土曜日。
水族館の入口で、浩人は時計を確認した。
約束の時間まで、まだ十五分ある。
――早く来すぎた。
昨日の夜から楽しみにしていたせいだ。
「……僕、何やってるんだろ」
小さく呟いた、そのとき。
「水瀬」
聞き慣れた声。
振り返る。
「先輩」
律が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
律は今日も私服だった。
「早いね」
「先輩も」
「僕は十五分前行動だから」
「僕もです」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
「じゃあ、入ろうか」
「はい」
館内へ入る。
薄暗い通路の先に、大きな水槽があった。
青い光の中を、魚たちがゆっくり泳いでいる。
「……すごい」
浩人が思わず足を止めた。
「好きなんだね」
「はい」
律は魚ではなく、浩人の横顔を見ていた。
「先輩?」
「何でもない」
「……?」
二人は大きな水槽の前に並んだ。
しばらく無言で魚を見る。
不思議だった。
会話をしなくても気まずくない。
むしろ。
こうして隣にいることが心地いい。
「研究記録、取らないんですか?」
浩人が尋ねる。
「今日はまだいいかな」
「珍しいですね」
「うん」
律は少し考えてから言った。
「今日は、普通に楽しみたい」
「……普通に?」
「うん」
その言葉を聞いて。
浩人の胸が、少しだけ軽くなった。
「じゃあ、僕も」
二人はそのまま館内を歩いた。
クラゲの水槽。
ペンギン。
大きな海亀。
浩人が立ち止まるたび、律も隣で立ち止まった。
「先輩、あれ見てください」
「どれ?」
「クラゲ」
「綺麗だね」
「ですよね」
「水瀬」
「はい?」
「君、本当に楽しそう」
「……そうですか?」
「うん」
「じゃあ、先輩も楽しんでください」
「僕は楽しいよ」
律はそう言った。
「君といるから」
浩人の足が止まった。
「……それ」
「何?」
「そういうこと、簡単に言わないでください」
「どうして?」
「……困るからです」
律は不思議そうに浩人を見る。
「困る?」
「はい」
「理由は?」
浩人は答えられなかった。
顔が熱い。
逃げるように先へ進む。
「……次、イルカショーですよ」
「待って」
律が追いかけてくる。
「まだ時間あるよ」
「じゃあ、行きましょう」
二人で観覧席に座る。
ショーが始まる。
イルカが大きく跳ぶ。
周囲から歓声が上がる。
浩人も思わず笑った。
その横で。
律も笑っていた。
――この人の笑顔を見るのが好きだ。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
浩人は慌てて目を逸らした。
けれど。
一度気づいてしまった気持ちは。
簡単には消えてくれなかった。
ショーが終わったあと。
「楽しかったですね」
「うん」
「次、どこ行きます?」
「どこでもいいよ」
「じゃあ――」
浩人が考えていると。
律が言った。
「水瀬」
「はい?」
「一つ聞いていい?」
「何ですか?」
「今、僕といるのは楽しい?」
その質問に浩人は迷わなかった。
「楽しいです」
「どうして?」
「……分かりません」
「そっか」
律は笑った。
「僕も同じ」
「え?」
「どうして楽しいのか、まだ分からない」
律は少しだけ遠くを見る。
「だから研究してるのかもしれない」
その言葉に。
浩人は少し寂しくなった。
「……先輩は」
「うん」
「いつまで研究するんですか?」
律が振り返る。
「分からない」
「そうですか」
「でも」
律は続けた。
「一つだけ分かったことがある」
「何ですか?」
「研究対象を君にしてから、研究そのものが楽しくなった」
浩人は黙った。
「……それって」
「うん?」
「僕じゃなくても、よかったんですか?」
その言葉が口から出た瞬間。
しまった、と思った。
聞きたかったわけじゃない。
いや。
本当は。
ずっと聞きたかった。
律はしばらく黙っていた。
そして。
「最初はね」
浩人の胸が、きゅっと縮む。
「……はい」
「でも、今は違う」
律はまっすぐ浩人を見る。
「君じゃなきゃ嫌だ」
その言葉に。
浩人は何も言えなくなった。
館内の水音だけが聞こえる。
やがて。
律が小さく笑った。
「……これも、研究結果に入るのかな」
浩人は首を横に振った。
「入りません」
「どうして?」
「……今のは」
浩人は俯いた。
「研究じゃないと思うから」
律の表情が変わった。
二人の間に。
今までとは違う沈黙が落ちる。
帰り道。
駅へ向かう途中。
浩人のスマートフォンが鳴った。
杏からだった。
《今日どうだった?》
浩人は返信しようとして。
指を止めた。
少し考えてから。
《楽しかった》
それだけ送る。
するとすぐに返信が来た。
《それだけ?》
浩人は苦笑した。
《うん》
《ふーん》
それ以上は何も来なかった。
けれど。
杏の最後の一言が妙に引っかかった。
《じゃあ、もう「研究」って言い訳できないね》
「……」
浩人は画面を閉じた。
隣を歩く律を見る。
律もまた。
何か考えるように前を向いている。
そして。
駅の分かれ道で。
「水瀬」
「はい?」
「次はいつ会える?」
浩人は目を見開いた。
「……部活で」
「そうじゃなくて」
律が言った。
「研究じゃなくても」
その一言で。
浩人の心臓が、大きく跳ねた。
研究じゃない。
部活でもない。
ただ。
会いたいから会う。
その意味を。
二人はまだ、口にできなかった。
けれど。
もう「研究対象」という言葉だけでは。
お互いを呼べなくなり始めていた。
水族館の入口で、浩人は時計を確認した。
約束の時間まで、まだ十五分ある。
――早く来すぎた。
昨日の夜から楽しみにしていたせいだ。
「……僕、何やってるんだろ」
小さく呟いた、そのとき。
「水瀬」
聞き慣れた声。
振り返る。
「先輩」
律が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
律は今日も私服だった。
「早いね」
「先輩も」
「僕は十五分前行動だから」
「僕もです」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
「じゃあ、入ろうか」
「はい」
館内へ入る。
薄暗い通路の先に、大きな水槽があった。
青い光の中を、魚たちがゆっくり泳いでいる。
「……すごい」
浩人が思わず足を止めた。
「好きなんだね」
「はい」
律は魚ではなく、浩人の横顔を見ていた。
「先輩?」
「何でもない」
「……?」
二人は大きな水槽の前に並んだ。
しばらく無言で魚を見る。
不思議だった。
会話をしなくても気まずくない。
むしろ。
こうして隣にいることが心地いい。
「研究記録、取らないんですか?」
浩人が尋ねる。
「今日はまだいいかな」
「珍しいですね」
「うん」
律は少し考えてから言った。
「今日は、普通に楽しみたい」
「……普通に?」
「うん」
その言葉を聞いて。
浩人の胸が、少しだけ軽くなった。
「じゃあ、僕も」
二人はそのまま館内を歩いた。
クラゲの水槽。
ペンギン。
大きな海亀。
浩人が立ち止まるたび、律も隣で立ち止まった。
「先輩、あれ見てください」
「どれ?」
「クラゲ」
「綺麗だね」
「ですよね」
「水瀬」
「はい?」
「君、本当に楽しそう」
「……そうですか?」
「うん」
「じゃあ、先輩も楽しんでください」
「僕は楽しいよ」
律はそう言った。
「君といるから」
浩人の足が止まった。
「……それ」
「何?」
「そういうこと、簡単に言わないでください」
「どうして?」
「……困るからです」
律は不思議そうに浩人を見る。
「困る?」
「はい」
「理由は?」
浩人は答えられなかった。
顔が熱い。
逃げるように先へ進む。
「……次、イルカショーですよ」
「待って」
律が追いかけてくる。
「まだ時間あるよ」
「じゃあ、行きましょう」
二人で観覧席に座る。
ショーが始まる。
イルカが大きく跳ぶ。
周囲から歓声が上がる。
浩人も思わず笑った。
その横で。
律も笑っていた。
――この人の笑顔を見るのが好きだ。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
浩人は慌てて目を逸らした。
けれど。
一度気づいてしまった気持ちは。
簡単には消えてくれなかった。
ショーが終わったあと。
「楽しかったですね」
「うん」
「次、どこ行きます?」
「どこでもいいよ」
「じゃあ――」
浩人が考えていると。
律が言った。
「水瀬」
「はい?」
「一つ聞いていい?」
「何ですか?」
「今、僕といるのは楽しい?」
その質問に浩人は迷わなかった。
「楽しいです」
「どうして?」
「……分かりません」
「そっか」
律は笑った。
「僕も同じ」
「え?」
「どうして楽しいのか、まだ分からない」
律は少しだけ遠くを見る。
「だから研究してるのかもしれない」
その言葉に。
浩人は少し寂しくなった。
「……先輩は」
「うん」
「いつまで研究するんですか?」
律が振り返る。
「分からない」
「そうですか」
「でも」
律は続けた。
「一つだけ分かったことがある」
「何ですか?」
「研究対象を君にしてから、研究そのものが楽しくなった」
浩人は黙った。
「……それって」
「うん?」
「僕じゃなくても、よかったんですか?」
その言葉が口から出た瞬間。
しまった、と思った。
聞きたかったわけじゃない。
いや。
本当は。
ずっと聞きたかった。
律はしばらく黙っていた。
そして。
「最初はね」
浩人の胸が、きゅっと縮む。
「……はい」
「でも、今は違う」
律はまっすぐ浩人を見る。
「君じゃなきゃ嫌だ」
その言葉に。
浩人は何も言えなくなった。
館内の水音だけが聞こえる。
やがて。
律が小さく笑った。
「……これも、研究結果に入るのかな」
浩人は首を横に振った。
「入りません」
「どうして?」
「……今のは」
浩人は俯いた。
「研究じゃないと思うから」
律の表情が変わった。
二人の間に。
今までとは違う沈黙が落ちる。
帰り道。
駅へ向かう途中。
浩人のスマートフォンが鳴った。
杏からだった。
《今日どうだった?》
浩人は返信しようとして。
指を止めた。
少し考えてから。
《楽しかった》
それだけ送る。
するとすぐに返信が来た。
《それだけ?》
浩人は苦笑した。
《うん》
《ふーん》
それ以上は何も来なかった。
けれど。
杏の最後の一言が妙に引っかかった。
《じゃあ、もう「研究」って言い訳できないね》
「……」
浩人は画面を閉じた。
隣を歩く律を見る。
律もまた。
何か考えるように前を向いている。
そして。
駅の分かれ道で。
「水瀬」
「はい?」
「次はいつ会える?」
浩人は目を見開いた。
「……部活で」
「そうじゃなくて」
律が言った。
「研究じゃなくても」
その一言で。
浩人の心臓が、大きく跳ねた。
研究じゃない。
部活でもない。
ただ。
会いたいから会う。
その意味を。
二人はまだ、口にできなかった。
けれど。
もう「研究対象」という言葉だけでは。
お互いを呼べなくなり始めていた。



