恋を研究していたら、研究対象と恋をした

 翌日の放課後。

 浩人は部室の前で立ち止まっていた。

 昨日届いたメッセージが頭から離れない。

『研究対象だった人が、別の人を好きになったから』

 あの二年生が言っていたこと。

 律が以前、研究対象にしていた相手。

 その人には、別に好きな人ができた。

 だから研究は終わった。

 ただ、それだけの話。

 なのに。

 なぜか胸がざわついて仕方がない。

「……僕、何を気にしてるんだろ」

 深呼吸する。

 そして扉を開けた。

「こんにちは」

「水瀬」

 律が顔を上げた。

「遅かったね」

「少し考え事してました」

「何かあった?」

「……先輩のことです」

 律の手が止まる。

「僕?」

「はい」

 浩人は椅子に座った。

「昨日、二年生の人から聞いたことなんですけど」

「うん」

「前の研究対象だった人は、別の人を好きになったんですよね」

「そう」

「そのとき、先輩は……どう思ったんですか?」

 律は黙った。

「正直に言うと」

 やがて口を開く。

「最初は、寂しかった」

「……」

「自分が必要とされなくなったみたいに感じた」

 浩人は黙って聞いている。

「でも、その人が幸せそうだったから」

 律は続けた。

「最後には、応援したいと思った」

「……先輩らしいですね」

「そうかな」

「はい」

 律は少し笑った。

「でも」

 その笑顔が消える。

「今は、同じことが起きたら、たぶん平気ではいられないと思う」

「え?」

「君が誰かを好きになったら」

 律は浩人を見る。

「僕は、きっと寂しい」

 胸が大きく鳴った。

「……それは」

「うん」

「研究対象だからですか?」

 律は首を横に振った。

「分からない」

「また……」

「ごめん」

「いえ」

 浩人は俯いた。

 嬉しい。

 でも。

 怖い。

 この人の気持ちが、どんどん自分に近づいているような気がする。

 それなのに。

 まだ名前がない。

     ◇

「今日は研究しない?」

 浩人が尋ねた。

「うん」

「じゃあ、何します?」

「話そう」

「また?」

「うん」

 律は少し笑った。

「君のことを、研究じゃなく知りたい」

「……」

「趣味とか、好きなものとか」

「それなら前にも話しましたよ」

「まだ足りない」

「そんなに?」

「うん」

 律は真剣だった。

「もっと知りたい」

 その言葉に。

 浩人は少しだけ笑った。

「じゃあ、質問してください」

「本当に?」

「はい」

 律は考える。

「好きな季節」

「秋」

「理由」

「暑くないから」

「……それだけ?」

「あと、食べ物がおいしい」

「好きな食べ物」

「焼き芋」

「意外」

「先輩、それ禁止です」

「ごめん」

 二人で笑う。

「嫌いなものは?」

「苦いもの」

「将来やりたいことは?」

「まだ決まってません」

「怖いものは?」

「……」

 浩人は少し考えた。

「置いていかれること」

 律の表情が変わる。

「どういう意味?」

「友達とか、仲のいい人とか」

 浩人は苦笑した。

「自分だけ知らないところで、みんな先に進んでいくのが嫌なんです」

「……」

「だから、先輩が前の人みたいに、僕のことを研究して、いつか終わりにするのかなって」

 言ってから。

 少し後悔した。

「ごめんなさい」

「謝らなくていい」

 律は言った。

「僕のほうこそ、ごめん」

「先輩?」

「君を不安にさせた」

 律は少し考えてから。

「じゃあ、一つ約束する」

「何ですか?」

「君が嫌だと言うまで、僕から離れない」

「……」

「研究が終わっても」

「……はい」

「君が僕を必要としなくなっても」

 律は少し寂しそうに笑った。

「それでも、僕は君のことを大切にする」

 浩人は何も言えなかった。

 胸がいっぱいになる。

「先輩」

「うん」

「僕も」

「何?」

「先輩が困ってるときは、そばにいます」

 律が目を見開いた。

「……ありがとう」

 その声は、とても小さかった。

     ◇

 翌日の昼休み。

 浩人が屋上へ向かうと、律が誰かと話していた。

 二年生の男子。

 昨日、廊下で浩人を呼び止めた人物だった。

「……」

 二人の会話が聞こえる。

「もう、水瀬には余計なことを言わないでくれ」

「でも、神崎」

「僕が話す」

「……本当に?」

「うん」

 男子生徒は浩人に気づいた。

「あ」

 律も振り返る。

「水瀬」

「先輩……」

 浩人は二人に近づく。

「何の話ですか?」

「君のこと」

「僕?」

 律は少し迷ったあと。

「前の研究対象のことを、詳しく話してくれたんだ」

「……」

「それだけ」

「そうですか」

 浩人は男子生徒を見る。

「ありがとうございました」

「え?」

「教えてくれて」

 男子生徒は少し驚いた顔をして。

「……どういたしまして」

 そのまま去っていった。

 二人きりになる。

「先輩」

「うん」

「昨日の約束」

「覚えてる」

「本当に、離れませんか?」

 律は答える。

「うん」

「研究が終わっても?」

「うん」

「僕が、先輩のことを……」

 浩人は言葉を止めた。

「……何でもありません」

 律は何も聞かなかった。

 ただ。

「水瀬」

「はい」

「僕も、一つだけ聞いていい?」

「何ですか?」

「もし僕が」

 律が言葉を選ぶ。

「君のことを、研究対象じゃなくて大切な人だと思っていたら」

「……」

「君は、嫌?」

 浩人の心臓が止まりそうになる。

 答えは。

 もう決まっていた。

「……嫌じゃないです」

 律は少しだけ目を伏せた。

「そう」

「はい」

 それ以上は。

 二人とも言わなかった。

 でも。

 その日から。

 研究ノートに書かれる「水瀬浩人」という名前の意味は。

 少しずつ変わり始めていた。

 そして律自身も。

 もう気づいていた。

 自分が怖いのは。

 研究が失敗することではない。

 浩人を。

**誰かに奪われることだった。**