Embrace it all【番外編】―俺の姉―

 梨歩と付き合い始めて、まだそれほど経っていなかった頃。
 何の話からだったかは、もう覚えていない。
 たしか、家族の話をしていた。

「うちね、兄が二人いるんだ」
「知っている」
「え、言ったっけ?」
「何度か聞いた」
「あ、そっか」
 梨歩には、八つ年上の双子の兄がいる。

 朝日と夕日。
 本人曰く、顔はよく似ているくせに性格はまるで違うらしい。
 何かと世話を焼いてきて、鬱陶しいこともある。
 そんな話を、梨歩は何度か俺にしていた。
 それでも。
 話を聞いている限り、梨歩にとって二人の兄がいることは、あまりにも当たり前なのだろうと思う。
「亞紗斗さんは?」
「何がだ」
「きょうだい」
 何気ない問いだった。
「一人っ子?」
 俺は、ほんの少しだけ黙った。

 一人っ子。

 そう答えてしまっても、間違いではない。
 俺はずっと一人で育ってきた。
 兄弟喧嘩をした記憶もなければ、誰かと玩具を取り合った記憶もない。
 だが。

 一人っ子だ、と言い切ってしまうのも、何か違う気がした。
「……一人っ子と言えば、一人っ子だな」
「何その言い方」

「姉がいた」
「え?」
 梨歩が目を丸くする。

「お姉さん?」
「ああ」
「いたって……」
 そこで梨歩は、何かに気づいたように言葉を止めた。

「あ、ごめん。無理に話さなくていいから」
「別に隠しているわけじゃない」
 本当に、隠しているわけではない。
 ただ、わざわざ人に話すようなことでもなかった。
 俺自身ですら、姉という存在をどこまで自分のこととして捉えているのか、よく分からない。

「俺には双子の姉がいたらしい」
「……双子?」
「ああ」
 梨歩の表情が変わった。
 当然だろう。
 梨歩にとって、双子という言葉は特別なものではない。

 朝日と夕日。
 生まれたときから二人でいて、今も二人とも生きている。
 梨歩にとっての双子とは、そういうものなのだろう。

「俺より数分先に生まれた」
「じゃあ、本当にお姉さんなんだ」
「そういうことになるな」
 数分。
 その差だけで、姉と弟になった。
 俺には、その感覚すらよく分からない。
 姉と呼んだことは一度もない。
 俺の名前を呼ばれた記憶もない。
 それでも、事実としては姉だった。

「生まれて数時間後に亡くなったらしい」
「……え」
「だから俺は何も覚えていない。当然だが」

 そう。
 何も覚えていない。
 悲しい記憶もない。
 失った瞬間も知らない。
 母親に抱かれていた姿も。
 泣き声も。
 体温も。
 何一つ。

「両親から聞いただけだ。俺自身には、姉がいたという実感はほとんどない」
「……そっか」
 梨歩の声が小さくなった。

「写真も、ほとんど残っていない」
 それだけ言って、言葉を止める。
 記憶がないというのは、不思議なものだ。

 悲しいのかと聞かれても、分からない。
 会いたかったのかと聞かれても、やはり分からない。
 最初から俺の日常には存在していなかった人間だ。
 失ったという感覚さえない。

「俺が知っているのは、俺より数分早く生まれたことと、数時間後に亡くなったこと。それだけだ」
「名前は?」
 梨歩が少し遠慮がちに聞いた。
 俺は息を吐く。

「亞里紗」
「ありさ……」
「ガーディナー亞里紗ステファニー」
 口にすると、不思議な感覚がした。
 この名前を家族以外の前で口にすることなど、ほとんどない。

「……名前、似てるんだね」
「ああ。双子だから揃えたらしい」
「亞里紗と、亞紗斗」
「そうだな」
 亞里紗ステファニー。
 亞紗斗ステファン。

 両親がどういう気持ちで俺たちに名前をつけたのか、詳しく聞いたことはない。
 だが、揃えたということは。

 二人とも一緒に育っていく未来を、当然のように想像していたのだろう。
 その未来が数時間で途切れたことを、俺は実感として全く知らない。

「……変な感じ」
 梨歩が呟いた。
「何がだ」
「あたし、双子って言ったらお兄ちゃんたちしか知らないから」
「そうだろうな」
「二人でいるのが当たり前っていうか……」
 そこで、梨歩が口をつぐんだ。

「ごめん」
「何故謝る」
「なんか……」
 梨歩を見る。

 今にも泣きそうな顔をしているわけではない。
 ただ、俺の知らない姉のことを、本気で考えようとしている顔だった。

「あたしだったらって考えたら、ちょっと」
「梨歩」
「うん」
「そんな顔をする必要はない」
 俺は、姉を失った記憶がない。

「寂しかった記憶もないし、一緒に遊んだ記憶もない。だから、悲しいかと聞かれても、正直よく分からない」
 それが本音だった。

 悲しいと言えば、嘘になる気がする。
 何も感じないと言えば、それも違う。
 俺の中で亞里紗は、どこか現実味のない存在だ。
 だが。

 存在しなかったわけではない。

「ただ」
 視線を落とす。
 膝の上で、自分の指がわずかに動いた。

「亞里紗という人間がいた。それだけは知っている」
「……うん」
「それで十分だと思っている」

 たった数時間。
 それでも。
 生まれて。
 名前を与えられて。
 家族になった。
 俺自身が覚えていないからといって、その事実まで消えるわけではない。

「お姉さんなんだね」
 梨歩が静かに言った。
 俺は少しだけ目を細めた。
「ああ」

 考えるまでもなかった。
「俺の姉だ」

 言葉にしてみて、妙な感じがした。
 姉。

 俺にはその響きに伴う記憶が一つもない。
 それでも。
 否定する理由もなかった。

 しばらくして、梨歩がそっと手を伸ばした。
 触れるかどうか迷ったのだろう。
 少し躊躇したあと、俺の手の甲に指先が重なる。
 俺は手を引かなかった。

 何かを慰められるような話ではない。
 俺自身、慰めてほしいと思っているわけでもない。
 だからこそ。
 梨歩が何も言わず、ただ触れているだけなのがありがたかった。

「……亞里紗さん」
「何だ」
「ううん。ちょっと呼んでみただけ」
「そうか」
「綺麗な名前だね」
 一瞬、返事が遅れた。

 家族以外の誰かが、亞里紗の名前を口にする。
 それは思っていた以上に、不思議な感覚だった。
 俺の記憶には存在しない人間。
 それなのに、梨歩がその名前を呼んだ瞬間だけ。
 ほんの少し、この場所に亞里紗という人間が存在したような気がした。

「俺もそう思う」
 そう答えると、梨歩が小さく笑った。
 俺の手の甲に重ねられた指先から、梨歩の体温が伝わってくる。
 亞里紗の体温を、俺は知らない。
 声も。
 顔も。
 何を好きになったのかも。
 どんな人間になったのかも。
 何一つ知らない。

 知っているのは、名前と。
 俺より数分早く生まれ。
 数時間だけ、この世界を生きたということだけ。
 それでも。

 ガーディナー亞里紗ステファニー。
 彼女は確かに存在した。
 俺の知らない人間で。
 俺と同じ日に生まれた人間で。
 そして。

 ――俺の姉だ。