浩人は、朝から落ち着かなかった。
理由は一つ。
律と手をつないだ。
ほんの少しの時間だった。
それなのに。
その感触が、ずっと残っている気がする。
「……忘れよう」
そう呟いて、浩人は教室に入った。
そして。
「おはよう、水瀬」
「!」
廊下で律と出会った。
「お、おはようございます」
「……?」
律が首を傾げる。
「どうした?」
「何でもないです」
「そう?」
「はい」
浩人はそのまま教室へ入った。
律はその背中を見送る。
「……避けられてる?」
◇
昼休みだ。。
いつもなら屋上へ行く。
けれど今日は。
「……今日は教室で食べよう」
浩人は弁当を開いた。
五分後。
スマートフォンが震える。
《屋上にいる》
律からだった。
浩人は返信を打つ。
《今日は行けません》
送信。
すぐに既読がついた。
《分かった》
それだけ。
浩人はスマートフォンを伏せた。
胸が痛い。
自分から避けたくせに。
律が何も言わないことが寂しい。
「……僕、面倒くさいな」
そんなことを呟いていると。
「浩人くん」
杏がやってきた。
「何度も言いますけど、ここ一年の教室ですよ」
「今日、神崎先輩と喧嘩した?」
「してないです」
「じゃあ、何で避けてるの?」
「……」
浩人は答えられなかった。
「何かあった?」
「……手を」
「え?」
「手を、つないだ」
杏の目が丸くなる。
「……それだけ?」
「それだけって」
「だって、それって」
杏は少し考えて。
「かなり大きな一歩じゃない?」
「……やっぱり?」
「うん」
浩人は頭を抱えた。
「だから困ってるというか」
「何が?」
「昨日までは、まだ『分からない』で済んだ」
「うん」
「でも、手をつないだら……」
浩人は自分の手を見る。
「先輩を好きなんじゃないかって、思ってしまって」
杏は何も言わなかった。
「……怖い」
浩人は続ける。
「もし僕だけだったら?」
「……」
「もし先輩にとっては、ただの一時的な感情だったら?」
杏はしばらく浩人を見ていた。
そして。
「それなら、聞けばいいんじゃない?」
「……聞けない」
「どうして?」
「怖いから」
「じゃあ」
杏は笑った。
「怖いままでも、話してみれば?」
◇
重苦しさを感じる放課後。
浩人は一人で部室へ向かった。
扉を開ける。
「こんにちは」
「水瀬」
律がいた。
いつも通り。
研究ノートを開いている。
「……先輩」
「うん」
「昨日のことなんですけど」
「手をつないだこと?」
「……はい」
律は研究ノートを閉じた。
「何?」
「僕」
浩人は拳を握る。
「今日、ずっと考えてました」
「うん」
「昨日のこと」
「僕も」
「……」
「ずっと考えてた」
律は真っ直ぐ浩人を見る。
「嬉しかった」
浩人の胸が鳴る。
「僕も……嬉しかったです」
「じゃあ」
律が尋ねる。
「どうして今日は避けたの?」
「……怖くなったんです」
「何が?」
「このまま進んだら」
浩人は言葉を選ぶ。
「戻れなくなる気がして」
「戻らなくてもいいんじゃない?」
「……」
「僕は、戻りたくない」
律の声は穏やかだった。
「水瀬」
「はい」
「僕は君と手をつないだことを、研究結果にしたくない」
「……」
「昨日のことは、昨日のこととして覚えていたい」
「先輩」
「僕は」
律が少しだけ息を吐く。
「君と手をつなぎたかったから、つないだ」
浩人の目が大きくなる。
「研究じゃない」
「……本当に?」
「うん」
「じゃあ」
浩人は恐る恐る聞いた。
「先輩は、僕のことを……」
言葉が出てこない。
律も急かさなかった。
「……好きですか?」
ようやく。
浩人は口にした。
部室が静まり返る。
律はすぐには答えなかった。
そして。
「……たぶん」
「たぶん?」
「今の僕には、それが一番正直な答え」
浩人は少しだけ笑った。
「先輩らしいですね」
「ごめん」
「でも」
浩人は首を横に振る。
「僕も同じです」
「……」
「好きかどうか、まだ自信はないです」
浩人は自分の胸に手を当てた。
「でも」
「うん」
「先輩といると嬉しい」
「……」
「会えると嬉しい」
「うん」
「他の人といると、ちょっと嫌です」
「……うん」
「だから」
浩人は顔を上げた。
「もう少しだけ、このままでいてもいいですか?」
律は笑った。
「もちろん」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
◇
部活が終わる。
二人で学校を出る。
夕方の空。
長い影が道路に伸びている。
「水瀬」
「はい?」
「手」
「……え?」
律が右手を差し出した。
「嫌?」
「……嫌じゃないです」
浩人は少し迷って。
その手を取った。
昨日よりも自然に。
今度は、二人とも何も言わなかった。
ただ並んで歩く。
手をつないだまま。
しばらくして。
「先輩」
「うん?」
「これ」
「何?」
「研究じゃないですよね」
「うん」
「じゃあ」
浩人は小さく笑った。
「忘れないでくださいね」
「忘れないよ」
律は答えた。
「絶対に」
その言葉に。
浩人の胸が温かくなる。
まだ二人は。
自分たちの関係に名前をつけていない。
けれど。
少しずつ。
確かなものになっていた。
夜、律は研究ノートを開いた。
いつものように記録を書こうとして。
ペンを止める。
そして。
その日のページには。
一行だけ書いた。
『今日は、研究しなかった』
その下に。
『それでも、嬉しかった』
律は静かにノートを閉じた。
理由は一つ。
律と手をつないだ。
ほんの少しの時間だった。
それなのに。
その感触が、ずっと残っている気がする。
「……忘れよう」
そう呟いて、浩人は教室に入った。
そして。
「おはよう、水瀬」
「!」
廊下で律と出会った。
「お、おはようございます」
「……?」
律が首を傾げる。
「どうした?」
「何でもないです」
「そう?」
「はい」
浩人はそのまま教室へ入った。
律はその背中を見送る。
「……避けられてる?」
◇
昼休みだ。。
いつもなら屋上へ行く。
けれど今日は。
「……今日は教室で食べよう」
浩人は弁当を開いた。
五分後。
スマートフォンが震える。
《屋上にいる》
律からだった。
浩人は返信を打つ。
《今日は行けません》
送信。
すぐに既読がついた。
《分かった》
それだけ。
浩人はスマートフォンを伏せた。
胸が痛い。
自分から避けたくせに。
律が何も言わないことが寂しい。
「……僕、面倒くさいな」
そんなことを呟いていると。
「浩人くん」
杏がやってきた。
「何度も言いますけど、ここ一年の教室ですよ」
「今日、神崎先輩と喧嘩した?」
「してないです」
「じゃあ、何で避けてるの?」
「……」
浩人は答えられなかった。
「何かあった?」
「……手を」
「え?」
「手を、つないだ」
杏の目が丸くなる。
「……それだけ?」
「それだけって」
「だって、それって」
杏は少し考えて。
「かなり大きな一歩じゃない?」
「……やっぱり?」
「うん」
浩人は頭を抱えた。
「だから困ってるというか」
「何が?」
「昨日までは、まだ『分からない』で済んだ」
「うん」
「でも、手をつないだら……」
浩人は自分の手を見る。
「先輩を好きなんじゃないかって、思ってしまって」
杏は何も言わなかった。
「……怖い」
浩人は続ける。
「もし僕だけだったら?」
「……」
「もし先輩にとっては、ただの一時的な感情だったら?」
杏はしばらく浩人を見ていた。
そして。
「それなら、聞けばいいんじゃない?」
「……聞けない」
「どうして?」
「怖いから」
「じゃあ」
杏は笑った。
「怖いままでも、話してみれば?」
◇
重苦しさを感じる放課後。
浩人は一人で部室へ向かった。
扉を開ける。
「こんにちは」
「水瀬」
律がいた。
いつも通り。
研究ノートを開いている。
「……先輩」
「うん」
「昨日のことなんですけど」
「手をつないだこと?」
「……はい」
律は研究ノートを閉じた。
「何?」
「僕」
浩人は拳を握る。
「今日、ずっと考えてました」
「うん」
「昨日のこと」
「僕も」
「……」
「ずっと考えてた」
律は真っ直ぐ浩人を見る。
「嬉しかった」
浩人の胸が鳴る。
「僕も……嬉しかったです」
「じゃあ」
律が尋ねる。
「どうして今日は避けたの?」
「……怖くなったんです」
「何が?」
「このまま進んだら」
浩人は言葉を選ぶ。
「戻れなくなる気がして」
「戻らなくてもいいんじゃない?」
「……」
「僕は、戻りたくない」
律の声は穏やかだった。
「水瀬」
「はい」
「僕は君と手をつないだことを、研究結果にしたくない」
「……」
「昨日のことは、昨日のこととして覚えていたい」
「先輩」
「僕は」
律が少しだけ息を吐く。
「君と手をつなぎたかったから、つないだ」
浩人の目が大きくなる。
「研究じゃない」
「……本当に?」
「うん」
「じゃあ」
浩人は恐る恐る聞いた。
「先輩は、僕のことを……」
言葉が出てこない。
律も急かさなかった。
「……好きですか?」
ようやく。
浩人は口にした。
部室が静まり返る。
律はすぐには答えなかった。
そして。
「……たぶん」
「たぶん?」
「今の僕には、それが一番正直な答え」
浩人は少しだけ笑った。
「先輩らしいですね」
「ごめん」
「でも」
浩人は首を横に振る。
「僕も同じです」
「……」
「好きかどうか、まだ自信はないです」
浩人は自分の胸に手を当てた。
「でも」
「うん」
「先輩といると嬉しい」
「……」
「会えると嬉しい」
「うん」
「他の人といると、ちょっと嫌です」
「……うん」
「だから」
浩人は顔を上げた。
「もう少しだけ、このままでいてもいいですか?」
律は笑った。
「もちろん」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
◇
部活が終わる。
二人で学校を出る。
夕方の空。
長い影が道路に伸びている。
「水瀬」
「はい?」
「手」
「……え?」
律が右手を差し出した。
「嫌?」
「……嫌じゃないです」
浩人は少し迷って。
その手を取った。
昨日よりも自然に。
今度は、二人とも何も言わなかった。
ただ並んで歩く。
手をつないだまま。
しばらくして。
「先輩」
「うん?」
「これ」
「何?」
「研究じゃないですよね」
「うん」
「じゃあ」
浩人は小さく笑った。
「忘れないでくださいね」
「忘れないよ」
律は答えた。
「絶対に」
その言葉に。
浩人の胸が温かくなる。
まだ二人は。
自分たちの関係に名前をつけていない。
けれど。
少しずつ。
確かなものになっていた。
夜、律は研究ノートを開いた。
いつものように記録を書こうとして。
ペンを止める。
そして。
その日のページには。
一行だけ書いた。
『今日は、研究しなかった』
その下に。
『それでも、嬉しかった』
律は静かにノートを閉じた。



