恋を研究していたら、研究対象と恋をした

 浩人は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。

 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

「……早いな」

 時計を見る。

 いつもより二十分も早かった。

 別に予定があるわけじゃない。

 学校はいつも通り。

 授業もいつも通り。

 放課後には恋愛現象研究部へ行く。

 ただ、それだけ。

 なのに。

 どうしてか、昨日からずっと落ち着かない。

 布団の中でスマートフォンを手に取る。

 通知はない。

「……何やってるんだ、僕」

 スマートフォンを伏せる。

 昨日、自分から送ったメッセージを思い出す。

『明日も一緒に昼ご飯、食べますか?』

 今さら恥ずかしくなってきた。

 あれは、かなり積極的だったんじゃないだろうか。

 律はどう思っただろう。

 変に思わなかっただろうか。

 ――そんなことを考えている自分が、一番変だった。

「実験だから」

 小さく呟く。

「これは実験」

 特別扱いされると、相手を意識してしまう。

 それを確かめるための実験だ。

 だから律のことを考えてしまうのも、実験の影響。

 きっとそうだ。

     ◇

 学校に着いた。

 教室に入る。

 席につく。

 いつも通りの一日が始まる。

 はずだった。

「水瀬」

「はい?」

 休み時間。

 クラスメイトの男子が話しかけてきた。

「昨日、二年の神崎先輩と一緒にいたよな?」

「……見てたの?」

「有名だからな、あの人。何か関係あるの?」

「恋愛現象研究部っていう部活に誘われて」

「へえ。あの変な部活?」

「変なって……」

「だって恋愛を研究するんだろ?」

「まあ……」

 男子は笑った。

「面白そうじゃん」

「そうかな」

「俺も見学してみようかな」

「え?」

 その言葉に、なぜか胸がざわついた。

「どうして?」

「なんでって?」

「いや……」

 自分でも理由がわからない。

「……別に」

 そう答えた。

 でも。

 なぜか、その男子が部活を見学するのは嫌だった。

 どうしてだろう。

     ◇

 昼休みになると、浩人はいつもより早く弁当を持って教室を出た。

 旧校舎へ向かう。

 階段を上る。

 そして三階。

 廊下の先に――。

「水瀬」

「先輩」

 律がいた。

 浩人を見るなり、律が少し笑う。

「早いね」

「先輩こそ」

「待ってたから」

「……」

 まただ。

 こういうことを普通に言う。

 律にとっては研究の一環なのかもしれない。

 でも浩人には、そういう言葉がいちいち特別に聞こえてしまう。

「昨日の約束」

 律が言った。

「昼ご飯、一緒に食べる」

「……はい」

 二人で屋上へ向かう。

 昨日と同じ場所。

 昨日と同じように並んで座る。

 だけど。

 今日は昨日と少し違った。

 浩人は律の隣に座ることを、楽しみにしていた。

「水瀬」

「はい?」

「今日、何かあった?」

「どうしてですか?」

「朝から落ち着かない」

「……」

 やっぱり、この人はよく見ている。

「クラスメイトに、先輩のことを聞かれました」

「僕の?」

「はい」

「何て?」

「部活のこととか」

「そう」

 律はそれ以上聞かなかった。

 浩人も黙って弁当を食べる。

 しばらくして。

「その人、恋愛現象研究部に興味がある感じだった?」

「……おそらく」

「そう」

 律の箸が止まった。

「入部するの?」

「わかりません」

「そう」

 律は再び食事を始めた。

 でも。

 さっきより少しだけ、表情が硬くなっている。

「先輩?」

「何?」

「怒ってます?」

「怒ってない」

「でも……」

「怒ってないよ」

 律は笑った。

 けれど、その笑顔はどこか不自然だった。

     ◇


 部室に行くと、杏が一人で本を読んでいた。

「神崎先輩は?」

「まだ来てないよ」

「そうですか」

 浩人は自分の席に座った。

 なんとなく落ち着かない。

「浩人くん」

「はい?」

「神崎くんのこと気にしてる?」

「え?」

「さっきから部室の扉をずっと気にしているでしょ」

「……見てました?」

「うん」

 杏は笑う。

「昨日までは神崎くんが浩人くんを追いかけてたのに」

「……」

「今日は浩人くんが神崎くんを待ってる」

「待ってません」

「じゃあ、なんで入口ばっかり見るの?」

「……」

 何も言えなかった。

 そのとき。

 ガチャ。

 扉が開いた。

「遅くなった」

「先輩」

 反射的に声が出た。

 律がこちらを見る。

「待ってた?」

「……少し」

「そう」

 律は嬉しそうに笑った。

 その瞬間。

 胸の奥が、また熱くなった。

     ◇

「今日の研究を始めよう」

 律がホワイトボードの前に立つ。

『三日目』

『特別扱いの継続』

 その下に、新しい項目が書かれた。

『相手が他者と親しくした場合の感情変化』

「……これ」

 浩人は嫌な予感がした。

「嫉妬の研究?」

「そう」

「昨日の続きですか?」

「うん」

 律は淡々としている。

「今日は、水瀬が他の人と親しくしているところを観察する」

「僕を?」

「そう」

「なんで?」

「嫉妬が発生するか調べたい」

 その瞬間。

 浩人は少しだけ嫌な気分になった。

「……先輩」

「何?」

「先輩が誰かと仲良くしているところを見るのも、研究になりますか?」

 言ったあとで、自分でも驚いた。

 律も驚いたようだった。

「なる」

「じゃあ……」

 浩人は少しだけ視線を落とした。

「僕も、研究していいですか?」

「……もちろん」

 律が答える。

「何を?」

「先輩が他の人と話しているとき、自分がどう思うか」

 沈黙。

 杏が、ものすごく楽しそうな顔をしている。

「……わかった」

 律は頷いた。

 けれど。

 耳が少し赤くなっていた。

     ◇

 その日の実験は、思っていたよりずっと難しかった。

 律が女子生徒と話している。

 ただそれだけ。

 なのに。

 浩人は落ち着かなかった。

 笑っている。

 楽しそうに話している。

 別に普通のことなのに。

 胸の奥が、ざわざわする。

「……嫌だな」

 思わず目を背けて小さく呟く。

 その瞬間。

「何が?」

 背後から声がした。

「!」

 振り返る。

 律が立っていた。

「先輩……」

「どうだった?」

「……わかりません」

「何が?」

「この感情が」

 律は黙って浩人を見る。

「僕、先輩が他の人と話してるのを見ると……」

 言葉が続かない。

 やっと出てきた言葉は。

「嫌でした」

 律の目が少し見開かれる。

「……そう」

「はい」

「僕も」

「え?」

「君が他の男子と話していると、嫌だった」

 今度は浩人が言葉を失った。

 二人とも黙る。

 そして。

 律が小さく笑った。

「研究結果が出たね」

「……そうですね」

 でも。

 浩人はまだ知らなかった。

 その感情に。

 浩人たち二人が、同じ名前をつける日が来ることを。