恋を研究していたら、研究対象と恋をした

月曜日。

浩人は朝から落ち着かなかった。

理由は分かっている。

昨日のことだ。

大型書店。

昼食。

公園。

そして最後に律が言った言葉。

――また、一緒に行きたい。

何度思い返しても、胸の奥が妙に騒がしくなる。

「……何やってるんだ、僕」

教室に着く前から、何度目か分からないため息をつく。

スマートフォンを見る。

まだ、メッセージはない。

当然だ。

学校で会うのだから。

それなのに。

「……来ないかな」

無意識に呟いてしまった。

「誰が?」

「うわっ!」

突然、横から声がして、浩人は飛び上がった。

「お、おはよう……」

「おはようじゃないよ」

小鳥遊杏だった。

「朝からスマホ見つめて、ため息ついて。何かあった?」

「何もない」

「ふーん」

杏はじっと浩人を見る。

「神崎くんと何かあった?」

「ない!」

即答だった。

声が大きすぎた。

教室の何人かがこちらを見る。

浩人は慌てて口を閉じた。

杏は楽しそうに笑う。

「分かりやすいね」

「何が?」

「別に?」

「小鳥遊先輩……」

「昨日、楽しかった?」

その質問に。

浩人は答えられなかった。

楽しかった。

それは間違いない。

けれど。

「……うん」

小さく答える。

杏は少しだけ目を細めた。

「そっか」

「何?」

「いや」

杏はそれ以上言わなかった。

ただ。

「恋愛研究部って、面白いね」

そう言って軽快なステップで去っていった。

……ずるずると昼休みとなり、浩人は屋上へ向かった。

いつもの場所。

いつもの時間。

けれど。

律の姿がない。

「……まだ来てないのかな」

時計を見る。

十二時二十分。

いつもなら、もう来ている。

十二時二十五分。

まだ来ない。

十二時三十分。

「……先輩?」

胸の奥がざわつく。

何かあったのだろうか。

昨日のことを、何か変に思われた?

もしかして。

――もう、研究は終わり。

そんなことを考えた瞬間。

「水瀬」

「!」

後ろから声がした。

振り返る。

律が立っていた。

「先輩!」

思わず声が弾む。

律が少し驚いた顔をする。

「待ってた?」

「……別に」

「そう」

律は笑った。

「僕は待ってたよ」

「え?」

「君が来るの」

その言葉に、浩人の顔が熱くなる。

「……遅かったですね」

「先生に呼ばれてた」

律はそう言って、浩人の隣に座る。

「ごめん」

「……いえ」

二人で昼食を食べる。

いつもの時間。

いつもの場所。

けれど。

浩人は昨日までとは違う気持ちで律を見ていた。

「水瀬」

「はい?」

「今日、何か変?」

「え?」

「さっきから僕の顔を見てる」

「!」

浩人は慌てて視線を逸らした。

「見てません」

「見てたよ」

「……ちょっとだけです」

「どうして?」

答えられない。

昨日のことを思い出していた。

手が触れたこと。

律が「また一緒に行きたい」と言ったこと。

そして。

自分も、また会いたいと思ったこと。

「……先輩」

「うん」

「昨日のことなんですけど」

「昨日?」

「その……」

浩人は迷った。

聞きたい。

でも、聞くのが怖い。

「次に行きたい場所って……」

「うん」

「本当に、僕が決めていいんですか?」

「もちろん」

律は即答した。

「じゃあ……」

浩人は少し考えて。

「水族館」

そう言った。

律が目を瞬く。

「水族館?」

「はい」

「どうして?」

「好きだからです」

「魚が?」

「魚も」

浩人は笑った。

「でも……」

少しだけ間を置いて。

「先輩と行ってみたいです」

言ってしまった。

自分でも驚いた。

律も何も言わない。

しばらく沈黙が続いた。

やがて。

「分かった」

律が頷く。

「行こう」

「……はい」

その日の放課後。

二人は部室へ向かった。

扉を開ける。

中には黒川蓮と小鳥遊杏がいた。

「お、来た」

蓮が顔を上げる。

「二人とも遅かったな」

「昼休みの研究記録を書いてた」

律が答える。

「研究?」

杏が首を傾げる。

「また何か始めたの?」

「次の研究テーマ」

律は研究ノートを開いた。

そこには。

『休日を二人で過ごした場合、相手への親密度は上昇するか』

と書かれている。

「……」

浩人は固まった。

「先輩」

「何?」

「それ、昨日のことですよね」

「そう。実に興味深い一日だったので、一つの事象に対し多方向からのアプローチで迫ってみた」

「……先輩は本当に研究第一なんですね」

「もちろん」

その言葉を聞いた瞬間。

胸が少し痛くなった。

――やっぱり。

自分だけだったのだ。

昨日を特別だと思っていたのは。

「じゃあ、水族館も研究なんですね」

浩人が言う。

律は少し黙った。

「……そうなるね」

「分かりました」

浩人は笑った。

「じゃあ、ちゃんと研究しましょう」

その笑顔は。

いつもの笑顔とは少し違った。

律はそれを見ていた。

そして。

研究ノートに新しい一文を書いた。

『研究対象・水瀬浩人』

その下に。

『昨日より、笑顔が少ない』

と。

けれど。

それ以上は書けなかった。

なぜなら。

その理由を知りたいと思ったこと自体が。

もう。

研究者としての興味ではなかったからだ。



その夜、律は一人で研究ノートを開いた。

今日の記録。

昨日の記録。

ページをめくる。

そこには浩人と出会ってからの記録が増えていた。

『特別扱いをした』

『他人と話していると嫌だった』

『手が触れた』

『一緒にいて楽しかった』

そして最後に。

『また会いたい』

律は、その文字をしばらく見つめた。

初めて研究ノートの中で「研究結果」ではなく自分自身の感情を書いた。

『僕は、水瀬といると楽しい』

ペンが止まる。

少し考えてから。

その下にもう一行。

『どうして?』

答えは。

まだ書けなかった。

翌朝。

浩人のスマートフォンにメッセージが届いた。

《水族館、土曜日でいい?》

送り主は律。

浩人はしばらく画面を見つめた。

小さく笑う。

《はい。楽しみにしています》

送信する。

数秒後。

返信が来る。

《僕も》

たった二文字。

なのに。

浩人の胸は、昨日よりずっと騒がしかった。

――研究だから。

そう思おうとした。

けれど。

もう、その言葉だけでは。

自分の気持ちを説明できなくなっていた。