朝早くに登校するなり。
浩人は、教室に入るなり机に突っ伏した。
「……昨日の僕、何やってたんだ」
思い出す。
帰り道。
律の隣を歩いた。
いつもより近い距離で。
そして――。
手が触れそうになった。
結局、触れなかった。
けれど。
あの距離を思い出すだけで、顔が熱くなる。
「浩人くん」
「……小鳥遊先輩、ここ一年の教室ですよ」
「うん、知っている」
杏が机の横に立っている。
神出鬼没な人だ。
「朝から赤いけど、大丈夫?」
「大丈夫」
「神崎くんのこと?」
「違う」
「まだ何も言ってないけど」
「……」
またやってしまった。
杏が笑う。
「本当に分かりやすいね」
「もう放っておいてください」
「はいはい」
杏はさっさと去っていく。
その直後、浩人のスマートフォンが震える。
律からだった。
《おはよう》
たった五文字。
なのに。
浩人は思わず笑ってしまう。
《おはようございます》
送信。
すぐに返信が来る。
《今日、昼休み屋上で》
《分かりました》
そこでメッセージは終わった。
それだけなのに。
浩人は午前中ずっと、昼休みが来るのを待っていた。
◇
昼休みになるといそいろ屋上へと向かう。
扉を開けるとーー
「先輩」
「来たね」
律がベンチに座っている。
「今日は早いですね」
「君に会いたかったから」
「……」
まただ。
最近の律は、以前よりずっと率直になっている。
「先輩」
「うん?」
「そういうの、学校でも言うんですか?」
「誰に?」
「誰にって……」
「君以外には言わないよ」
浩人は何も言えなくなった。
「……ずるいです」
「何が?」
「先輩のそういうところ」
「よく分からない」
律は本当に分からないらしい。
浩人はため息をついた。
「それより」
律が弁当を広げる。
「今日は一つ相談がある」
「何ですか?」
「研究部のこと」
「部活?」
「うん」
律は少し真剣な顔になる。
「今まで僕たちは、恋愛を研究してきた」
「はい」
「でも最近、研究対象と研究者という関係が曖昧になってる」
「……そうですね」
「だから」
律は言った。
「研究テーマを変えたい」
「どう変えるんですか?」
「恋愛を研究するんじゃなくて」
一呼吸。
「人を好きになる前の感情を研究する」
「……」
「名前のついていない感情」
浩人の胸がざわついた。
「それって」
「うん」
律は浩人を見る。
「僕たちのこと」
「……」
浩人は弁当の卵焼きを見つめた。
「僕たちが、今どんな感情なのか」
「はい」
「それを研究する」
「……分かりました」
浩人は頷いた。
けれど。
心の中では。
本当はもう。
答えが分かり始めていた。
◇
放課後の部室には全員が集まっていた。
「新しい研究テーマ?」
蓮が聞く。
「そう」
律がホワイトボードに書く。
『名前のない感情』
「……ずいぶん抽象的だな」
「だから面白い」
「具体的には?」
「誰かと一緒にいたいと思う」
律が書く。
『①会いたい』
「相手のことが気になる」
『②気になる』
「他の人と仲良くしていると嫌」
『③嫉妬』
「そして」
律の手が止まる。
「離れたくない」
『④喪失への不安』
浩人はその文字を見て。
胸が痛くなった。
「最後に」
律が振り返る。
「相手の幸せを、自分のことのように嬉しく思える」
『⑤相手の幸福』
「この五つが揃ったとき」
律は言った。
「それは恋愛感情なのか」
杏が手を挙げる。
「質問」
「何?」
「神くん」
「うん」
「その五つ、全部水瀬くんに当てはまってません?」
「……」
部室が静かになる。
浩人の顔が熱くなる。
「小鳥遊……」
「違う?」
「……」
律は答えなかった。
杏は浩人を見る。
「浩人くんは?」
「僕は……」
言葉に詰まる。
「……分かりません」
「本当に?」
「……」
分からない。
いや。
分かっている。
でも。
怖い。
それを口にしたら。
二人の関係が変わってしまう気がする。
◇
部活が終わった。
帰り道。
二人だけになる。
「水瀬」
「はい」
「今日の質問」
「……はい」
「答えなくていいから」
「え?」
「急がなくていい」
律は前を向いたまま言った。
「僕もまだ、名前をつけるのが怖い」
「先輩も?」
「うん」
「どうして?」
「名前をつけたら」
律は少しだけ笑った。
「その名前に責任を持たなきゃいけない気がするから」
浩人は黙っていた。
「でも」
律が続ける。
「一つだけ、確かなことがある」
「何ですか?」
「君と離れたくない」
浩人の足が止まった。
律も立ち止まる。
「……僕も」
小さく答える。
「先輩と離れたくないです」
二人の距離が近づく。
あと少し。
手を伸ばせば届く距離。
浩人は迷った。
そして。
そっと手を伸ばした。
律も同じように手を伸ばす。
指先が触れる。
今度は。
すぐには離れなかった。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
ただ。
手が触れている。
それだけなのに。
胸の奥がいっぱいになる。
やがて律が小さく笑った。
「これも研究結果かな」
「……違うと思います」
「どうして?」
「僕は」
浩人は指先を少しだけ動かした。
「今、記録されたくないです」
律が目を見開く。
「ただ……」
浩人は俯いた。
「覚えていてほしいです」
律は何も言わなかった。
ただ。
その手を、ほんの少しだけ強く握った。
「分かった」
その声は。
今まで聞いたどんな声より優しかった。
そして二人は。
まだ「好き」とは言わなかった。
けれど。
もう。
ただの先輩と後輩ではいられなくなっていた。
浩人は、教室に入るなり机に突っ伏した。
「……昨日の僕、何やってたんだ」
思い出す。
帰り道。
律の隣を歩いた。
いつもより近い距離で。
そして――。
手が触れそうになった。
結局、触れなかった。
けれど。
あの距離を思い出すだけで、顔が熱くなる。
「浩人くん」
「……小鳥遊先輩、ここ一年の教室ですよ」
「うん、知っている」
杏が机の横に立っている。
神出鬼没な人だ。
「朝から赤いけど、大丈夫?」
「大丈夫」
「神崎くんのこと?」
「違う」
「まだ何も言ってないけど」
「……」
またやってしまった。
杏が笑う。
「本当に分かりやすいね」
「もう放っておいてください」
「はいはい」
杏はさっさと去っていく。
その直後、浩人のスマートフォンが震える。
律からだった。
《おはよう》
たった五文字。
なのに。
浩人は思わず笑ってしまう。
《おはようございます》
送信。
すぐに返信が来る。
《今日、昼休み屋上で》
《分かりました》
そこでメッセージは終わった。
それだけなのに。
浩人は午前中ずっと、昼休みが来るのを待っていた。
◇
昼休みになるといそいろ屋上へと向かう。
扉を開けるとーー
「先輩」
「来たね」
律がベンチに座っている。
「今日は早いですね」
「君に会いたかったから」
「……」
まただ。
最近の律は、以前よりずっと率直になっている。
「先輩」
「うん?」
「そういうの、学校でも言うんですか?」
「誰に?」
「誰にって……」
「君以外には言わないよ」
浩人は何も言えなくなった。
「……ずるいです」
「何が?」
「先輩のそういうところ」
「よく分からない」
律は本当に分からないらしい。
浩人はため息をついた。
「それより」
律が弁当を広げる。
「今日は一つ相談がある」
「何ですか?」
「研究部のこと」
「部活?」
「うん」
律は少し真剣な顔になる。
「今まで僕たちは、恋愛を研究してきた」
「はい」
「でも最近、研究対象と研究者という関係が曖昧になってる」
「……そうですね」
「だから」
律は言った。
「研究テーマを変えたい」
「どう変えるんですか?」
「恋愛を研究するんじゃなくて」
一呼吸。
「人を好きになる前の感情を研究する」
「……」
「名前のついていない感情」
浩人の胸がざわついた。
「それって」
「うん」
律は浩人を見る。
「僕たちのこと」
「……」
浩人は弁当の卵焼きを見つめた。
「僕たちが、今どんな感情なのか」
「はい」
「それを研究する」
「……分かりました」
浩人は頷いた。
けれど。
心の中では。
本当はもう。
答えが分かり始めていた。
◇
放課後の部室には全員が集まっていた。
「新しい研究テーマ?」
蓮が聞く。
「そう」
律がホワイトボードに書く。
『名前のない感情』
「……ずいぶん抽象的だな」
「だから面白い」
「具体的には?」
「誰かと一緒にいたいと思う」
律が書く。
『①会いたい』
「相手のことが気になる」
『②気になる』
「他の人と仲良くしていると嫌」
『③嫉妬』
「そして」
律の手が止まる。
「離れたくない」
『④喪失への不安』
浩人はその文字を見て。
胸が痛くなった。
「最後に」
律が振り返る。
「相手の幸せを、自分のことのように嬉しく思える」
『⑤相手の幸福』
「この五つが揃ったとき」
律は言った。
「それは恋愛感情なのか」
杏が手を挙げる。
「質問」
「何?」
「神くん」
「うん」
「その五つ、全部水瀬くんに当てはまってません?」
「……」
部室が静かになる。
浩人の顔が熱くなる。
「小鳥遊……」
「違う?」
「……」
律は答えなかった。
杏は浩人を見る。
「浩人くんは?」
「僕は……」
言葉に詰まる。
「……分かりません」
「本当に?」
「……」
分からない。
いや。
分かっている。
でも。
怖い。
それを口にしたら。
二人の関係が変わってしまう気がする。
◇
部活が終わった。
帰り道。
二人だけになる。
「水瀬」
「はい」
「今日の質問」
「……はい」
「答えなくていいから」
「え?」
「急がなくていい」
律は前を向いたまま言った。
「僕もまだ、名前をつけるのが怖い」
「先輩も?」
「うん」
「どうして?」
「名前をつけたら」
律は少しだけ笑った。
「その名前に責任を持たなきゃいけない気がするから」
浩人は黙っていた。
「でも」
律が続ける。
「一つだけ、確かなことがある」
「何ですか?」
「君と離れたくない」
浩人の足が止まった。
律も立ち止まる。
「……僕も」
小さく答える。
「先輩と離れたくないです」
二人の距離が近づく。
あと少し。
手を伸ばせば届く距離。
浩人は迷った。
そして。
そっと手を伸ばした。
律も同じように手を伸ばす。
指先が触れる。
今度は。
すぐには離れなかった。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
ただ。
手が触れている。
それだけなのに。
胸の奥がいっぱいになる。
やがて律が小さく笑った。
「これも研究結果かな」
「……違うと思います」
「どうして?」
「僕は」
浩人は指先を少しだけ動かした。
「今、記録されたくないです」
律が目を見開く。
「ただ……」
浩人は俯いた。
「覚えていてほしいです」
律は何も言わなかった。
ただ。
その手を、ほんの少しだけ強く握った。
「分かった」
その声は。
今まで聞いたどんな声より優しかった。
そして二人は。
まだ「好き」とは言わなかった。
けれど。
もう。
ただの先輩と後輩ではいられなくなっていた。



