恋を研究していたら、研究対象と恋をした

 文化祭まで、あと二十日。

 放課後の教室では、各クラスが準備に追われていた。

 廊下には段ボール。

 窓には色紙。

 遠くから、誰かが試作した音楽が聞こえてくる。

 学校全体が、少しずつ文化祭の空気に変わっていた。

 浩人も教室で作業をしていた。

「水瀬、この紙切って」

「分かった」

 クラスメイトから渡された画用紙を切る。

 そのとき。

「水瀬」

「はい?」

 別の男子が声をかけてきた。

「文化祭、恋愛研究部で相談ブースやるんだって?」

「うん」

「神崎先輩と一緒?」

「そうだけど」

「いいなあ」

「何が?」

「女子から人気出そうじゃん」

「……?」

 男子は笑った。

「お前ら、付き合ってるって噂になってるし」

「付き合ってないよ」

 浩人は即答した。

「まだ?」

「……え?」

「いや、何でもない」

 男子は笑いながら離れていった。

「まだ……」

 その言葉が。

 なぜか頭に残った。

     ◇

 いつも通り放課後は部室へ向かう。

「こんにちは」

「浩人」

 律が顔を上げた。

「今日、遅かったね」

「クラスの文化祭準備があって」

「そっか」

 律は笑った。

「疲れた?」

「少し」

「じゃあ、今日は早めに帰ろう」

「え?」

「文化祭まで忙しくなるから」

 浩人は少し驚いた。

 最近の律なら。

 もう少し話そう、と言うと思っていた。

「……先輩」

「うん?」

「何かありました?」

「何もないよ」

「本当ですか?」

「うん」

 でも。

 浩人には分かった。

 いつもより少しだけ。

 律が距離を取っている。

     ◇

 次の日。

 さらにその次の日も。

 律は変わらなかった。

 優しい。

 いつも通り話してくれる。

 でも。

 以前のように、帰り道を一緒に歩こうとは言わない。

 昼休みも。

 「今日は屋上で食べる?」

 と聞いてこなくなった。

 浩人は、その変化が気になって仕方がなかった。

「……僕、何かしたかな」

「浩人くん」

 杏が隣から声をかける。

「神崎くんと喧嘩でもした?」

「してない」

「じゃあ、なんでそんな顔?」

「……先輩が最近、ちょっと変なんだ」

「どんなふうに?」

「距離を取ってる感じがする」

 杏は少し考えた。

「もしかしたら、神崎くんなりに考えてるんじゃない?」

「何を?」

「浩人くんの気持ち」

「……」

 その言葉を聞いて。

 浩人は胸がざわついた。

     ◇

 その日の放課後。

 浩人は部室に一人で残った。

 律は先に帰った。

 机の上には、文化祭用の資料。

 その中に。

 律が書いた研究テーマがあった。

『名前のない感情』

 浩人はその文字を見る。

「……名前」

 自分の気持ちに。

 名前をつける。

 それが怖かった。

 けれど。

 最近は。

 名前をつけたいとも思う。

 そして。

 その名前を。

 律にも知ってほしい。

「……好き」

 小さく口にした。

 誰もいない部室。

 声に出してみると。

 胸が苦しくなる。

「……僕、先輩のこと」

 そこまで言ったところで。

「浩人」

「!」

 突然、後ろから声がした。

 振り返る。

「せ、先輩?」

 律が立っていた。

「忘れ物を取りに来た」

「……そうだったんですか」

「うん」

 浩人は慌てて目を逸らした。

「何か言ってた?」

「何も」

「そう?」

「はい」

 律は浩人の前まで歩いてくる。

「浩人」

「……はい」

「最近、僕が距離を取ってること」

「気づいてました」

「やっぱり」

「どうしてですか?」

 律は黙った。

 そして。

「君に、考える時間をあげたかった」

「……」

「僕は、君のことが好きかもしれない」

 浩人の心臓が跳ねる。

「でも」

 律は続けた。

「君が僕に合わせて答えを出す必要はない」

「……」

「だから、少し待とうと思った」

 浩人は律を見る。

「先輩」

「うん」

「僕は」

 言葉を探す。

「先輩に合わせたわけじゃありません」

「……」

「最近、ずっと考えてました」

「何を?」

「先輩と会うと嬉しい」

「うん」

「先輩から連絡が来ると嬉しい」

「うん」

「他の人と仲良くしてると嫌です」

「……」

「離れたくないです」

 浩人は一度息を吸った。

「それで」

 少し震える声で。

「今日、自分で言ってみたんです」

「何を?」

 浩人は律を見た。

「好き、って」

 律が息を呑む。

「……」

「まだ」

 浩人は続けた。

「自信はないです」

「うん」

「でも」

 一歩だけ近づく。

「先輩のことを、好きになってるんだと思います」

 律は何も言わなかった。

 ただ。

 とても嬉しそうに笑った。

「ありがとう」

「……はい」

「待っててよかった」

 その言葉に。

 浩人の胸が温かくなる。

「先輩」

「うん?」

「もう、距離を取らないでください」

「……いいの?」

「はい」

「本当に?」

「本当に」

 律は少しだけ迷って。

 そっと手を差し出した。

 浩人も。

 その手を取った。

「……やっぱり」

 律が笑う。

「手をつなぐと安心する」

「僕もです」

「じゃあ」

「はい」

 二人はそのまま部室を出た。

 帰り道。

 手をつないで歩く。

 以前とは違う。

 ただの「研究」ではない。

 演技でもない。

 けれど。

 まだ、正式に恋人になったわけでもない。

 その曖昧さが。

 今の二人には心地よかった。

     ◇


 文化祭準備のため、部室では新しい企画書を作っていた。

「相談ブースの紹介文、これでいいかな」

 杏が紙を見せる。

「『恋愛の悩みを、二人の相談員が一緒に解決します』」

「いいんじゃない?」

 蓮が頷く。

 そのとき。

 部室の扉が開いた。

「失礼します」

 入ってきたのは生徒会長だった。

「恋愛現象研究部のみなさんに、お願いがあります」

「何でしょう?」

 律が尋ねる。

「文化祭当日」

 生徒会長は一枚の紙を差し出した。

「あなたたちには、もう一つ企画に参加してもらいたいんです」

「もう一つ?」

「はい」

 紙には。

『文化祭・ベストカップルコンテスト』

 と書かれていた。

 浩人と律は。

 同時に顔を見合わせた。

「……ベストカップル?」

「そうです」

 生徒会長は微笑んだ。

「ぜひ、お二人で出場してください」

 浩人の顔が熱くなる。

 そして律は。

 少しだけ嬉しそうに笑った。

「……どうする?」

 浩人はしばらく考えて。

「出ます」

 そう答えた。

 今度は。

 恋人のふりをするためではない。

 いつか本物になるために。

 二人は文化祭という舞台へ。

 一歩踏み出すことになった。