吸だった。
「怒鳴られたわけじゃないの。すごく丁寧に言われた。丁寧に言われたほうが、逃げ場がないんだよね」
 母がそういうやり方をする人だということを、僕は誰よりもよく知っている。
「私、わかりましたって言った。それ以外に言うことなかったから」
 うん、と僕は言った。
「それでね」
 彼女は一度だけ海のほうを見た。
「家に入って、ごはん食べて、部屋に戻って、それでやっと気づいたの。あ、これ、母さんのときと同じだって」
 僕は、海のほうを向いた彼女の横顔を見た。
「母親が描き始めたとき、父さんが止めたの。最初は優しく言ってた。だんだん言い方がきつくなって、そのうち、母親のほうが悪いことをしてる人みたいになっていった。誰も怒鳴ってないのに、家の中がずっと重いの。あれを二年やって、母さんは死んだ」
 潮の音がした。桟橋の下で、暗い水が杭に当たっている。
「同じことが始まるって思った。浅野くんの家で。それで、そのうち浅野くんは、私といたせいで自分の人生が変わったって思うようになる。思わなくても、周りが全員そう言う。四月から八月まで、五か月しか一緒にいなかった人のせいで」
 違う、と僕は言った。
 声が出たのが自分でも意外だった。
「違わないよ。現に線は消えてる」
「消したのは僕だ」
 今度は、言おうと思って言った。
「部活やめたのも、講習やめたのも、推薦取り下げたのも、全部僕が紙を出した。星野さんに言われてやったことは、ひとつもない」
 彼女は何か言おうとして、口を閉じた。
「それに、消えても死なない」
 僕は自分の足元を指した。指したところで、この人には見えない。それがわかっていて、それでも指した。
「僕、今ここにいる。走ってきた。転んだけど、それだけだ。四月に思ってたみたいなことは、何も起きなかった」
 彼女の目が、ほんの少し動いた。
「知ってたよ、そんなの」
「知ってた?」
「当たり前でしょ。私、四月からずっと一本もないんだよ。死ぬなら私が先だよ」
 言われて、僕は言葉に詰まった。
 六月の図書室で、僕は消えるという言葉を死ぬという意味で受け取った。受け取った僕の顔を、この人は見ていた。見ていて、訂正しなかった。
「なんで、あのとき、そのままにしたの」
 僕がそう訊くと、彼女はしばらく黙っていた。
 黙ってから、初めて目を逸らした。
「浅野くん、あのとき、すごい顔してた」
 そこで言葉が途切れて、僕は続きを待った。
「私の話を聞いて、本気で怖がってる顔だった。あんな顔で人に見られたの、母さんが死んでから初めてだった」
 声が、そこで少しだけ揺れた。
「訂正したら、その顔がなくなるでしょ。ただの、敷設を受けなかっただけの子になる。そうしたら、たぶん浅野くんはもう私のこと見ない」
 僕は動けなかった。
「だから黙ってた。嘘はついてないよ。訂正しなかっただけ。……でも、同じことだよね」
 彼女は自分の言ったことを、自分で始末するように言い切った。
 僕はその場に立ったまま、この夏のことを頭の中で並べ直していた。四月に空白を見つけて、六月に噂を信じて、七月から毎日壁を塗って、八月に線を全部失った。そのあいだずっと、僕は死にかけている人の横にいるつもりでいた。
 つもりでいたことが、この人を一人にしていた。
「ごめん」
 口に出してから、何に対して謝っているのかを、自分で確かめた。
「助けようとして、ごめん」
 彼女は首を振った。
「それは違う。ありがとうって書いたでしょ」
「書いてた」
「あれは本気。……勘違いされてたのは腹立つけど、勘違いしたまま毎日来たのは、浅野くんだけだったから」
 僕はそこで、姉に訊かれたことを思い出した。その子から見たら、あんたは何をしてる人に見えてたと思う、と。
 あのとき僕は答えられなかった。今ならわかる。毎日来て、番号を書いて、面を塗って、その人が近いうちに死ぬと思い込んでいる人間だ。
 そういう人間を、この人はこの夏のあいだずっとそばに置いた。置いたうえで、訂正しなかった。
「腹立つけど、っていうのは」
 僕が訊くと、彼女は少しだけ笑った。
「浅野くん、私のこと一回も普通に扱わなかったでしょ。大事にしすぎるの。重いもの持たせてくれないし、無理させないし。あれ、死ぬと思ってる人の扱い方だよ」
 言われて、思い当たる場面がいくつもあった。
 汽笛が鳴った。
 低くて長い音が、桟橋の空気を一度押した。係員が乗船の締め切りを告げる声がして、列の残りが通路へ動きはじめる。
 彼女はリュックを背負い直した。
「じゃあ、行くね」
 うん、と僕は言った。
 引き止める言葉を、僕は用意していなかった。用意していないことに、そこで初めて気づいた。あの一晩で港ではなく壁を選んだ時点で、僕は引き止める資格を自分で手放している。
 だから、伝えることはひとつしかなかった。
「絵、終わった」
 彼女の動きが止まった。
「空、塗った。さっき終わった」
 彼女は僕を見ていた。何も言わない。口が少し開いて、また閉じた。
「色は僕が決めた。勝手に決めた。星野さんが右上の隅でやったのと同じことをした」
 彼女の目から、水が落ちた。
 拭かなかった。拭かずに、そのまま僕を見ていた。
「どんな色?」
 声が掠れていた。
「白い。けど、ただの白じゃない。少しだけあったかい」
 僕は言葉を探した。探して、いい表現が出てこなかった。
「明るいほうに、まだ着いてない感じの空」
 彼女は、笑った。
 泣きながら笑う人を見たのは、僕はそれが初めてだった。口の端が上がって、目が細くなって、そこから水が落ちる。四月から八月まで、この人が笑ったのを、僕は数えるほどしか見ていない。
「感想、雑」
 知ってる、と僕は言った。
「写真、ある?」
「撮ってない」
 彼女は少しだけ目を見開いた。
「なんで?」
「写真は絵じゃないって、君が言った」
 彼女はそれを聞いて、何も言い返さなかった。
 係員がもう一度声を上げた。彼女は通路のほうを見て、それからこちらを向いた。
「明日、壊れるんだよ」
「知ってる」
「見に行かないの?」
 行かない、と僕は答えた。
 答えてから、その理由を自分で確かめた。完成したものが壊れるのを見に行くというのは、たぶん、終わったものをもう一度終わらせに行くことだ。あの壁は今日で終わった。終わったものを、そのまま置いておきたい。
「浅野くん」
 名前を呼ばれるのが、この夏で何度目なのかを僕は数えていない。
「私、明日で確定なんだ」
 九月一日、と僕は言った。
「そう。もう二度と受けられなくなる。それを選んだのは私で、後悔はしてないけど、怖くないわけじゃない」
 うん、と僕は言った。
「島には端末がないから、行っても何も変わらない。ただ、誰も足元を見ない。それだけの場所。それだけの場所に行くのに、私、こんなに時間かかった」
 彼女はリュックの肩紐を握り直した。
「浅野くんは、どうすんの」
 僕は少し考えた。
「決めてない」
 はぐらかしたつもりはなかった。
「まだ決めてない。たぶん、しばらく決まらない」
 彼女はうなずいた。
 うなずいて、それから、この夏で初めて僕の名前を最後まで呼んだ。
「浅野創くん」
 二回目の汽笛が鳴った。
「ありがとう」
 彼女は通路へ歩いていった。
 振り返らなかった。切符を係員に渡して、船の入口の陰に入って、それで見えなくなった。僕は桟橋の上に立ったまま、その場所を見ていた。
 足元には、何もなかった。
 彼女の立っていた場所にも、何もない。二人ぶんの空白が、コンクリートの上に並んでいて、片方だけが残っていた。

6-5 夜明け
 船が出たのは、二十二時十五分だった。
 ロープが外されて、船体がゆっくり岸を離れていく。舷側の明かりが水面に落ちて、その光が波で細かく割れた。エンジンの音が、桟橋の上まで低く届いてくる。
 僕は動かずに見ていた。
 デッキに人が出ている。手を振っている人もいる。その足元から伸びた青が、船の動きと一緒に沖へ流れていく。何本もの線が、水の上を進んでいくように見えた。
 その中に、一本もない場所がある。
 どこにあるのかは、ここからでは見分けられない。見分けられないほど遠くなって、やがて船全体が形だけになって、灯りだけが残った。
 最後に見えたのは、船尾の灯りだった。
 赤い光が水面の上でゆっくり小さくなって、防波堤の切れ目を抜けて、外の海へ出た。そこから先は、光が動いているのか止まっているのかもわからなくなる。距離が遠すぎて、こちらの目のほうが追いつかない。
 僕は桟橋の縁に腰を下ろした。
 立っているのが限界だった。膝が痛んで、腕が上がらなくて、喉が乾ききっている。鞄は旧美術棟に置いてきてしまった。水もない。
 陸たちは来なかった。
 途中で車を降りた僕を追いかけてこなかったのは、たぶんわざとだ。あいつはそういうことができる。棒に振るなら最後までやれと言って、最後までやらせて、そのあとは一人にする。
 海の上の灯りが、少しずつ小さくなった。
 時間の感覚がなくなった。座ったまま、僕は同じ場所をずっと見ていた。船が水平線に入って、見えなくなって、それでも立ち上がる理由がなかった。
 膝の傷が乾いてきて、ズボンに貼りついていた。剥がすと痛みそうだったので、そのままにした。
 考えていたのは、絵のことだった。
 明日の朝、あの壁に重機が入る。
 完成したのは今日の九時十分で、それを見た人間は僕と陸とバレー部の三人を合わせて五人しかいない。二十年以上前に描き始めた人は見ていない。描き継いだ人も見ていない。壁は明日壊れて、写真も残らない。
 無駄だったのか、と僕は自分に訊いた。
 訊いて、すぐに答えが出た。無駄ではない。理由は説明できないけれど、無駄ではないことだけははっきりしている。
 あの壁は二十年以上前に止まって、二度目に止まって、そして終わった。終わったという状態になるまでに、あの壁に筆を入れた人間は三人いる。描きたかった人と、終わらせたかった人と、最後の色を決めた人。全員が、それぞれ違う理由でそこにいた。
 説明できないのが、たぶん正しいのだと思った。
 説明できることは、全部数えられる。数えられるものは、記録になる。記録になったものは、あの画面に反映されて、線の太さになる。四月から八月まで、僕の足元で起きていたのはそういうことだった。
 あの壁は、どこにも記録されない。
 誰の軌道にも影響しないし、何の評価指標にも含まれない。含まれておりません、と書かれた側にあるものだ。
 それでも、僕はあの空の色を決めた。
 決めたという事実だけは、消えない。壁が壊れても、僕の頭の中にその十五分が残る。板を扇風機の前に置いて、乾くのを待って、壁に当てて、合ったと判断した十五分が。
 あの人が右上の隅を決めたときも、同じだったのだろう。
 母親が下絵に迷ったまま残した三通りの線を見上げて、そのどれも選ばずに、自分の線を引いた。その判断が正しいかどうかを保証してくれるものは、どこにもない。保証がない場所で決めるというのは、そういうことだ。
 僕はこの夏に一度だけ、それをやった。
 空が白みはじめたのは、四時を過ぎたころだった。
 海の色が先に変わる。黒だったものが、いちばん遠いところから灰色になって、そこから紫に近い色になって、それが少しずつ手前へ来る。防波堤の輪郭が浮かんできた。
 僕は座ったまま、それを見ていた。
 九月一日だった。
 この時間のどこかで、あの人の未敷設が確定する。書類の上の処理だから、実際には役所が開く時間なのかもしれない。それでも日付は変わっていて、変わった以上、あの人はもう二度と線を持てない。
 島は、ここからでは見えない。
 二時間ほどかかると時刻表には書いてあった。祖母が港まで迎えに来ているのかどうかも、僕は知らない。知らないことのほうが多い。
 水平線に、線がひとつ引かれた。
 光の帯だった。海と空の境目に細く出て、それが横へ広がっていく。色は、僕が昨日混ぜたものとは違った。もっと赤くて、強くて、はっきりしている。
 あれを塗るのは無理だ、と僕は思った。
 思ってから、少し笑った。昨日の僕なら、この光を見て、どうすれば同じ色が出せるのかを考えただろう。今は、あの壁の空をこの色に合わせる必要がないとわかっている。あの空は、僕が決めた色でいい。
 日が上がりきるまで、僕はそこにいた。
 立ち上がったとき、足がほとんど動かなかった。膝の傷が固まっていて、曲げると痛む。僕は手すりにつかまって、ゆっくり歩き出した。
 空は明るくなっていた。
 坂を上れば学校が見える。今の時間なら、まだ重機は入っていないかもしれない。工事車両が来るのは八時か九時だろうし、始業式は今日のはずだ。行こうと思えば行ける。
 僕は坂を上らずに、家のほうへ折れた。
 足元には何もなかった。
 九月一日の朝の光が、僕の影を道の前のほうへ長く落としていた。影は僕の動きについてくる。青は一本もない。どこへ行くかを教えてくれるものは、どこにもなかった。

6-6 白紙
 始業式は、九時からだった。
 僕は家で二時間寝て、シャツを着替えて、膝に絆創膏を貼って、それから学校へ行った。爪のあいだの白は落ちなかった。
 旧美術棟のほうは見なかった。
 見ないと決めていたのに、渡り廊下の手前を通るときに一度だけ音が聞こえた。金属がコンクリートに当たる音で、それが何の音なのかはすぐにわかった。僕は歩く速度を変えなかった。
 昇降口で靴を履き替えるとき、一年生の集団とすれ違った。
 全員の足元に何もない。まだ敷設前だから当たり前で、四月になれば全員に生える。その中を歩いていると、自分が一瞬だけその集団に混ざっているように見えた。混ざっていない。この子たちのは、これから生えるものだ。
 教室に入ると、床が青かった。
 四十人ぶんの線が、夏休み前と同じように流れている。誰の足元にも青がある。僕の足元だけが空白で、その空白の位置が、四月とは違う場所にあった。
 窓際のいちばん後ろの席は空いていた。
 誰も何も言わなかった。夏休みが明けて、一人いなくなっていることに、たぶん半分くらいは気づいていない。残りの半分も、一週間もすれば数えなくなる。
 陸は、僕の顔を見て、それだけだった。
 おはようとも言わなかったし、昨日のことも訊かなかった。そのかわり、僕の足元を一秒だけ見て、それから自分の席へ戻っていった。太い一本が、廊下のほうへまっすぐ伸びていた。
 ホームルームで、進路希望票が配られた。
 二学期の分だった。三年で文系に行くか理系に行くかと、進学か就職か、それから第一希望から第三希望まで。四月に配られたのとほとんど同じ紙で、色だけが違った。
 最後の列まで配り終えてから、戸田が言った。
「今日中に書けとは言わない。金曜までに集めます」
 教室にシャープペンシルの音が広がった。
 みんな早い。四月と同じで、書くというより写している。閲覧サービスを開いて、そこに並んでいる文字を紙へ移すだけの作業だった。
 僕の机の上だけ、紙が白いまま置かれていた。
 僕は紙を見ていた。
 書くことがない。閲覧サービスを開いても、軌道の一覧は出ない。現在、お客様の軌道は表示されておりません、という一段落があるだけだ。参照するものが何もない。
 考えてみようとした。
 自分が何をやりたいのか。何に向いているのか。三年でどっちのクラスに入るのか。考えても、何も出てこなかった。十七年間、そういうことを考える訓練をしてこなかった人間が、一晩で決められるわけがない。
 僕は名前だけ書いた。
 クラスを書いて、出席番号を書いて、浅野創と書いた。それから下の欄を全部空けたまま、紙を持って前へ行った。
 戸田は受け取って、それを見た。
 しばらく見ていた。表情は変わらない。四月に星野の白紙を受け取ったときと同じ、あの一瞬止まる手つきが出たのかどうかは、こちら側からではわからなかった。
「浅野」
「はい」
「これ、決まってないってことか」
 まだ決まってません、と僕は答えた。
「そうか」
 戸田がその紙を束の下へ入れようとしたので、僕は待ってくださいと言った。
 紙を返してもらって、第一希望の欄に書いた。
 まだ決めていません、と。
 字が大きすぎて、欄からはみ出した。空欄のままだと、書き忘れたのか、書かなかったのかがわからない。まだ決めていないのだということを、自分の字で残しておきたかった。
 書き終えてから、もう一度戸田に渡した。
 戸田はそれを受け取って、束の下へ滑り込ませた。
 説教はなかった。呼び出しもなかった。理由は訊かないから、と四月にこの人は言った。今日もそのとおりにした。
 自分の席へ戻る途中で、僕は窓際の後ろの席を見た。
 六月の廊下で、あの人はこう言っていた。決めないという意味です、と。
 僕の紙とは、意味が違う。あの人は選ばないことを選んだ人で、僕はまだ何も選んでいないだけの人間だ。同じ白紙に見えて、中身は別のものだった。
 それでも、僕はその席に向かって、少しだけ頭を下げた。
 誰も見ていなかった。