翌日の放課後。
浩人は旧校舎三階の廊下を歩いていた。
足取りが重い。
昨日のことを思い出す。
『明日からよろしく』
律は、あまりにも自然にそう言った。
まるで浩人が部員になることが決まったみたいに。
でも浩人は、あくまでまだ見学という身分だ。
様子を見て、変な部活だと判断したら帰る。
それでいい。
「……よし」
自分に言い聞かせて、部室の扉を開ける。
「遅い」
「え?」
入った瞬間、律の声が飛んできた。
「約束の時間から三分遅れてる」
「三分って……」
時計を見る。
本当に三分だった。
「すみません」
「いや、責めてない」
「じゃあ、なんで言ったんですか」
「記録」
律は机の上のノートに何かを書き込んでいる。
「水瀬浩人。到着時刻、十六時三分」
「そんなことまで記録するんですか?」
「研究だから」
「……先輩、本当に研究好きですね」
「うん」
即答だった。
部室の隅では、昨日の女子生徒――小鳥遊亜矢が漫画を読んでいる。
「お、来たね」
「こんにちは」
「昨日から部員扱いされてるけど、大丈夫?」
「僕もそこが気になってます」
「諦めたほうがいいよ」
「どうしてですか?」
「神崎くん、一度興味を持ったものを簡単には手放さないから」
亜矢が楽しそうに笑った。
「ちなみに私も研究対象になったことあるよ」
「何の?」
「失恋した女子は甘いものを食べるのか」
「……」
「結果、私は失恋してなくても甘いものを食べることが判明した」
「それ研究なんですか?」
「本人は大真面目」
「ですよね……」
浩人は頭を抱えた。
やっぱり変な部活だ。
帰ろう。
そう思った。
そのとき。
「水瀬」
律が浩人を呼んだ。
「今日から研究を始める」
「……本当にやるんですか?」
「もちろん」
ホワイトボードには、昨日見た文字。
『研究テーマ①』
『特別扱いされた人間は、その相手を好きになるのか』
その下に新しい項目が書かれている。
『実験期間 一週間』
『被験者 水瀬浩人』
『研究者 神崎律』
「僕だけ被験者なんですか?」
「僕も被験者」
「でも名前がないですよ」
「僕は研究者だから」
「ずるくないですか?」
「研究者には客観性が必要だから」
「自分で言ってる時点で客観的じゃないと思います」
浩人がそう言うと、律は少しだけ笑った。
「じゃあ、二人とも被験者ということで」
そう言って、ホワイトボードに自分の名前を書き加えた。
「それで、具体的には何をするんですか?」
「互いを特別扱いする」
「……それだけ?」
「それだけ」
「どうやって?」
律は少し考えた。
「たとえば――」
浩人の机の上に置かれていた鞄を持ち上げる。
「荷物を持つ」
「いや、大丈夫です」
「実験だから」
「でも――」
「持たせて」
「……はい」
律は浩人の鞄を肩にかけた。
「軽いな」
「教科書くらいしか入ってませんから」
「そう」
律は浩人の隣に立った。
「じゃあ、部室まで行こう」
「部室、ここですけど」
「……」
「……」
沈黙。
亜矢が吹き出した。
「神崎くん、それは天然?」
「違う」
「今の間は?」
「実験内容を考えていた」
「絶対嘘だ」
浩人まで笑ってしまった。
律は少し不満そうな顔をした。
「次」
「まだあるんですか?」
「飲み物」
律が鞄からペットボトルを取り出した。
「これ、君の分だ」
「僕の?」
「うん」
「いつ買ったんですか?」
「さっき」
「……なんで僕の好きな飲み物知ってるんですか?」
「昨日聞いた」
「あ」
そういえば、帰り際に何気なく話した。
浩人は紅茶が好きだと。
「覚えてたんですか?」
「研究だから」
またその言葉。
律は当然のようにペットボトルを浩人へ差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取る。
冷たい。
手のひらにひんやりとした感触が伝わる。
「飲んで」
「今ですか?」
「特別扱いの実験だから」
「関係あります?」
「君が喜ぶかどうかを確認したい」
浩人はペットボトルを見る。
それから律を見る。
「……嬉しいです」
「そう」
律がノートに書き込む。
「神崎先輩」
「何?」
「何を書いたんですか?」
「『水瀬、飲み物を渡すと嬉しそうにする』」
「やめてください」
「なぜ?」
「恥ずかしいです」
「恥ずかしい?」
律のペンが止まる。
「今の感情も重要だな」
「だから研究しないでください!」
「わかった」
そう言いながら、律は書き続けている。
絶対わかってない。
◇
その日の実験は、それだけでは終わらなかった。
浩人が帰ろうとすると、
「駅まで送る」
と言われ。
「一人で帰れます」
「特別扱い」
と言われ。
昇降口では、
「靴、そこに置いたままだよ」
と言われ。
「自分で取れます」
「特別扱い」
と言われ。
結局、浩人は一日中、律に世話を焼かれ続けた。
そして駅へ向かう道。
「先輩」
「何?」
「これ、本当に研究になるんですか?」
「なる」
「何がわかるんです?」
「君が僕を特別だと思うようになるかどうか」
「……」
その言葉に、なぜか足が止まりそうになった。
「それって」
「うん?」
「先輩自身は……僕のことを特別だと思うようになるんですか?」
聞いてしまってから、しまったと思った。
律は黙った。
夕方の道路。
少しだけ冷たい風が吹く。
やがて律は、浩人を見る。
「それも研究結果になる」
「……ずるい答えですね」
「そうかな」
「そうです」
浩人は前を向いた。
胸の奥が妙に落ち着かない。
昨日まで、浩人は律のことを何とも思っていなかった。
変な先輩。
それだけだった。
なのに。
今日は何度も話して。
何度も名前を呼ばれて。
飲み物まで買ってもらって。
帰り道まで一緒に歩いて。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
律のことが気になっている。
でも――。
それもきっと、実験のせいだ。
浩人はそう思うことにした。
その日の夜。
自宅の机で宿題をしていた浩人のスマートフォンが震えた。
知らない番号ではない。
今日、交換したばかりの連絡先。
律からだった。
『今日はどうだった?』
短いメッセージ。
浩人は少し考えてから返信する。
『疲れました』
すぐに既読がついた。
『嫌だった?』
浩人は画面を見つめる。
嫌だったか。
そう聞かれると――。
『嫌ではなかったです』
送信。
少しして。
『よかった』
それだけ返ってきた。
浩人はスマートフォンを伏せた。
なのに。
なぜか、その「よかった」という二文字が。
いつまでも頭から離れなかった。
◇
神崎律は、自室の机に向かっていた。
机の上には研究ノート。
今日一日の記録を書き込む。
『水瀬浩人』
『飲み物を渡す→嬉しい』
『荷物を持つ→困惑』
『帰り道→会話量増加』
そして最後に。
ペンが止まる。
少し考えてから、律は一行を書いた。
『自分が「よかった」と思った理由――不明』
律はその文字をじっと見つめる。
そして、小さく首を傾げた。
「……なんだ、これ」
恋愛現象研究部。
最初の研究は、まだ始まったばかりだった。
浩人は旧校舎三階の廊下を歩いていた。
足取りが重い。
昨日のことを思い出す。
『明日からよろしく』
律は、あまりにも自然にそう言った。
まるで浩人が部員になることが決まったみたいに。
でも浩人は、あくまでまだ見学という身分だ。
様子を見て、変な部活だと判断したら帰る。
それでいい。
「……よし」
自分に言い聞かせて、部室の扉を開ける。
「遅い」
「え?」
入った瞬間、律の声が飛んできた。
「約束の時間から三分遅れてる」
「三分って……」
時計を見る。
本当に三分だった。
「すみません」
「いや、責めてない」
「じゃあ、なんで言ったんですか」
「記録」
律は机の上のノートに何かを書き込んでいる。
「水瀬浩人。到着時刻、十六時三分」
「そんなことまで記録するんですか?」
「研究だから」
「……先輩、本当に研究好きですね」
「うん」
即答だった。
部室の隅では、昨日の女子生徒――小鳥遊亜矢が漫画を読んでいる。
「お、来たね」
「こんにちは」
「昨日から部員扱いされてるけど、大丈夫?」
「僕もそこが気になってます」
「諦めたほうがいいよ」
「どうしてですか?」
「神崎くん、一度興味を持ったものを簡単には手放さないから」
亜矢が楽しそうに笑った。
「ちなみに私も研究対象になったことあるよ」
「何の?」
「失恋した女子は甘いものを食べるのか」
「……」
「結果、私は失恋してなくても甘いものを食べることが判明した」
「それ研究なんですか?」
「本人は大真面目」
「ですよね……」
浩人は頭を抱えた。
やっぱり変な部活だ。
帰ろう。
そう思った。
そのとき。
「水瀬」
律が浩人を呼んだ。
「今日から研究を始める」
「……本当にやるんですか?」
「もちろん」
ホワイトボードには、昨日見た文字。
『研究テーマ①』
『特別扱いされた人間は、その相手を好きになるのか』
その下に新しい項目が書かれている。
『実験期間 一週間』
『被験者 水瀬浩人』
『研究者 神崎律』
「僕だけ被験者なんですか?」
「僕も被験者」
「でも名前がないですよ」
「僕は研究者だから」
「ずるくないですか?」
「研究者には客観性が必要だから」
「自分で言ってる時点で客観的じゃないと思います」
浩人がそう言うと、律は少しだけ笑った。
「じゃあ、二人とも被験者ということで」
そう言って、ホワイトボードに自分の名前を書き加えた。
「それで、具体的には何をするんですか?」
「互いを特別扱いする」
「……それだけ?」
「それだけ」
「どうやって?」
律は少し考えた。
「たとえば――」
浩人の机の上に置かれていた鞄を持ち上げる。
「荷物を持つ」
「いや、大丈夫です」
「実験だから」
「でも――」
「持たせて」
「……はい」
律は浩人の鞄を肩にかけた。
「軽いな」
「教科書くらいしか入ってませんから」
「そう」
律は浩人の隣に立った。
「じゃあ、部室まで行こう」
「部室、ここですけど」
「……」
「……」
沈黙。
亜矢が吹き出した。
「神崎くん、それは天然?」
「違う」
「今の間は?」
「実験内容を考えていた」
「絶対嘘だ」
浩人まで笑ってしまった。
律は少し不満そうな顔をした。
「次」
「まだあるんですか?」
「飲み物」
律が鞄からペットボトルを取り出した。
「これ、君の分だ」
「僕の?」
「うん」
「いつ買ったんですか?」
「さっき」
「……なんで僕の好きな飲み物知ってるんですか?」
「昨日聞いた」
「あ」
そういえば、帰り際に何気なく話した。
浩人は紅茶が好きだと。
「覚えてたんですか?」
「研究だから」
またその言葉。
律は当然のようにペットボトルを浩人へ差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取る。
冷たい。
手のひらにひんやりとした感触が伝わる。
「飲んで」
「今ですか?」
「特別扱いの実験だから」
「関係あります?」
「君が喜ぶかどうかを確認したい」
浩人はペットボトルを見る。
それから律を見る。
「……嬉しいです」
「そう」
律がノートに書き込む。
「神崎先輩」
「何?」
「何を書いたんですか?」
「『水瀬、飲み物を渡すと嬉しそうにする』」
「やめてください」
「なぜ?」
「恥ずかしいです」
「恥ずかしい?」
律のペンが止まる。
「今の感情も重要だな」
「だから研究しないでください!」
「わかった」
そう言いながら、律は書き続けている。
絶対わかってない。
◇
その日の実験は、それだけでは終わらなかった。
浩人が帰ろうとすると、
「駅まで送る」
と言われ。
「一人で帰れます」
「特別扱い」
と言われ。
昇降口では、
「靴、そこに置いたままだよ」
と言われ。
「自分で取れます」
「特別扱い」
と言われ。
結局、浩人は一日中、律に世話を焼かれ続けた。
そして駅へ向かう道。
「先輩」
「何?」
「これ、本当に研究になるんですか?」
「なる」
「何がわかるんです?」
「君が僕を特別だと思うようになるかどうか」
「……」
その言葉に、なぜか足が止まりそうになった。
「それって」
「うん?」
「先輩自身は……僕のことを特別だと思うようになるんですか?」
聞いてしまってから、しまったと思った。
律は黙った。
夕方の道路。
少しだけ冷たい風が吹く。
やがて律は、浩人を見る。
「それも研究結果になる」
「……ずるい答えですね」
「そうかな」
「そうです」
浩人は前を向いた。
胸の奥が妙に落ち着かない。
昨日まで、浩人は律のことを何とも思っていなかった。
変な先輩。
それだけだった。
なのに。
今日は何度も話して。
何度も名前を呼ばれて。
飲み物まで買ってもらって。
帰り道まで一緒に歩いて。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
律のことが気になっている。
でも――。
それもきっと、実験のせいだ。
浩人はそう思うことにした。
その日の夜。
自宅の机で宿題をしていた浩人のスマートフォンが震えた。
知らない番号ではない。
今日、交換したばかりの連絡先。
律からだった。
『今日はどうだった?』
短いメッセージ。
浩人は少し考えてから返信する。
『疲れました』
すぐに既読がついた。
『嫌だった?』
浩人は画面を見つめる。
嫌だったか。
そう聞かれると――。
『嫌ではなかったです』
送信。
少しして。
『よかった』
それだけ返ってきた。
浩人はスマートフォンを伏せた。
なのに。
なぜか、その「よかった」という二文字が。
いつまでも頭から離れなかった。
◇
神崎律は、自室の机に向かっていた。
机の上には研究ノート。
今日一日の記録を書き込む。
『水瀬浩人』
『飲み物を渡す→嬉しい』
『荷物を持つ→困惑』
『帰り道→会話量増加』
そして最後に。
ペンが止まる。
少し考えてから、律は一行を書いた。
『自分が「よかった」と思った理由――不明』
律はその文字をじっと見つめる。
そして、小さく首を傾げた。
「……なんだ、これ」
恋愛現象研究部。
最初の研究は、まだ始まったばかりだった。



