2-1 俗説
その週の水曜の夜、僕は自分の部屋でノートパソコンを開いた。
最初に見たのは市の公式サイトで、トラックの説明を並べたページの中に、探していた項目はすぐ見つかった。「軌道が表示されない場合について」という見出しの下に、事務的な文章が二段落だけ載っている。
一つ目は脱線についての説明だった。予測の信頼度が一定の水準を下回った場合、軌道の表示は自動的に停止されます。再表示には所定の手続きが必要です。二つ目は未敷設についてで、敷設処置を受けていない方には軌道が生成されません、とだけ書かれていた。
二つ目のほうは、読んでもほとんど意味がない。
別のページに前年度の統計が載っていて、対象者に対する受診率は九十九・九パーセントと書いてあった。十七になれば全員が受けるものなのだから、当たり前といえば当たり前で、未敷設という項目は制度上そう書いておかないと形が整わないというだけの但し書きに見える。実際にそこへ該当する人間が同じ教室にいるなどとは、この文章を書いた誰も想定していない。
その下に、もう少し細かい注意書きがあった。当該年度に敷設を受けなかった方については、九月一日をもって未敷設が確定し、以後の敷設は原則として行われません、と書いてある。九月一日という日付だけが妙に具体的で、そこだけ他の文章から浮いて見えた。
どちらにも、その後どうなるのかは一行も書いていない。
僕はページの上から下まで二度読んで、下のほうにあるよくある質問の一覧をひらいた。表示が薄い気がするという相談、家族の軌道を見る方法についての問い合わせ、そういうものに混じって、未成年の非公開設定はできますかという項目がある。答えは短かった。十八歳未満の利用者について、公開設定の変更は受け付けておりません。
つまり、隠しているという線は完全に消える。
星野ユキの足元に何もないのは、敷設を受けていないか、受けたあとに失ったかのどちらかだ。二日前に自分で立てた仮説が、こうして役所の文章で裏づけられた。裏づけられただけで、そこから先へはひとつも進んでいない。
僕は検索の窓に「軌道 未敷設」と打ち込んだ。
上のほうに出てくるのは、さっきと同じような公的なページと、法律事務所が書いた進学時の不利益についての解説だった。三ページ目あたりから、様子が変わってくる。個人のまとめサイトや、匿名の掲示板の書き込みを転載したページが並びはじめる。
そこに書いてあったことは、だいたい同じ方向を向いていた。
処置は受けているのに線が出ない人がいる、という話だった。
保健センターの椅子に座って、後頭部に機械を当てて、三十秒を過ごして、それでも足元に何も生まれない。そういう人を見たことがあるという書き込みがいくつもあって、そのほとんどが、見てから半年か一年のうちにその人の話を聞かなくなった、という形で終わっている。学校を辞めたという話もあれば、引っ越したという話もあり、亡くなったらしいという話もあった。書いた人間はどれも匿名で、日付もばらばらで、互いに関係がない。
書き込みの調子は、どれも似ていた。噂を面白がっているものもあれば、本気で怖がっているものもあり、身内にいたと書いている人のものは文章が短くて重い。共通しているのは、その人がどうなったのかを最後まで書かないところだった。書かないまま、みんな同じ方向を指さしている。
中学のころにテレビでそういう特集を見た記憶が、そこでようやく戻ってきた。夜のニュース番組の特集枠で、顔を隠した人が声を変えて喋っていた。内容は覚えていない。母がチャンネルを変えたことだけを覚えている。
その下に、いちばん多く引用されている一文があった。
軌道が引けないのは、引くだけの残りがないからだ。
計算は正しく行われている。行われた結果が短すぎて、線という形にならないだけなのだという。
僕はその一行をしばらく見ていた。誰が最初に書いたのかもわからないし、根拠らしいものは何も添えられていない。それなのに、この一文を否定する公式の文章を、僕はどれだけ探しても見つけられなかった。市のページにも、県のページにも、そういう俗説は誤りですという但し書きはどこにもない。
似たような言い回しが、別のページにもいくつか転がっていた。線を引く価値がないから引かれないのだという書き方をしているものもあれば、計算した結果が短すぎて表示できないだけだと説明しているものもある。どれも断定の形をしていて、どれも出典がない。
書いていないというだけで、正しいことにはならない。
頭ではそう思う。ただ、書いていないことが気になるのは、この件についてだけは、国も市も何も言いたくないように見えるからだった。不利益の一覧はあれだけ丁寧に並べておいて、その先に何が待っているのかは一行も置かない。置かないという選び方に、意味があるように思えてしまう。
検索の窓をもう一度空にして、僕は「脱線」と打った。
打ってから、手が止まった。
エンターキーの上に指を置いたまま、僕は机の一番下の引き出しのほうを見ている。三年前の葉書がそこに入っていることを、僕は毎日忘れずに覚えている。あの人は今も生きていて、葉書の県でたぶん普通に暮らしていて、この家に葉書を出すくらいのことはした。脱線した人間が半年で消えるのなら、あの葉書はそもそも届いていない。
だから、あの俗説は正しくない。
そう考えた瞬間に、別の声が頭の中で立ち上がった。あの人は脱線だ。星野ユキが同じ側だとは限らない。脱線と未敷設は、公式のページですら別の段落に分けて書かれている。同じ空白に見えても、意味が違うのだとしたら。
二つの言葉のあいだにある違いを、僕はこの夜まで一度も考えたことがなかった。線を持っていた人が失うのと、最初から持っていないのとでは、たぶん意味が違う。違うのだとしたら、あの葉書は何の証明にもならない。
僕はエンターを押さずに、検索の文字を全部消した。
保健室の先生に訊くという手も、一度は考えた。
あの人なら仕組みの話として答えてくれるだろうし、生徒の噂を広めるような人でもない。ただ、訊いた時点で、僕が特定の誰かの足元を毎日見ていることが伝わってしまう。名前を出さずに一般論として訊いたとしても、この時期にそんなことを訊きに来る二年生が何を見たのかは、すぐに察しがつくはずだった。
ネットの書き込みをもう一度上から読み直して、僕はひとつ気がついたことがある。どの書き込みも、脱線と未敷設をまるで区別していない。線がない人を全部ひとまとめにして、同じ結論へ運んでいく。公式のページがわざわざ段落を分けているのに、噂のほうは分ける必要を感じていないのだった。
ノートパソコンを閉じても、僕はしばらく机の前から動かなかった。
暗くなった画面に自分の顔が薄く映っている。その向こうに、昼間の教室の床が浮かんできた。四十人分の青が流れる中で、そこにだけ穴が開いている。あの穴の意味を知っているのは、たぶん本人と、それから担任だけだ。
近いうちに彼女が消えるのかもしれない、という考えが、その夜から僕の中に居座るようになった。
消えるという言葉がどういう形をしているのかは、まだ想像がついていない。想像がつかないのに、僕はもうその可能性を前提にして彼女のことを考えはじめている。
もし本当にそうなら、あの教室で誰もそれを知らないことになる。四十人がいて、担任がいて、毎日同じ場所で顔を合わせているのに、その中の一人が近いうちにいなくなるかもしれないという話を、誰も口にしない。知らないから口にしないのか、知っていて口にしないのかも、僕にはわからなかった。
電気を消してからも、僕は九月一日という日付のことを考えていた。あの注意書きは敷設を受けなかった人に向けたもので、彼女に当てはまるかどうかもわからない。それでも、何かが確定する日が決まっているという書き方が、頭の隅に引っかかったまま取れなかった。
翌朝、教室のドアを開けて、いつもの位置に空白があるのを見たとき、僕は安心した。
安心したことに、自分で少し嫌な気持ちになった。
2-2 観察
それから二週間ほど、僕は星野ユキを見ていた。
見ていた、と言ってもやっていることは大したものではない。授業の合間に振り返るとか、廊下ですれ違うときに視線を落とすとか、その程度のことを一日に何度か繰り返しているだけで、後ろから見れば居眠りと区別がつかなかったと思う。それでも、それだけの日数を積み上げると、四月の頭までまったく知らなかった人間の輪郭が、少しずつ立ち上がってくる。
彼女は朝、いつも遅い。
遅刻はしない。予鈴が鳴ってから本鈴までのあいだに、ちょうど滑り込む形で教室に入ってくる。その時間帯にはもう全員が席についているから、彼女が入ってくるときの教室はいちばん静かで、いちばん目につきやすい。誰も顔を上げない。顔を上げないことに全員が慣れている。
昼休みになると、彼女は教室からいなくなる。
三日目にどこへ行くのかを見届けようとして、僕は購買へ行くふりをして後をつけた。彼女は二階の渡り廊下を渡って、特別教室の並ぶ棟へ入っていく。美術室も音楽室もその方向にあるけれど、彼女はどちらの前も素通りして、棟の突き当たりにある短い渡り廊下のほうへ折れた。そこで見失った。
あの先に何があるのかを、僕は知らない。一年以上この学校に通っていて、それでも一度も行ったことのない場所が、校舎の裏側にはまだ残っている。四十分後に教室へ戻ってきた彼女は、行くときと同じ顔をしていた。
鞄のほかに、彼女はいつも細長い紙の筒を持っていた。
肩から提げるのではなく、脇に抱えるようにして運んでいる。口のところが少し潰れていて、同じものを何日も使い回しているのがわかる。一度だけ、筒の口から紙の端がのぞいているのを見た。方眼の入った薄い紙で、鉛筆の線が細かく走っている。写し取った図面のようにも、何かの下描きのようにも見えた。
爪の色は日によって違った。
月曜は指の側面に緑がついていて、火曜は右手の親指だけが赤く、水曜はほとんど何もついていない。木曜にまた黄色が戻ってきた。絵の具だというのはすぐにわかった。ただ、うちの学校の美術は二年で選択から外れるから、授業で使っているわけではないことになる。
グループを作るときの彼女は、驚くほど手際がよかった。
現代文で四人組を作れと言われたとき、教室のあちこちで椅子が動きはじめる。彼女は誰とも目を合わせず、いちばん近い机の三人のほうへ椅子を寄せて、当たり前の顔でそこに座った。三人は特に嫌がりもせず、話しかけもせず、資料の分担を決めるときに一枚を彼女のほうへ回した。彼女はそれを受け取って、黙って読みはじめた。
木曜の体育は、男女合同の授業だった。
僕らはグラウンドの反対側でハードルをやっていて、女子は五十メートルのタイムを計っている。彼女の番になって、僕は柵のほうを向いたまま目だけを動かした。速くも遅くもない走り方だった。腕は振るし、最後まで速度も落とさない。ゴールしたあとに膝に手をついて、二回ほど大きく息をして、それから列の後ろへ戻っていく。無理をしている様子はどこにもなくて、体のどこかを庇っている気配もない。
走っているあいだ、彼女の足元には土埃しか上がらなかった。他の子たちの足からは青が伸びて、走るのに合わせて前へ流れていく。あの光景を見てから、僕は噂の一行を思い出す回数がかえって増えた。あれだけ普通に走る人間の残りが少ないというのは、どう考えても釣り合いが取れていない。
翌週の水曜、放課後の図書室の前を通ったときにも彼女がいた。
ガラス越しに中を覗くと、いちばん奥の窓際の席に座って、大きな画集のようなものをひらいている。司書の先生は貸し出しの机で別の作業をしていて、他に人はいない。彼女は本のページを繰るのではなく、同じ見開きをずっと見ていた。五分ほど経ってから僕がもう一度覗いたときも、同じ姿勢のままだった。
僕はその一連の動きを見ていて、ようやく腑に落ちたことがある。
彼女は避けられているのではない。誰も彼女を追い出さないし、悪く言う人間も一人もいない。ただ、彼女がいてもいなくても場の形が変わらないというだけで、その状態がもう何年も続いているのだろう。慣れているのは周りではなく、彼女のほうだった。
金曜の放課後、掃除当番が同じ班になった。
教室の後ろ半分を二人で分けて、僕が箒を持ち、彼女がちり取りを持った。会話はない。会話がないことが不自然にならないくらいの速さで、彼女は動いていた。机を寄せて、隅にたまった消しゴムのかすを集めて、窓際の列へ移る。
僕が同じ場所をもう一度掃こうとしたとき、彼女が口をひらいた。
「そっち、もうやった」
それだけだった。声は思っていたより低くて、人と喋り慣れていない感じがまるでない。僕がうなずくと、彼女はもう次の列へ動いている。ちり取りを構える角度も、箒の先を当てる位置も、手順が決まっている人のそれだった。
黒板の下の溝をきれいにしてから、彼女は箒とちり取りをまとめて用具入れへ持っていった。僕が窓を閉めているあいだに鍵の場所を見て、電気のスイッチを二つとも落として、それからようやく鞄を取りに戻ってくる。手順が全部決まっていて、そのどこにも他人の入る余地がない。掃除を二人でやったという感じが、最後まで少しもしなかった。
ごみを捨てに行って戻ってくると、彼女はもう教室にいなかった。
僕が彼女を見ていることに気づかれたのは、次の週の月曜だ。
五時間目の途中で、僕は何度目かの振り返りをした。窓の外を見るふりをして、視線だけを斜め後ろの床へ落とす。空白はそこにある。いつもどおりの位置に、いつもどおりの形で。
確かめ終えて視線を戻そうとしたとき、彼女がこちらを見ていた。
目が合った時間は、たぶん一秒もない。彼女は驚きもしないし、慌てて目を逸らしもしなかった。ただ僕の顔をまっすぐ見て、それから何事もなかったように黒板へ向き直った。責められたほうがまだ楽だったと思う。彼女の目には怒りも困惑もなくて、見られることを最初から予定に入れている人間の落ち着きだけがあった。
その日から、僕は振り返る回数を減らした。
減らしたけれど、やめられなかった。
その晩、夕食の席で母が僕に模試の申し込みの話をした。五月の全県模試で、第一志望の判定が出るやつだから受けておきなさい、という話で、僕はうなずいて受けると答えた。母は満足そうに箸を動かして、それから、最近学校はどうなのと訊いてきた。
別に、と僕は答えた。
実際には、四月から今日までのあいだに、僕の学校生活はまるきり形を変えている。ただ、それを説明するための言葉がどこにもなかった。クラスに線のない子がいる、と言えば、母はなぜなのかと訊く。答えられる材料を、僕はひとつも持っていない。
放課後、昇降口で陸に肩をぶつけられた。
「お前さ、最近ぼーっとしてない?」
僕が何でもないと答えると、陸は疑う様子もなく笑って、そのまま体育館のほうへ走っていった。彼の太い一本が、僕の三本をまたいで廊下の先へ伸びていく。追いかけるつもりのない背中を見送りながら、僕は自分が何をしているのかを言葉にしようとして、できなかった。
心配しているわけではない。心配というのは、相手のことを知っている人間がするものだ。
助けたいと思っているわけでもない。何から助けるのかも、僕にはまだわかっていない。
ただ、あの空白から目が離せない。名前も、席も、爪の色も、昼休みに消える方角も、僕は勝手に集めてしまっている。集めたところで使い道はどこにもなくて、使い道がないまま、明日もまた同じことをするのだろう。
2-3 白紙
六月に入って最初の週、僕は廊下でその声を聞いた。
昼休みの終わり際で、二年三組の教室の前は人がまばらになっていた。僕は購買の袋を持って階段を上がってきたところで、踊り場からひとつ上の廊下に、戸田と星野ユキが立っているのが見えた。
足が勝手に止まった。
二人は教室のドアから少し離れた、掲示板の前にいる。戸田の手には、見覚えのある紙が一枚あった。四月に配られて、四月のうちに集められたはずの進路希望票だった。あれから一か月半が経っている。
「何か書きなさい。何でもいいから」
戸田の声は大きくない。廊下の端にいる僕まで届いているのは、その時間の廊下がたまたま静かだったからで、戸田自身は誰にも聞かせるつもりがないのだろう。
「べつに、書くことがないので」
星野の答えも同じくらいの音量だった。言い訳をするときの言い方ではないし、突っぱねるときの言い方でもない。訊かれたことに事実で答えているだけの声で、そのぶん取りつく島がなかった。
「書くことがないっていうのは、決まってないっていう意味か」
「決めないという意味です」
戸田が黙った。
僕は階段の手すりに手を置いたまま、上がりも下りもできずにいた。ここで動けば足音がするし、足音がすれば二人が振り向く。踊り場の窓から入る光が僕の影を段の上まで伸ばしていて、三本の青はその影をまたいで隅のほうへ流れている。
廊下の向こうから女子が二人歩いてきて、二人の横を通り過ぎていった。話し声が途切れなかったから、たぶん何も気づいていない。戸田は彼女たちが遠ざかるのを待ってから、紙を持ち直した。
しばらくして、戸田がもう一度口をひらいた。
「これは進路の話じゃない。手続きの話だ。三年に上がるときに、この紙がないとこっちが困る。だから、書けるものを書いてくれればいい。第一希望だけでもいいし、あとで変えてもかまわない」
「先生が困るなら、先生が書いてください」
言い返したというより、そのほうが合理的だと思っているような口ぶりだった。戸田は怒らなかった。声も大きくならない。ただ紙を持ったまま、廊下の床のあたりに視線を落として、そこで止めた。
「じゃあ、三年でどのクラスに入るかも決まらないから、文系と理系のどっちかだけでも、丸をつけてくれないか」
星野は答えなかった。
そのとき僕が見ていたのは、戸田の目だった。
床を見ている。けれど、星野の足元は見ていない。視線の高さは彼女の膝から下へ落ちていくのに、あと十センチのところで止まって、そこから先へは動かない。二か月前のホームルームで、この人は彼女の白紙を受け取ったときに一瞬だけ手を止めた。あのときからずっと知っていて、知っていることを知られないようにしている。
見ないという動作を、あれだけ正確にやるには意識が要る。無意識に目を伏せた人の視線は、もっと下まで落ちるはずだった。
困っているというのは、そういうことなのだろうと思った。
戸田は星野を叱れない。叱る材料がないからではなく、叱ったあとに何を言えばいいのかが、この人にもわからないからだ。この紙を出させたところで、この子の足元に線が戻るわけではない。それがわかっていて、それでも紙を出させようとしている。学校という場所が用意している手続きは、そこまでしかない。
「……わかった。今日はいい」
最後に戸田はそう言って、紙を二つに折って上着の内側へ入れた。怒っていないことが、かえって重かった。星野は短く頭を下げて、教室のほうへ歩き出す。戸田は職員室の方向へ去っていった。
僕は階段を上がるしかなかった。そこにいつまでも立っていることのほうが、よほど不自然だった。袋を持ち直して、足音を普通に立てて、三段上がる。
星野はドアの手前で立ち止まっていて、こちらを見ていた。
聞いていただろう、と責める顔ではない。聞かれていたことを知っていて、それがどうしたという顔でもない。彼女はただ、僕が廊下に上がりきるまでの数秒を待って、それからドアを開けて中へ入っていった。
僕はその場に残されて、教室に入るタイミングを失った。
書くことがない、ではなく、決めない。
あんな言い方を、僕はこの十七年で一度も使ったことがなかった。決まっていないと言ったことなら何度もある。まだわからないと言ったことも、たぶん数えきれないくらいある。決めないというのは、それとはまるで違う場所から出てくる言葉だ。
何も選んでいないのではなく、選ばないことをすでに選んでしまった人の声が、そこにはあった。
六月の廊下は蒸していて、シャツの背中が張りついていた。窓の外ではグラウンドの整備をしている音がしていて、そのあいだも僕はまだ動けずにいる。
あの紙を書かない理由が、線がないことと繋がっているのかどうか、僕にはわからない。
わからないまま、僕はひとつだけ確信していた。彼女は自分の足元がどうなっているのかを、とっくに知っている。知っていて、それを誰にも説明する気がない。そして、説明を求めない大人だけが、彼女の周りに残っている。
説明を求めないというのは、優しさの形をしていることがある。
戸田は彼女を追い詰めなかったし、他の生徒の前で紙のことを持ち出しもしなかった。あの人なりに、いちばん傷が浅くなるやり方を選んでいる。ただ、そのやり方を全員が選び続けた結果として、彼女の足元に何があるのかを本人以外の誰も口にしない教室ができあがっていた。
誰も悪くない。悪くないまま、何も起きない。
僕もその一人だ。四月から二か月、毎日あの床を見ておいて、見たことを一度も誰にも言っていない。言わない理由を優しさだと呼ぶには、僕の場合は少し都合がよすぎた。
予鈴が鳴った。
僕は袋を持ったまま教室に入って、自分の席に着いた。斜め後ろの床には、いつもの空白がある。
2-4 図書室
六月の半ばに、一日じゅう降り続く雨の日があった。
その日の六時間目に全県模試の結果が返ってきて、僕の判定はBだった。第一志望のところがB、第二志望がA、第三志望は判定そのものが出ない。紙を受け取ったとき、僕は自分がほっとしていることに気がついて、その次に、ほっとした以外の感情がひとつも湧いてこないことに気づいた。
線の示したとおりの結果が、線の示したとおりに出ている。
それだけの紙を鞄に入れて、僕は昇降口まで行って、外の雨を見て足を止めた。傘は持っている。帰ればいい。帰れば母がその紙を見たがるし、見せればきっと喜ぶ。喜ばれるのが嫌なわけではないのに、今日はそこへ向かって歩き出す気になれなかった。
引き返して、僕は三階の図書室へ行った。
放課後の図書室に人はほとんどいない。テスト期間でもないし、雨の日はみんな早く帰る。カウンターに司書の先生がいて、返却された本にラベルを貼り直していた。僕が入っていくと顔だけ上げて、小さくうなずいて、また手元へ戻る。
奥の窓際の席に、星野ユキがいた。
いつもの席だった。あの筒は机の脇に立てかけてあって、机の上には大きな本が一冊ひらかれている。彼女はページに覆いかぶさるようにして、片手で頬杖をついたまま、身じろぎもしていない。
僕はいちばん手前の書架の前で立ち止まって、背表紙を眺めるふりをした。
話しかけるつもりで来たわけではない。来たときには彼女がいると知らなかったし、いると知っていたら来なかったかもしれない。それでも、書架の隙間から奥の席が見えるたびに、僕の視線はそこへ戻っていく。
二か月と少し、僕はこの人の足元だけを見てきた。
顔を見た回数より、床を見た回数のほうが多い。集めたのは名前と、席と、爪の色と、昼休みに消える方角くらいのものだ。それだけを寄せ集めて、僕は勝手にひとつの物語をこしらえかけている。噂の一行を否定できないまま、否定できないことを理由にして、この人を近いうちにいなくなる人として扱いはじめている。
それが失礼なことだというのは、さすがにわかっていた。
書架のあいだで、僕は十分近く迷っていたと思う。話しかければ、二か月ぶんの視線が全部ばれる。ばれたところで怒られるとも思えないけれど、そのあと教室でどんな顔をすればいいのかがわからない。黙って帰れば、明日からも今までと同じ日が続く。続くというのは、彼女の足元をこっそり見ては安心するだけの日が続くということだった。
背表紙を三列ぶん眺め終わったところで、僕は自分がどの本の題名も読んでいなかったことに気づいた。
僕は書架の列を二つ分歩いて、奥の席へ向かった。
足音で気づいたはずなのに、彼女は顔を上げなかった。斜め前の椅子を引いて座っても、まだ本から目を離さない。窓の外では雨がまっすぐ降っていて、グラウンドの土が黒く沈んでいる。
「それ、なに」
口から出たのは、そんな言葉だった。
彼女はようやく顔を上げて、それから自分の手元を見下ろして、本を少しだけこちらへ回した。見開きいっぱいに写真が載っている。教会のようなところの、天井と壁のあいだの湾曲した面に描かれた絵で、人が何人も並んでいて、色は全体に褪せていた。
「壁画」
彼女はそれだけ言って、指の背で写真の端をなぞった。
「壁に直接描くやつ。額に入れないし、動かせない。だからその建物が壊れたら、絵も一緒になくなる」
なくなるのか、と僕が訊くと、彼女はうなずいた。
「写真は残る。でも写真は絵じゃない。見に行けなくなった時点で、その絵は終わり」
その言い方には、惜しんでいる響きがまったくなかった。決まりごとを読み上げるような調子で、彼女は終わりという言葉を使った。
「動かせないのが、いいの」
僕が黙っていると、彼女は続けた。訊かれてもいないのに喋るのは、この人にしては珍しいことなのだと、あとになって思った。
「美術館の絵って、買われたり貸されたりして、あちこち行くでしょ。壁画はどこにも行けない。描いた場所から一歩も動かないまま、そこにある建物の都合で残ったり消えたりする。自分ではどうにもできないの」
そういうのが好きなんだ、と僕は訊いた。彼女は写真に目を落としたまま、少し考えるような間を置いた。
「べつに。好きとは言ってない」
僕は写真を見ながら、何を言えばいいのかを探していた。絵の話はよくわからないし、知ったかぶりをすればすぐにばれる。かといって話題を変えれば、この席に座った理由がなくなってしまう。
「星野さんって、絵を描くの」
「描く」
短い答えのあとに、彼女は少しだけ間を置いて、付け足した。
「でも、学校では描かない」
そのとき僕は、彼女の手が本の縁から離れて、机の下へ下りたのに気づいた。隠したのだろう。爪のあいだに今日は青が入っていた。青といっても線の色ではなくて、もっと濁った、絵の具の青だった。
机の脇の筒に目をやって、僕はそれについて訊きかけた。訊いてどうするのかを考えるより先に、彼女が筒を自分の椅子の反対側へ動かしたので、言葉はそこで止まった。拒まれたというほど強い動きではない。片づけただけにも見える。ただ、同じ方向へもう一度手を伸ばす気にはなれなかった。
雨の音が一段強くなって、窓の下の桟が細かく鳴った。
司書の先生がカウンターの奥へ入っていって、図書室に残っているのが僕たちだけになる。その静けさに背中を押されたのだろう。押されなければ、僕は最後まで訊けなかった。
「あのさ」
声が思ったより硬く出た。彼女は本を閉じずに、目だけをこちらへ向けている。
「どうして君には……線が見えないの」
言ってしまってから、心臓が一拍遅れて鳴った。
彼女の顔から表情が消えたのは、ほんの短いあいだだった。驚いてはいた。ただ、その驚き方が僕の想像していたものとは違っていて、隠していたことがばれたときの顔ではない。教室の隅に置きっぱなしになっていた荷物を、誰かが急に指さしたときの顔に近かった。
「見えてたんだ」
彼女はそう言った。責めてもいないし、困ってもいない。
「四月から、ずっと」
僕が正直に答えると、彼女は少しだけ目を細めた。笑ったのだと気づくのに時間がかかったのは、口の形がほとんど動かなかったからだ。
「二か月も黙ってたの。偉いね」
皮肉に聞こえなかった。本当に感心しているような言い方で、そのぶん僕は何も言い返せなくなった。誰にも言わなかったのは偉かったからではない。言う相手がいなかったのと、言えば自分が面倒なことになると思ったのと、その両方でしかない。
彼女は窓のほうへ顔を向けた。
雨の降る校庭を見たまま、しばらく黙っている。訊いてはいけないことを訊いたのだと、僕はそこでようやく理解した。謝ろうとして口をひらきかけたとき、彼女が先に喋った。
「私、近いうちに消えるから」
雨の音だけが残った。
消える、という言葉が耳に入ってから意味に変わるまでに、数秒かかった。変わったあとも、それが何を指しているのかを僕は掴めずにいる。頭の中では、あの掲示板の一行が勝手に浮かび上がっていた。引くだけの残りがないからだ。この人も四月に保健センターへ行って、あの椅子に座って、三十秒を過ごしたはずだった。座って、それでも何も出なかったということになる。
「……消えるって」
訊き返した声が掠れた。彼女はこちらを見ていない。
「そのままの意味」
彼女はそこで一度言葉を切って、閉じかけた本の上に手を置いた。
「怖がらなくていいよ。浅野くんには関係ない話だから」
名前を呼ばれたのは、それが初めてだった。同じクラスなのだから知っていて当然なのに、僕は自分の名字がその声で発音されたことに、妙に狼狽していた。関係ない、という部分について何か言い返そうとして、言い返すだけの資格が自分にないことに気づいて、口をつぐむ。
彼女はようやく本を閉じた。表紙の端を指で揃えて、机の脇の筒を取って、椅子を引く。
僕は座ったまま動けなかった。
違う、と言ってほしかったのだろう。冗談だとか、そういう意味じゃないとか、何でもいいから否定の言葉が返ってくることを期待していた。彼女は否定しなかった。訂正もしなかったし、説明も足さなかった。
立ち上がった彼女の足元を、僕はもう一度見た。
空白だった。椅子の脚の影があって、床のリノリウムの継ぎ目があって、青はどこにもない。この人が今、僕の目の前で立ったり座ったりしているのに、その動きはどこにも記録されていない。
「先に帰るね」
彼女は僕の机の横を通って、書架のあいだへ消えた。
貸し出しのカウンターで何か短く言葉を交わす声がして、扉が閉まる音がして、そのあとは雨の音しか残らなかった。僕は自分の鞄に手をかけたまま、しばらくそこに座っていた。
あの人はさっき、浅野くんには関係ない話だと言った。
関係はない。話したのは今日が初めてで、それまでの二か月は一方的に見ていただけで、掃除当番のときに交わした言葉を足しても両手で数えられる。関係がないというのは事実の説明でしかなくて、突き放されたと受け取るほうが図々しい。
それでも、あの一言を聞いた瞬間に胸の奥が詰まったのはなぜなのか、僕は自分でうまく説明できなかった。
鞄の中には、Bと印刷された紙が入っている。
安全な三本のうちのどれを選んでも、僕は転ばずに大人になれるらしい。その紙を今日ここまで持ってきて、僕はそれを見せたくなくて図書室に逃げ込んで、逃げ込んだ先で、近いうちに消えると言う人間と同じ机に座っていた。
外はまだ降っていた。
僕はようやく立ち上がって、窓の桟に手をついて下を見た。昇降口から傘が一本だけ出ていくところで、その傘は校門のほうへまっすぐ進んでいく。雨の中を歩く彼女の足元には、当然のように何もなかった。
2-5 逸脱の実験
その週末から、僕はひとりで実験を始めた。
やり方は単純だった。線が右を示していたら左へ行く。まっすぐ進めと言われている場所で曲がる。信号が変わりかけているときには渡らずに待つ。そういう小さな逸脱を、できるだけ回数を重ねる。
目的がはっきりしていたわけではない。あの図書室から帰ったあと、僕の頭にあったのは、線が消えるというのがどういうことなのかを自分の体で知っておきたいという、それだけの衝動だった。彼女に何が起きているのかを訊く勇気はない。訊けないなら、自分で近づいてみるしかない。
土曜の午前、僕は駅前の交差点で最初の一回をやった。
三本の線はどれも右の歩道へ折れていく。僕は左を向いて、一歩踏み出した。
踏み出した瞬間に、視界が斜めに流れた。
めまいという言葉が正確なのかどうかはわからない。足が地面についているのに、地面のほうが半歩ぶんずれたような感覚があって、僕は思わず街灯の柱に手をついた。同時に胸のあたりが強く締まって、心臓が急に速くなる。転びそうになったわけでもないし、誰かとぶつかったわけでもないのに、体のほうが先に何かを間違えたと判断している。
顔を上げると、線は右へ伸びたままだった。
当たり前だ。僕が左へ行っただけで、線が僕を追いかけてくるわけではない。三本はもとの位置から右の歩道へ向かって、さっきと同じ細さで光っている。
通り過ぎる人の線が、僕の立っている場所を横切っていく。誰も僕を見ていないし、僕がたった今、自分の未来から一歩外れたことにも気づいていない。柱から手を離して歩き出すと、体のほうはすぐに落ち着いた。落ち着いたことが、かえって不気味だった。
その日、僕は同じことを七回やった。
回数を重ねても体の反応は減らなかった。最初のめまいほど激しくはならない代わりに、不吉さのようなものだけが薄く残り続ける。誰かに見られている気がして振り返る、あの感じに近い。曲がってはいけない角を曲がったあと、次の角までのあいだずっと、後頭部のあたりが落ち着かなかった。
日曜も続けた。
週が明けた月曜には、校内でも同じことをやった。
昇降口から教室へ向かうとき、線は正面の階段をまっすぐ示している。僕はそれを無視して、遠回りになる西側の階段のほうへ折れた。踏み出した瞬間に廊下の床が半歩ぶんずれて、僕は壁に手をついてよろけた。前を歩いていた一年生が振り返って、変な顔をして、そのまま行ってしまう。
似たようなことを、その日のうちに何度もやった。渡り廊下で線と逆の側へ寄る。購買へ行くのにわざと遠いほうの扉を使う。そのたびに視界が斜めに流れて、僕はどこかに手をついていた。
その朝は、通学路でもやっていた。いつも使っている坂道を避けて、遠回りになる海沿いの道を歩く。線は坂のほうを示していて、僕はそれを無視した。潮の匂いが濃くて、港の倉庫の前を通るときに、フェリー乗り場の白い船体がまた見えた。今日は人が並んでいて、その足元から何本もの青が桟橋のほうへ伸びている。
学校に着くまでのあいだ、僕は何度も自分の足元を見下ろした。
三本ある。
昼休みにもう一度見た。三本ある。放課後にも確かめた。やはり三本で、太さも明るさも、四月から何ひとつ変わっていない。
その夜、僕は閲覧サービスにログインした。四月に一度見たとき、あとで母に何か訊かれたら困ると思って画面を撮っておいたものが、まだ残っている。
軌道一、軌道二、軌道三。並んでいる項目は前に見たときとまったく同じで、進学先の候補も、想定される居住地域も、年収の推定値も、数字がひとつも動いていない。ページの下のほうには信頼度を示す欄があった。四月には目にも入っていなかった数字で、そこには三つとも同じ値が並んでいる。撮っておいた画面と見比べても、小数点以下まで一致していた。
三日間、僕は自分なりに必死で逸れたつもりでいた。
めまいがした。心臓が鳴った。何度も後ろを振り返った。あれだけ体が嫌がることをやって、それでも数字は一桁も動いていない。
信頼度という言葉の意味を、僕はそのとき初めてまともに考えた。線が太いとか細いとかいうのは、要するにこの数字のことなのだろう。陸の一本が太いのは、この数字がよほど高いからだ。
そして、この数字を下げるには、たぶん三日ぶんの遠回りでは足りない。
僕はしばらく画面を見ていた。
最初に湧いてきたのは、安心とは違う感情だった。何をやっても崩れないのだから、僕の三本は相当に頑丈だということになる。頑丈だと言われて嬉しいはずなのに、実際に胸に残ったのは、相手にされていないという感覚のほうだった。
火曜の朝、教室で、彼女が僕の机の横を通った。
図書室の日から、僕たちは一度も喋っていない。挨拶もしていないし、目も合わせていない。彼女は自分の席へ行く途中で速度を落として、こちらを見もせずに言った。
「それ、たぶん意味ないよ」
僕は顔を上げた。彼女はもう半歩進んでいる。
「あいつら、人の気持ちなんか見てないもん」
それだけ言って、彼女は自分の席に着いた。筒を机と壁の隙間に立てて、鞄を下ろして、いつもどおりの顔で黒板のほうを向いている。
何を見られていたのかを理解するのに、僕は少し時間がかかった。
週末の駅前を見られたわけがない。見られていたのは校内のほうだ。廊下でよろけて壁に手をついた僕を、彼女はどこかで見ていたのだろう。何をやっているのかまで一目で見抜かれていて、その上で意味がないと言われている。
一時間目のあいだ、僕はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
人の気持ちなんか見ていない。
言われてみれば、閲覧サービスのどこにも、僕がどう思っているかを書く欄はなかった。並んでいたのは通知表と、模試の偏差値と、部活の在籍期間と、家族構成と、居住地域の統計だった。全部、僕がやったことの記録だ。何を考えていたかは一行も入っていない。
僕が左へ曲がったところで、記録は何も変わらない。同じ学校に通い、同じ家に帰り、同じ模試を受けている。歩いた道が百メートル違っても、システムから見れば、僕は先週と同じ場所に立ったままだった。
線は僕を見ていない。
そう気づいたとき、四月に感じた安堵が別の形に見えはじめた。あのとき僕は、誰かが自分のことをちゃんと見てくれた気がしたのだろう。今までに置いてきたものを全部拾い集めて、きれいに並べ直して、これがあなたですと差し出された。あれは僕を見た結果ではなくて、僕のような人間を何万人ぶんも重ねた結果だった。
四月に敷設を受けた日、僕は線に足を合わせて歩きながら、これで自分は決めなくていいのだと思った。決めなくていいというのは、裏を返せば、僕が何を決めようと向こうは気にしないということでもある。
だとしたら、線が細くなったり消えたりするのは、どういうときなのか。
気持ちで動かないのなら、動かせるのは記録のほうだ。学校を辞めるとか、家を出るとか、そういう種類のことでなければ、たぶんあの数字は一桁も動かない。
そこまで考えて、僕は椅子の上で少し体を起こした。
斜め後ろの空白のことを、今までと違う角度から見ている自分に気づいたからだ。彼女の足元に線がないのは、記録の上で何かが起きたということになる。学校には毎日来ているし、教室でも普通に座っている。それなら、記録のほうで何が起きたのか。
記録の上で何かが起きたのだとしたら、それは病気とは限らない。家のことかもしれないし、手続きの問題かもしれない。噂の一行が正しいという前提を、僕はこの二か月、否定できないまま背負ってきた。背負ったまま、あの人の前に座って、消えるという言葉を真っ正面から受け取ってしまった。
黒板の文字を写す手を止めて、僕は振り返らないようにした。
訊けばいい。二か月黙っていたのは偉いと、あの人は言った。偉いのではなくて、僕がただ怖かっただけだ。
その週の水曜の夜、僕は自分の部屋でノートパソコンを開いた。
最初に見たのは市の公式サイトで、トラックの説明を並べたページの中に、探していた項目はすぐ見つかった。「軌道が表示されない場合について」という見出しの下に、事務的な文章が二段落だけ載っている。
一つ目は脱線についての説明だった。予測の信頼度が一定の水準を下回った場合、軌道の表示は自動的に停止されます。再表示には所定の手続きが必要です。二つ目は未敷設についてで、敷設処置を受けていない方には軌道が生成されません、とだけ書かれていた。
二つ目のほうは、読んでもほとんど意味がない。
別のページに前年度の統計が載っていて、対象者に対する受診率は九十九・九パーセントと書いてあった。十七になれば全員が受けるものなのだから、当たり前といえば当たり前で、未敷設という項目は制度上そう書いておかないと形が整わないというだけの但し書きに見える。実際にそこへ該当する人間が同じ教室にいるなどとは、この文章を書いた誰も想定していない。
その下に、もう少し細かい注意書きがあった。当該年度に敷設を受けなかった方については、九月一日をもって未敷設が確定し、以後の敷設は原則として行われません、と書いてある。九月一日という日付だけが妙に具体的で、そこだけ他の文章から浮いて見えた。
どちらにも、その後どうなるのかは一行も書いていない。
僕はページの上から下まで二度読んで、下のほうにあるよくある質問の一覧をひらいた。表示が薄い気がするという相談、家族の軌道を見る方法についての問い合わせ、そういうものに混じって、未成年の非公開設定はできますかという項目がある。答えは短かった。十八歳未満の利用者について、公開設定の変更は受け付けておりません。
つまり、隠しているという線は完全に消える。
星野ユキの足元に何もないのは、敷設を受けていないか、受けたあとに失ったかのどちらかだ。二日前に自分で立てた仮説が、こうして役所の文章で裏づけられた。裏づけられただけで、そこから先へはひとつも進んでいない。
僕は検索の窓に「軌道 未敷設」と打ち込んだ。
上のほうに出てくるのは、さっきと同じような公的なページと、法律事務所が書いた進学時の不利益についての解説だった。三ページ目あたりから、様子が変わってくる。個人のまとめサイトや、匿名の掲示板の書き込みを転載したページが並びはじめる。
そこに書いてあったことは、だいたい同じ方向を向いていた。
処置は受けているのに線が出ない人がいる、という話だった。
保健センターの椅子に座って、後頭部に機械を当てて、三十秒を過ごして、それでも足元に何も生まれない。そういう人を見たことがあるという書き込みがいくつもあって、そのほとんどが、見てから半年か一年のうちにその人の話を聞かなくなった、という形で終わっている。学校を辞めたという話もあれば、引っ越したという話もあり、亡くなったらしいという話もあった。書いた人間はどれも匿名で、日付もばらばらで、互いに関係がない。
書き込みの調子は、どれも似ていた。噂を面白がっているものもあれば、本気で怖がっているものもあり、身内にいたと書いている人のものは文章が短くて重い。共通しているのは、その人がどうなったのかを最後まで書かないところだった。書かないまま、みんな同じ方向を指さしている。
中学のころにテレビでそういう特集を見た記憶が、そこでようやく戻ってきた。夜のニュース番組の特集枠で、顔を隠した人が声を変えて喋っていた。内容は覚えていない。母がチャンネルを変えたことだけを覚えている。
その下に、いちばん多く引用されている一文があった。
軌道が引けないのは、引くだけの残りがないからだ。
計算は正しく行われている。行われた結果が短すぎて、線という形にならないだけなのだという。
僕はその一行をしばらく見ていた。誰が最初に書いたのかもわからないし、根拠らしいものは何も添えられていない。それなのに、この一文を否定する公式の文章を、僕はどれだけ探しても見つけられなかった。市のページにも、県のページにも、そういう俗説は誤りですという但し書きはどこにもない。
似たような言い回しが、別のページにもいくつか転がっていた。線を引く価値がないから引かれないのだという書き方をしているものもあれば、計算した結果が短すぎて表示できないだけだと説明しているものもある。どれも断定の形をしていて、どれも出典がない。
書いていないというだけで、正しいことにはならない。
頭ではそう思う。ただ、書いていないことが気になるのは、この件についてだけは、国も市も何も言いたくないように見えるからだった。不利益の一覧はあれだけ丁寧に並べておいて、その先に何が待っているのかは一行も置かない。置かないという選び方に、意味があるように思えてしまう。
検索の窓をもう一度空にして、僕は「脱線」と打った。
打ってから、手が止まった。
エンターキーの上に指を置いたまま、僕は机の一番下の引き出しのほうを見ている。三年前の葉書がそこに入っていることを、僕は毎日忘れずに覚えている。あの人は今も生きていて、葉書の県でたぶん普通に暮らしていて、この家に葉書を出すくらいのことはした。脱線した人間が半年で消えるのなら、あの葉書はそもそも届いていない。
だから、あの俗説は正しくない。
そう考えた瞬間に、別の声が頭の中で立ち上がった。あの人は脱線だ。星野ユキが同じ側だとは限らない。脱線と未敷設は、公式のページですら別の段落に分けて書かれている。同じ空白に見えても、意味が違うのだとしたら。
二つの言葉のあいだにある違いを、僕はこの夜まで一度も考えたことがなかった。線を持っていた人が失うのと、最初から持っていないのとでは、たぶん意味が違う。違うのだとしたら、あの葉書は何の証明にもならない。
僕はエンターを押さずに、検索の文字を全部消した。
保健室の先生に訊くという手も、一度は考えた。
あの人なら仕組みの話として答えてくれるだろうし、生徒の噂を広めるような人でもない。ただ、訊いた時点で、僕が特定の誰かの足元を毎日見ていることが伝わってしまう。名前を出さずに一般論として訊いたとしても、この時期にそんなことを訊きに来る二年生が何を見たのかは、すぐに察しがつくはずだった。
ネットの書き込みをもう一度上から読み直して、僕はひとつ気がついたことがある。どの書き込みも、脱線と未敷設をまるで区別していない。線がない人を全部ひとまとめにして、同じ結論へ運んでいく。公式のページがわざわざ段落を分けているのに、噂のほうは分ける必要を感じていないのだった。
ノートパソコンを閉じても、僕はしばらく机の前から動かなかった。
暗くなった画面に自分の顔が薄く映っている。その向こうに、昼間の教室の床が浮かんできた。四十人分の青が流れる中で、そこにだけ穴が開いている。あの穴の意味を知っているのは、たぶん本人と、それから担任だけだ。
近いうちに彼女が消えるのかもしれない、という考えが、その夜から僕の中に居座るようになった。
消えるという言葉がどういう形をしているのかは、まだ想像がついていない。想像がつかないのに、僕はもうその可能性を前提にして彼女のことを考えはじめている。
もし本当にそうなら、あの教室で誰もそれを知らないことになる。四十人がいて、担任がいて、毎日同じ場所で顔を合わせているのに、その中の一人が近いうちにいなくなるかもしれないという話を、誰も口にしない。知らないから口にしないのか、知っていて口にしないのかも、僕にはわからなかった。
電気を消してからも、僕は九月一日という日付のことを考えていた。あの注意書きは敷設を受けなかった人に向けたもので、彼女に当てはまるかどうかもわからない。それでも、何かが確定する日が決まっているという書き方が、頭の隅に引っかかったまま取れなかった。
翌朝、教室のドアを開けて、いつもの位置に空白があるのを見たとき、僕は安心した。
安心したことに、自分で少し嫌な気持ちになった。
2-2 観察
それから二週間ほど、僕は星野ユキを見ていた。
見ていた、と言ってもやっていることは大したものではない。授業の合間に振り返るとか、廊下ですれ違うときに視線を落とすとか、その程度のことを一日に何度か繰り返しているだけで、後ろから見れば居眠りと区別がつかなかったと思う。それでも、それだけの日数を積み上げると、四月の頭までまったく知らなかった人間の輪郭が、少しずつ立ち上がってくる。
彼女は朝、いつも遅い。
遅刻はしない。予鈴が鳴ってから本鈴までのあいだに、ちょうど滑り込む形で教室に入ってくる。その時間帯にはもう全員が席についているから、彼女が入ってくるときの教室はいちばん静かで、いちばん目につきやすい。誰も顔を上げない。顔を上げないことに全員が慣れている。
昼休みになると、彼女は教室からいなくなる。
三日目にどこへ行くのかを見届けようとして、僕は購買へ行くふりをして後をつけた。彼女は二階の渡り廊下を渡って、特別教室の並ぶ棟へ入っていく。美術室も音楽室もその方向にあるけれど、彼女はどちらの前も素通りして、棟の突き当たりにある短い渡り廊下のほうへ折れた。そこで見失った。
あの先に何があるのかを、僕は知らない。一年以上この学校に通っていて、それでも一度も行ったことのない場所が、校舎の裏側にはまだ残っている。四十分後に教室へ戻ってきた彼女は、行くときと同じ顔をしていた。
鞄のほかに、彼女はいつも細長い紙の筒を持っていた。
肩から提げるのではなく、脇に抱えるようにして運んでいる。口のところが少し潰れていて、同じものを何日も使い回しているのがわかる。一度だけ、筒の口から紙の端がのぞいているのを見た。方眼の入った薄い紙で、鉛筆の線が細かく走っている。写し取った図面のようにも、何かの下描きのようにも見えた。
爪の色は日によって違った。
月曜は指の側面に緑がついていて、火曜は右手の親指だけが赤く、水曜はほとんど何もついていない。木曜にまた黄色が戻ってきた。絵の具だというのはすぐにわかった。ただ、うちの学校の美術は二年で選択から外れるから、授業で使っているわけではないことになる。
グループを作るときの彼女は、驚くほど手際がよかった。
現代文で四人組を作れと言われたとき、教室のあちこちで椅子が動きはじめる。彼女は誰とも目を合わせず、いちばん近い机の三人のほうへ椅子を寄せて、当たり前の顔でそこに座った。三人は特に嫌がりもせず、話しかけもせず、資料の分担を決めるときに一枚を彼女のほうへ回した。彼女はそれを受け取って、黙って読みはじめた。
木曜の体育は、男女合同の授業だった。
僕らはグラウンドの反対側でハードルをやっていて、女子は五十メートルのタイムを計っている。彼女の番になって、僕は柵のほうを向いたまま目だけを動かした。速くも遅くもない走り方だった。腕は振るし、最後まで速度も落とさない。ゴールしたあとに膝に手をついて、二回ほど大きく息をして、それから列の後ろへ戻っていく。無理をしている様子はどこにもなくて、体のどこかを庇っている気配もない。
走っているあいだ、彼女の足元には土埃しか上がらなかった。他の子たちの足からは青が伸びて、走るのに合わせて前へ流れていく。あの光景を見てから、僕は噂の一行を思い出す回数がかえって増えた。あれだけ普通に走る人間の残りが少ないというのは、どう考えても釣り合いが取れていない。
翌週の水曜、放課後の図書室の前を通ったときにも彼女がいた。
ガラス越しに中を覗くと、いちばん奥の窓際の席に座って、大きな画集のようなものをひらいている。司書の先生は貸し出しの机で別の作業をしていて、他に人はいない。彼女は本のページを繰るのではなく、同じ見開きをずっと見ていた。五分ほど経ってから僕がもう一度覗いたときも、同じ姿勢のままだった。
僕はその一連の動きを見ていて、ようやく腑に落ちたことがある。
彼女は避けられているのではない。誰も彼女を追い出さないし、悪く言う人間も一人もいない。ただ、彼女がいてもいなくても場の形が変わらないというだけで、その状態がもう何年も続いているのだろう。慣れているのは周りではなく、彼女のほうだった。
金曜の放課後、掃除当番が同じ班になった。
教室の後ろ半分を二人で分けて、僕が箒を持ち、彼女がちり取りを持った。会話はない。会話がないことが不自然にならないくらいの速さで、彼女は動いていた。机を寄せて、隅にたまった消しゴムのかすを集めて、窓際の列へ移る。
僕が同じ場所をもう一度掃こうとしたとき、彼女が口をひらいた。
「そっち、もうやった」
それだけだった。声は思っていたより低くて、人と喋り慣れていない感じがまるでない。僕がうなずくと、彼女はもう次の列へ動いている。ちり取りを構える角度も、箒の先を当てる位置も、手順が決まっている人のそれだった。
黒板の下の溝をきれいにしてから、彼女は箒とちり取りをまとめて用具入れへ持っていった。僕が窓を閉めているあいだに鍵の場所を見て、電気のスイッチを二つとも落として、それからようやく鞄を取りに戻ってくる。手順が全部決まっていて、そのどこにも他人の入る余地がない。掃除を二人でやったという感じが、最後まで少しもしなかった。
ごみを捨てに行って戻ってくると、彼女はもう教室にいなかった。
僕が彼女を見ていることに気づかれたのは、次の週の月曜だ。
五時間目の途中で、僕は何度目かの振り返りをした。窓の外を見るふりをして、視線だけを斜め後ろの床へ落とす。空白はそこにある。いつもどおりの位置に、いつもどおりの形で。
確かめ終えて視線を戻そうとしたとき、彼女がこちらを見ていた。
目が合った時間は、たぶん一秒もない。彼女は驚きもしないし、慌てて目を逸らしもしなかった。ただ僕の顔をまっすぐ見て、それから何事もなかったように黒板へ向き直った。責められたほうがまだ楽だったと思う。彼女の目には怒りも困惑もなくて、見られることを最初から予定に入れている人間の落ち着きだけがあった。
その日から、僕は振り返る回数を減らした。
減らしたけれど、やめられなかった。
その晩、夕食の席で母が僕に模試の申し込みの話をした。五月の全県模試で、第一志望の判定が出るやつだから受けておきなさい、という話で、僕はうなずいて受けると答えた。母は満足そうに箸を動かして、それから、最近学校はどうなのと訊いてきた。
別に、と僕は答えた。
実際には、四月から今日までのあいだに、僕の学校生活はまるきり形を変えている。ただ、それを説明するための言葉がどこにもなかった。クラスに線のない子がいる、と言えば、母はなぜなのかと訊く。答えられる材料を、僕はひとつも持っていない。
放課後、昇降口で陸に肩をぶつけられた。
「お前さ、最近ぼーっとしてない?」
僕が何でもないと答えると、陸は疑う様子もなく笑って、そのまま体育館のほうへ走っていった。彼の太い一本が、僕の三本をまたいで廊下の先へ伸びていく。追いかけるつもりのない背中を見送りながら、僕は自分が何をしているのかを言葉にしようとして、できなかった。
心配しているわけではない。心配というのは、相手のことを知っている人間がするものだ。
助けたいと思っているわけでもない。何から助けるのかも、僕にはまだわかっていない。
ただ、あの空白から目が離せない。名前も、席も、爪の色も、昼休みに消える方角も、僕は勝手に集めてしまっている。集めたところで使い道はどこにもなくて、使い道がないまま、明日もまた同じことをするのだろう。
2-3 白紙
六月に入って最初の週、僕は廊下でその声を聞いた。
昼休みの終わり際で、二年三組の教室の前は人がまばらになっていた。僕は購買の袋を持って階段を上がってきたところで、踊り場からひとつ上の廊下に、戸田と星野ユキが立っているのが見えた。
足が勝手に止まった。
二人は教室のドアから少し離れた、掲示板の前にいる。戸田の手には、見覚えのある紙が一枚あった。四月に配られて、四月のうちに集められたはずの進路希望票だった。あれから一か月半が経っている。
「何か書きなさい。何でもいいから」
戸田の声は大きくない。廊下の端にいる僕まで届いているのは、その時間の廊下がたまたま静かだったからで、戸田自身は誰にも聞かせるつもりがないのだろう。
「べつに、書くことがないので」
星野の答えも同じくらいの音量だった。言い訳をするときの言い方ではないし、突っぱねるときの言い方でもない。訊かれたことに事実で答えているだけの声で、そのぶん取りつく島がなかった。
「書くことがないっていうのは、決まってないっていう意味か」
「決めないという意味です」
戸田が黙った。
僕は階段の手すりに手を置いたまま、上がりも下りもできずにいた。ここで動けば足音がするし、足音がすれば二人が振り向く。踊り場の窓から入る光が僕の影を段の上まで伸ばしていて、三本の青はその影をまたいで隅のほうへ流れている。
廊下の向こうから女子が二人歩いてきて、二人の横を通り過ぎていった。話し声が途切れなかったから、たぶん何も気づいていない。戸田は彼女たちが遠ざかるのを待ってから、紙を持ち直した。
しばらくして、戸田がもう一度口をひらいた。
「これは進路の話じゃない。手続きの話だ。三年に上がるときに、この紙がないとこっちが困る。だから、書けるものを書いてくれればいい。第一希望だけでもいいし、あとで変えてもかまわない」
「先生が困るなら、先生が書いてください」
言い返したというより、そのほうが合理的だと思っているような口ぶりだった。戸田は怒らなかった。声も大きくならない。ただ紙を持ったまま、廊下の床のあたりに視線を落として、そこで止めた。
「じゃあ、三年でどのクラスに入るかも決まらないから、文系と理系のどっちかだけでも、丸をつけてくれないか」
星野は答えなかった。
そのとき僕が見ていたのは、戸田の目だった。
床を見ている。けれど、星野の足元は見ていない。視線の高さは彼女の膝から下へ落ちていくのに、あと十センチのところで止まって、そこから先へは動かない。二か月前のホームルームで、この人は彼女の白紙を受け取ったときに一瞬だけ手を止めた。あのときからずっと知っていて、知っていることを知られないようにしている。
見ないという動作を、あれだけ正確にやるには意識が要る。無意識に目を伏せた人の視線は、もっと下まで落ちるはずだった。
困っているというのは、そういうことなのだろうと思った。
戸田は星野を叱れない。叱る材料がないからではなく、叱ったあとに何を言えばいいのかが、この人にもわからないからだ。この紙を出させたところで、この子の足元に線が戻るわけではない。それがわかっていて、それでも紙を出させようとしている。学校という場所が用意している手続きは、そこまでしかない。
「……わかった。今日はいい」
最後に戸田はそう言って、紙を二つに折って上着の内側へ入れた。怒っていないことが、かえって重かった。星野は短く頭を下げて、教室のほうへ歩き出す。戸田は職員室の方向へ去っていった。
僕は階段を上がるしかなかった。そこにいつまでも立っていることのほうが、よほど不自然だった。袋を持ち直して、足音を普通に立てて、三段上がる。
星野はドアの手前で立ち止まっていて、こちらを見ていた。
聞いていただろう、と責める顔ではない。聞かれていたことを知っていて、それがどうしたという顔でもない。彼女はただ、僕が廊下に上がりきるまでの数秒を待って、それからドアを開けて中へ入っていった。
僕はその場に残されて、教室に入るタイミングを失った。
書くことがない、ではなく、決めない。
あんな言い方を、僕はこの十七年で一度も使ったことがなかった。決まっていないと言ったことなら何度もある。まだわからないと言ったことも、たぶん数えきれないくらいある。決めないというのは、それとはまるで違う場所から出てくる言葉だ。
何も選んでいないのではなく、選ばないことをすでに選んでしまった人の声が、そこにはあった。
六月の廊下は蒸していて、シャツの背中が張りついていた。窓の外ではグラウンドの整備をしている音がしていて、そのあいだも僕はまだ動けずにいる。
あの紙を書かない理由が、線がないことと繋がっているのかどうか、僕にはわからない。
わからないまま、僕はひとつだけ確信していた。彼女は自分の足元がどうなっているのかを、とっくに知っている。知っていて、それを誰にも説明する気がない。そして、説明を求めない大人だけが、彼女の周りに残っている。
説明を求めないというのは、優しさの形をしていることがある。
戸田は彼女を追い詰めなかったし、他の生徒の前で紙のことを持ち出しもしなかった。あの人なりに、いちばん傷が浅くなるやり方を選んでいる。ただ、そのやり方を全員が選び続けた結果として、彼女の足元に何があるのかを本人以外の誰も口にしない教室ができあがっていた。
誰も悪くない。悪くないまま、何も起きない。
僕もその一人だ。四月から二か月、毎日あの床を見ておいて、見たことを一度も誰にも言っていない。言わない理由を優しさだと呼ぶには、僕の場合は少し都合がよすぎた。
予鈴が鳴った。
僕は袋を持ったまま教室に入って、自分の席に着いた。斜め後ろの床には、いつもの空白がある。
2-4 図書室
六月の半ばに、一日じゅう降り続く雨の日があった。
その日の六時間目に全県模試の結果が返ってきて、僕の判定はBだった。第一志望のところがB、第二志望がA、第三志望は判定そのものが出ない。紙を受け取ったとき、僕は自分がほっとしていることに気がついて、その次に、ほっとした以外の感情がひとつも湧いてこないことに気づいた。
線の示したとおりの結果が、線の示したとおりに出ている。
それだけの紙を鞄に入れて、僕は昇降口まで行って、外の雨を見て足を止めた。傘は持っている。帰ればいい。帰れば母がその紙を見たがるし、見せればきっと喜ぶ。喜ばれるのが嫌なわけではないのに、今日はそこへ向かって歩き出す気になれなかった。
引き返して、僕は三階の図書室へ行った。
放課後の図書室に人はほとんどいない。テスト期間でもないし、雨の日はみんな早く帰る。カウンターに司書の先生がいて、返却された本にラベルを貼り直していた。僕が入っていくと顔だけ上げて、小さくうなずいて、また手元へ戻る。
奥の窓際の席に、星野ユキがいた。
いつもの席だった。あの筒は机の脇に立てかけてあって、机の上には大きな本が一冊ひらかれている。彼女はページに覆いかぶさるようにして、片手で頬杖をついたまま、身じろぎもしていない。
僕はいちばん手前の書架の前で立ち止まって、背表紙を眺めるふりをした。
話しかけるつもりで来たわけではない。来たときには彼女がいると知らなかったし、いると知っていたら来なかったかもしれない。それでも、書架の隙間から奥の席が見えるたびに、僕の視線はそこへ戻っていく。
二か月と少し、僕はこの人の足元だけを見てきた。
顔を見た回数より、床を見た回数のほうが多い。集めたのは名前と、席と、爪の色と、昼休みに消える方角くらいのものだ。それだけを寄せ集めて、僕は勝手にひとつの物語をこしらえかけている。噂の一行を否定できないまま、否定できないことを理由にして、この人を近いうちにいなくなる人として扱いはじめている。
それが失礼なことだというのは、さすがにわかっていた。
書架のあいだで、僕は十分近く迷っていたと思う。話しかければ、二か月ぶんの視線が全部ばれる。ばれたところで怒られるとも思えないけれど、そのあと教室でどんな顔をすればいいのかがわからない。黙って帰れば、明日からも今までと同じ日が続く。続くというのは、彼女の足元をこっそり見ては安心するだけの日が続くということだった。
背表紙を三列ぶん眺め終わったところで、僕は自分がどの本の題名も読んでいなかったことに気づいた。
僕は書架の列を二つ分歩いて、奥の席へ向かった。
足音で気づいたはずなのに、彼女は顔を上げなかった。斜め前の椅子を引いて座っても、まだ本から目を離さない。窓の外では雨がまっすぐ降っていて、グラウンドの土が黒く沈んでいる。
「それ、なに」
口から出たのは、そんな言葉だった。
彼女はようやく顔を上げて、それから自分の手元を見下ろして、本を少しだけこちらへ回した。見開きいっぱいに写真が載っている。教会のようなところの、天井と壁のあいだの湾曲した面に描かれた絵で、人が何人も並んでいて、色は全体に褪せていた。
「壁画」
彼女はそれだけ言って、指の背で写真の端をなぞった。
「壁に直接描くやつ。額に入れないし、動かせない。だからその建物が壊れたら、絵も一緒になくなる」
なくなるのか、と僕が訊くと、彼女はうなずいた。
「写真は残る。でも写真は絵じゃない。見に行けなくなった時点で、その絵は終わり」
その言い方には、惜しんでいる響きがまったくなかった。決まりごとを読み上げるような調子で、彼女は終わりという言葉を使った。
「動かせないのが、いいの」
僕が黙っていると、彼女は続けた。訊かれてもいないのに喋るのは、この人にしては珍しいことなのだと、あとになって思った。
「美術館の絵って、買われたり貸されたりして、あちこち行くでしょ。壁画はどこにも行けない。描いた場所から一歩も動かないまま、そこにある建物の都合で残ったり消えたりする。自分ではどうにもできないの」
そういうのが好きなんだ、と僕は訊いた。彼女は写真に目を落としたまま、少し考えるような間を置いた。
「べつに。好きとは言ってない」
僕は写真を見ながら、何を言えばいいのかを探していた。絵の話はよくわからないし、知ったかぶりをすればすぐにばれる。かといって話題を変えれば、この席に座った理由がなくなってしまう。
「星野さんって、絵を描くの」
「描く」
短い答えのあとに、彼女は少しだけ間を置いて、付け足した。
「でも、学校では描かない」
そのとき僕は、彼女の手が本の縁から離れて、机の下へ下りたのに気づいた。隠したのだろう。爪のあいだに今日は青が入っていた。青といっても線の色ではなくて、もっと濁った、絵の具の青だった。
机の脇の筒に目をやって、僕はそれについて訊きかけた。訊いてどうするのかを考えるより先に、彼女が筒を自分の椅子の反対側へ動かしたので、言葉はそこで止まった。拒まれたというほど強い動きではない。片づけただけにも見える。ただ、同じ方向へもう一度手を伸ばす気にはなれなかった。
雨の音が一段強くなって、窓の下の桟が細かく鳴った。
司書の先生がカウンターの奥へ入っていって、図書室に残っているのが僕たちだけになる。その静けさに背中を押されたのだろう。押されなければ、僕は最後まで訊けなかった。
「あのさ」
声が思ったより硬く出た。彼女は本を閉じずに、目だけをこちらへ向けている。
「どうして君には……線が見えないの」
言ってしまってから、心臓が一拍遅れて鳴った。
彼女の顔から表情が消えたのは、ほんの短いあいだだった。驚いてはいた。ただ、その驚き方が僕の想像していたものとは違っていて、隠していたことがばれたときの顔ではない。教室の隅に置きっぱなしになっていた荷物を、誰かが急に指さしたときの顔に近かった。
「見えてたんだ」
彼女はそう言った。責めてもいないし、困ってもいない。
「四月から、ずっと」
僕が正直に答えると、彼女は少しだけ目を細めた。笑ったのだと気づくのに時間がかかったのは、口の形がほとんど動かなかったからだ。
「二か月も黙ってたの。偉いね」
皮肉に聞こえなかった。本当に感心しているような言い方で、そのぶん僕は何も言い返せなくなった。誰にも言わなかったのは偉かったからではない。言う相手がいなかったのと、言えば自分が面倒なことになると思ったのと、その両方でしかない。
彼女は窓のほうへ顔を向けた。
雨の降る校庭を見たまま、しばらく黙っている。訊いてはいけないことを訊いたのだと、僕はそこでようやく理解した。謝ろうとして口をひらきかけたとき、彼女が先に喋った。
「私、近いうちに消えるから」
雨の音だけが残った。
消える、という言葉が耳に入ってから意味に変わるまでに、数秒かかった。変わったあとも、それが何を指しているのかを僕は掴めずにいる。頭の中では、あの掲示板の一行が勝手に浮かび上がっていた。引くだけの残りがないからだ。この人も四月に保健センターへ行って、あの椅子に座って、三十秒を過ごしたはずだった。座って、それでも何も出なかったということになる。
「……消えるって」
訊き返した声が掠れた。彼女はこちらを見ていない。
「そのままの意味」
彼女はそこで一度言葉を切って、閉じかけた本の上に手を置いた。
「怖がらなくていいよ。浅野くんには関係ない話だから」
名前を呼ばれたのは、それが初めてだった。同じクラスなのだから知っていて当然なのに、僕は自分の名字がその声で発音されたことに、妙に狼狽していた。関係ない、という部分について何か言い返そうとして、言い返すだけの資格が自分にないことに気づいて、口をつぐむ。
彼女はようやく本を閉じた。表紙の端を指で揃えて、机の脇の筒を取って、椅子を引く。
僕は座ったまま動けなかった。
違う、と言ってほしかったのだろう。冗談だとか、そういう意味じゃないとか、何でもいいから否定の言葉が返ってくることを期待していた。彼女は否定しなかった。訂正もしなかったし、説明も足さなかった。
立ち上がった彼女の足元を、僕はもう一度見た。
空白だった。椅子の脚の影があって、床のリノリウムの継ぎ目があって、青はどこにもない。この人が今、僕の目の前で立ったり座ったりしているのに、その動きはどこにも記録されていない。
「先に帰るね」
彼女は僕の机の横を通って、書架のあいだへ消えた。
貸し出しのカウンターで何か短く言葉を交わす声がして、扉が閉まる音がして、そのあとは雨の音しか残らなかった。僕は自分の鞄に手をかけたまま、しばらくそこに座っていた。
あの人はさっき、浅野くんには関係ない話だと言った。
関係はない。話したのは今日が初めてで、それまでの二か月は一方的に見ていただけで、掃除当番のときに交わした言葉を足しても両手で数えられる。関係がないというのは事実の説明でしかなくて、突き放されたと受け取るほうが図々しい。
それでも、あの一言を聞いた瞬間に胸の奥が詰まったのはなぜなのか、僕は自分でうまく説明できなかった。
鞄の中には、Bと印刷された紙が入っている。
安全な三本のうちのどれを選んでも、僕は転ばずに大人になれるらしい。その紙を今日ここまで持ってきて、僕はそれを見せたくなくて図書室に逃げ込んで、逃げ込んだ先で、近いうちに消えると言う人間と同じ机に座っていた。
外はまだ降っていた。
僕はようやく立ち上がって、窓の桟に手をついて下を見た。昇降口から傘が一本だけ出ていくところで、その傘は校門のほうへまっすぐ進んでいく。雨の中を歩く彼女の足元には、当然のように何もなかった。
2-5 逸脱の実験
その週末から、僕はひとりで実験を始めた。
やり方は単純だった。線が右を示していたら左へ行く。まっすぐ進めと言われている場所で曲がる。信号が変わりかけているときには渡らずに待つ。そういう小さな逸脱を、できるだけ回数を重ねる。
目的がはっきりしていたわけではない。あの図書室から帰ったあと、僕の頭にあったのは、線が消えるというのがどういうことなのかを自分の体で知っておきたいという、それだけの衝動だった。彼女に何が起きているのかを訊く勇気はない。訊けないなら、自分で近づいてみるしかない。
土曜の午前、僕は駅前の交差点で最初の一回をやった。
三本の線はどれも右の歩道へ折れていく。僕は左を向いて、一歩踏み出した。
踏み出した瞬間に、視界が斜めに流れた。
めまいという言葉が正確なのかどうかはわからない。足が地面についているのに、地面のほうが半歩ぶんずれたような感覚があって、僕は思わず街灯の柱に手をついた。同時に胸のあたりが強く締まって、心臓が急に速くなる。転びそうになったわけでもないし、誰かとぶつかったわけでもないのに、体のほうが先に何かを間違えたと判断している。
顔を上げると、線は右へ伸びたままだった。
当たり前だ。僕が左へ行っただけで、線が僕を追いかけてくるわけではない。三本はもとの位置から右の歩道へ向かって、さっきと同じ細さで光っている。
通り過ぎる人の線が、僕の立っている場所を横切っていく。誰も僕を見ていないし、僕がたった今、自分の未来から一歩外れたことにも気づいていない。柱から手を離して歩き出すと、体のほうはすぐに落ち着いた。落ち着いたことが、かえって不気味だった。
その日、僕は同じことを七回やった。
回数を重ねても体の反応は減らなかった。最初のめまいほど激しくはならない代わりに、不吉さのようなものだけが薄く残り続ける。誰かに見られている気がして振り返る、あの感じに近い。曲がってはいけない角を曲がったあと、次の角までのあいだずっと、後頭部のあたりが落ち着かなかった。
日曜も続けた。
週が明けた月曜には、校内でも同じことをやった。
昇降口から教室へ向かうとき、線は正面の階段をまっすぐ示している。僕はそれを無視して、遠回りになる西側の階段のほうへ折れた。踏み出した瞬間に廊下の床が半歩ぶんずれて、僕は壁に手をついてよろけた。前を歩いていた一年生が振り返って、変な顔をして、そのまま行ってしまう。
似たようなことを、その日のうちに何度もやった。渡り廊下で線と逆の側へ寄る。購買へ行くのにわざと遠いほうの扉を使う。そのたびに視界が斜めに流れて、僕はどこかに手をついていた。
その朝は、通学路でもやっていた。いつも使っている坂道を避けて、遠回りになる海沿いの道を歩く。線は坂のほうを示していて、僕はそれを無視した。潮の匂いが濃くて、港の倉庫の前を通るときに、フェリー乗り場の白い船体がまた見えた。今日は人が並んでいて、その足元から何本もの青が桟橋のほうへ伸びている。
学校に着くまでのあいだ、僕は何度も自分の足元を見下ろした。
三本ある。
昼休みにもう一度見た。三本ある。放課後にも確かめた。やはり三本で、太さも明るさも、四月から何ひとつ変わっていない。
その夜、僕は閲覧サービスにログインした。四月に一度見たとき、あとで母に何か訊かれたら困ると思って画面を撮っておいたものが、まだ残っている。
軌道一、軌道二、軌道三。並んでいる項目は前に見たときとまったく同じで、進学先の候補も、想定される居住地域も、年収の推定値も、数字がひとつも動いていない。ページの下のほうには信頼度を示す欄があった。四月には目にも入っていなかった数字で、そこには三つとも同じ値が並んでいる。撮っておいた画面と見比べても、小数点以下まで一致していた。
三日間、僕は自分なりに必死で逸れたつもりでいた。
めまいがした。心臓が鳴った。何度も後ろを振り返った。あれだけ体が嫌がることをやって、それでも数字は一桁も動いていない。
信頼度という言葉の意味を、僕はそのとき初めてまともに考えた。線が太いとか細いとかいうのは、要するにこの数字のことなのだろう。陸の一本が太いのは、この数字がよほど高いからだ。
そして、この数字を下げるには、たぶん三日ぶんの遠回りでは足りない。
僕はしばらく画面を見ていた。
最初に湧いてきたのは、安心とは違う感情だった。何をやっても崩れないのだから、僕の三本は相当に頑丈だということになる。頑丈だと言われて嬉しいはずなのに、実際に胸に残ったのは、相手にされていないという感覚のほうだった。
火曜の朝、教室で、彼女が僕の机の横を通った。
図書室の日から、僕たちは一度も喋っていない。挨拶もしていないし、目も合わせていない。彼女は自分の席へ行く途中で速度を落として、こちらを見もせずに言った。
「それ、たぶん意味ないよ」
僕は顔を上げた。彼女はもう半歩進んでいる。
「あいつら、人の気持ちなんか見てないもん」
それだけ言って、彼女は自分の席に着いた。筒を机と壁の隙間に立てて、鞄を下ろして、いつもどおりの顔で黒板のほうを向いている。
何を見られていたのかを理解するのに、僕は少し時間がかかった。
週末の駅前を見られたわけがない。見られていたのは校内のほうだ。廊下でよろけて壁に手をついた僕を、彼女はどこかで見ていたのだろう。何をやっているのかまで一目で見抜かれていて、その上で意味がないと言われている。
一時間目のあいだ、僕はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
人の気持ちなんか見ていない。
言われてみれば、閲覧サービスのどこにも、僕がどう思っているかを書く欄はなかった。並んでいたのは通知表と、模試の偏差値と、部活の在籍期間と、家族構成と、居住地域の統計だった。全部、僕がやったことの記録だ。何を考えていたかは一行も入っていない。
僕が左へ曲がったところで、記録は何も変わらない。同じ学校に通い、同じ家に帰り、同じ模試を受けている。歩いた道が百メートル違っても、システムから見れば、僕は先週と同じ場所に立ったままだった。
線は僕を見ていない。
そう気づいたとき、四月に感じた安堵が別の形に見えはじめた。あのとき僕は、誰かが自分のことをちゃんと見てくれた気がしたのだろう。今までに置いてきたものを全部拾い集めて、きれいに並べ直して、これがあなたですと差し出された。あれは僕を見た結果ではなくて、僕のような人間を何万人ぶんも重ねた結果だった。
四月に敷設を受けた日、僕は線に足を合わせて歩きながら、これで自分は決めなくていいのだと思った。決めなくていいというのは、裏を返せば、僕が何を決めようと向こうは気にしないということでもある。
だとしたら、線が細くなったり消えたりするのは、どういうときなのか。
気持ちで動かないのなら、動かせるのは記録のほうだ。学校を辞めるとか、家を出るとか、そういう種類のことでなければ、たぶんあの数字は一桁も動かない。
そこまで考えて、僕は椅子の上で少し体を起こした。
斜め後ろの空白のことを、今までと違う角度から見ている自分に気づいたからだ。彼女の足元に線がないのは、記録の上で何かが起きたということになる。学校には毎日来ているし、教室でも普通に座っている。それなら、記録のほうで何が起きたのか。
記録の上で何かが起きたのだとしたら、それは病気とは限らない。家のことかもしれないし、手続きの問題かもしれない。噂の一行が正しいという前提を、僕はこの二か月、否定できないまま背負ってきた。背負ったまま、あの人の前に座って、消えるという言葉を真っ正面から受け取ってしまった。
黒板の文字を写す手を止めて、僕は振り返らないようにした。
訊けばいい。二か月黙っていたのは偉いと、あの人は言った。偉いのではなくて、僕がただ怖かっただけだ。



