「神崎先輩のことで?」
廊下に呼び止められた浩人は、目の前の男子生徒を見た。
見覚えはない。
「はい」
男子生徒は周囲を確認してから、声を落とした。
「神崎先輩とは、どこまで仲がいいんですか?」
「どこまでって……」
「休日に二人で出かけたんですよね?」
「……はい」
「それって、神崎先輩があなたを研究対象にしてるから?」
「え?」
男子生徒の言葉に、浩人は眉を寄せた。
「どうしてそれを知ってるんですか?」
「知ってるよ」
男子生徒は苦笑した。
「恋愛現象研究部のことは、結構有名だから」
「……」
「それに」
男子生徒は少し迷ってから言った。
「神崎先輩は、前にも同じことをした」
「同じこと?」
「特定の相手を研究対象にして、その人との関係を徹底的に観察する」
浩人は黙った。
「でも」
男子生徒は続けた。
「前の相手とは、うまくいかなかった」
「……どういう意味ですか?」
「その人が、神崎先輩を避けるようになったんだ」
胸の奥がざわついた。
「どうして?」
「神崎先輩が、相手のことを知ろうとしすぎたから」
「……」
「好きなもの、嫌いなもの、苦手なこと。誰と話して、どんなときに笑うのか」
男子生徒は言った。
「何でも記録してた」
浩人は思い出す。
研究ノート。
自分について書かれた数々の記録。
嫉妬。
特別扱い。
休日。
水族館。
確かに。
律はいつも、自分を観察していた。
「でも、それって……」
浩人は言葉を探す。
「相手を大切にしようとしていたんじゃないんですか?」
「最初はそうだったのかもしれない」
男子生徒は答えた。
「でも、いつの間にか『知ること』そのものが目的になった」
「……」
「だから、忠告しておく」
男子生徒が浩人を見る。
「神崎先輩の研究対象になるのは、結構大変だよ」
「僕は……」
浩人は言った。
「先輩の研究対象でいるつもりはありません」
「じゃあ?」
「……分かりません」
正直に答える。
「でも、先輩と一緒にいるのは嫌じゃないです」
男子生徒が少し驚いた顔をした。
「そう」
「はい」
「なら、本人に聞いたほうがいい」
そう言って男子生徒は去っていった。
浩人はその背中を見送った。
胸の中に、ひとつの疑問だけが残った。
――律は、自分をどう見ているんだろう。
◇
部室に浩人はいつもより遅れて入った。
「遅かったね」
律が顔を上げる。
「……先輩」
「どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあります」
「何?」
浩人は椅子に座った。
「先輩って、前にも研究対象にした人がいるんですか?」
律の表情が変わった。
「……誰から聞いた?」
「知らない人に忠告されました。多分、二年生の人です」
「そう」
律はしばらく黙っていた。
「いるよ」
あっさり答えた。
「……その人とは?」
「今は、ほとんど話してない」
「どうしてですか?」
「僕が近づきすぎたから」
「近づきすぎた?」
「相手のことを知りたいと思って」
律は研究ノートに目を落とす。
「でも、知りたいと思う気持ちと、相手の気持ちを考えることは別だった」
「……」
「僕はそれが分かってなかった」
浩人は黙って聞いていた。
「だから、その人とは終わった」
「研究も?」
「うん」
「先輩は……」
浩人は迷いながら尋ねる。
「僕にも、同じことをするんですか?」
律は答えなかった。
「僕を観察して」
「……」
「僕のことを全部知って」
「……」
「それで、いつか飽きるんですか?」
言葉にした途端。
胸が痛くなった。
そんなことを聞きたかったわけじゃない。
でも。
怖かった。
もし今の関係が、律にとってただの研究なら。
いつか研究が終わったとき。
律は、自分の前からいなくなる。
「水瀬」
「はい」
「僕は、君を観察してる」
「……はい」
「でも」
律はゆっくり首を横に振った。
「今はもう、それだけじゃない」
「じゃあ、何ですか?」
律は困ったように笑った。
「まだ、分からない」
「……」
「でも」
律は研究ノートを閉じた。
「君が嫌がることはしたくない」
浩人は顔を上げた。
「僕のせいで君が苦しくなるなら、研究はやめる」
「……本当に?」
「うん」
律はまっすぐ浩人を見る。
「だから、教えて」
「何を?」
「僕が、君にとってどういう存在なのか」
浩人は答えられなかった。
けれど。
昨日までなら逃げていた問いから。
今日は逃げなかった。
「……まだ分かりません」
「うん」
「でも」
浩人は小さく息を吸う。
「先輩がいなくなるのは、嫌です」
律の目が見開かれた。
「それだけは……分かります」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
やがて律が。
「分かった」
と、静かに言った。
「じゃあ、いなくならない」
「……約束ですか?」
「約束」
その言葉が。
浩人の胸に残った。
◇
帰り道、二人で並んで歩く。
「先輩」
「うん?」
「研究ノート」
「何?」
「もう、僕のことを書かないんですか?」
「必要なら書く」
「……必要なら?」
「研究のためじゃなくて」
律は少しだけ笑った。
「忘れたくないことなら」
「……」
浩人は前を向いた。
顔が熱い。
「じゃあ」
「うん」
「今日のことも書きます?」
「何て?」
浩人は少し考えて。
「『水瀬が、先輩にいなくならないでほしいと言った』」
「それは書く」
「……恥ずかしいです」
「僕は嬉しい」
律がそう言った。
そのとき。
浩人のスマートフォンが震えた。
メッセージが来ている。
知り合いからこちらの連絡先でも聞いたのだろうか。
差出人は……さっきの二年生のようだった。
『言い忘れてた』
『神崎先輩が前の研究をやめた理由は、もう一つある』
浩人は画面を見つめる。
続けて、もう一通。
『研究対象だった人が、別の人を好きになったから』
「……」
浩人の足が止まる。
「水瀬?」
律が振り返る。
「どうした?」
「……なんでもないです」
浩人はスマートフォンを閉じた。
けれど。
胸の中には、新しい不安が生まれていた。
――もし。
もし自分にも。
いつか同じことが起きたら。
廊下に呼び止められた浩人は、目の前の男子生徒を見た。
見覚えはない。
「はい」
男子生徒は周囲を確認してから、声を落とした。
「神崎先輩とは、どこまで仲がいいんですか?」
「どこまでって……」
「休日に二人で出かけたんですよね?」
「……はい」
「それって、神崎先輩があなたを研究対象にしてるから?」
「え?」
男子生徒の言葉に、浩人は眉を寄せた。
「どうしてそれを知ってるんですか?」
「知ってるよ」
男子生徒は苦笑した。
「恋愛現象研究部のことは、結構有名だから」
「……」
「それに」
男子生徒は少し迷ってから言った。
「神崎先輩は、前にも同じことをした」
「同じこと?」
「特定の相手を研究対象にして、その人との関係を徹底的に観察する」
浩人は黙った。
「でも」
男子生徒は続けた。
「前の相手とは、うまくいかなかった」
「……どういう意味ですか?」
「その人が、神崎先輩を避けるようになったんだ」
胸の奥がざわついた。
「どうして?」
「神崎先輩が、相手のことを知ろうとしすぎたから」
「……」
「好きなもの、嫌いなもの、苦手なこと。誰と話して、どんなときに笑うのか」
男子生徒は言った。
「何でも記録してた」
浩人は思い出す。
研究ノート。
自分について書かれた数々の記録。
嫉妬。
特別扱い。
休日。
水族館。
確かに。
律はいつも、自分を観察していた。
「でも、それって……」
浩人は言葉を探す。
「相手を大切にしようとしていたんじゃないんですか?」
「最初はそうだったのかもしれない」
男子生徒は答えた。
「でも、いつの間にか『知ること』そのものが目的になった」
「……」
「だから、忠告しておく」
男子生徒が浩人を見る。
「神崎先輩の研究対象になるのは、結構大変だよ」
「僕は……」
浩人は言った。
「先輩の研究対象でいるつもりはありません」
「じゃあ?」
「……分かりません」
正直に答える。
「でも、先輩と一緒にいるのは嫌じゃないです」
男子生徒が少し驚いた顔をした。
「そう」
「はい」
「なら、本人に聞いたほうがいい」
そう言って男子生徒は去っていった。
浩人はその背中を見送った。
胸の中に、ひとつの疑問だけが残った。
――律は、自分をどう見ているんだろう。
◇
部室に浩人はいつもより遅れて入った。
「遅かったね」
律が顔を上げる。
「……先輩」
「どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあります」
「何?」
浩人は椅子に座った。
「先輩って、前にも研究対象にした人がいるんですか?」
律の表情が変わった。
「……誰から聞いた?」
「知らない人に忠告されました。多分、二年生の人です」
「そう」
律はしばらく黙っていた。
「いるよ」
あっさり答えた。
「……その人とは?」
「今は、ほとんど話してない」
「どうしてですか?」
「僕が近づきすぎたから」
「近づきすぎた?」
「相手のことを知りたいと思って」
律は研究ノートに目を落とす。
「でも、知りたいと思う気持ちと、相手の気持ちを考えることは別だった」
「……」
「僕はそれが分かってなかった」
浩人は黙って聞いていた。
「だから、その人とは終わった」
「研究も?」
「うん」
「先輩は……」
浩人は迷いながら尋ねる。
「僕にも、同じことをするんですか?」
律は答えなかった。
「僕を観察して」
「……」
「僕のことを全部知って」
「……」
「それで、いつか飽きるんですか?」
言葉にした途端。
胸が痛くなった。
そんなことを聞きたかったわけじゃない。
でも。
怖かった。
もし今の関係が、律にとってただの研究なら。
いつか研究が終わったとき。
律は、自分の前からいなくなる。
「水瀬」
「はい」
「僕は、君を観察してる」
「……はい」
「でも」
律はゆっくり首を横に振った。
「今はもう、それだけじゃない」
「じゃあ、何ですか?」
律は困ったように笑った。
「まだ、分からない」
「……」
「でも」
律は研究ノートを閉じた。
「君が嫌がることはしたくない」
浩人は顔を上げた。
「僕のせいで君が苦しくなるなら、研究はやめる」
「……本当に?」
「うん」
律はまっすぐ浩人を見る。
「だから、教えて」
「何を?」
「僕が、君にとってどういう存在なのか」
浩人は答えられなかった。
けれど。
昨日までなら逃げていた問いから。
今日は逃げなかった。
「……まだ分かりません」
「うん」
「でも」
浩人は小さく息を吸う。
「先輩がいなくなるのは、嫌です」
律の目が見開かれた。
「それだけは……分かります」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
やがて律が。
「分かった」
と、静かに言った。
「じゃあ、いなくならない」
「……約束ですか?」
「約束」
その言葉が。
浩人の胸に残った。
◇
帰り道、二人で並んで歩く。
「先輩」
「うん?」
「研究ノート」
「何?」
「もう、僕のことを書かないんですか?」
「必要なら書く」
「……必要なら?」
「研究のためじゃなくて」
律は少しだけ笑った。
「忘れたくないことなら」
「……」
浩人は前を向いた。
顔が熱い。
「じゃあ」
「うん」
「今日のことも書きます?」
「何て?」
浩人は少し考えて。
「『水瀬が、先輩にいなくならないでほしいと言った』」
「それは書く」
「……恥ずかしいです」
「僕は嬉しい」
律がそう言った。
そのとき。
浩人のスマートフォンが震えた。
メッセージが来ている。
知り合いからこちらの連絡先でも聞いたのだろうか。
差出人は……さっきの二年生のようだった。
『言い忘れてた』
『神崎先輩が前の研究をやめた理由は、もう一つある』
浩人は画面を見つめる。
続けて、もう一通。
『研究対象だった人が、別の人を好きになったから』
「……」
浩人の足が止まる。
「水瀬?」
律が振り返る。
「どうした?」
「……なんでもないです」
浩人はスマートフォンを閉じた。
けれど。
胸の中には、新しい不安が生まれていた。
――もし。
もし自分にも。
いつか同じことが起きたら。



