Embrace it all―未来の旋律―

 ある日の夜。
 ソファに座っていたあたしの隣で、律がふと視線を落とした。

「ママ」
「ん?」
「その指輪って、二つついてるよね」
 左手。
 薬指には、今も二つの指輪が重なっている。
 一つは、桜の花をかたどった指輪。
 もう一つは、その桜を包み込むように寄り添う、細身のプラチナリング。

 まるで、過ぎ去った季節の中に咲いた花と、これから先の時間をともに歩くための輪が、そっと重なっているみたいだった。
「……うん」
「パパにもらったのは、こっち?」
 律が指差したのは、あとから重ねたほうだった。
「そうだよ」
「じゃあ、こっちは?」
 小さな指先が、桜の指輪を指す。

 胸の奥が、かすかに揺れた。
 いつかは聞かれると思っていた。
 でも、その“いつか”が今日だとは思っていなかった。
「……これはね」

 あたしは少しだけ迷って、それから律を見た。
 誤魔化すのは、やめようと思った。

「ママが、パパと結婚するよりずっと前に、大好きだった人からもらった指輪なの」
 律がぱちりと瞬きをする。

「大好きだった人?」
「うん」
「……彼氏?」
「そう」
 そこまで言うと、律は少し考え込んだ。
 あたしは膝の上で手を握る。
「その人ね、涼平っていうの。ママは“涼ちゃん”って呼んでた」
「ふうん」
「すごく優しくて……ママのことを、すごく大切にしてくれた人だった」
 声が少し震えた。

 何年経っても。
 涼ちゃんの話をすると、胸の奥に残っているものがある。

「でもね、涼ちゃんは病気で亡くなったの」
「……そっか」
 律は、それ以上すぐには何も言わなかった。
 ただ、あたしの左手を見つめていた。

「この指輪はね、涼ちゃんが最後に遺してくれたものなの」
「だから、ずっとつけてるの?」
「……うん」

 答えながら、少し怖かった。
 律は、どう思うんだろう。
 パパと結婚したのに。
 昔好きだった人の指輪を、今でもつけているママを。

「パパは知ってるの?」
「知ってるよ」
「最初から?」
「うん」
 すると律は、また少し考えてから言った。


「じゃあ、いいんじゃない?」
「……え?」
 あまりにもあっさりしていて、思わず聞き返した。

「だってパパがいいって言ったんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
「パパ、言いそう」
 律は妙に納得したように頷く。

「“どちらも大切なら、持っていればいい”って」
 息が止まった。

「……律」
「パパ、そういうこと言うでしょ?」

 言った。
 本当に。
 あの日。
 涼ちゃんの指輪を手放せなくて泣いていたあたしに。


 ――忘れる必要があるのか。
 ――手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない。


 そして、全部受け入れると言ってくれた。

 過去も。
 今も。
 これからも。

「それに」
 律が桜の指輪を見つめる。


「それは、ママがその人に大切にされた証拠なんでしょ?」
「……っ」

 だめだった。

 その一言で、涙が溢れた。
「え、ママ?」
「律ぅ……!」
「わっ」
 思わず律を抱きしめる。


「ちょ、ママ、苦しい」
「だってぇ……」
「なんで泣くの」
「律が……律がそんなこと言うから……」
「変なこと言った?」
「言ってない。全然言ってない」

 むしろ逆だ。
 どうしてこの子は。

 こんなにすんなり、全部受け止めてしまえるんだろう。

 あたしは律の銀色の髪に顔を埋めた。

「ねえ、律」
「なに?」
「ママね、涼ちゃんのこと、本当に大好きだった」
「うん」
「今でも、大切な人だよ」
「うん」
「でもね」

 腕の中の律を少し離して、その顔を見つめる。

 アイスグレーの瞳。
 亞紗斗さんによく似た、綺麗な目。

「今のママにとって、何より大切なのは律だからね」
「……ボク?」
「そう」
 頬を両手で包む。

「律が生まれてきてくれたこと。ママの子になってくれたこと。それが、ママの人生で一番幸せなこと」
「……」
「パパと出会えたから、律に会えた」
 涙で律の顔が滲む。
「だからね。ママは、過去を大切にしてるけど、過去に生きてるわけじゃない」
 左手を見る。

 二つの指輪。
 一つは、愛された証。
 一つは、これからを生きる約束。

 過去から受け取った愛を大切にしたまま、亞紗斗さんと未来へ進んでいくためのもの。

 そして、その二つの愛を胸に歩いてきた未来に、律がいる。

「今ここにいる律が、ママの一番大事な宝物」
 律はしばらく黙っていた。

 それから、少し照れくさそうに視線を逸らした。

「……知ってる」
「え?」
「ママ、いつもボクのこと好きすぎるから」
「なにそれ!」
「だってすぐ抱きつくし」
「いいじゃん! 息子なんだから!」
「もう十歳なんだけど」
「十歳でも百歳でも息子は息子!」
「百歳の息子に抱きつくの?」
「抱きつく!」
「……重い」
「ひどい!」
 律が小さく笑った。

 その笑顔を見た瞬間、また涙が出そうになる。
 すると律は、あたしの左手をそっと取った。
 二つの指輪を眺めてから、ぽつりと言う。

「でも、パパってすごいね」
「ん?」
「普通、嫌じゃないの?」
「……たぶんね」
「なのに、ママが大切なら持ってていいって言ったんでしょ?」
「うん」
 律はしばらく考えたあと。


「やっぱりパパ、かっこいいな」
 そう言った。

 あたしは笑った。

「でしょ?」
「なんでママが威張るの」
「ママの夫だから」
「はいはい」

 呆れたように言いながらも。
 律の手は、まだあたしの手を握っている。

 二つの指輪ごと。
 あたしの過去も。
 今も。
 これから先も。

 全部まとめて受け止めるみたいに。

 ――やっぱり、この子は亞紗斗さんの息子だ。

 そう思ったら。
 今度こそ、あたしは笑いながら泣いた。