あの日、僕らの未来(レール)は目視できた。

1-1 敷設
 線は、思っていたよりずっと綺麗だった。
 そう思えるようになったのは全部が終わってからの話で、四月四日のあの朝、保健センターの廊下で順番を待っていた僕は、手のひらが汗で湿っていくのをどうすることもできずにいた。
 窓のない廊下に、同じ制服が十人ほど並んで座っている。西ノ浦高校の二年は二百人近くいるから、一週間かけて少しずつここへ呼ばれていく。前の席の女子は受付票を膝の上で折っては開き、また折っていた。その隣の男子はさっきから片方の膝を揺すり続けている。誰も喋らない。喋る話題がないわけではなくて、喋ってしまうと何かが台無しになると全員が思っている、そういう静けさだった。
 僕の誕生日は二日前だ。四月二日生まれというのは学年でいちばん早い部類で、小学校のころはそれが少しだけ嫌だったけれど、今日に関しては何の意味も持たない。この学年に属している以上、今年度中に十七になる人間は全員ここへ来ることになっている。誕生日が四月でも三月でも、受付に出す紙の色は変わらない。受診日は公欠の扱いになるから、今日の僕は一日まるごと学校を休んでいた。
 その紙を差し出したとき、保護者の署名欄に並んだ母の字がやけに目に入った。一画ずつ丁寧に書かれていて、几帳面というより、間違えたら取り返しがつかないと思っている人の字だった。昨日の夜、母はこの署名をするのにボールペンを二度持ち直した。今朝、玄関で「いってらっしゃい」と言った声も、いつもより半音だけ高かったように思う。
 廊下の突き当たりの扉が開いて、僕より少し前に呼ばれた男子が出てきた。
 廊下にいた全員が、示し合わせたわけでもないのに、その男子の足元へ視線を落とす。彼のスニーカーの周りにはまだ何もなかった。それでも誰も声をかけないし、どうだったのかと訊きもしない。男子は自分が見られていることに気づいていて、気づいていないふりをしながら、受付の前を通り過ぎて外へ出ていった。自動ドアが閉まる音がして、廊下の空気が元の重さに戻る。
 あの背中を見て、僕はようやく理解した。ここにいる全員が怖いのは、痛みでも機械でもない。出てきたときに何が足元にあるのかを、自分以外の全員に見られるということが怖いのだ。
 向かいの壁には、市が作ったらしい掲示物が貼ってあった。青い線の上を家族連れが歩いているイラストの下に、太い明朝体で「適性軌道予測トラック 予測精度99.1%」と刷られている。その隣にもう一枚、こちらは文字だけの紙があって、敷設を受けない場合に生じる不利益が箇条書きで並んでいた。推薦入試の出願要件、就職時の適性証明、保険料の区分、賃貸契約の保証。読んでいるうちに、これは説明というより念押しなのだとわかってくる。受けないという選択肢が一応は用意されていて、用意されているだけで誰も選ばない。そういう種類の紙だった。
「浅野創さん、三番へどうぞ」
 名前を呼ばれて立ち上がると、膝の裏に椅子の冷たさが残っているのがわかった。
 三番の部屋は白かった。診察台ではなく、歯医者にあるような背もたれの深い椅子が一脚だけ置いてある。壁際の機械は想像していたよりずっと小さくて、パソコンとプリンタの中間くらいの大きさしかない。あれが人間の一生を計算するのだと言われても、正直なところ実感が湧かなかった。技師は三十代くらいの男の人で、僕の受付票をちらりと見ただけで椅子のほうを指した。
「そこに座って、背中を全部預けてください。動かないように。三十秒くらいで終わりますから」
 言われたとおりに座ると、天井の照明が真上に来た。四角い蛍光灯の縁に、小さな虫の影がひとつ入っている。掃除の行き届いた部屋にも虫は入るのだと、僕はどうでもいいことを考えていた。
 後頭部の、髪の生え際より少し上に、冷たいものが当たる。金属を想像していたのに温度らしい温度がなくて、当たっているという感触だけが皮膚の上に残った。
 目を閉じてくださいとは言われていない。それでも僕は目を閉じた。何かが流れ込んでくるのを覚悟していたのだろう。光とか、音とか、頭の中に直接誰かが喋りかけてくるようなものを。
 実際には何も起こらなかった。空調の低い唸りと、技師がキーボードを叩く音が二回か三回して、それで三十秒が過ぎていく。
「はい、終わりです」
 あまりにあっさりしていたので、僕はしばらく椅子から立てなかった。ゆっくり体を起こして、自分の足元を見る。履き替えたばかりのスニーカーの爪先が、リノリウムの床にただ載っている。青くない。何も光っていない。
「……見えないんですけど」
 自分の声が情けないほど掠れていた。技師は画面から目を離さずに、一日に何十回も同じことを言っている調子で返してくる。
「表示が出るまでには個人差があります。早い人で数分、遅い人だと半日くらいかかる。今日中に出なかったら、この番号に電話してください」
 差し出された紙を受け取りながら、僕は自分がひどく間の抜けた顔をしているだろうと思った。誰もが十七になれば当たり前に受けるもので、当たり前に出るもので、失敗した人の話なんて聞いたことがない。それなのに、出ないかもしれないという可能性を提示された瞬間、喉の奥が詰まった。
 自動ドアが開いて、四月の光が一度に入ってきた。駐車場のアスファルトが白く見えるほど明るくて、目が慣れるまでに何秒かかかる。通勤も通学も済んでしまったあとの平日の午前で、道には人がほとんどいなかった。
 三歩、四歩と歩く。五歩目を踏み出したところで、視界の下の縁が青くなった。
 立ち止まって、僕は自分の足元を見下ろした。
 スニーカーの爪先から、細い光の線が伸びている。一本ではない。三本ある。三本はしばらく寄り添うように並んで進み、駐輪場の手前でゆるく分かれて、そのうちの一本は歩道を右へ折れ、残りの二本はまっすぐ進んで、コンビニの角のあたりで見えなくなっていた。
 光っているのに、地面をまったく照らしていない。アスファルトのざらつきも、側溝の蓋の網目も、線が通っている部分だけ色が変わるということがない。そこにあるのに、そこに触れていない光がある。
 綺麗だ、と思った。
 そう思ったことに自分で少し驚いている。もっと厳粛なものを想像していたし、もしかしたら落胆するかもしれないとも思っていた。三本という数字が多いのか少ないのかも、この時点の僕は知らない。それでも、足元から伸びていくその青を見ていると、体の奥のほうがゆっくりほどけていくような心地がした。
 僕はもう、どっちに行けばいいかを自分で決めなくていい。
 線に足を合わせて歩いてみる。踏むというより、なぞるのに近い。試しに右へ折れる一本を選んで進むと、歩幅が勝手に整った。段差の手前で自然に足が浮き、電柱の陰から出てきた自転車と、ぶつかりそうになる距離にすらならなかった。
 途中で一度だけ振り返った。保健センターの自動ドアから、同じ制服の女子が出てくるところだった。彼女は数歩進んで、僕と同じように立ち止まり、同じように足元を見下ろす。その爪先からも青が生まれて、道の先へ流れていった。本数も長さも僕のものとは違うのに、色だけはまったく同じだ。
 彼女がこちらに気づく前に、僕は前を向いて歩き出した。
 歩きながら、三本のうちのどれかが太くなったり細くなったりしないかと、何度も足元を確かめた。三本はどれも同じくらいの細さで、同じくらいの明るさのまま並んでいる。太い一本を持っている人がいるという話は聞いたことがあるし、たぶんそういう人は迷わなくて済むのだろう。けれど僕は、自分の三本がそこまで頼りないとは思わなかった。三つとも行き先が用意されているということは、どれを選んでも大きくは外れないということでもある。
 来週には進路希望票が配られる。第一希望から第三希望まで、線の示すとおりに書けば終わる。去年まではその紙が少し怖かったのに、今は怖くない。
 誰かに話したかった。三本だったよ、と言って、へえと返してもらうだけでよかった。けれど鞄からスマートフォンを出したところで、その報告を送る相手が一人も思い浮かばない。陸はまだ受けていないはずだから、先に自分のことを言うのは気が引ける。母には帰ればすぐに知られる。知られるどころか、あの人は今日の夕方までに何度も画面を開くだろう。
 結局、僕はスマートフォンをポケットに戻して歩いた。誰にも言えないまま、自分の足元だけが静かに光り続けている。悪い気分ではなかった。
 その日、僕は一度も道に迷わずに家まで帰った。もっとも、生まれてから十七年通っている道で迷うほうが難しい。それでも僕は、迷わなかったという事実をずっと噛みしめていた。
 玄関を開けると、母が三和土まで出てきた。
 おかえり、と言いながらサンダルを揃えるために屈んだその足元から、青が二本伸びている。台所のほうへ向かい、冷蔵庫の前を回り込んで、廊下の先で薄くなって消えていく。母がこの家の中をどう動く人なのかを僕は毎日見てきたはずなのに、それが線の形で床に置かれているのを見るのは、まるで別の体験だった。
 どうだったの、と母が訊いた。三本、と僕は答えた。母は一瞬だけ動きを止めて、それからサンダルの向きを直し終えて、よかった、とだけ言った。
 その夜、居間に入るたびに僕は父の足元を見ていた。父にも二本あって、片方は玄関のほうへ、もう片方はテレビの前で途切れている。この家の床には、今日までもずっと三人分の青が置かれていたことになる。見えなかったのは僕のほうで、なかったわけではない。
 それだけのことなのに、家の中がひとまわり狭くなったように感じて、僕は早めに自分の部屋へ引き上げた。

1-2 線のある世界
 翌朝、食卓に着いた僕の足元を母が見た。
 トーストを皿に置いて椅子を引く、その動作のついでのような自然さだったけれど、視線が床の一点で止まったのは間違いない。母には母の線が見えていて、そこに僕の線が増えたことも、もう知っている。何か言いかけて、母は結局「早く食べなさい」とだけ言った。父は新聞から顔を上げなかった。
 家を出ると、通学路は前の日までとは違う場所になっていた。
 玄関の三和土を抜けた瞬間から青が見える。向かいの家の奥さんが門扉を閉めていて、その足元から二本の線が伸び、車庫のほうへ流れていく。角を曲がってきたスーツの男の人には一本だけ通っていて、遠目には太さまで見分けられない。それでも、光っているということだけは確かにわかった。
 誰も自分の足元を見ていない。
 それがいちばん奇妙だった。昨日まで何もなかった地面に、今は無数の青が流れているのに、通勤の人も学生も、誰ひとりとしてそれを珍しがらない。みんな最初から見えていて、見えることに飽きている。飽きていないのは僕だけだった。
 バス停の前を通りかかると、待っている人たちの線が歩道の上で交ざっていた。交ざるという言い方は正しくないかもしれない。十人ぶんの青が同じ場所を通過しているのに、どれひとつとして絡まらず、混ざり合って別の色になることもなく、互いをすり抜けていく。近くで見ると、一本の線にも濃淡があった。根元に近いところははっきりしていて、先へ行くほど薄まって、最後は空気に溶けるように消える。
 ベンチに座っている若い母親の足元には二本あった。隣では小さな男の子が靴を脱いだり履いたりしている。
 男の子の足元には、何もなかった。
 ぞくりとしたのは一瞬だけで、すぐに理由がわかった。敷設は十七からだ。あの子には線がなくて当たり前で、僕自身も一昨日までは同じように何もなかった。それなのに、空白になっている小さな靴の周りを見ていると、指先が冷たくなるような気持ちの悪さが残った。僕はわざと視線を外して、そのまま歩き続けた。
 商店街に入ると、線の数が一気に増えた。
 シャッターの下りた店の前を、配達員が台車を押していく。彼の足元からは四本出ていて、そのうち三本は交差点の手前で束になり、残りの一本だけが路地のほうへ逸れていた。それを見て、僕は自分の三本のことを考えた。分かれているというのは迷っているということなのか、それとも選べるということなのか。昨日は考えもしなかったのに、他人のものを見た途端に気になりはじめる。
 他人の未来が、こんなにも簡単に見えてしまうのか。
 顔も名前も知らない配達員が、これからどこへ向かって、どんなふうに歳を取っていくのか、その輪郭だけを僕は勝手に受け取っている。向こうも、僕のものを見ようと思えば見られる。学校の保健の授業でそういう仕組みだと習ったときは、便利な決まりだとしか思わなかった。
 八百屋の前で足を止めている老人がいた。その足元には一本しかない。細くて、根元からすでに薄く、伸びた先が僕の背丈ほどの距離で空気に紛れて見えなくなる。長さに意味があるのかどうかを僕は知らないし、知りたいとも思わない。それでも、見てはいけないものを覗いてしまった気まずさが胸に残って、僕は歩く速度を上げた。
 ガラスの入った店先を通り過ぎるとき、そこに映った自分の足元にも青が三本走っているのが見えた。鏡の中でも同じように光るのだと、そのときに初めて知った。
 商店街を抜けると道が上りに変わって、坂の途中で一度だけ海が見えた。
 毎日通っているのに、立ち止まって眺めたことはほとんどない。今朝は違った。防波堤の内側に漁船が何隻か並んでいて、その向こうのフェリー乗り場に、白い船体が一隻だけ着いている。離島へ行く便で、僕は一度も乗ったことがない。
 桟橋には人影がなかった。切符売り場のシャッターもまだ下りている。この時間の海沿いには誰も立っていないから、あのあたりの地面にだけ青が一本もなくて、港の一帯がまるごと切り抜かれたように見えた。人がいなければ線もない。そんな当たり前のことに、僕はしばらく目を奪われていた。
 交差点に出た。
 信号は青で、横断歩道の白線の上を、何十本もの青が渡っている。僕の三本もその中に混ざって、向こう側の歩道まで届いていた。歩き出そうとした、そのときだった。
 足元の線が止まった。
 消えたのではない。伸びるのをやめて、爪先の少し先で切れたように途切れている。理由がわからないまま、僕は反射的に足を引いた。
 一秒も経たないうちに、右側から自転車が走り抜けていった。乗っていたのは僕と同じくらいの年の男子で、片手にスマートフォンを持ったまま、信号なんて最初から見ていない速度で歩道を横切っていく。風がシャツの裾を叩いた。
 自転車が離れると、線は何事もなかったように先へ伸び直した。
 走り去る背中の足元にも、青がちゃんと二本ついていた。それが少し引っかかった。歩道を猛スピードで横切って、信号も見ずに、片手でスマートフォンを持っている人間の線が、僕のものと同じ色で同じように光っている。線は正しい道を示すものだと僕はなんとなく思っていたのに、あの二本は彼を止めていない。あるいは彼のほうが線を無視して走っただけなのか、そこまでは見分けがつかなかった。
 僕はしばらくその場から動けなかった。心臓が遅れて鳴りはじめて、耳の後ろのあたりが熱くなっている。線が止まったから僕は足を止めて、だから当たらなかった。そういうことになる。
 ただ、線が止まったことに気づく前から、僕は自転車の音を聞いていた気もするのだ。タイヤが回る音がして、カゴの金具が揺れる音がした。あれを聞いて勝手に足が止まっただけなら、線は何の役にも立っていない。
 確かめる方法があればいいと思った。あの瞬間に線が止まっていなかったら僕はどうしていたのか、それを試せるのは同じ一秒をもう一度やり直せる人間だけで、そんな人間はどこにもいない。線を信じた結果として無事だったのか、無事だったから線を信じたくなっただけなのか、区別する手立てが僕には用意されていなかった。
 横断歩道を渡りきってから、一度だけ後ろを振り返った。今の出来事に気づいた人は誰もいない。信号待ちをしていたサラリーマンも、犬を連れた男の人も、それぞれの青をなぞりながら普通に歩いている。この道では毎日こういうことが起きていて、起きていることに誰も気づかないまま、事故の件数だけが減っていくのだろう。
 学校が近づくと、制服の数が増えた。
 敷設が始まってから、二年の教室では本数の話しか出ていない。四本だった、二本だった、うちの兄貴は五本あったらしい、といった具合に、廊下のどこを歩いても数字が飛び交っている。多いほうがいいのか少ないほうがいいのかという結論は、誰も出していない。出ないまま、みんな自分の数字を人に言いたがっていた。僕はまだ誰にも言っていないし、訊かれてもいない。訊かれたら三本だと答えるつもりで、その返事を何度か頭の中で練習しているうちに校門が見えてきた。
 ひとりひとりの足元から生えた線が、校門に向かって集まってくる。歩道の幅いっぱいに広がっていた青が、門の手前で細く束ねられて、敷地の中へ流れ込んでいく。川が河口へ出て広がっていくのを逆から見ているような眺めで、正直なところ、僕はその光景が嫌いではなかった。
 自分の三本もその束の中にある。どこにも突き出していないし、誰のものとも喧嘩をしていない。並んでいる青のどれが自分のものなのか、二歩も歩けば見分けがつかなくなるほどよく似ていた。
 似ているというのは、たぶん安全だということなのだろう。昨日までの僕は、自分がどこへ向かっているのかを考えるたびに胃のあたりが重くなっていた。将来のことを訊かれるのが嫌で、答えを持っていないことを見抜かれるのが嫌で、そういう質問をされない場所をいつも探していた。その重さが、今朝はどこにもない。
 誰かが決めてくれたわけではない、と保健の教科書には書いてあった。線は命令ではなく助言で、従うかどうかは本人が決める。それでも、助言があるというだけで足の運びはこんなに軽くなる。
 僕はそれを見届けてから、校門をくぐった。

1-3 三本と一本
 四月八日の朝、教室のドアを開けた瞬間に、床が青くなっているのが見えた。
 昨日までは半分くらいだった。今日は違う。窓際から廊下側まで、机の脚の間を縫うようにして三十人分以上の線が伸びていて、それが教室の前方の黒板のあたりへ向かってゆるく集まっている。誰かが移動するたびに、その人の青も一緒に動く。人が座り直しただけで床の模様が変わる部屋というのは、慣れるまでにもう少し時間がかかりそうだった。
 黒板の横の掲示板には、受診がまだの人は今日じゅうにと書かれた紙が貼ってある。担任の字ではなく、事務室で刷られたものが各クラスに配られただけの紙で、その下に予約の空き状況が時間ごとに並んでいた。今日の午後にだけ丸がいくつも残っている。残っているということは、期限の当日になってもまだ行っていない人間がこの学年に何人かいるのだろう。
 自分の席に鞄を下ろすと、後ろから肩を叩かれた。
「浅野、先週だっただろ。何本だった」
 振り向くまでもなく陸の声で、振り向いたら案の定、陸が椅子を後ろ向きに跨いで座っている。バレー部の朝練から直行してきたのか、髪がまだ湿っていた。
「三本」
「おっ、多いほうじゃん」
 陸は自分のことのように嬉しそうな顔をして、それから唐突に立ち上がって僕の机の横に足を揃えた。見ろ、という意味なのだと気づくのに一拍かかる。
 僕は屈んで、陸のスニーカーの周りを見た。
 一本だった。
 ただ、僕の三本とは太さがまるで違う。僕のものが糸だとしたら、陸のは細めのロープに近い。根元から先まで濃さが落ちず、廊下のほうへ向かってまっすぐ伸びていって、教室の後ろのドアを抜けたところまで色が見えている。他人の線をこれほど近くで見たのは初めてだった。
「一本かよって、昨日親父に笑われた」
 陸は僕の反応を見て、自分から先に言った。悔しがっている様子はまるでない。
「でもさ、一本しかないってことは迷わなくていいってことだろ。俺、推薦の話ほぼ決まってるし、線もそっちしか出してこないわけ。だったらもう、そっち走るだけじゃん」
 それを聞いて、僕はうまい返事が思いつかなかった。羨ましいという感情が湧いてこないことに、自分でも少し戸惑っていた。三本あるということは、太いものが一本もないということでもある。それでも僕は、陸の一本と自分の三本を取り替えたいとは思わなかった。
 あの太さは、外れたときに戻る場所がないということでもある気がした。
 教室の前のほうでは、女子の一団が同じ話をしていた。五本あったと言った子が、多すぎて逆に不安だと笑われている。その隣にいた子が自分は二本だと言って、二本のほうがかっこいいよと誰かに慰められていた。数の多い少ないで優劣が決まるという話は聞いたことがないし、教科書にもそんなことは書いていない。それでも、こうして比べ合う場が一度できてしまえば、比べるための順番は勝手に生まれてくる。
 窓際の席にいる男子だけは、誰にも本数を訊かれていなかった。訊かれないほうにも理由があるのだろうし、訊かないほうにも理由があるのだろう。そういう形の気遣いが、教室のあちこちで音もなく働いている。
「浅野のはどこ行ってんの」
 陸に訊かれて、僕は自分の足元を指でなぞって説明した。三本とも学校の外へ出るまでは一緒で、駅前で分かれて、そこから先は見えない。どこへ向かっているのかは線の色だけではわからないから、詳しいことは市の予測閲覧サービスにログインしないと出てこない。
「見たのか、それ」
「まだ」
「見とけよ。うちの姉ちゃんなんか、出た日に全部印刷して壁に貼ってたぞ」
 そう言って陸は笑い、朝練の連中に呼ばれて自分の席へ戻っていった。
 陸とは一年のときから同じクラスで、僕が話しかけられる数少ない相手でもある。背が高くて声が大きくて、誰に対しても同じ距離で喋るから、教室の中で誰と誰が仲がいいという話の外側にいつもいた。去年の夏に県大会でベスト八まで行ってから推薦の話が来ていて、本人はそれを隠しもしない。隠す必要がないと思っているのが、陸のいいところだった。
 その陸が一本しか持っていないことを、僕はしばらく考えていた。太いということは、システムが彼の行き先をほとんど疑っていないということになる。疑われないというのは、たぶん幸福なことだ。同時に、その一本を踏み外したときに彼の足元がどうなるのかを想像する材料が、僕にはまだ何もなかった。
 教室の青は、一時間目が始まるまでのあいだ、ずっとそこにあった。誰も自分の線を隠せないし、隠す気もない。四本ある奴は四本あると言い、二本の奴は二本だと言って笑われ、笑われた本人も笑っている。数の話をしているようでいて、たぶん誰も数の意味を知らない。知らないまま数字だけを交換して、それで安心している。
 僕もその中にいて、居心地の悪さをまるで感じていなかった。
 家に帰ってから、僕は机の前に座って、一番下の引き出しに手をかけた。
 中には文房具の予備と、使わなくなった電子辞書と、それから葉書が一枚入っている。引っ越しを知らせる印刷された文面で、日付は三年前、差出人の名字は僕と同じものだった。宛名は父の名前になっている。捨てるでもなく飾るでもなく、僕がこの引き出しに移したのは、居間のゴミ箱にそれが入っているのを見つけた日の夜だった。
 破られても丸められてもおらず、その日の夕刊と一緒に、他のいらない紙と同じ扱いで捨てられていた。それを拾って自分の部屋へ持ってきたことを、僕は誰にも言っていない。
 葉書の下に印刷された住所を、僕は一度も検索したことがない。県の名前だけは覚えてしまったけれど、それ以上を知ろうとすると、この家の中の何かが動いてしまう気がしてやめた。動かさないほうがいい。母の署名の字を思い出せば、それくらいのことはわかる。
 引き出しは三センチほど開いたところで止まっている。僕は結局それ以上引かずに、指を離して閉めた。
 今日は三本あった。三本もあった。それだけで充分な一日だったし、これ以上何かを思い出す必要はどこにもない。

1-4 進路希望票
 進路希望票が配られたのは四月十二日の六時間目で、その日はよく晴れていた。
 戸田は数学の教師で、二年三組の担任でもある。四十を過ぎたあたりの、怒鳴らない代わりに何を考えているのかもわかりにくい人で、教壇の上でプリントの束を二つに割りながら、いつもの平坦な調子で言った。
「後ろまで回して。今日中に書けとは言わないけど、来週の月曜には集めます。第一から第三まで、全部埋めること」
 前の席から回ってきた紙を受け取ると、思っていたより薄かった。A4が一枚きりで、上半分に氏名と保護者名の欄があり、下半分が三段に区切られている。第一希望、第二希望、第三希望。それぞれに進学か就職かを選ぶ丸と、学校名や職種を書く空欄が並んでいる。
 教室の空気が変わったのが、音でわかった。
 シャープペンシルの音が一斉に始まって、そのあいだに小さな話し声が混ざる。誰も悩んでいない。悩みようがない。ほとんどの人間は昨日までに閲覧サービスへログインして、自分の線がどこへ向かっているのかを文字で読んでいるからで、書くというより写すに近い作業だった。
 僕も前の晩に見ていた。
 閲覧サービスの画面は驚くほど素っ気なくて、役所の手続きのページとほとんど同じ作りをしている。生年月日と敷設番号を入れると、自分の三本に番号が振られて表示された。軌道一、軌道二、軌道三。それぞれをひらくと、進学先の候補、就職先の業種、想定される居住地域、生涯の平均年収の推定値が、箇条書きで並んでいく。文章らしい文章はどこにもない。誰かが僕のために書いた言葉ではなくて、同じ条件の人間を何万人分も重ねた結果の中央値が、そのまま出ているだけだった。
 第一希望の欄に、県内の国立大学の名前と経済学部と書く。第二希望に同じ大学の法学部、第三希望に市役所の初級職。三本の線がそれぞれ示していたのは、どれを選んでも大きな借金はせず、大きな事故にも遭わず、四十代で持ち家を買える確率がいちばん高いのだという。
 説明文には、根拠になった項目もいくつか並んでいた。中学からの通知表、模試の偏差値の推移、部活の在籍期間、家族構成、居住地域の統計。それを読んでいるときの気分を、どう言えばいいのかわからない。当てられたという感じではなかった。自分が今までに置いてきたものを全部拾い集められて、きれいに並べ直されて、これがあなたですと差し出されたような感覚が近い。
 三つの欄を埋めるのに、二分もかからなかった。
 書き終えてから、僕は自分の字を眺めていた。国立大学の名前も、経済学部という四文字も、去年の僕なら口に出すのをためらったはずの規模の話で、それを迷わずに書けている。嬉しいかと訊かれれば、たぶん違う。この学部で何を学ぶのかも、そこを出た先で自分が何をしているのかも、僕はまだ具体的に想像できていなかった。想像しないまま書けてしまう。この紙を埋めるのに、そんなものは要らなかった。
 顔を上げると、周りもだいたい似たような速さで書き終えている。書き終えた連中は隣と紙を見せ合って、同じ大学だなとか、お前公務員かよとか、そういうことを言って笑っていた。去年の秋にも似た紙を書かされたのに、あのときは教室がもっと静かで、書けないまま鉛筆を握っている奴が何人もいた。半年でこれだけ変わるものなのかと、僕は少しおかしくなった。
 戸田は教壇の椅子に座って、こちらを見ているようで見ていない目をしている。
 やがてチャイムが鳴って、戸田は名簿を閉じながら、付け足すように言った。
「書けない人がいたら、月曜までに言いに来なさい。理由は訊かないから」
 言い終えてから、戸田は一度だけ教室の後ろのほうへ目をやった。ほんの短いあいだで、視線の先がどこだったのかまではわからない。前の席の男子が「書けないとかある?」と誰にともなく言って、それを聞いた何人かが笑った。戸田は笑いもせず、止めもせず、プリントの束を抱えて出ていった。
 なぜそんなことを言うのか、僕にはよくわからなかった。全員が同じ週に同じ線をもらって、同じように写せばいいだけの紙で、書けない人間が出る余地がどこにあるのだろう。
 夕食のとき、母は食卓につく前にスマートフォンを見ていた。
 画面に映っているのが何なのかは、覗かなくても察しがついた。未成年の予測は保護者のアカウントに自動で共有される決まりになっていて、母は敷設の日からそれを開く回数が明らかに増えている。今も、味噌汁を温め直すために立ち上がるついでに一度、箸を取る前にもう一度、確かめていた。
「書いたよ、希望票。第一は経済のとこにした」
「そう。……そうね、それがいちばんいいと思う」
 母は僕の顔ではなく、僕の手元のあたりを見ながらうなずいた。父は新聞をたたんでテレビのニュースに目を向けていて、会話には入ってこない。それでも、線の話をしているあいだは、この人たちの機嫌がいいことだけは確かだった。
 母はそのあと、自分の分の茶碗を持ったまま、思い出したように付け足した。
「無理して背伸びしなくていいからね。線が出してくれてるところが、いちばん合ってるところなんだから」
 合っている、という言い方を母はよく使う。好きかどうかでも、やりたいかどうかでもなく、合っているかどうか。僕はうなずいて、ごちそうさまと言うタイミングを計りながら、その言葉の内側にあるものを考えないようにした。考えなくても不都合はない。母の言うことは正しいし、僕の線も同じことを言っている。
 食卓の椅子は四脚ある。
 ひとつは使われていない。母はそこに調味料の入った籠を置いていて、置いたのがいつからなのかは思い出せないくらい前だった。誰も動かさないし、誰も片づけない。あの椅子の話をしない代わりに、この家は僕の三本の線の話をしている。
 以前は、この食卓でもっと別の話が出ていた。将来はどうするのかとか、そんなことでは食べていけないとか、そういう種類の声が、夜の遅い時間に壁越しに聞こえてくる時期が確かにあった。あのころの僕は中学生で、聞こえてくる言葉の意味の半分も理解していなかった。ただ、次の朝の食卓がいつもより静かになることだけは覚えている。
 今この家に、そういう夜はない。線が三本あって、その三本がどれも無難な場所へ向かっているというだけで、母の声はやわらかいし、父はニュースを最後まで見る。予測というのは未来を教えてくれるものだと思っていたけれど、実際にいちばん変わったのは今日の夕食の空気のほうだった。
 僕は残りの味噌汁を飲み干して、食器を流しへ運んだ。
 部屋に戻って、机の上に置いたままだった希望票をもう一度見た。自分の字で埋まった三つの欄は、我ながら迷いのない形をしている。一年前の僕がこれを見たら、たぶん羨ましがるだろう。将来のことを訊かれても、これからは紙を出せば済む。
 安心している、と思った。
 そう思えることが何より安心だった。

1-5 何もない足元
 希望票を回収したのは、その次の月曜の朝のホームルームだった。
 戸田が出席番号順に名前を呼んで、呼ばれた人間が前へ持っていく。ありがとう、はい次、というやり取りが五分ほど続いて、教室はほとんど雑談の時間になっていた。僕は自分の番を終えて席に戻り、窓の外を見ていた。四月の中旬にしては風が強くて、校庭の隅の桜がもう半分近く散っている。
「星野」
 その名前が呼ばれたとき、僕は特に何も思わなかった。
 同じクラスだという以上のことを、僕は星野ユキについて何も知らない。背の順で言えば真ん中より少し後ろで、いつも窓際のいちばん後ろの席にいて、休み時間に誰かと喋っているところを見た記憶がなかった。授業で当てられれば答えるし、体育も出ている。無視されているわけでも、いじめられているわけでもない。ただ、クラスの中の出来事を数えるときに、最初から数に入っていないような空気が彼女の周りにはあった。
 去年の文化祭のとき、クラスの集合写真に彼女が写っていなかったことを、あとで誰かが指摘した。撮影のときに教室にいなかったのか、いたのに端にいて切れたのかは誰にもわからなくて、結局そのまま卒業アルバム用の候補として提出された。そんなふうにして、彼女はいつも一人分だけ勘定から漏れる。本人が隠れているというより、周りの視線のほうが彼女のところで自然に滑る。
 星野は席を立って、前へ歩いていった。
 紙を受け取った戸田の手が、一瞬だけ止まったのがわかった。それから戸田は何も言わずにその紙を束の下へ滑り込ませて、次の名前を呼んだ。教室の誰も気づいていない。僕にも、何が起きたのかをその場で結びつけることはできなかった。
 星野が自分の席へ戻っていく。
 戻る途中で誰かの鞄に足を取られかけて、彼女は少しだけ横に体をずらした。僕の視線は、その動きを追って自然に下へ落ちて、そこで止まった。
 星野ユキの足元には、線が一本もなかった。
 最初は自分の目を疑って、瞬きをして、もう一度見る。上履きの白い爪先が、教室の床を踏んでいる。その周りに青はない。薄い線が一本だけあるとか、途中で消えているとか、そういうことではなくて、最初から何も生えていない。
 僕は反射的に、彼女のすぐ前を歩いていた男子の足元を見た。二本、はっきりと伸びている。その隣の席の女子にもある。窓際の列にも、廊下側の列にもある。教室の床は相変わらず青で埋まっていて、どの線もそれぞれの持ち主から伸びて、机の脚をすり抜けながら流れている。
 星野の周りだけが、そこに穴が開いているみたいに暗かった。
 自分の目がおかしくなったのかもしれないと思って、僕は自分の足元を見た。三本ある。昨日と同じ細さで、昨日と同じ明るさで、机の脚の横をすり抜けて教室の前方へ伸びている。目はちゃんと働いている。見えるものは見えていて、見えないものだけが見えていない。
 彼女が席に着いて、椅子を引く。上履きが床から浮いて、また下りる。何も起きない。青は生まれない。
 心臓の音が急に大きくなって、僕は自分がずいぶん長いあいだ息を止めていたことに気がついた。呼吸を戻しながら、必死で理屈を探す。
 まだ敷設を受けていないのかもしれない。それなら説明がつく。けれど受診の期間は十日前の金曜で終わっていて、期間内に来なかった人間には学校から連絡が行くはずだった。担任が知らないわけがない。さっきの戸田の、あの一瞬止まった手のことを思い出す。
 あるいは、見えない設定にしているのかもしれない。
 その可能性も、考えた直後に自分で潰した。十八になるまでは非公開を選べないと保健の授業で習っている。未成年の線は本人にも保護者にも隠せない仕組みで、そういうものだと教わったときは面倒な決まりだと思っただけだった。今になって、その決まりの意味が別の形で立ち上がってくる。
 隠せないのだとしたら、見えないことには二つしか理由がない。
 最初から敷かれていないか、途中で失ったか。
 一時間目が始まっても、僕はほとんど黒板を見ていなかった。ノートに文字を写す手が勝手に動いているだけで、頭の中では同じところを何度も回っている。教室の中で唯一光っていない場所が、斜め後ろにある。振り返れば確かめられるのに、振り返ることがひどく難しい。
 線が消えた人の話を、まったく聞いたことがないわけではなかった。中学のときに誰かが言っていた気がするし、テレビの特集でその言葉が出てきたのを見た覚えもある。ただ、僕はそれを自分に関係のある話として聞いていなかったから、内容をほとんど覚えていない。消えるとどうなるのか、消えた人が今どこにいるのか、そのあたりが全部抜け落ちている。
 知らないまま十七年やってきて、今日まで困ったことは一度もなかった。困っていなかったのは、周りに一人もいなかったからなのだと、今になって気づく。
 休み時間になって、僕はようやく体ごと後ろを向いた。
 星野は机に肘をついて窓の外を見ていた。風で桜の花びらが斜めに流れていくのを、特に面白くもなさそうな顔で目で追っている。その横顔は健康そうで、どこも欠けていない。伸ばした腕の袖口から見える手首に、ボールペンではない色がついていた。青でも黒でもない、鮮やかな黄色が指の関節のあたりにまで残っている。
 彼女の足元は、やはり空白のままだった。
 昼休みに購買へ向かう途中、僕は隣を歩いていた陸に、できるだけ何でもないふうを装って訊いてみた。
「なあ、うちのクラスの星野って、どんなやつか知ってる?」
 陸は少し考えてから、首を傾げた。
「星野。……ああ、いたな、そんなやつ。話したことねえわ」
 いた、という過去形の響きが、妙に耳に残った。陸に他意はない。同じ教室で一年近く過ごしていても、名前と顔が一致しない相手はいくらでもいる。僕だって先週までは同じだった。
 それ以上は訊かなかった。訊けば、なぜそんなことを気にしているのかと返されるに決まっていて、そう訊かれても、僕には答えようがない。
 午後の授業が終わって、掃除が終わって、教室から人がいなくなっていく。
 星野は日直の日誌を書いていて、最後まで残っていた。僕も鞄の中を整理するふりをして残った。書き終えた彼女が立ち上がり、教壇の上に日誌を置いて、そのまま廊下へ出ていく。僕は五メートルほど離れて、同じ方向へ歩いた。
 夕方の廊下は西日で赤い。
 窓から差す光が床に長い帯を作っていて、そこを歩く生徒たちの青が、赤の上を横切るたびに少しだけ色を濁らせる。星野が同じ帯の中に入った。彼女の上履きが光の中に入って、影を作って、抜けていく。
 影だけだった。
 赤い光の中で、彼女の輪郭は他の誰よりもはっきりしていた。青が一本もないぶん、そこにあるのが体だけになるからで、足が床を踏むたびに上履きの底の白がきちんと見えて、その動きに嘘がない。生きている人間の歩き方だと思った。近いうちに何かが起きる人間の歩き方には、どうやっても見えなかった。
 僕は階段の手前で立ち止まって、彼女が下りていくのを見送った。足音が遠ざかって、聞こえなくなって、それでも僕はその場から動けずにいた。
 誰かに訊けばいいのだろう。戸田でもいいし、保健の先生でもいい。線が見えない生徒がいると言えば、たぶん適切な説明が返ってくる。それで終わる話のはずだった。
 けれど僕は、その日から誰にも訊かなかった。
 訊いてしまえば答えが出る。出てきた答えが自分の望まないものだったとき、聞かなかったことにする方法が僕にはない。どっちへ行けばいいかを自分で決めなくていいと敷設の日に安堵したはずなのに、この件に関してだけは、決めるための一歩をどうしても踏み出せずにいた。
 その夜、布団に入ってから、僕は天井を見上げたまま何度も同じ場面を思い出していた。日誌を置く手つきも、手首についていた黄色も、西日の帯を横切っていく白い上履きも、どれも普通で、どこにも異常がない。異常があるのは足元だけで、その足元を見ているのはたぶん僕だけだった。
 翌朝から、教室に入るとまず床を見るようになった。青の中にひとつだけある空白の位置を目で追って、それが今日もそこにあることを確かめてから、自分の席に鞄を置く。その日から僕は、何も見えない場所を見るようになった。