恋を研究していたら、研究対象と恋をした

 文化祭まで、あと三週間。

 恋愛現象研究部では、放課後になると文化祭の準備が行われるようになった。

「相談ブースの名前、どうする?」

 杏がホワイトボードの前で尋ねる。

「普通に『恋愛相談室』でいいんじゃない?」

 蓮が答える。

「普通すぎる」

「じゃあ小鳥遊が考えて」

「……『恋する実験室』」

「却下」

「なんで!?」

 いつものようなやり取り。

 その横で、浩人は資料を整理していた。

「水瀬」

「はい?」

 律に呼ばれる。

「これ見て」

 渡されたのは文化祭企画の説明書。

「『相談員は二人一組で参加し、恋人同士のような雰囲気を演出すること』……」

 浩人は読み上げて。

 固まった。

「……恋人同士のような?」

「そう」

「演出するんですか?」

「うん」

「僕と先輩が?」

「そう」

 顔が熱くなる。

「……演技ですよね?」

「もちろん」

「ですよね」

 安心した。

 はずだった。

「じゃあ、練習しようか」

「……何を?」

「恋人らしく見える練習」

「…………」

 浩人は絶句した。

「必要?」

「必要だと思う」

「でも」

「相談者が来たとき、不自然だと困る」

 律は真剣だった。

「それは……そうですけど」

 杏が口を挟む。

「じゃあ、まず距離感からじゃない?」

「距離感?」

「恋人同士なら、ある程度近いほうが自然でしょ」

 浩人の顔が引きつる。

「どのくらい?」

 律が尋ねる。

 杏は二人を見比べた。

「これくらい」

 杏が指で距離を示す。

「……近い」

 浩人が呟く。

「でも、実際の恋人ならもっと近くてもおかしくないよ」

「……」

 浩人は律を見る。

 律も浩人を見ている。

「やってみる?」

「……はい」

 二人が並んで座る。

 肩が触れそうになる。

「近い……」

「嫌?」

「嫌じゃないです」

 浩人は小さく答えた。

 律が少しだけ笑う。

「じゃあ、このまま」

「……はい」

 数秒。

 何も起こらない。

 なのに。

 浩人の心臓だけが、うるさい。

「次」

 杏が言う。

「名前で呼ぶ」

「名前?」

「神崎くん、浩人くんだと距離がある感じがするから」

「なるほど」

 律が頷く。

 そして。

「浩人」

「……!」

 初めて。

 名前で呼ばれた。

 浩人は思わず律を見る。

「どう?」

「……」

 言葉が出ない。

「浩人?」

「……もう一回」

「浩人」

「……はい」

 声が小さくなる。

 杏がニヤニヤしている。

「じゃあ、水瀬くんも」

「え?」

「神崎くんを名前で呼んで」

「……」

 浩人は緊張しながら口を開く。

「……律先輩」

「先輩はつけるんだ」

「無理です!」

「じゃあ、律さん?」

「もっと無理です!」

 杏が笑う。

「じゃあ、律」

「…………」

 浩人は顔を真っ赤にした。

「……律」

「うん」

 律が嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て。

 浩人は思った。

 この人に名前を呼ばれるのが。

 こんなに嬉しいなんて。

     ◇

 練習が終わったあと。

 浩人と律は二人で帰っていた。

「……今日は疲れました」

「僕も」

「特に名前」

「浩人?」

「……それです」

「嫌だった?」

「違います」

 浩人は首を振る。

「嫌じゃないです」

「じゃあ、これからも呼んでいい?」

「……はい」

 律が笑う。

「ありがとう」

 少し歩く。

「律先輩」

「何?」

「僕も……」

 浩人は迷った。

「名前で呼んでもいいですか?」

「もちろん」

「……律……先輩」

「うん」

「……」

「何?」

「呼んでみただけです」

 律が笑う。

「じゃあ、僕も」

「?」

「浩人」

「……はい」

 そのやり取りだけで。

 二人は笑った。

     ◇

 翌日の放課後。

 部室に一人の女子生徒がやってきた。

「小鳥遊先輩に薦められて……恋愛相談をしたいんですけど」

「どうぞ」

 文化祭の予行練習として杏が何人かに声を掛けたということは事前に聞いていた。

 律が椅子をすすめる。

 浩人も隣に座る。

「実は……好きな人がいるんです」

「はい」

「でも、その人には好きな人がいるみたいで」

「なるほど」

 律が話を聞く。

 浩人はメモを取る。

 結論を出すというよりは、あくまでも話を聞いて吐き出させることがメインだった。

 相談が終わると。

「ありがとうございました」

 女子生徒は立ち上がった。

 そして。

「あの」

「はい?」

「神崎先輩と水瀬くんって」

「……?」

「本当に付き合ってるんですか?」

「え?」

 浩人の顔が熱くなる。

「違います」

 慌てて答える。

「そうなんですか?」

「はい」

「でも、すごく仲良さそうだから」

「……」

 女子生徒は微笑んだ。

「なんだか、羨ましいです」

 そう言って帰っていった。

 扉が閉まる。

「……」

「……」

 二人とも黙っていた。

 やがて。

「浩人」

「はい」

「僕たち、そんなに恋人っぽく見えるのかな」

「……どうでしょう」

「僕は」

 律が言う。

「そう見えてもいいと思う」

「……」

 浩人は胸が跳ねる。

「だって」

 律は少しだけ笑った。

「いつか、本当にそうなったらいいと思ってるから」

 浩人は何も言えなかった。

 ただ。

 その言葉を。

 何度も心の中で繰り返していた。

 本当に。

 そうなったら。

 いい。

 自分も。

 そう思っているのかもしれない。

 でも。

 まだ怖くて。

 口にはできなかった。

 文化祭まで、あと二十日。

 二人の「恋人役」は。

 少しずつ。

 本物に近づいていた。