恋を研究していたら、研究対象と恋をした

 月曜日の朝。

 浩人は教室に入ると、自分の席に座った。

 いつもと変わらない朝。

 クラスメイトたちが話している。

 窓の外では運動部の朝練習の声が聞こえる。

 何も変わっていない。

 なのに。

 浩人の中だけが、昨日までとは違っていた。

 スマートフォンを取り出す。

 メッセージを確認する。

 昨夜、律から届いた最後のメッセージ。

『今日はありがとう』

 それだけ。

 浩人は何度目か分からないくらい、その文章を見返していた。

「……僕、重症だな」

 スマートフォンを伏せる。

 その直後。

「おはよう、浩人くん」

「おはよう」

 杏が隣の席までやってきた。

「昨日、水族館どうだった?」

「……普通」

「普通?」

「うん」

「楽しくなかった?」

「楽しかった」

「じゃあ普通じゃないじゃん」

「……」

 浩人は黙った。

 杏は楽しそうに笑う。

「神崎くんと二人で?」

「うん」

「デートみたいだった?」

「研究」

「はいはい」

「本当に研究だから」

「じゃあ、神崎くんから何か言われなかった?」

「何かって?」

「例えば――『君じゃなきゃ嫌だ』とか」

「……!」

 浩人の顔が一気に熱くなる。

「な、なんで知ってるの?」

「顔に書いてある」

「……」

 浩人は机に突っ伏した。

「最悪だ……」

「何が?」

「僕、分かりやすすぎる」

「大丈夫」

 杏は笑った。

「神崎くんも相当だから」

「え?」

「昨日の夜、研究部のグループに神崎くんが書き込んでたよ」

「何て?」

「『次の研究テーマについて相談したい』って」

「それなら普通じゃない?」

「そのあと私が聞いたの」

 杏が少し声を落とす。

「『浩人くんと付き合ったらどうなるか研究してみる?』って」

「……」

「そしたら神崎くん、既読をつけてから三十分くらい返事がなかった」

「……それは」

「図星なんじゃない?」

 浩人は何も言えなかった。

     ◇

 放課後の恋愛現象研究部。

 浩人が部室へ入ると、律はすでに来ていた。

「こんにちは」

「こんにちは、水瀬」

「先輩」

「昨日の水族館、楽しかった?」

「……はい」

「僕も」

 そこで会話が途切れた。

 以前なら、律はすぐに研究の話を始めていた。

 けれど。

 今日は違う。

 律は研究ノートを開こうとしたまま、しばらく動かなかった。

「先輩?」

「うん」

「何かありました?」

「……水瀬」

「はい」

「次の研究テーマなんだけど」

「はい」

「一度、やめない?」

「……え?」

 浩人は驚いた。

「研究を?」

「うん」

「どうしてですか?」

 律は答えなかった。

 しばらくして。

「今の僕たちは、研究をしているのか、研究を理由に一緒にいるのか、分からなくなった」

「……」

「だから」

 律は研究ノートを閉じた。

「今日は研究じゃなくて、普通に話したい」

 浩人は少しだけ目を見開いた。

「……何を話します?」

「何でもいい」

「何でも?」

「うん」

「じゃあ……」

 浩人は考えた。

「先輩の好きなものとか」

「好きなもの?」

「はい」

「考えたことなかった」

「またそれですか」

 思わず笑う。

「じゃあ、嫌いなものは?」

「人混み」

「意外です」

「苦手なものは?」

「恋愛」

「……」

 浩人は笑いかけて。

 途中で止まった。

「それ、冗談ですよね?」

「半分」

「半分?」

「恋愛は、よく分からないから」

 律は少し困ったように笑う。

「でも」

「はい」

「君といるのは好き」

 まただ。

 この人は。

 どうしてそんなことを簡単に言えるんだろう。

「……先輩」

「何?」

「それ、ずるいです」

「どうして?」

「僕が困るから」

「何で困るの?」

「……」

 浩人は答えなかった。

 答えられなかった。

 そのとき。

 部室の扉が開いた。

「お、まだ二人だけ?」

 黒川蓮だった。

「邪魔だった?」

「いや」

 律が答える。

「ちょうどよかった」

「何が?」

「聞きたいことがある」

 蓮は椅子に座った。

「最近のお前、変だぞ」

「そう?」

「そうだよ」

 蓮は浩人を見る。

「こいつのことになると、露骨に反応する」

「……」

 律が黙る。

「で?」

 蓮が続ける。

「いつまで研究って言い張るつもりだ?」

 部室が静かになる。

 浩人は律を見る。

 律も浩人を見る。

 しばらくして。

「……分からない」

 律が言った。

「でも」

 律は浩人から目を逸らさなかった。

「研究じゃない時間も、大切だと思ってる」

 浩人の胸が熱くなる。

 蓮は小さく息を吐いた。

「なら、それでいいんじゃないか」

「……」

「恋愛を研究する部活だからって、恋愛まで研究する必要はないだろ」

 蓮は立ち上がった。

「じゃあな」

「帰るの?」

「邪魔みたいだから」

「……」

 扉が閉まる。

 再び二人きりになる。

「……先輩」

「うん」

「僕」

 浩人は勇気を出して言った。

「次の日曜日、研究じゃなくても会いたいです」

 律の目が大きくなる。

「……本当に?」

「はい」

「どうして?」

 浩人は少しだけ笑った。

「先輩と一緒にいるのが、楽しいから」

 律は何も言わない。

 けれど。

 その表情は、今まで見たことがないくらい嬉しそうだった。

「分かった」

 律が言う。

「僕も会いたい」

「どこに行きます?」

「水瀬が決めて」

「じゃあ……」

 浩人は少し考える。

「公園」

「この前行ったところ?」

「はい」

「どうして?」

「前に先輩と座った場所だから」

 言ったあと。

 恥ずかしくなった。

 でも律は笑わなかった。

「分かった」

 優しい声だった。

「じゃあ、日曜日。公園で」

「はい」

 二人で約束する。

 それは初めての。

 研究ではない約束だった。
     ◇

 帰宅してからもドキドキしている。

 浩人はベッドに寝転びながら、今日のことを思い出していた。

 研究じゃなくても会いたい。

 そう言った。

 自分から。

 そして。

 律も「会いたい」と言った。

「……これって」

 浩人は天井を見る。

 胸の奥が、また熱くなる。

「やっぱり、僕……」

 言葉にしようとして。

 やめた。

 まだ怖い。

 この感情に名前をつけてしまったら。

 今までの関係には戻れない気がした。

 だから今は。

 このままでいい。

 そう思った。

 けれど。

 スマートフォンが震えた。

 律からだった。

『日曜日、楽しみにしてる』

 浩人はしばらく画面を見つめる。

 そして。

 自然に笑っていた。

『僕もです』

 送信。

 二人の間には。

 もう「研究」という言葉は必要なかった。