4-1 陸
八月十七日の午後、旧美術棟の扉が外から開いた。
僕はそのとき床にしゃがんで、養生テープの端を探していた。壁の下端に沿ってビニールを貼る作業をしていて、テープの切れ目がわからなくなって、指先で表面を撫でていた。蝶番の鳴る音がして、明るい光が背中に当たった。
振り返ると、陸が立っていた。
扉の枠がそのまま四角く切り取られて、外の光が床の埃を白く浮かび上がらせている。その中に立っている人影が誰なのかを認識するまでに、僕は二秒くらいかかった。
練習着だった。首にタオルをかけて、片手にスポーツバッグを提げている。夏休み中も新チームの練習があるのは知っていた。ただ、それがこの建物と繋がるとは、僕は一度も考えたことがなかった。
「裏門から入ってくの、何回か見た」
陸はそう言って、一歩だけ中へ入った。
入った瞬間、陸の動きが止まった。
視線が下へ落ちる。半歩下がる。扉の外へ出る。また入ってくる。三度それを繰り返してから、陸はようやく顔を上げた。
「何だよ、これ」
声が上ずっていた。この人のそんな声を、僕は聞いたことがなかった。
「消えたんだけど、俺の」
建物の中では出ないんだ、と僕は言った。
「誰のでも出ない。外に出れば戻る」
陸は扉の枠をまたいで外へ出て、自分の足元を確かめて、それから中へ戻ってきた。戻ってきた顔には、さっきまでなかったものが乗っている。
その目が、僕の足元へ動いた。
僕の爪先にも、当然なにもない。ただ、陸の場合は数秒前まで太い一本を持っていた人間の反応で、僕のほうは四か月かけて三本を二本にしてきた人間の足元だった。見た目には区別がつかない。
「お前、いくつ残ってんの」
外に出れば二本ある、と僕は答えた。
答えながら、それが言い訳の形をしていることに自分で気づいた。
陸は中を見回した。
積み上げられた机、欠けた石膏像、床に並んだ六十枚の板、絵の具の缶、バケツ、脚立。そして脚立の上に、灰色のTシャツを着た星野ユキがいる。彼女は一度だけこちらを見て、それからまた壁へ向き直った。
陸の視線が、脚立の上の背中のあたりで止まった。彼女の足元も同じように空白で、この建物の中では誰もそれを見分けられない。
立ち上がった僕は、手についたテープの糊を制服のズボンで拭いた。制服ではない。作業用に持ってきた古いハーフパンツだった。そのことに気づいて、僕は何を弁解すればいいのかわからなくなった。
「大会、行かなくて悪かった」
先にそれを言った。言うべき順番としては、たぶん正しい。
「いや、それはいいよ。負けたし」
陸は本当に気にしていない顔をした。この人はそういうところがある。約束を守らなかったことを責めるより、目の前の状況を理解するほうを先にやる。
「講習、やめたんだってな」
僕は黙った。
「お前んち通ったときに、おばさんに会ったんだよ。夏期講習どうって訊いたら、やめて自分で勉強してるって言われた。自分で勉強してるやつが、夏休みに裏門から学校入ってくか?」
責める口調ではなかった。聞いた話と自分の見たものが食い違っているのを、そのまま僕の前に置いているだけだった。
僕が何も言わないでいると、陸は床の板を一枚つまみ上げて、裏の番号を見て、また戻した。
陸がここへ来た理由を、僕はそのときになって考えた。
場所を突き止めたのは今日ではないはずだ。裏門から入る僕を何回か見た、と本人が言っている。何回か見て、それでも何日か黙っていて、今日になって扉を開けた。踏み込むまでのあいだに、この人なりの助走があったのだろう。
「ここ、立入禁止じゃないの」
「鶴巻先生に許可もらってる」
「先生が許可出せるもんなの、それ」
痛いところを突かれた。あの人が出したのは許可ではなくて、九月に消えるものは誰のものでもないという事実の確認だった。説明しようとして、僕は途中でやめた。説明すればするほど、こちらが苦しくなるのがわかっていた。
「浅野」
陸の声が、少しだけ低くなった。
「お前、最近おかしいぞ」
悪意はどこにもなかった。心配している人間の声だった。そのことが、突き放されるよりずっとこたえた。
「部活やめて、講習やめて、親に嘘ついて、毎日ここにいる。二学期の推薦の希望、来月出すの知ってるか。うちの学年、九月の頭に一回締め切りあるだろ」
知っていた。忘れていたわけでもない。
「もう二学期の話が始まってるんだよ、こっちは」
陸は床のビニールを踏まないように、半歩だけ位置を変えた。
「四月は三本って言ってたよな」
僕は答えなかった。答えないことが答えになるのを承知の上で、黙った。
陸は一度だけ扉のほうを見た。外へ出て確かめるかどうかを迷ったのだろう。迷って、やめた。そこまでやってしまえば、見たあとに何を言うかまで決めなければならなくなる。
「なあ」
陸は言葉を選んでいた。選んでいるあいだに、脚立の上から絵の具の匂いが降りてくる。
「そんなやつと一緒にいたら、人生棒に振るぞ」
名前ではなく、そんなやつという言い方をした。僕は反射的に脚立のほうを見た。彼女は筆を持ったまま、こちらを見ていない。聞こえていないはずがない距離だった。聞こえていて、何の反応もしない。慣れているのだと思った瞬間に、僕の中で何かが逆立った。
「星野さんだよ」
僕はそう言った。
「そんなやつじゃなくて、星野さん」
陸は目を丸くした。反論されるとは思っていなかったのだろう。実際、僕が陸に言い返したのは、知り合ってから初めてだったかもしれない。
それでも、陸は怯まなかった。
「わかった。星野さんな。でも言ってることは変わんねえよ」
まっすぐだった。
「俺、あの子のこと何も知らない。悪い子だとも思ってない。ただ、線がないやつの隣にいて、自分の線が減ってるんだったら、それはもう止めたほうがいいだろ。友達なら止めるだろ、普通」
普通、という単語が出てきた。
四月に僕がいちばん欲しがっていた言葉で、今の僕がいちばんうまく扱えない言葉だった。陸の言っていることは何ひとつ間違っていない。僕が同じ立場でも、たぶん同じことを言う。言ったうえで、自分は正しいことをしたと思って帰る。
それでも、ひとつだけ引っかかるものがあった。
さっき陸は、自分の足元から線が消えたときに声を上ずらせた。三秒で戻るとわかっている光が、三秒消えただけで、あれだけうろたえた。
陸の言う止めるというのは、僕を線のあるほうへ戻すという意味だ。戻った先にあるのが何なのかを、僕はこの夏に一度見ている。あれは僕が四月に安心と呼んでいたもので、彼女が死んだ目と呼んだものだった。
僕は何も言い返せなかった。
言い返せない理由は、陸が間違っているからではなくて、正しい人に向かって何を言えばいいのかを僕が知らないからだった。
「帰るわ」
陸はスポーツバッグを担ぎ直した。
扉の手前まで行って、一度だけ振り返った。
「じゃあ、俺は俺のやり方でやるから」
意味がわからなかった。
そのときの僕には、それが別れの挨拶の変わった言い方くらいにしか聞こえなかった。陸はいつも自分のやり方で物事を進める人間だったし、そういう言い回しをしても不思議はない。
扉が閉まって、光が消えた。
建物の中がまた暗くなって、蝉の声が戻ってくる。
僕は床に座り込んで、さっきまで探していた養生テープの端をもう一度探した。見つからなかった。指の腹でロールの表面を何周も撫でているうちに、自分の手が少し震えているのがわかった。
しばらくして、脚立の上から声がした。
「浅野くん」
名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。
「怒らなくてよかったのに」
僕は壁のほうを見上げた。
「言われ慣れてるから、ああいうの。いちいち怒ってたら、私、一日中怒ってなきゃいけない」
それでも、と僕は言った。それ以上の言葉が出なかった。
彼女は筆を持ち直して、下絵の線を確かめるように壁へ顔を近づけた。
「桐山くんの言ってること、合ってるよ」
ひとつも慰めになっていないことを、この人は平気で言う。
「私が桐山くんの立場でも、同じこと言うと思う」
4-2 家庭
八月二十日の朝、洗面所の鏡の前で、僕は自分の足元を見た。
一本だった。
二本のうち、右側にあったほうがなくなっている。残った一本は、太さも明るさも今までと変わらない。細くもなっていないし、色が薄くなってもいない。ただ、隣にいたはずのものが消えている。
思い当たることがなかった。
陸が来てから三日経つ。その三日間にやったことといえば、養生を貼って、色見本を並べ替えて、脚立の脚にゴムを巻いたくらいだ。学校をやめたわけでも、家を出たわけでもない。記録の上で何かが起きたはずなのに、何が起きたのかがわからなかった。
洗面所を出るときに、僕はもう一度足を止めて確かめた。廊下のフローリングの上でも一本しかない。四月の朝、保健センターの外で三本を数えたときの間隔を、僕はまだ正確に覚えている。あの三本のうち二本が、四か月で消えたことになる。
その日、僕は作業に身が入らなかった。
彼女は何も訊かなかった。手が止まっている僕を一度だけ見て、それからまた自分の作業へ戻る。訊かないことが、この人なりの距離の取り方なのだということは、この夏でだいぶわかってきた。
九月の推薦の締め切りのことを、陸は三日前に口にした。学校が出す書類の話で、僕はまだ何も出していない。出さなければどうなるのかも、正直なところよく考えていなかった。
夕方、家に帰ると、食卓に封筒が置いてあった。
予備校の名前が印刷されている。すでに開封されていた。
取り下げたのは七月の半ばで、返金は講習の日程が全部終わってからまとめて処理されるのだと、窓口の人が言っていた。八月十日で日程が終わって、そこから十日で口座に戻る。そういう仕組みだったらしい。
母は台所に立っていて、僕が椅子を引く音がしても振り返らなかった。父はまだ帰っていない。封筒の中身を見るまでもなかった。返金の通知だということは、宛名を見た時点でわかっていた。
「口座に入ってたの、今日」
母の声は、怒鳴っているときのものではなかった。
「いくら戻ってきたか、って話じゃないのよ。講習をやめたのは聞いてるし」
母は水を止めて、手を拭いて、こちらを向いた。
「線、減ってるじゃない」
やはり、そこだった。
「四月に三本だったの。七月に二本になって、さっき開いたら一本になってた」
七月に、と僕は思った。
あの朝、洗面所で二本になっているのを見つけたとき、僕は母が保護者の画面をひらくまでの猶予を数えた。猶予などなかったことになる。あの人はその日のうちに知っていて、一か月以上、何も言わずにいた。
黙っていた一か月が何だったのかを、僕は今も考えている。
返金の入金と、僕の一本が消えたことは、同じ日に起きたのだろう。
二か月前の僕なら、この因果に感心していたと思う。六月にどれだけ道を変えても動かなかったものが、書類一枚では動く。人の気持ちは見ないのに、口座の入出金は見ている。
紙を出して、判子を押してもらって、口座にお金が戻る。
それだけで記録は動く。誰にも迷惑をかけていないし、誰も傷つけていない。ただ、この夏に十日間の講習を受ける予定だった生徒が、受けなかったという事実が、どこかで数字に変わった。
「何してるの、毎日」
僕は正直に答えた。学校の旧美術棟で、壁に絵を描いている。クラスの子と二人で、九月に取り壊される建物の壁に、その子の母親が描きかけた絵を完成させようとしている。
言いながら、自分の声がずいぶん落ち着いているのに気づいた。
「壁に絵」
母は僕の言葉をそのまま繰り返した。理解できない単語を音として確かめているような言い方だった。
「それ、学校に許可取ってるの」
美術の先生に鍵を借りている、と僕は答えた。母はその答えが答えになっていないことをすぐに見抜いたはずなのに、そこを追及しなかった。追及する余裕がなかったのだろう。
「その子、線があるの?」
僕は答えられなかった。
答えなかったことで、母は全部を理解した。
「玄関のところで」
声が変わった。震えてはいない。むしろ、それまでより静かになった。
「あなたが敷設から帰ってきた日、玄関で三本って言ったの、覚えてる?」
覚えている、と僕は言った。
「あのとき、この子は大丈夫だって思ったの。三本もあれば、どれを選んでも変なところには行かないって」
母はそこで言葉を切った。
玄関のほうで音がした。父が帰ってきたのだと、靴の音でわかる。台所の入口に父が立って、母の顔と僕の顔を順番に見て、それから食卓の封筒を見た。
説明を受けるまでに、時間はかからなかった。
父は椅子に座らなかった。立ったまま、封筒の宛名のあたりを見ていた。何秒あったのかはわからない。母が何か言いかけて、やめた。
それから父が口をひらいた。
「茜と同じことをする気か」
台所の換気扇が回る音が、急に大きく聞こえた。
その名前がこの家で発音されたのを、僕は三年ぶりに聞いた。いや、三年ぶりではないかもしれない。少なくとも僕の前で出たのは、葉書が捨てられていたあの日以来だった。
姉の名前だった。
僕が十四のときに家を出た人で、机の一番下の引き出しに入っている葉書の差出人で、大学を中退して、線を失って、それきりこの家では存在しないことになっている人。
六つ上だから、今は二十三になる。どこで何をしているのかを、僕は知らない。知らないことについて、この家では誰も困っていないことになっている。
母が父の腕に手を置いた。それも、止めるというより支えるような置き方だった。
父はそれ以上何も言わなかった。言わないまま、洗面所のほうへ行って、水の音がした。
母はしばらく立ったままでいて、それから封筒を手に取って、二つに折って、台所の引き出しに入れた。捨てもしないし、突きつけてもこない。三年前にゴミ箱で見つけた葉書のことを、僕はまた思い出していた。
僕は椅子に座ったまま、食卓の封筒があった場所を見ていた。
怖かった。
線が一本になったことが怖いのではない。この家で名前を呼ばれなくなるということが、どういうことなのかを、僕は目の前で三年間見てきた。写真が減って、部屋が物置になって、葉書がゴミ箱に入る。誰も悪意を持っていないのに、一人ぶんの場所が家からなくなっていく。
その次が自分だという可能性を、僕はその夜初めて現実として考えた。
部屋に戻って、机の一番下の引き出しを開けた。
葉書はそこにある。三年前の日付があって、僕と同じ名字があって、県の名前と住所が印刷されている。
僕はそれを取り出して、机の上に置いた。置いたまま、しばらく眺めていた。連絡を取ろうとは思わなかった。取って何を訊けばいいのかもわからない。
ただ、この人は今も生きていて、どこかで暮らしている。
そのことだけを、僕は確認したかったのだろう。
4-3 色
彩色が始まったのは、八月二十一日だった。
前の日の夜に何があったのかを、僕は彼女に話さなかった。話さなかったのに、朝に扉を開けたとき、彼女は僕の顔を見て一言だけ言った。
「今日、下から塗る」
それだけだった。何があったのかを訊かず、今日やることだけを告げる。その扱われ方が、あの日の僕にはちょうどよかった。
最初に置いた色は、青だった。
線の青ではない。もっと濁っていて、緑に寄っていて、深いところで灰色を含んでいる。番号でいうと二十三番で、配合表には白と黒と青と、ほんの少しの黄色が書いてある。彼女はそれを大きな刷毛に含ませて、壁のいちばん下の帯に、横へ長く引いた。
濡れているあいだ、その色は暗く沈んで見えた。
乾くにつれて、少しずつ明るくなる。三十分後に見たとき、それは最初に置かれたときとは別の色になっていた。彼女は五メートル下がってその帯を見て、それから戻ってきて、続きを塗りはじめた。
塗る順番には決まりがあった。
上から塗ると垂れた滴が下の面を汚すので、本来は上が先だという。ただ、この壁は下の三分の一に一番広い面があって、そこを先に片づけないと脚立を自由に動かせない。だから下の帯だけ先に埋めて、そのあとは上から下りてくる。そういう段取りを、彼女は僕に一度だけ説明した。
僕の仕事は、広い面を埋めることだった。
下の帯と、右側の大きな余白と、中央の曲線に囲まれた内側。どれも輪郭が決まっていて、その中を指定された番号の色で埋めていけばいい。はみ出さないこと、塗り残さないこと、同じ濃さで置くこと。三つだけ守ればいい作業で、僕にもできた。
刷毛の動かし方も教わった。
手首で塗るのではなく、肩ごと動かす。一往復で塗れる幅を決めて、その幅を守って隣へ移る。戻って塗り重ねると、そこだけ濃くなって跡が残る。教えられたとおりにやると、腕は倍疲れるのに、仕上がりが目に見えて違った。
「輪郭と、人のところは私がやる」
二日目に彼女はそう言った。
「浅野くん、面のほう全部。私、面が苦手だから」
苦手というのは謙遜ではなくて、事実だった。彼女の塗った面はどこかに勢いがあって、そのぶん端のほうで濃さが変わる。僕の塗った面は均一で、つまらない。つまらないほうが壁には向いていた。
分担が決まってから、作業の速度が変わった。
僕が下の段を横へ進めていくあいだに、彼女は脚立の上で細い筆を使う。中央の大きな曲線は、下絵ではただの線だったものが、彼女の手で幅を持ちはじめた。太くなったり細くなったりしながら、壁の上を横切っていく。人の背中に見えていたものが、彩色されるとますます背中に見えた。
塗っているあいだ、彼女はときどき鼻歌のようなものを出した。
曲になっていない。同じ三つか四つの音を、思い出したように繰り返しているだけで、たぶん本人は無意識だった。僕がそれに気づいてから、鼻歌の出る日と出ない日があることもわかった。出る日は、その日の進みがいい日だった。
塗りはじめた日の夕方、僕は刷毛を止めて壁から少し離れた。
この建物の中で足元から線が生えないことは、七月から知っている。知っていて、それがどういうことなのかを考えたことは一度もなかった。視界の下の縁に何もない状態が、一日に八時間も続いている。
そのぶん、壁の色がよく見えた。
青い線は自分で光っている。地面を照らさないし、影も作らないのに、それ自体が発光している。慣れてしまえば気にならないけれど、視界の下端にずっと薄い光があるのは、たぶん相当な負荷だったのだろう。
壁の絵は光らない。
投光器の光を受けて、そのぶんだけ返してくる。角度を変えれば見え方が変わるし、日が傾けば色も変わる。濡れているときと乾いたあとで別物になる。当たり前のことのはずなのに、僕はその当たり前さに毎日驚いていた。
光っていないものを、僕はずいぶん久しぶりに見ている気がした。
四月からこっち、僕の視界の下端にはいつも青があった。あるのが当たり前になって、意識もしなくなって、それでも消えたときにだけ、それがどれだけ場所を取っていたのかがわかる。教室の床も、通学路も、家の廊下も、僕はこの四か月、薄く青がかった世界として見ていたことになる。
この建物の中だけが、四月より前と同じ色をしていた。
八月二十二日の昼、右上の隅の話になった。
下絵で線が三種類あって、決まっていない部分だった。彼女は脚立を右へ動かして、そこを長いあいだ見上げていた。
「どれにするか決めた」
僕は刷毛を止めた。
「三つのうちのどれ?」
「どれでもない」
彼女は下絵の線を指でなぞった。三つの線のどれとも違う軌跡を、宙に描いている。
「三つとも、母親が迷った線でしょ。迷ったまま止まってる。だから、そのどれかを選ぶんじゃなくて、私が引く」
いいのか、と僕は訊いた。
訊いてから、自分がずいぶん臆病な質問をしたと思った。他人の描きかけを勝手に変えていいのか、という意味の質問で、それは要するに、決まっているものから外れていいのかという質問だった。四月からずっと僕が抱えてきた問いを、僕は他人の絵に向かって投げていた。
彼女は少しだけこちらを見た。
「いいよ。あの人、もう決められないから」
決められない人の代わりに決める、というのは、乱暴なことなのか、それとも引き受けることなのか。僕にはまだ判断がつかなかった。判断がつかないまま、その日の午後の彼女の手つきを、僕はずっと目で追っていた。
二十二日の午後、右上の隅に最初の一筆が入った。
黄色だった。三十八番。白をかなり混ぜた、やわらかいほうの黄色で、下絵のどの線とも重ならない位置から始まって、大きく外へ向かって開いていく。
塗り終えたとき、壁の印象が変わった。
それまで青と灰色に寄っていた画面の右上に、明るい方向ができた。中央の背中のような曲線が、その方向を向いているように見える。見えるというより、最初からそのために引かれていた線だったように見えた。
彼女は脚立を降りて、五メートル下がって、しばらく黙っていた。
僕も隣に立った。
蝉が鳴いていた。扇風機が首を振って、僕らの背中に風を送って、戻っていく。
「題名、決めた」
壁から目を離さないまま、彼女が言った。
何、と僕は訊いた。
「あかるいほう」
ひらがなだった。口で言われただけなのに、それがひらがなだということが、なぜかわかった。
僕は壁を見た。
絵の中に太陽があるわけではない。光源らしいものは描かれていないし、右上が特別に明るい色というわけでもない。それでも、この絵は明るいほうを向いている。向いているだけで、そこに到達してはいない。
いいと思う、と僕は言った。
彼女はこちらを見て、笑った。
声は出ていない。口の端が少し上がって、目が細くなって、それだけだった。それでも、四月からこの日まで、この人がこんなふうに笑うのを見たのは初めてだった。
「浅野くん、感想が雑」
そう言って、彼女はまた脚立に戻っていった。
感想が雑だと言われたことについて、僕はそのあとしばらく考えていた。
いいと思う、以外の言葉が本当に出てこなかった。絵のことを知らないからでもあるし、この壁がどういう意味を持っているのかを、僕がまだ半分しか理解していないからでもある。それでも、あの題名を聞いたときに胸のあたりが動いたのは確かだった。そういうときに何と言えばいいのかを、僕は十七年間一度も考えてこなかった。
その日の帰り、僕は境目のところで立ち止まった。
札をまたぐと、足元から青が一本だけ生えてくる。細くもなっていない、四月と同じ明るさの一本が、本校舎のほうへまっすぐ伸びている。
一本しかないのに、太くはならない。
陸の一本は太かった。太さは信頼度で、本数は選択肢の数だと僕は理解している。僕の一本が細いままだということは、この道についてもシステムはたいして自信がないということになる。選べる道が減っただけで、残った道が確かになったわけではない。
その一本の先を目で追って、僕は建物のほうを振り返った。
窓に投光器の光がついている。彼女はまだ塗っている。
あと十日で九月になる。
4-4 空白
八月二十三日の朝、僕は学校の職員室へ行った。
夏休み中でも先生たちは出てきている。戸田は自分の席で問題集のページを繰っていて、僕が立っているのに気づくまでに少し時間がかかった。
「浅野か。どうした」
僕は推薦の希望を出さないと伝えた。
指定校推薦の校内選考は、本来なら三年の夏にやるものだ。ただ、軌道の情報を出願の要件に入れる大学が増えてから、うちの学校は二年の九月に事前登録を締め切るようになった。敷設から半年近くあれば線はもう本人のことを十分に語っている、というのが学校の説明だった。僕は七月に一度、希望の有無だけを書く用紙に希望ありと書いていた。第一志望の大学に指定校の枠があって、成績も足りていて、担任からも勧められていた。書いたときには何も考えていない。線がそちらを示していたから、そのとおりに丸をつけただけだ。
戸田は問題集を閉じた。
「理由は」
「線が一本になったので」
「知ってる」
戸田はそれだけ言って、それ以上は訊かなかった。
学校が生徒の軌道を見られる立場にあることは、考えてみれば当たり前だった。推薦の参考資料に軌道の情報が含まれているのだから、担任が把握していないはずがない。四月に三本あったものが八月に一本になっていることを、この人は知っていて、夏のあいだ一度も僕に連絡をしてこなかった。
四月のホームルームで、希望票を書かせたあとに戸田が付け足した言葉を、僕は思い出した。理由は訊かないから、とこの人は言った。
「もう一回訊くけどな」
戸田は椅子ごとこちらへ向き直った。
「取り下げたら、もう戻せないぞ。三年になってから出し直しますってわけにはいかない。それでいいのか」
「はい」
「わかった」
驚くほどあっさりしていた。
戸田は引き出しから紙を一枚出して、必要な欄を指で示した。名前とクラスを書いて、取り下げる旨に丸をつけて、日付を入れる。三十秒で書き終わる紙だった。書き終えて渡すと、戸田はそれをファイルに挟んで、それで終わりだった。
説教も、保護者に連絡するという話もなかった。
職員室を出る前に、僕は一度だけ振り返った。戸田はもう問題集を開いていて、こちらを見ていない。六月の廊下で星野とのやり取りを聞いたとき、僕は、学校が用意している手続きはここまでなのだと思った。今日それを反対側から受け取ったことになる。
廊下を歩きながら、僕は自分の手が軽いことに気がついた。
推薦の枠は、四月からずっと僕の前に置かれていたものだ。線が示して、母が喜んで、戸田が勧めて、僕がそのとおりに丸をつけた。取り下げるのに要した時間は三十秒で、必要だったのは名前と日付だけだった。あれほど大きく見えていたものが、紙の上ではその程度の重さしか持っていない。
昼前に旧美術棟へ行くと、彼女はもう塗っていた。
中央の曲線の上のほうを、細い筆で詰めている。僕は下の段の続きに取りかかった。話すことは特になかった。二十二日に右上の黄色が入ってから、二人とも口数が減っている。絵がまとまりはじめると、喋る必要が減るのだということを、僕はこの数日で覚えた。
三時を過ぎたころ、彼女が脚立を降りた。
「今日、早く帰る」
僕は顔を上げた。理由は言わない。この人はいつもそうなので、僕も訊かなかった。
彼女は筆を洗って、水を替えて、脚立を壁際へ寄せた。片づけ方がいつもより丁寧だった気もするし、そう思うのは後から振り返っているからかもしれない。
鞄を持ち上げて、彼女は扉の手前で一度止まった。
「鍵、閉めといて」
それだけ言って、出ていった。
僕は六時まで塗った。
残った面のうち、いちばん広いのは右側の余白だった。そこは一色で埋める場所で、番号は四十一番、薄い灰青に近い色をしている。三分の一ほど進めたところで、光の入りが悪くなった。投光器を点けようかと迷って、やめた。一人でいるあいだに脚立を動かすなと、前に一度言われている。
道具を片づけて、鍵を閉めて、渡り廊下を戻った。
いつもの境目を越えて、僕は足元を見た。
何もなかった。
立ち止まって、一歩戻り、もう一度またいだ。同じだった。廊下のリノリウムの上に、僕の靴の影があるだけで、青はどこからも生えてこない。
本校舎の中を歩いてみた。昇降口まで行って、下駄箱の前で靴を履き替えて、外へ出た。校門を抜けて、坂を下って、商店街に入る。すれ違う人の足元からは、いつもどおり青が伸びていた。自転車の人にも、犬を連れた人にも、コンビニから出てきた高校生にも、ちゃんとある。
僕にだけ、ない。
不思議なことに、怖くはなかった。
むしろ、来るべきものが来たという感じに近かった。三本が二本になり、二本が一本になり、一本がゼロになる。順番どおりだ。順番どおりに起きたことについて、人はあまり驚かない。
商店街を抜けたところで、僕は一度立ち止まって、足元を長いこと見ていた。
四月の朝、保健センターの前で三本が生まれたときのことを思い出す。あのとき僕は、綺麗だと思った。ほどけていくような心地がして、もう自分で決めなくていいのだと思った。今、その同じ場所に何もない。
なくなってみると、そこにあったものがどれだけ視界の下を占領していたのかがよくわかった。
家に帰る前に、僕は公園のベンチに座った。
そこで、閲覧サービスを開いた。
画面には、軌道の一覧が表示されなかった。代わりに、短い文章が一段落だけ出ている。現在、お客様の軌道は表示されておりません。予測の信頼度が一定の水準を下回った場合、軌道の表示は自動的に停止されます。再表示には所定の手続きが必要です。
四月にこの文章を読んだ。
あのときは、他人についての説明だと思って読んでいた。今は自分の画面に出ている。文面はまったく同じで、一文字も変わっていない。
脱線、という言葉が、そこには書かれていなかった。
書かれていないことに、僕は少しだけ笑いそうになった。掲示板の人たちがあれだけ使っていた言葉を、公式のページは一度も使わない。使わないまま、表示を止める。
そして、僕はそこで気づいた。
僕には線がない。
けれど、僕はどこも痛くない。熱もない。息も苦しくない。今日は朝から職員室へ行って、昼から壁を塗って、六時まで腕を動かして、今こうして公園のベンチに座っている。明日も同じことをする予定がある。
死ぬ気配が、まるでない。
当たり前だ、と頭のどこかが言う。線が消えたのは信頼度が下がったからで、余命とは何の関係もない。四月に読んだ公式のページにも、表示が止まる理由はそれしか書かれていなかった。
それなら、なぜ僕は六月からずっと、線がない人間は近いうちに死ぬと思い込んでいたのか。
答えはわかっていた。掲示板の一行のせいだ。軌道が引けないのは、引くだけの残りがないからだ。あの一文を否定する公式の文章が見つからなかったから、僕はそれを否定できなかった。否定できないことと、正しいことを、僕はいつのまにか同じ場所に置いていた。
今日、僕は自分の足元でその実験をした。
線が消えても、僕は死なない。
線が消えた先にあるのは、無ではなかった。ただ、誰にも測られていないというだけだ。旧美術棟の中と同じで、そこにいる人間の記録が足りないから、出せるものがないというだけのこと。
ベンチの背に体を預けて、僕は暗くなりかけた空を見上げた。
では、あの人の消えるとは何だ。
六月の図書室で、彼女はそう言った。訂正しなかったし、説明も足さなかった。あのとき僕の顔がどんなふうになっていたのかを、彼女はたぶん見ている。見た上で、そのままにした。
あの言葉を受け取ったとき、僕の中には掲示板の一行しかなかった。だからそれに当てはめて聞いた。当てはめて、勝手に怯えて、勝手に助けようとして、この夏を過ごした。
当てはめる前の、本人の言った言葉そのものを、僕は一度も検討していない。
僕は立ち上がった。
明日、訊く。
夏のあいだずっと横に立っていて、一度も訊けなかったことを、明日こそ訊く。そう決めて、僕は家までの道を歩いた。足元には何もなかった。何もないまま、僕は一度も転ばずに家に着いた。
4-5 置手紙
八月二十四日の朝、扉には鍵がかかっていた。
それ自体はおかしなことではない。前の日に僕が閉めたのだから、僕が開けるのが当たり前だった。おかしいと思ったのは、中に入ってからだ。
脚立の位置が、昨日のままだった。
彼女は僕より早く来る日が多い。来ていれば、脚立はもう壁の前に出されていて、水のバケツには新しい水が入っている。今朝は壁際に寄せたままで、バケツも空だった。
僕は入口のところで少し待った。
遅れて来るのだろうと思った。五分待って、十分待って、それから作業の準備を始めた。水を汲みに本校舎まで行って、戻ってきて、養生の浮いたところを押さえて、刷毛を出した。そのあいだじゅう、扉のほうを何度も見ていた。
塗る手は動いていた。動いていただけで、進んではいない。
同じ幅を二度なぞったところで、僕はようやく自分が同じ場所を塗り続けていることに気づいた。刷毛を置いて、水で手を洗って、また扉のほうを見た。渡り廊下には誰もいない。蝉の声だけが、昨日と同じ音量で鳴っている。
十一時を過ぎて、僕はようやく壁を見上げた。
絵は七割ほど進んでいる。下の帯は終わっていて、中央の曲線も彩色が済んでいる。右上の黄色も入った。残っているのは、僕が昨日途中でやめた右側の余白と、そのさらに上の、いちばん広い面だった。
その面には、まだ一筆も入っていない。
下地の白のまま、壁の上三分の一近くが空いている。何の色が入るのかを、僕は知らなかった。配合表には番号が書いてあるはずだけれど、そこまでは彼女が決めていない。
昼になっても、彼女は来なかった。
僕は初めて建物の中をきちんと見て回った。物置の側を覗いて、階段の下を覗いて、道具箱の並んだ棚のあいだを歩いた。二階へは上がらなかった。床が抜けると言われている。
昼を過ぎてからの二時間を、僕はほとんど覚えていない。
外へ出て渡り廊下の端まで行って、また戻った。物置の側の窓から裏門のほうを見た。そこから誰かが入ってくるところを、この夏のあいだに何度も見ている。今日は誰も来なかった。
封筒を見つけたのは、壁の下だった。
いちばん下の帯の、僕が塗った面の前。ビニールシートの上に、白い封筒が一枚置いてある。四つ折りにした紙が入るくらいの小さなもので、表面に絵の具の指の跡がひとつだけついていた。
封はされていなかった。
中から出てきたのは、方眼の入った薄い紙だった。あの筒に入っていたのと同じ紙だ。鉛筆で三行だけ書いてある。字は小さくて、線の一本一本がまっすぐで、人に読ませることに慣れていない人の字だった。
助けようとしてくれてありがとう。
ごめん。
もう私を探さないで。
助けようとしてくれてありがとう、という一行目を、僕は最初うまく飲み込めなかった。
助けようとした覚えがない。僕がこの夏やっていたのは、番号を紙に書いて、指定された色で面を埋めることだけだ。助けるという言葉が指しているものが何なのかを、書いた本人に訊かないかぎりわからない。
僕はその三行を、たぶん十回以上読んだ。
読んでいるうちに、紙の端が指の汗で柔らかくなった。裏返してみた。何も書いていない。封筒の中をもう一度覗いた。他には何も入っていない。
そして、僕はようやく気づいた。
絵のことが、一行も書かれていない。
探さないでとは書いてある。ごめんとも書いてある。それなのに、壁に残っている三割のことには一文字も触れていない。あとは頼むとも、置いていってごめんとも、この絵をどうしろとも書いていない。
その不在が、三行の文面よりよほど大きかった。
人が何かを書かないとき、そこには二種類ある。書く必要がないから書かないのと、書けないから書かないのと。この三行は前者には見えなかった。
この人は、母親の描きかけを終わらせるためにここへ通っていた。五年前に死んだ人が迷ったまま残した線を、自分で決めて引き直すと言った。九月に建物ごと壊されることを知っていて、それでも間に合わせようとしていた。昨日の朝までそうだった。
それを、七割で置いていった。
置いていくときに、絵について何も書かなかった。
書かなかったのではなくて、書けなかったのではないか。この絵に触れる言葉を一言でも書いたら、行けなくなる。そういう種類の三行に見えた。
誰かに、何かを言われている。
僕は封筒を持ったまま、しばらく壁の前に立っていた。
それから走った。
まず学校の中を探した。図書室は夏休み中で閉まっていた。二年三組の教室は鍵がかかっていた。特別教室の棟を端から見て、美術室の前で立ち止まって、職員室へ行った。
鶴巻先生はいなかった。
机の上は片づいていて、隣の席の先生に訊くと、今日は出張だという。戻るのは明日の午後らしい。僕は礼を言って、職員室を出た。
外へ出ると、日差しが真上から来ていた。
グラウンドで野球部が声を出している。体育館からはボールの跳ねる音がする。夏休みの学校は、いつもどおりに動いていた。この中のどこにも、僕の探している人はいない。
そこで、自分が何も持っていないことに気づいた。
電話番号を知らない。
連絡先を交換していない。四月から四か月、七月からは毎日同じ建物にいて、三日間そこで寝泊まりして、それでも僕はこの人の電話番号を知らなかった。
一度だけ、訊きかけたことがある。泊まり込みの初日、寝袋を並べたあとに、明日の朝に遅れたら連絡すると言おうとした。言いかけたところで彼女が水のボトルを運びに立って、そのまま話が流れた。あのとき立ったのが偶然だったのかどうかを、僕は今になって考えている。
用があれば次の日に会えたし、会えばそこにいた。だから必要がないのだと、僕のほうも思い込んでいた。
住所も知らない。
家族の名前も知らない。母親が二十年以上前にこの学校を出たことと、五年前に死んだことは知っている。生きている家族については、一度も話に出なかった。父親がいるのかどうかすら、僕は知らない。
この夏、僕はずっと彼女の隣にいたつもりでいた。
いたのは隣ではなくて、同じ壁の前だっただけだ。
昇降口の階段に座って、僕はスマートフォンを握っていた。かけられる番号がひとつもない。陸に連絡すれば、星野の家を知っている誰かを知っているかもしれない。そこまで考えて、僕は手を止めた。あの日、陸は帰り際に俺は俺のやり方でやると言った。あの言葉の意味を、僕はまだ考えていない。
母のことも頭をよぎった。
二十日の夜に、あの人は星野のことを訊いた。線があるのかと訊いて、僕が答えられずにいると、それで全部を理解したという顔をした。あれから四日経っている。
考えかけて、僕はそこで止めた。考えたところで確かめる方法がないし、答えが出てきたときにそれを受け取れる自信も、今の僕にはなかった。
夕方、僕は旧美術棟へ戻った。
誰もいない。脚立は壁際に寄せたままで、六十枚の板は床に並んでいる。朝に汲んだバケツの水は減っていなくて、昼前に僕が置いた刷毛も、そのままの位置にあった。
僕は壁を見上げた。
絵の下の三分の二には色がある。青と、灰と、黄色と、彼女の引いた曲線が、そこまでは繋がっている。その上に、白いままの面が広がっていた。
空だった。
色が入っていないから空に見えるのではない。下絵の輪郭の位置からして、そこは最初から空だった。二十年以上前にこの壁に立った人が、いちばん最後に塗るつもりで残しておいた場所ということになる。
その人も塗らなかった。
娘も塗らなかった。
塗る色が決まっていない場所だけが残っている。
僕は配合表を最初から最後まで繰った。六十枚ぶんの番号と配合が並んでいて、そのどれにも、あの面に使うという印はついていなかった。決めていなかったのか、決めていて書いていなかったのかは、紙を見てもわからない。
僕は封筒をポケットに入れて、扉を閉めた。
九月一日まで、あと八日だった。
八月十七日の午後、旧美術棟の扉が外から開いた。
僕はそのとき床にしゃがんで、養生テープの端を探していた。壁の下端に沿ってビニールを貼る作業をしていて、テープの切れ目がわからなくなって、指先で表面を撫でていた。蝶番の鳴る音がして、明るい光が背中に当たった。
振り返ると、陸が立っていた。
扉の枠がそのまま四角く切り取られて、外の光が床の埃を白く浮かび上がらせている。その中に立っている人影が誰なのかを認識するまでに、僕は二秒くらいかかった。
練習着だった。首にタオルをかけて、片手にスポーツバッグを提げている。夏休み中も新チームの練習があるのは知っていた。ただ、それがこの建物と繋がるとは、僕は一度も考えたことがなかった。
「裏門から入ってくの、何回か見た」
陸はそう言って、一歩だけ中へ入った。
入った瞬間、陸の動きが止まった。
視線が下へ落ちる。半歩下がる。扉の外へ出る。また入ってくる。三度それを繰り返してから、陸はようやく顔を上げた。
「何だよ、これ」
声が上ずっていた。この人のそんな声を、僕は聞いたことがなかった。
「消えたんだけど、俺の」
建物の中では出ないんだ、と僕は言った。
「誰のでも出ない。外に出れば戻る」
陸は扉の枠をまたいで外へ出て、自分の足元を確かめて、それから中へ戻ってきた。戻ってきた顔には、さっきまでなかったものが乗っている。
その目が、僕の足元へ動いた。
僕の爪先にも、当然なにもない。ただ、陸の場合は数秒前まで太い一本を持っていた人間の反応で、僕のほうは四か月かけて三本を二本にしてきた人間の足元だった。見た目には区別がつかない。
「お前、いくつ残ってんの」
外に出れば二本ある、と僕は答えた。
答えながら、それが言い訳の形をしていることに自分で気づいた。
陸は中を見回した。
積み上げられた机、欠けた石膏像、床に並んだ六十枚の板、絵の具の缶、バケツ、脚立。そして脚立の上に、灰色のTシャツを着た星野ユキがいる。彼女は一度だけこちらを見て、それからまた壁へ向き直った。
陸の視線が、脚立の上の背中のあたりで止まった。彼女の足元も同じように空白で、この建物の中では誰もそれを見分けられない。
立ち上がった僕は、手についたテープの糊を制服のズボンで拭いた。制服ではない。作業用に持ってきた古いハーフパンツだった。そのことに気づいて、僕は何を弁解すればいいのかわからなくなった。
「大会、行かなくて悪かった」
先にそれを言った。言うべき順番としては、たぶん正しい。
「いや、それはいいよ。負けたし」
陸は本当に気にしていない顔をした。この人はそういうところがある。約束を守らなかったことを責めるより、目の前の状況を理解するほうを先にやる。
「講習、やめたんだってな」
僕は黙った。
「お前んち通ったときに、おばさんに会ったんだよ。夏期講習どうって訊いたら、やめて自分で勉強してるって言われた。自分で勉強してるやつが、夏休みに裏門から学校入ってくか?」
責める口調ではなかった。聞いた話と自分の見たものが食い違っているのを、そのまま僕の前に置いているだけだった。
僕が何も言わないでいると、陸は床の板を一枚つまみ上げて、裏の番号を見て、また戻した。
陸がここへ来た理由を、僕はそのときになって考えた。
場所を突き止めたのは今日ではないはずだ。裏門から入る僕を何回か見た、と本人が言っている。何回か見て、それでも何日か黙っていて、今日になって扉を開けた。踏み込むまでのあいだに、この人なりの助走があったのだろう。
「ここ、立入禁止じゃないの」
「鶴巻先生に許可もらってる」
「先生が許可出せるもんなの、それ」
痛いところを突かれた。あの人が出したのは許可ではなくて、九月に消えるものは誰のものでもないという事実の確認だった。説明しようとして、僕は途中でやめた。説明すればするほど、こちらが苦しくなるのがわかっていた。
「浅野」
陸の声が、少しだけ低くなった。
「お前、最近おかしいぞ」
悪意はどこにもなかった。心配している人間の声だった。そのことが、突き放されるよりずっとこたえた。
「部活やめて、講習やめて、親に嘘ついて、毎日ここにいる。二学期の推薦の希望、来月出すの知ってるか。うちの学年、九月の頭に一回締め切りあるだろ」
知っていた。忘れていたわけでもない。
「もう二学期の話が始まってるんだよ、こっちは」
陸は床のビニールを踏まないように、半歩だけ位置を変えた。
「四月は三本って言ってたよな」
僕は答えなかった。答えないことが答えになるのを承知の上で、黙った。
陸は一度だけ扉のほうを見た。外へ出て確かめるかどうかを迷ったのだろう。迷って、やめた。そこまでやってしまえば、見たあとに何を言うかまで決めなければならなくなる。
「なあ」
陸は言葉を選んでいた。選んでいるあいだに、脚立の上から絵の具の匂いが降りてくる。
「そんなやつと一緒にいたら、人生棒に振るぞ」
名前ではなく、そんなやつという言い方をした。僕は反射的に脚立のほうを見た。彼女は筆を持ったまま、こちらを見ていない。聞こえていないはずがない距離だった。聞こえていて、何の反応もしない。慣れているのだと思った瞬間に、僕の中で何かが逆立った。
「星野さんだよ」
僕はそう言った。
「そんなやつじゃなくて、星野さん」
陸は目を丸くした。反論されるとは思っていなかったのだろう。実際、僕が陸に言い返したのは、知り合ってから初めてだったかもしれない。
それでも、陸は怯まなかった。
「わかった。星野さんな。でも言ってることは変わんねえよ」
まっすぐだった。
「俺、あの子のこと何も知らない。悪い子だとも思ってない。ただ、線がないやつの隣にいて、自分の線が減ってるんだったら、それはもう止めたほうがいいだろ。友達なら止めるだろ、普通」
普通、という単語が出てきた。
四月に僕がいちばん欲しがっていた言葉で、今の僕がいちばんうまく扱えない言葉だった。陸の言っていることは何ひとつ間違っていない。僕が同じ立場でも、たぶん同じことを言う。言ったうえで、自分は正しいことをしたと思って帰る。
それでも、ひとつだけ引っかかるものがあった。
さっき陸は、自分の足元から線が消えたときに声を上ずらせた。三秒で戻るとわかっている光が、三秒消えただけで、あれだけうろたえた。
陸の言う止めるというのは、僕を線のあるほうへ戻すという意味だ。戻った先にあるのが何なのかを、僕はこの夏に一度見ている。あれは僕が四月に安心と呼んでいたもので、彼女が死んだ目と呼んだものだった。
僕は何も言い返せなかった。
言い返せない理由は、陸が間違っているからではなくて、正しい人に向かって何を言えばいいのかを僕が知らないからだった。
「帰るわ」
陸はスポーツバッグを担ぎ直した。
扉の手前まで行って、一度だけ振り返った。
「じゃあ、俺は俺のやり方でやるから」
意味がわからなかった。
そのときの僕には、それが別れの挨拶の変わった言い方くらいにしか聞こえなかった。陸はいつも自分のやり方で物事を進める人間だったし、そういう言い回しをしても不思議はない。
扉が閉まって、光が消えた。
建物の中がまた暗くなって、蝉の声が戻ってくる。
僕は床に座り込んで、さっきまで探していた養生テープの端をもう一度探した。見つからなかった。指の腹でロールの表面を何周も撫でているうちに、自分の手が少し震えているのがわかった。
しばらくして、脚立の上から声がした。
「浅野くん」
名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。
「怒らなくてよかったのに」
僕は壁のほうを見上げた。
「言われ慣れてるから、ああいうの。いちいち怒ってたら、私、一日中怒ってなきゃいけない」
それでも、と僕は言った。それ以上の言葉が出なかった。
彼女は筆を持ち直して、下絵の線を確かめるように壁へ顔を近づけた。
「桐山くんの言ってること、合ってるよ」
ひとつも慰めになっていないことを、この人は平気で言う。
「私が桐山くんの立場でも、同じこと言うと思う」
4-2 家庭
八月二十日の朝、洗面所の鏡の前で、僕は自分の足元を見た。
一本だった。
二本のうち、右側にあったほうがなくなっている。残った一本は、太さも明るさも今までと変わらない。細くもなっていないし、色が薄くなってもいない。ただ、隣にいたはずのものが消えている。
思い当たることがなかった。
陸が来てから三日経つ。その三日間にやったことといえば、養生を貼って、色見本を並べ替えて、脚立の脚にゴムを巻いたくらいだ。学校をやめたわけでも、家を出たわけでもない。記録の上で何かが起きたはずなのに、何が起きたのかがわからなかった。
洗面所を出るときに、僕はもう一度足を止めて確かめた。廊下のフローリングの上でも一本しかない。四月の朝、保健センターの外で三本を数えたときの間隔を、僕はまだ正確に覚えている。あの三本のうち二本が、四か月で消えたことになる。
その日、僕は作業に身が入らなかった。
彼女は何も訊かなかった。手が止まっている僕を一度だけ見て、それからまた自分の作業へ戻る。訊かないことが、この人なりの距離の取り方なのだということは、この夏でだいぶわかってきた。
九月の推薦の締め切りのことを、陸は三日前に口にした。学校が出す書類の話で、僕はまだ何も出していない。出さなければどうなるのかも、正直なところよく考えていなかった。
夕方、家に帰ると、食卓に封筒が置いてあった。
予備校の名前が印刷されている。すでに開封されていた。
取り下げたのは七月の半ばで、返金は講習の日程が全部終わってからまとめて処理されるのだと、窓口の人が言っていた。八月十日で日程が終わって、そこから十日で口座に戻る。そういう仕組みだったらしい。
母は台所に立っていて、僕が椅子を引く音がしても振り返らなかった。父はまだ帰っていない。封筒の中身を見るまでもなかった。返金の通知だということは、宛名を見た時点でわかっていた。
「口座に入ってたの、今日」
母の声は、怒鳴っているときのものではなかった。
「いくら戻ってきたか、って話じゃないのよ。講習をやめたのは聞いてるし」
母は水を止めて、手を拭いて、こちらを向いた。
「線、減ってるじゃない」
やはり、そこだった。
「四月に三本だったの。七月に二本になって、さっき開いたら一本になってた」
七月に、と僕は思った。
あの朝、洗面所で二本になっているのを見つけたとき、僕は母が保護者の画面をひらくまでの猶予を数えた。猶予などなかったことになる。あの人はその日のうちに知っていて、一か月以上、何も言わずにいた。
黙っていた一か月が何だったのかを、僕は今も考えている。
返金の入金と、僕の一本が消えたことは、同じ日に起きたのだろう。
二か月前の僕なら、この因果に感心していたと思う。六月にどれだけ道を変えても動かなかったものが、書類一枚では動く。人の気持ちは見ないのに、口座の入出金は見ている。
紙を出して、判子を押してもらって、口座にお金が戻る。
それだけで記録は動く。誰にも迷惑をかけていないし、誰も傷つけていない。ただ、この夏に十日間の講習を受ける予定だった生徒が、受けなかったという事実が、どこかで数字に変わった。
「何してるの、毎日」
僕は正直に答えた。学校の旧美術棟で、壁に絵を描いている。クラスの子と二人で、九月に取り壊される建物の壁に、その子の母親が描きかけた絵を完成させようとしている。
言いながら、自分の声がずいぶん落ち着いているのに気づいた。
「壁に絵」
母は僕の言葉をそのまま繰り返した。理解できない単語を音として確かめているような言い方だった。
「それ、学校に許可取ってるの」
美術の先生に鍵を借りている、と僕は答えた。母はその答えが答えになっていないことをすぐに見抜いたはずなのに、そこを追及しなかった。追及する余裕がなかったのだろう。
「その子、線があるの?」
僕は答えられなかった。
答えなかったことで、母は全部を理解した。
「玄関のところで」
声が変わった。震えてはいない。むしろ、それまでより静かになった。
「あなたが敷設から帰ってきた日、玄関で三本って言ったの、覚えてる?」
覚えている、と僕は言った。
「あのとき、この子は大丈夫だって思ったの。三本もあれば、どれを選んでも変なところには行かないって」
母はそこで言葉を切った。
玄関のほうで音がした。父が帰ってきたのだと、靴の音でわかる。台所の入口に父が立って、母の顔と僕の顔を順番に見て、それから食卓の封筒を見た。
説明を受けるまでに、時間はかからなかった。
父は椅子に座らなかった。立ったまま、封筒の宛名のあたりを見ていた。何秒あったのかはわからない。母が何か言いかけて、やめた。
それから父が口をひらいた。
「茜と同じことをする気か」
台所の換気扇が回る音が、急に大きく聞こえた。
その名前がこの家で発音されたのを、僕は三年ぶりに聞いた。いや、三年ぶりではないかもしれない。少なくとも僕の前で出たのは、葉書が捨てられていたあの日以来だった。
姉の名前だった。
僕が十四のときに家を出た人で、机の一番下の引き出しに入っている葉書の差出人で、大学を中退して、線を失って、それきりこの家では存在しないことになっている人。
六つ上だから、今は二十三になる。どこで何をしているのかを、僕は知らない。知らないことについて、この家では誰も困っていないことになっている。
母が父の腕に手を置いた。それも、止めるというより支えるような置き方だった。
父はそれ以上何も言わなかった。言わないまま、洗面所のほうへ行って、水の音がした。
母はしばらく立ったままでいて、それから封筒を手に取って、二つに折って、台所の引き出しに入れた。捨てもしないし、突きつけてもこない。三年前にゴミ箱で見つけた葉書のことを、僕はまた思い出していた。
僕は椅子に座ったまま、食卓の封筒があった場所を見ていた。
怖かった。
線が一本になったことが怖いのではない。この家で名前を呼ばれなくなるということが、どういうことなのかを、僕は目の前で三年間見てきた。写真が減って、部屋が物置になって、葉書がゴミ箱に入る。誰も悪意を持っていないのに、一人ぶんの場所が家からなくなっていく。
その次が自分だという可能性を、僕はその夜初めて現実として考えた。
部屋に戻って、机の一番下の引き出しを開けた。
葉書はそこにある。三年前の日付があって、僕と同じ名字があって、県の名前と住所が印刷されている。
僕はそれを取り出して、机の上に置いた。置いたまま、しばらく眺めていた。連絡を取ろうとは思わなかった。取って何を訊けばいいのかもわからない。
ただ、この人は今も生きていて、どこかで暮らしている。
そのことだけを、僕は確認したかったのだろう。
4-3 色
彩色が始まったのは、八月二十一日だった。
前の日の夜に何があったのかを、僕は彼女に話さなかった。話さなかったのに、朝に扉を開けたとき、彼女は僕の顔を見て一言だけ言った。
「今日、下から塗る」
それだけだった。何があったのかを訊かず、今日やることだけを告げる。その扱われ方が、あの日の僕にはちょうどよかった。
最初に置いた色は、青だった。
線の青ではない。もっと濁っていて、緑に寄っていて、深いところで灰色を含んでいる。番号でいうと二十三番で、配合表には白と黒と青と、ほんの少しの黄色が書いてある。彼女はそれを大きな刷毛に含ませて、壁のいちばん下の帯に、横へ長く引いた。
濡れているあいだ、その色は暗く沈んで見えた。
乾くにつれて、少しずつ明るくなる。三十分後に見たとき、それは最初に置かれたときとは別の色になっていた。彼女は五メートル下がってその帯を見て、それから戻ってきて、続きを塗りはじめた。
塗る順番には決まりがあった。
上から塗ると垂れた滴が下の面を汚すので、本来は上が先だという。ただ、この壁は下の三分の一に一番広い面があって、そこを先に片づけないと脚立を自由に動かせない。だから下の帯だけ先に埋めて、そのあとは上から下りてくる。そういう段取りを、彼女は僕に一度だけ説明した。
僕の仕事は、広い面を埋めることだった。
下の帯と、右側の大きな余白と、中央の曲線に囲まれた内側。どれも輪郭が決まっていて、その中を指定された番号の色で埋めていけばいい。はみ出さないこと、塗り残さないこと、同じ濃さで置くこと。三つだけ守ればいい作業で、僕にもできた。
刷毛の動かし方も教わった。
手首で塗るのではなく、肩ごと動かす。一往復で塗れる幅を決めて、その幅を守って隣へ移る。戻って塗り重ねると、そこだけ濃くなって跡が残る。教えられたとおりにやると、腕は倍疲れるのに、仕上がりが目に見えて違った。
「輪郭と、人のところは私がやる」
二日目に彼女はそう言った。
「浅野くん、面のほう全部。私、面が苦手だから」
苦手というのは謙遜ではなくて、事実だった。彼女の塗った面はどこかに勢いがあって、そのぶん端のほうで濃さが変わる。僕の塗った面は均一で、つまらない。つまらないほうが壁には向いていた。
分担が決まってから、作業の速度が変わった。
僕が下の段を横へ進めていくあいだに、彼女は脚立の上で細い筆を使う。中央の大きな曲線は、下絵ではただの線だったものが、彼女の手で幅を持ちはじめた。太くなったり細くなったりしながら、壁の上を横切っていく。人の背中に見えていたものが、彩色されるとますます背中に見えた。
塗っているあいだ、彼女はときどき鼻歌のようなものを出した。
曲になっていない。同じ三つか四つの音を、思い出したように繰り返しているだけで、たぶん本人は無意識だった。僕がそれに気づいてから、鼻歌の出る日と出ない日があることもわかった。出る日は、その日の進みがいい日だった。
塗りはじめた日の夕方、僕は刷毛を止めて壁から少し離れた。
この建物の中で足元から線が生えないことは、七月から知っている。知っていて、それがどういうことなのかを考えたことは一度もなかった。視界の下の縁に何もない状態が、一日に八時間も続いている。
そのぶん、壁の色がよく見えた。
青い線は自分で光っている。地面を照らさないし、影も作らないのに、それ自体が発光している。慣れてしまえば気にならないけれど、視界の下端にずっと薄い光があるのは、たぶん相当な負荷だったのだろう。
壁の絵は光らない。
投光器の光を受けて、そのぶんだけ返してくる。角度を変えれば見え方が変わるし、日が傾けば色も変わる。濡れているときと乾いたあとで別物になる。当たり前のことのはずなのに、僕はその当たり前さに毎日驚いていた。
光っていないものを、僕はずいぶん久しぶりに見ている気がした。
四月からこっち、僕の視界の下端にはいつも青があった。あるのが当たり前になって、意識もしなくなって、それでも消えたときにだけ、それがどれだけ場所を取っていたのかがわかる。教室の床も、通学路も、家の廊下も、僕はこの四か月、薄く青がかった世界として見ていたことになる。
この建物の中だけが、四月より前と同じ色をしていた。
八月二十二日の昼、右上の隅の話になった。
下絵で線が三種類あって、決まっていない部分だった。彼女は脚立を右へ動かして、そこを長いあいだ見上げていた。
「どれにするか決めた」
僕は刷毛を止めた。
「三つのうちのどれ?」
「どれでもない」
彼女は下絵の線を指でなぞった。三つの線のどれとも違う軌跡を、宙に描いている。
「三つとも、母親が迷った線でしょ。迷ったまま止まってる。だから、そのどれかを選ぶんじゃなくて、私が引く」
いいのか、と僕は訊いた。
訊いてから、自分がずいぶん臆病な質問をしたと思った。他人の描きかけを勝手に変えていいのか、という意味の質問で、それは要するに、決まっているものから外れていいのかという質問だった。四月からずっと僕が抱えてきた問いを、僕は他人の絵に向かって投げていた。
彼女は少しだけこちらを見た。
「いいよ。あの人、もう決められないから」
決められない人の代わりに決める、というのは、乱暴なことなのか、それとも引き受けることなのか。僕にはまだ判断がつかなかった。判断がつかないまま、その日の午後の彼女の手つきを、僕はずっと目で追っていた。
二十二日の午後、右上の隅に最初の一筆が入った。
黄色だった。三十八番。白をかなり混ぜた、やわらかいほうの黄色で、下絵のどの線とも重ならない位置から始まって、大きく外へ向かって開いていく。
塗り終えたとき、壁の印象が変わった。
それまで青と灰色に寄っていた画面の右上に、明るい方向ができた。中央の背中のような曲線が、その方向を向いているように見える。見えるというより、最初からそのために引かれていた線だったように見えた。
彼女は脚立を降りて、五メートル下がって、しばらく黙っていた。
僕も隣に立った。
蝉が鳴いていた。扇風機が首を振って、僕らの背中に風を送って、戻っていく。
「題名、決めた」
壁から目を離さないまま、彼女が言った。
何、と僕は訊いた。
「あかるいほう」
ひらがなだった。口で言われただけなのに、それがひらがなだということが、なぜかわかった。
僕は壁を見た。
絵の中に太陽があるわけではない。光源らしいものは描かれていないし、右上が特別に明るい色というわけでもない。それでも、この絵は明るいほうを向いている。向いているだけで、そこに到達してはいない。
いいと思う、と僕は言った。
彼女はこちらを見て、笑った。
声は出ていない。口の端が少し上がって、目が細くなって、それだけだった。それでも、四月からこの日まで、この人がこんなふうに笑うのを見たのは初めてだった。
「浅野くん、感想が雑」
そう言って、彼女はまた脚立に戻っていった。
感想が雑だと言われたことについて、僕はそのあとしばらく考えていた。
いいと思う、以外の言葉が本当に出てこなかった。絵のことを知らないからでもあるし、この壁がどういう意味を持っているのかを、僕がまだ半分しか理解していないからでもある。それでも、あの題名を聞いたときに胸のあたりが動いたのは確かだった。そういうときに何と言えばいいのかを、僕は十七年間一度も考えてこなかった。
その日の帰り、僕は境目のところで立ち止まった。
札をまたぐと、足元から青が一本だけ生えてくる。細くもなっていない、四月と同じ明るさの一本が、本校舎のほうへまっすぐ伸びている。
一本しかないのに、太くはならない。
陸の一本は太かった。太さは信頼度で、本数は選択肢の数だと僕は理解している。僕の一本が細いままだということは、この道についてもシステムはたいして自信がないということになる。選べる道が減っただけで、残った道が確かになったわけではない。
その一本の先を目で追って、僕は建物のほうを振り返った。
窓に投光器の光がついている。彼女はまだ塗っている。
あと十日で九月になる。
4-4 空白
八月二十三日の朝、僕は学校の職員室へ行った。
夏休み中でも先生たちは出てきている。戸田は自分の席で問題集のページを繰っていて、僕が立っているのに気づくまでに少し時間がかかった。
「浅野か。どうした」
僕は推薦の希望を出さないと伝えた。
指定校推薦の校内選考は、本来なら三年の夏にやるものだ。ただ、軌道の情報を出願の要件に入れる大学が増えてから、うちの学校は二年の九月に事前登録を締め切るようになった。敷設から半年近くあれば線はもう本人のことを十分に語っている、というのが学校の説明だった。僕は七月に一度、希望の有無だけを書く用紙に希望ありと書いていた。第一志望の大学に指定校の枠があって、成績も足りていて、担任からも勧められていた。書いたときには何も考えていない。線がそちらを示していたから、そのとおりに丸をつけただけだ。
戸田は問題集を閉じた。
「理由は」
「線が一本になったので」
「知ってる」
戸田はそれだけ言って、それ以上は訊かなかった。
学校が生徒の軌道を見られる立場にあることは、考えてみれば当たり前だった。推薦の参考資料に軌道の情報が含まれているのだから、担任が把握していないはずがない。四月に三本あったものが八月に一本になっていることを、この人は知っていて、夏のあいだ一度も僕に連絡をしてこなかった。
四月のホームルームで、希望票を書かせたあとに戸田が付け足した言葉を、僕は思い出した。理由は訊かないから、とこの人は言った。
「もう一回訊くけどな」
戸田は椅子ごとこちらへ向き直った。
「取り下げたら、もう戻せないぞ。三年になってから出し直しますってわけにはいかない。それでいいのか」
「はい」
「わかった」
驚くほどあっさりしていた。
戸田は引き出しから紙を一枚出して、必要な欄を指で示した。名前とクラスを書いて、取り下げる旨に丸をつけて、日付を入れる。三十秒で書き終わる紙だった。書き終えて渡すと、戸田はそれをファイルに挟んで、それで終わりだった。
説教も、保護者に連絡するという話もなかった。
職員室を出る前に、僕は一度だけ振り返った。戸田はもう問題集を開いていて、こちらを見ていない。六月の廊下で星野とのやり取りを聞いたとき、僕は、学校が用意している手続きはここまでなのだと思った。今日それを反対側から受け取ったことになる。
廊下を歩きながら、僕は自分の手が軽いことに気がついた。
推薦の枠は、四月からずっと僕の前に置かれていたものだ。線が示して、母が喜んで、戸田が勧めて、僕がそのとおりに丸をつけた。取り下げるのに要した時間は三十秒で、必要だったのは名前と日付だけだった。あれほど大きく見えていたものが、紙の上ではその程度の重さしか持っていない。
昼前に旧美術棟へ行くと、彼女はもう塗っていた。
中央の曲線の上のほうを、細い筆で詰めている。僕は下の段の続きに取りかかった。話すことは特になかった。二十二日に右上の黄色が入ってから、二人とも口数が減っている。絵がまとまりはじめると、喋る必要が減るのだということを、僕はこの数日で覚えた。
三時を過ぎたころ、彼女が脚立を降りた。
「今日、早く帰る」
僕は顔を上げた。理由は言わない。この人はいつもそうなので、僕も訊かなかった。
彼女は筆を洗って、水を替えて、脚立を壁際へ寄せた。片づけ方がいつもより丁寧だった気もするし、そう思うのは後から振り返っているからかもしれない。
鞄を持ち上げて、彼女は扉の手前で一度止まった。
「鍵、閉めといて」
それだけ言って、出ていった。
僕は六時まで塗った。
残った面のうち、いちばん広いのは右側の余白だった。そこは一色で埋める場所で、番号は四十一番、薄い灰青に近い色をしている。三分の一ほど進めたところで、光の入りが悪くなった。投光器を点けようかと迷って、やめた。一人でいるあいだに脚立を動かすなと、前に一度言われている。
道具を片づけて、鍵を閉めて、渡り廊下を戻った。
いつもの境目を越えて、僕は足元を見た。
何もなかった。
立ち止まって、一歩戻り、もう一度またいだ。同じだった。廊下のリノリウムの上に、僕の靴の影があるだけで、青はどこからも生えてこない。
本校舎の中を歩いてみた。昇降口まで行って、下駄箱の前で靴を履き替えて、外へ出た。校門を抜けて、坂を下って、商店街に入る。すれ違う人の足元からは、いつもどおり青が伸びていた。自転車の人にも、犬を連れた人にも、コンビニから出てきた高校生にも、ちゃんとある。
僕にだけ、ない。
不思議なことに、怖くはなかった。
むしろ、来るべきものが来たという感じに近かった。三本が二本になり、二本が一本になり、一本がゼロになる。順番どおりだ。順番どおりに起きたことについて、人はあまり驚かない。
商店街を抜けたところで、僕は一度立ち止まって、足元を長いこと見ていた。
四月の朝、保健センターの前で三本が生まれたときのことを思い出す。あのとき僕は、綺麗だと思った。ほどけていくような心地がして、もう自分で決めなくていいのだと思った。今、その同じ場所に何もない。
なくなってみると、そこにあったものがどれだけ視界の下を占領していたのかがよくわかった。
家に帰る前に、僕は公園のベンチに座った。
そこで、閲覧サービスを開いた。
画面には、軌道の一覧が表示されなかった。代わりに、短い文章が一段落だけ出ている。現在、お客様の軌道は表示されておりません。予測の信頼度が一定の水準を下回った場合、軌道の表示は自動的に停止されます。再表示には所定の手続きが必要です。
四月にこの文章を読んだ。
あのときは、他人についての説明だと思って読んでいた。今は自分の画面に出ている。文面はまったく同じで、一文字も変わっていない。
脱線、という言葉が、そこには書かれていなかった。
書かれていないことに、僕は少しだけ笑いそうになった。掲示板の人たちがあれだけ使っていた言葉を、公式のページは一度も使わない。使わないまま、表示を止める。
そして、僕はそこで気づいた。
僕には線がない。
けれど、僕はどこも痛くない。熱もない。息も苦しくない。今日は朝から職員室へ行って、昼から壁を塗って、六時まで腕を動かして、今こうして公園のベンチに座っている。明日も同じことをする予定がある。
死ぬ気配が、まるでない。
当たり前だ、と頭のどこかが言う。線が消えたのは信頼度が下がったからで、余命とは何の関係もない。四月に読んだ公式のページにも、表示が止まる理由はそれしか書かれていなかった。
それなら、なぜ僕は六月からずっと、線がない人間は近いうちに死ぬと思い込んでいたのか。
答えはわかっていた。掲示板の一行のせいだ。軌道が引けないのは、引くだけの残りがないからだ。あの一文を否定する公式の文章が見つからなかったから、僕はそれを否定できなかった。否定できないことと、正しいことを、僕はいつのまにか同じ場所に置いていた。
今日、僕は自分の足元でその実験をした。
線が消えても、僕は死なない。
線が消えた先にあるのは、無ではなかった。ただ、誰にも測られていないというだけだ。旧美術棟の中と同じで、そこにいる人間の記録が足りないから、出せるものがないというだけのこと。
ベンチの背に体を預けて、僕は暗くなりかけた空を見上げた。
では、あの人の消えるとは何だ。
六月の図書室で、彼女はそう言った。訂正しなかったし、説明も足さなかった。あのとき僕の顔がどんなふうになっていたのかを、彼女はたぶん見ている。見た上で、そのままにした。
あの言葉を受け取ったとき、僕の中には掲示板の一行しかなかった。だからそれに当てはめて聞いた。当てはめて、勝手に怯えて、勝手に助けようとして、この夏を過ごした。
当てはめる前の、本人の言った言葉そのものを、僕は一度も検討していない。
僕は立ち上がった。
明日、訊く。
夏のあいだずっと横に立っていて、一度も訊けなかったことを、明日こそ訊く。そう決めて、僕は家までの道を歩いた。足元には何もなかった。何もないまま、僕は一度も転ばずに家に着いた。
4-5 置手紙
八月二十四日の朝、扉には鍵がかかっていた。
それ自体はおかしなことではない。前の日に僕が閉めたのだから、僕が開けるのが当たり前だった。おかしいと思ったのは、中に入ってからだ。
脚立の位置が、昨日のままだった。
彼女は僕より早く来る日が多い。来ていれば、脚立はもう壁の前に出されていて、水のバケツには新しい水が入っている。今朝は壁際に寄せたままで、バケツも空だった。
僕は入口のところで少し待った。
遅れて来るのだろうと思った。五分待って、十分待って、それから作業の準備を始めた。水を汲みに本校舎まで行って、戻ってきて、養生の浮いたところを押さえて、刷毛を出した。そのあいだじゅう、扉のほうを何度も見ていた。
塗る手は動いていた。動いていただけで、進んではいない。
同じ幅を二度なぞったところで、僕はようやく自分が同じ場所を塗り続けていることに気づいた。刷毛を置いて、水で手を洗って、また扉のほうを見た。渡り廊下には誰もいない。蝉の声だけが、昨日と同じ音量で鳴っている。
十一時を過ぎて、僕はようやく壁を見上げた。
絵は七割ほど進んでいる。下の帯は終わっていて、中央の曲線も彩色が済んでいる。右上の黄色も入った。残っているのは、僕が昨日途中でやめた右側の余白と、そのさらに上の、いちばん広い面だった。
その面には、まだ一筆も入っていない。
下地の白のまま、壁の上三分の一近くが空いている。何の色が入るのかを、僕は知らなかった。配合表には番号が書いてあるはずだけれど、そこまでは彼女が決めていない。
昼になっても、彼女は来なかった。
僕は初めて建物の中をきちんと見て回った。物置の側を覗いて、階段の下を覗いて、道具箱の並んだ棚のあいだを歩いた。二階へは上がらなかった。床が抜けると言われている。
昼を過ぎてからの二時間を、僕はほとんど覚えていない。
外へ出て渡り廊下の端まで行って、また戻った。物置の側の窓から裏門のほうを見た。そこから誰かが入ってくるところを、この夏のあいだに何度も見ている。今日は誰も来なかった。
封筒を見つけたのは、壁の下だった。
いちばん下の帯の、僕が塗った面の前。ビニールシートの上に、白い封筒が一枚置いてある。四つ折りにした紙が入るくらいの小さなもので、表面に絵の具の指の跡がひとつだけついていた。
封はされていなかった。
中から出てきたのは、方眼の入った薄い紙だった。あの筒に入っていたのと同じ紙だ。鉛筆で三行だけ書いてある。字は小さくて、線の一本一本がまっすぐで、人に読ませることに慣れていない人の字だった。
助けようとしてくれてありがとう。
ごめん。
もう私を探さないで。
助けようとしてくれてありがとう、という一行目を、僕は最初うまく飲み込めなかった。
助けようとした覚えがない。僕がこの夏やっていたのは、番号を紙に書いて、指定された色で面を埋めることだけだ。助けるという言葉が指しているものが何なのかを、書いた本人に訊かないかぎりわからない。
僕はその三行を、たぶん十回以上読んだ。
読んでいるうちに、紙の端が指の汗で柔らかくなった。裏返してみた。何も書いていない。封筒の中をもう一度覗いた。他には何も入っていない。
そして、僕はようやく気づいた。
絵のことが、一行も書かれていない。
探さないでとは書いてある。ごめんとも書いてある。それなのに、壁に残っている三割のことには一文字も触れていない。あとは頼むとも、置いていってごめんとも、この絵をどうしろとも書いていない。
その不在が、三行の文面よりよほど大きかった。
人が何かを書かないとき、そこには二種類ある。書く必要がないから書かないのと、書けないから書かないのと。この三行は前者には見えなかった。
この人は、母親の描きかけを終わらせるためにここへ通っていた。五年前に死んだ人が迷ったまま残した線を、自分で決めて引き直すと言った。九月に建物ごと壊されることを知っていて、それでも間に合わせようとしていた。昨日の朝までそうだった。
それを、七割で置いていった。
置いていくときに、絵について何も書かなかった。
書かなかったのではなくて、書けなかったのではないか。この絵に触れる言葉を一言でも書いたら、行けなくなる。そういう種類の三行に見えた。
誰かに、何かを言われている。
僕は封筒を持ったまま、しばらく壁の前に立っていた。
それから走った。
まず学校の中を探した。図書室は夏休み中で閉まっていた。二年三組の教室は鍵がかかっていた。特別教室の棟を端から見て、美術室の前で立ち止まって、職員室へ行った。
鶴巻先生はいなかった。
机の上は片づいていて、隣の席の先生に訊くと、今日は出張だという。戻るのは明日の午後らしい。僕は礼を言って、職員室を出た。
外へ出ると、日差しが真上から来ていた。
グラウンドで野球部が声を出している。体育館からはボールの跳ねる音がする。夏休みの学校は、いつもどおりに動いていた。この中のどこにも、僕の探している人はいない。
そこで、自分が何も持っていないことに気づいた。
電話番号を知らない。
連絡先を交換していない。四月から四か月、七月からは毎日同じ建物にいて、三日間そこで寝泊まりして、それでも僕はこの人の電話番号を知らなかった。
一度だけ、訊きかけたことがある。泊まり込みの初日、寝袋を並べたあとに、明日の朝に遅れたら連絡すると言おうとした。言いかけたところで彼女が水のボトルを運びに立って、そのまま話が流れた。あのとき立ったのが偶然だったのかどうかを、僕は今になって考えている。
用があれば次の日に会えたし、会えばそこにいた。だから必要がないのだと、僕のほうも思い込んでいた。
住所も知らない。
家族の名前も知らない。母親が二十年以上前にこの学校を出たことと、五年前に死んだことは知っている。生きている家族については、一度も話に出なかった。父親がいるのかどうかすら、僕は知らない。
この夏、僕はずっと彼女の隣にいたつもりでいた。
いたのは隣ではなくて、同じ壁の前だっただけだ。
昇降口の階段に座って、僕はスマートフォンを握っていた。かけられる番号がひとつもない。陸に連絡すれば、星野の家を知っている誰かを知っているかもしれない。そこまで考えて、僕は手を止めた。あの日、陸は帰り際に俺は俺のやり方でやると言った。あの言葉の意味を、僕はまだ考えていない。
母のことも頭をよぎった。
二十日の夜に、あの人は星野のことを訊いた。線があるのかと訊いて、僕が答えられずにいると、それで全部を理解したという顔をした。あれから四日経っている。
考えかけて、僕はそこで止めた。考えたところで確かめる方法がないし、答えが出てきたときにそれを受け取れる自信も、今の僕にはなかった。
夕方、僕は旧美術棟へ戻った。
誰もいない。脚立は壁際に寄せたままで、六十枚の板は床に並んでいる。朝に汲んだバケツの水は減っていなくて、昼前に僕が置いた刷毛も、そのままの位置にあった。
僕は壁を見上げた。
絵の下の三分の二には色がある。青と、灰と、黄色と、彼女の引いた曲線が、そこまでは繋がっている。その上に、白いままの面が広がっていた。
空だった。
色が入っていないから空に見えるのではない。下絵の輪郭の位置からして、そこは最初から空だった。二十年以上前にこの壁に立った人が、いちばん最後に塗るつもりで残しておいた場所ということになる。
その人も塗らなかった。
娘も塗らなかった。
塗る色が決まっていない場所だけが残っている。
僕は配合表を最初から最後まで繰った。六十枚ぶんの番号と配合が並んでいて、そのどれにも、あの面に使うという印はついていなかった。決めていなかったのか、決めていて書いていなかったのかは、紙を見てもわからない。
僕は封筒をポケットに入れて、扉を閉めた。
九月一日まで、あと八日だった。



