恋を研究していたら、研究対象と恋をした

なんとなく目を合わせづらい。

昨日までなら、こんなことはなかった。

けれど今日は違う。

これは――。

「デート研究、ですよね」

浩人が確認すると、律は少しだけ首を傾げた。

「そうだよ」

「……ですよね」

ほっとしたような、少し残念なような。

自分でもよく分からない感情だった。

二人は並んで歩き続ける。

目的地は駅から少し離れた大型書店。

今回の研究テーマは、

『恋人同士が休日を一緒に過ごすことで、心理状態にどのような変化が起きるか』

だった。

……という名目になっている。

「まずは本屋」

律が研究ノートを開く。

「その後、昼食。最後に公園へ行く」

「ずいぶん普通のデートみたいですね」

「デートじゃないよ」

「……ですよね」

即答だった。

なのに。

なぜか浩人の胸が、少しだけ沈んだ。

「水瀬?」

「なんでもありません」

本屋に入る。

休日ということもあって、人が多い。

二人は並んで歩きながら、それぞれ興味のある棚を見ていった。

律は心理学の本を手に取る。

浩人は小説の棚を見る。

しばらくして。

「水瀬」

「はい?」

振り返ると、律が一冊の本を持って立っていた。

「これ、君が好きそう」

「……なんで分かるんですか?」

「前に話していたから」

そう言って、律は本を差し出す。

浩人は受け取った。

以前、何気なく話したこと。

好きな作家。

好きなジャンル。

そんな些細なことを、律は覚えていた。

「……先輩って」

「何?」

「意外と、ちゃんと人の話を聞いてるんですね」

「意外と、は余計じゃない?」

少しだけ笑う。

その笑顔を見て、浩人も笑った。

その瞬間だった。

「……あ」

浩人の手から本が滑った。

落ちる。

そう思った瞬間。

律の手が伸びた。

「危ない」

本を受け止める。

そして同時に。

二人の手が触れた。

ほんの一瞬。

それだけだった。

なのに。

「……」

浩人は動けなくなった。

律も、黙っている。

「……先輩」

「うん」

「手……」

「触れたね」

「……はい」

どちらも手を離さない。

正確には。

離すタイミングを失っていた。

やがて律が、ゆっくりと手を離す。

「研究記録」

「え?」

「今のことも記録しておこう」

律がノートを取り出す。

けれど。

ペン先が動かない。

「先輩?」

「……困ったな」

「何がですか?」

律はノートを見つめたまま言った。

「どう書けばいいのか分からない」

「いつもみたいに分析すればいいじゃないですか」

「できない」

「どうして?」

律は少し考えて。

「……僕も、変に意識したから」

浩人の心臓が跳ねた。

「僕も……です」

小さな声だった。

律が顔を上げる。

視線が重なる。

その瞬間。

「――あれ?」

聞き覚えのある声がした。

「神崎くん?」

振り返る。

そこにいたのは。

杏だった。

「えっ」

杏は二人を見て。

それから。

浩人。

律。

二人の間にある距離。

そして律が持っている研究ノート。

すべてを交互に見た。

「……休日に二人で本屋? 例の研究の日だったけ」

「そう研究だよ」

律が即答する。

「へえ」

杏の目が細くなる。

「研究、ねえ?」

「そう」

「それで、手を握ってたの?」

「……」

浩人が固まる。

律も黙る。

杏は数秒二人を見つめてから。

「研究って、大変ね」

そう言って笑った。

「じゃ、私は邪魔しないので」

「ちょっと待って、小鳥遊先輩!」

浩人が呼び止める。

しかし杏は振り返って手を振るだけだった。

「頑張ってくださいねー!」

そのまま人混みの中へ消えていく。

残された二人。

「……」

「……」

気まずい。

浩人は思わず口を開いた。

「先輩」

「うん」

「これ……本当に研究なんでしょうか」

律は答えなかった。

しばらくして。

「僕も、分からない」

その声は、いつもの律より少しだけ弱かった。

昼食を済ませ、公園へ向かう。

ベンチに座って、二人で飲み物を飲む。

しばらく沈黙が続いた。

やがて律がノートを開く。

今日の研究結果を書くためだ。

けれど。

一行目から、筆が止まった。

『本日の研究結果――』

その先が書けない。

「……先輩?」

「うん」

「何も書かないんですか?」

「書けない」

「珍しいですね」

「うん」

律はノートを閉じた。

そして浩人を見る。

「水瀬」

「はい」

「今日、楽しい?」

突然の質問だった。

浩人は少し考える。

本屋で本を選んだ。

昼ご飯を食べた。

くだらない話をした。

さっき、手が触れた。

全部。

楽しかった。

だから。

「……はい」

素直に答える。

「僕も」

律が言った。

「楽しい」

それだけだった。

なのに。

その言葉が、なぜか胸に残った。

「じゃあ、研究としては成功ですね」

浩人が笑う。

「そうだね」

律も笑う。

でも。

二人とも気づいていた。

今日、知りたかったのは。

『恋人同士が休日を過ごすと、どんな心理変化が起きるのか』

そんなことじゃない。

本当に知りたかったのは――。

自分たちは今。

相手と一緒にいる時間を、どう思っているのか。

その答えだった。

帰り道。

駅の前で立ち止まる。

「今日は、ありがとうございました」

浩人が頭を下げる。

「こちらこそ」

「研究結果……どうします?」

「まだ分からない」

律はそう言ってから、少しだけ笑った。

「でも」

「はい?」

「また、一緒に行きたい」

浩人は目を見開いた。

「……研究で?」

そう聞くと。

律は答えなかった。

ただ。

「次は、君が行きたい場所を教えて」

そう言った。

その瞬間。

浩人は思った。

――次も、会いたい。

研究だからじゃなく。

先輩と、一緒にいたい。

その気持ちに気づいたことが。

この日の、本当の研究結果だった。