第8話 取り替えるだけ
千馬に話したのは、翌日の昼休みだった。
萌菜美は十九秒の映像そのものを見せることはできない。
だから、確認した内容を一つずつ口頭で説明した。
「最初の七秒に、千馬が将輝を押すところまで映ってた」
千馬は弁当の箸を止めた。
「押すところ」
「うん。支柱が動いたのに先に気づいて、将輝を見て、走って、押してる」
「……そう」
「そのあとが十二秒の動画」
千馬は少し黙った。
驚いているようには見えなかった。
自分がしたことなのだから、当然なのかもしれない。
「それ、先生も確認した?」
「した。映像上、千馬が将輝を危険な位置から押し出したことは確認できるって」
「へえ」
「記事に使いたい」
萌菜美はまっすぐ言った。
「まだ文章は仮だけど」
取材ノートを開く。
昨日入力した二行を、そのまま読み上げた。
「『公開された十二秒の前には、七秒がある。その七秒には、千馬が将輝を危険な位置から押し出す姿が映っていた』」
千馬は聞き終えても、すぐには返事をしなかった。
「どう?」
萌菜美が聞く。
「どうって」
「事実として合ってる?」
「映ってたなら合ってるんじゃない」
「千馬自身の認識として」
「将輝が危ないと思ったから押した。それは合ってる」
萌菜美はノートへ書いた。
《本人確認:将輝が危険だと思い押した》
「じゃあ、この内容を記事に」
「やめて」
萌菜美のペンが止まった。
「え?」
「それ出すの、やめて」
「どうして」
「どうしてって」
千馬は箸を置いた。
「前に言っただろ。俺のことまで決めるなって」
「だから訂正するんだよ」
「何を」
「十二秒だけ見た人は、千馬がふざけて危険な場所に入ったと思ってる。実際は違った。将輝を」
「俺が将輝を助けたって?」
「映像ではそう確認できる」
「それを出したら、今度は俺が英雄になるだけだろ」
萌菜美は言葉を失った。
「でも、誤解は解ける」
「何の誤解」
「千馬が無謀だったっていう」
「じゃあ代わりに、『将輝を助けたいいやつ』になる?」
「少なくとも事実に近い」
「近いって何」
千馬の声が少し大きくなった。
教室の端にいた何人かがこちらを見る。
千馬はそれに気づき、少し声を落とした。
「俺、あの時、考えて動いたわけじゃない」
「将輝が危ないと思って」
「思ったよ。だから押した。でも、押したあと自分があっち側に残った」
千馬は机の上を指で二回叩いた。
「それ、正しい判断だったの?」
「結果的には貴嗣が」
「結果の話じゃない」
萌菜美は黙った。
「俺が将輝を押したのは本当。貴嗣が俺を引いたのも本当。でも、それを並べて『実は千馬も英雄でした』ってやるなら、十二秒と同じじゃん」
「同じじゃない」
「何が違う?」
「十二秒は前を切ってる。十九秒は、その前も含めて」
「十九秒の前は?」
萌菜美の口が止まった。
「そこには何がある?」
「映像にはない」
「だろ」
千馬は椅子の背にもたれた。
「俺がサーブでミスったのも、ボール追おうとしたのも、将輝がどこにいたのも、支柱がなんで倒れたのも、全部十九秒より前から続いてるんじゃないの」
「それはそうだけど」
「じゃあ十九秒を全部見せたら、本当になる?」
萌菜美は答えなかった。
昨日、真紗子に同じようなことを言われた。
十九秒が全部なのか。
「俺さ」
千馬が言った。
「貴嗣を悪く言いたいわけじゃない」
「分かってる」
「将輝を悪く言いたいわけでもない」
「うん」
「俺をよく言ってほしいわけでもない」
「でも今、実際に悪く言われてる」
「知ってるよ」
千馬はスマートフォンを机の中から出した。
通知欄を開く。
もう直接の名前は出ていない。
けれど、保存された動画へついたコメントの画面が残っている。
《こういう迷惑なやつ》
《助けられて当然みたいな顔してそう》
《体育で調子に乗るタイプ》
千馬は一度だけ見て、画面を消した。
「腹立つよ」
「だったら」
「でも、腹立つから別の肩書きに取り替えてほしいわけじゃない」
萌菜美はノートを閉じた。
「じゃあ、何を書けばいいの」
「知らない」
「何も書かなかったら、十二秒だけが残る」
「それも嫌」
「じゃあどうしたいの」
「だから知らないって」
千馬は眉を寄せた。
「新聞書くの、俺じゃないだろ」
その言葉に、萌菜美は少し苛立った。
「当事者が何を出してほしいか分からないと書けない」
「じゃあ書けないって書けば」
「そんな記事、読んでも意味ない」
「意味って何」
「誤解を訂正すること」
「俺の評価を上げること?」
「違う」
「じゃあ何」
萌菜美は答えようとした。
十二秒によって作られた誤解を、十九秒で訂正する。
千馬が無謀な被害者ではなく、将輝を助けていたことを伝える。
それで何が変わる?
千馬への批判は減るかもしれない。
代わりに将輝へ何が向く?
危険に気づかず固まっていた。
千馬に助けられた。
その姿を、自分で七秒切った。
今度は将輝が何と呼ばれる?
「……今は、分からない」
萌菜美が言うと、千馬が少しだけ目を細めた。
「それなら、まだ出すなよ」
「十九秒の内容を?」
「俺のところは」
「将輝の同意があれば?」
「俺も映ってる」
「そうだけど」
「俺が将輝を押したって書くなら、俺の話でもあるだろ」
その通りだった。
「分かった」
萌菜美はノートを開き直した。
《千馬:元映像の公開・七秒部分の記事化を現時点では拒否》
「『拒否』って強くない?」
「じゃあ、どう書く?」
「記事に使わないでほしい」
「分かった」
書き直す。
《千馬:七秒部分を現時点で記事に使わないでほしい》
「理由は?」
千馬は少し考えた。
「俺が将輝を助けたって話に取り替えるだけなら、やってることは同じだから」
萌菜美は、そのまま書いた。
書き終えるまで、千馬は黙って待った。
「引用していい?」
「今はやめて」
「分かった」
「でも覚えといて」
「覚えるだけじゃなくて、ノートには残す」
「細か」
「仕事なので」
「じゃあ頑張れ」
千馬は弁当箱を閉じた。
「俺、午後体育委員の集まりあるから先行く」
「うん」
立ち上がる前に、千馬が萌菜美のノートを一度見た。
「俺が助けた、貴嗣が助けた、ってさ」
「うん」
「助けたやつが一番正しい、みたいになるのも嫌なんだよ」
「どうして」
「だって、俺は将輝押したあと自分が逃げ損ねてるし。貴嗣だって、あんな近くまで来て一緒に転んでる。どっちも危なかっただろ」
「結果的には誰もけがしてない」
「結果が良ければ全部正しいなら、事故が起きなかったことにすればいいじゃん」
千馬は鞄を持ち、教室を出た。
萌菜美はその背中を見送った。
ノートには、確認できた事実がある。
千馬が将輝を押した。
その直後、貴嗣が千馬を引いた。
映像がある。
教師も確認した。
本人も認めた。
それなのに、記事には使わないでほしいと言われた。
事実なら書いていい。
萌菜美は、少し前までそう思っていた。
嘘を書かなければいい。
確認してから書けばいい。
でも今、確認できた事実が目の前にあるのに、出せない。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
萌菜美はノートを閉じた。
五時間目の途中も、千馬の言葉が頭から離れなかった。
取り替えるだけなら同じ。
貴嗣=英雄。
千馬=無謀な被害者。
それを、
千馬=実は英雄。
将輝=助けられた人。
へ変える。
たしかに、役札の置き場所を変えているだけかもしれない。
でも、事実が違うなら訂正するべきではないのか。
訂正しないことも、十二秒を肯定することにならないか。
授業終了後、萌菜美は知正に呼び止められた。
「千馬と何話してた?」
「取材」
「怒ってた?」
「少し」
「そっか」
知正はそれ以上聞かなかった。
「聞かないの?」
「千馬が話したいなら本人から聞く」
「知正は、十二秒の前に何があったか知ってる?」
知正の目が一瞬止まった。
「映像の話?」
「十九秒の元映像を見た」
「そうなんだ」
「千馬が将輝を押してた」
「……うん」
「知ってた?」
「体育館にいたから」
「見てた?」
「全部は見てない。でも千馬が将輝のほうへ走ったのは見た」
萌菜美は知正の顔を見た。
「じゃあ、どうして千馬が悪く言われてる時に言わなかったの」
「何を?」
「『その前がある』って」
知正は少し困った顔をした。
「言えば止まったかな」
「少なくとも」
「誰に言う?」
「クラス」
「クラスに言ったら、その話も外に出るかもしれない」
「でも」
「千馬が言ってないことを俺が言っていいか、分からなかった」
萌菜美は黙った。
「助けるつもりで言ったことが、本人には出してほしくないことかもしれないし」
「何も言わないのも、千馬を放っておくことになる」
「うん」
「じゃあどうするのが正しいの」
「それ、俺に聞く?」
知正は苦笑した。
「俺、正解知ってそうに見える?」
「いつも自信ありそう」
「自信あるのと、正しいのは別」
「ずるい」
「何が」
「答えないところ」
「分からないから」
知正はそう言って、少しだけ声を落とした。
「俺は、犯人とか英雄とか、早く決めないほうがいいと思ってる」
「前にも言ってたね」
「うん」
「どうしてそんなに」
知正は一瞬、何か言いかけた。
でも、廊下の向こうから部活仲間に呼ばれた。
「ごめん、行く」
「知正」
「また今度」
知正は手を上げて走っていった。
萌菜美はその場に残った。
また、答えが先延ばしになった。
新聞部室へ行くと、真紗子が昨日の閲覧記録を整理していた。
「千馬、どうだった?」
「使わないでって」
真紗子は手を止めた。
「七秒?」
「はい」
「理由は?」
「『俺が将輝を助けたって話に取り替えるだけなら、やってることは同じ』って」
「なるほど」
「なるほどで終わらないでください」
「じゃあ、萌菜美はどう思う?」
「事実なのに」
言ってから、自分でも少し子どもっぽいと思った。
真紗子は笑わなかった。
「事実なら何?」
「書く意味がある」
「誰にとって?」
「千馬への誤解を解くために」
「本人が今は出してほしくないって言ってるのに?」
「でも、今のままだと誤解が残る」
「残るね」
「それでいいんですか」
「よくない。でも、『よくない』からすぐ出す、以外にもやり方はあるかもしれない」
「例えば?」
「考えるのが担当者」
「またそれ」
萌菜美は椅子へ座った。
昨日の仮文を開く。
《公開された十二秒の前には、七秒がある。》
《その七秒には、千馬が将輝を危険な位置から押し出す姿が映っていた。》
二行目を選択する。
削除。
一行目だけ残った。
それも、しばらく見たあと削除した。
画面が空白になる。
昨日は、十九秒を見れば記事が進むと思っていた。
実際には逆だった。
確認できたことが増えたぶん、書けることが減った。
「レビューって」
萌菜美が言った。
「難しいですね」
「今さら?」
「今までは、確認すれば書けると思ってた」
「今は?」
「確認したあとに、出すかどうかも決めないといけない」
「うん」
「それって、隠すのと何が違うんですか」
真紗子は少し考えた。
「誰かに都合が悪いから消すのと、出すことで何が起きるか考えるのは、同じじゃないと思う」
「でも結果は同じ。書かない」
「そういう時もある」
「じゃあ読者には分からない」
「全部分からせるのが記事?」
萌菜美は返せなかった。
真紗子は机の上の赤ペンを回した。
「萌菜美が昨日見た十九秒も、学校が持ってる事実の一部。千馬が覚えてることも、将輝が覚えてることも、貴嗣が覚えてることも一部」
「一部ばっかり」
「そうだね」
「じゃあ、何を書けばいいんですか」
「まだ決めなくていい」
「締切あります」
「だからって、人の意味を先に決める?」
萌菜美は画面を閉じた。
空白のまま保存する。
ファイル名は変えなかった。
《未確認_十二秒の奇跡をレビューする》
確認できたことは増えている。
でも、何を言う記事なのかは、前より分からなくなった。
帰り道、萌菜美は十二秒の動画を開かなかった。
十九秒も、もう一度見たいとは思わなかった。
代わりに、千馬の言葉を思い出した。
――俺が将輝を助けたって話に取り替えるだけなら、やってることは同じ。
英雄と被害者を入れ替える。
それだけなら、確かにレビューではない。
ただ、新しい星を別の人へつけるだけだ。
萌菜美は昨日消した仮文の代わりに、取材ノートへ一行だけ書いた。
――訂正は、評価の反転ではない。
その下に、もう一行。
――では、何を訂正するのか。
答えは空白のまま残した。
【終】
千馬に話したのは、翌日の昼休みだった。
萌菜美は十九秒の映像そのものを見せることはできない。
だから、確認した内容を一つずつ口頭で説明した。
「最初の七秒に、千馬が将輝を押すところまで映ってた」
千馬は弁当の箸を止めた。
「押すところ」
「うん。支柱が動いたのに先に気づいて、将輝を見て、走って、押してる」
「……そう」
「そのあとが十二秒の動画」
千馬は少し黙った。
驚いているようには見えなかった。
自分がしたことなのだから、当然なのかもしれない。
「それ、先生も確認した?」
「した。映像上、千馬が将輝を危険な位置から押し出したことは確認できるって」
「へえ」
「記事に使いたい」
萌菜美はまっすぐ言った。
「まだ文章は仮だけど」
取材ノートを開く。
昨日入力した二行を、そのまま読み上げた。
「『公開された十二秒の前には、七秒がある。その七秒には、千馬が将輝を危険な位置から押し出す姿が映っていた』」
千馬は聞き終えても、すぐには返事をしなかった。
「どう?」
萌菜美が聞く。
「どうって」
「事実として合ってる?」
「映ってたなら合ってるんじゃない」
「千馬自身の認識として」
「将輝が危ないと思ったから押した。それは合ってる」
萌菜美はノートへ書いた。
《本人確認:将輝が危険だと思い押した》
「じゃあ、この内容を記事に」
「やめて」
萌菜美のペンが止まった。
「え?」
「それ出すの、やめて」
「どうして」
「どうしてって」
千馬は箸を置いた。
「前に言っただろ。俺のことまで決めるなって」
「だから訂正するんだよ」
「何を」
「十二秒だけ見た人は、千馬がふざけて危険な場所に入ったと思ってる。実際は違った。将輝を」
「俺が将輝を助けたって?」
「映像ではそう確認できる」
「それを出したら、今度は俺が英雄になるだけだろ」
萌菜美は言葉を失った。
「でも、誤解は解ける」
「何の誤解」
「千馬が無謀だったっていう」
「じゃあ代わりに、『将輝を助けたいいやつ』になる?」
「少なくとも事実に近い」
「近いって何」
千馬の声が少し大きくなった。
教室の端にいた何人かがこちらを見る。
千馬はそれに気づき、少し声を落とした。
「俺、あの時、考えて動いたわけじゃない」
「将輝が危ないと思って」
「思ったよ。だから押した。でも、押したあと自分があっち側に残った」
千馬は机の上を指で二回叩いた。
「それ、正しい判断だったの?」
「結果的には貴嗣が」
「結果の話じゃない」
萌菜美は黙った。
「俺が将輝を押したのは本当。貴嗣が俺を引いたのも本当。でも、それを並べて『実は千馬も英雄でした』ってやるなら、十二秒と同じじゃん」
「同じじゃない」
「何が違う?」
「十二秒は前を切ってる。十九秒は、その前も含めて」
「十九秒の前は?」
萌菜美の口が止まった。
「そこには何がある?」
「映像にはない」
「だろ」
千馬は椅子の背にもたれた。
「俺がサーブでミスったのも、ボール追おうとしたのも、将輝がどこにいたのも、支柱がなんで倒れたのも、全部十九秒より前から続いてるんじゃないの」
「それはそうだけど」
「じゃあ十九秒を全部見せたら、本当になる?」
萌菜美は答えなかった。
昨日、真紗子に同じようなことを言われた。
十九秒が全部なのか。
「俺さ」
千馬が言った。
「貴嗣を悪く言いたいわけじゃない」
「分かってる」
「将輝を悪く言いたいわけでもない」
「うん」
「俺をよく言ってほしいわけでもない」
「でも今、実際に悪く言われてる」
「知ってるよ」
千馬はスマートフォンを机の中から出した。
通知欄を開く。
もう直接の名前は出ていない。
けれど、保存された動画へついたコメントの画面が残っている。
《こういう迷惑なやつ》
《助けられて当然みたいな顔してそう》
《体育で調子に乗るタイプ》
千馬は一度だけ見て、画面を消した。
「腹立つよ」
「だったら」
「でも、腹立つから別の肩書きに取り替えてほしいわけじゃない」
萌菜美はノートを閉じた。
「じゃあ、何を書けばいいの」
「知らない」
「何も書かなかったら、十二秒だけが残る」
「それも嫌」
「じゃあどうしたいの」
「だから知らないって」
千馬は眉を寄せた。
「新聞書くの、俺じゃないだろ」
その言葉に、萌菜美は少し苛立った。
「当事者が何を出してほしいか分からないと書けない」
「じゃあ書けないって書けば」
「そんな記事、読んでも意味ない」
「意味って何」
「誤解を訂正すること」
「俺の評価を上げること?」
「違う」
「じゃあ何」
萌菜美は答えようとした。
十二秒によって作られた誤解を、十九秒で訂正する。
千馬が無謀な被害者ではなく、将輝を助けていたことを伝える。
それで何が変わる?
千馬への批判は減るかもしれない。
代わりに将輝へ何が向く?
危険に気づかず固まっていた。
千馬に助けられた。
その姿を、自分で七秒切った。
今度は将輝が何と呼ばれる?
「……今は、分からない」
萌菜美が言うと、千馬が少しだけ目を細めた。
「それなら、まだ出すなよ」
「十九秒の内容を?」
「俺のところは」
「将輝の同意があれば?」
「俺も映ってる」
「そうだけど」
「俺が将輝を押したって書くなら、俺の話でもあるだろ」
その通りだった。
「分かった」
萌菜美はノートを開き直した。
《千馬:元映像の公開・七秒部分の記事化を現時点では拒否》
「『拒否』って強くない?」
「じゃあ、どう書く?」
「記事に使わないでほしい」
「分かった」
書き直す。
《千馬:七秒部分を現時点で記事に使わないでほしい》
「理由は?」
千馬は少し考えた。
「俺が将輝を助けたって話に取り替えるだけなら、やってることは同じだから」
萌菜美は、そのまま書いた。
書き終えるまで、千馬は黙って待った。
「引用していい?」
「今はやめて」
「分かった」
「でも覚えといて」
「覚えるだけじゃなくて、ノートには残す」
「細か」
「仕事なので」
「じゃあ頑張れ」
千馬は弁当箱を閉じた。
「俺、午後体育委員の集まりあるから先行く」
「うん」
立ち上がる前に、千馬が萌菜美のノートを一度見た。
「俺が助けた、貴嗣が助けた、ってさ」
「うん」
「助けたやつが一番正しい、みたいになるのも嫌なんだよ」
「どうして」
「だって、俺は将輝押したあと自分が逃げ損ねてるし。貴嗣だって、あんな近くまで来て一緒に転んでる。どっちも危なかっただろ」
「結果的には誰もけがしてない」
「結果が良ければ全部正しいなら、事故が起きなかったことにすればいいじゃん」
千馬は鞄を持ち、教室を出た。
萌菜美はその背中を見送った。
ノートには、確認できた事実がある。
千馬が将輝を押した。
その直後、貴嗣が千馬を引いた。
映像がある。
教師も確認した。
本人も認めた。
それなのに、記事には使わないでほしいと言われた。
事実なら書いていい。
萌菜美は、少し前までそう思っていた。
嘘を書かなければいい。
確認してから書けばいい。
でも今、確認できた事実が目の前にあるのに、出せない。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
萌菜美はノートを閉じた。
五時間目の途中も、千馬の言葉が頭から離れなかった。
取り替えるだけなら同じ。
貴嗣=英雄。
千馬=無謀な被害者。
それを、
千馬=実は英雄。
将輝=助けられた人。
へ変える。
たしかに、役札の置き場所を変えているだけかもしれない。
でも、事実が違うなら訂正するべきではないのか。
訂正しないことも、十二秒を肯定することにならないか。
授業終了後、萌菜美は知正に呼び止められた。
「千馬と何話してた?」
「取材」
「怒ってた?」
「少し」
「そっか」
知正はそれ以上聞かなかった。
「聞かないの?」
「千馬が話したいなら本人から聞く」
「知正は、十二秒の前に何があったか知ってる?」
知正の目が一瞬止まった。
「映像の話?」
「十九秒の元映像を見た」
「そうなんだ」
「千馬が将輝を押してた」
「……うん」
「知ってた?」
「体育館にいたから」
「見てた?」
「全部は見てない。でも千馬が将輝のほうへ走ったのは見た」
萌菜美は知正の顔を見た。
「じゃあ、どうして千馬が悪く言われてる時に言わなかったの」
「何を?」
「『その前がある』って」
知正は少し困った顔をした。
「言えば止まったかな」
「少なくとも」
「誰に言う?」
「クラス」
「クラスに言ったら、その話も外に出るかもしれない」
「でも」
「千馬が言ってないことを俺が言っていいか、分からなかった」
萌菜美は黙った。
「助けるつもりで言ったことが、本人には出してほしくないことかもしれないし」
「何も言わないのも、千馬を放っておくことになる」
「うん」
「じゃあどうするのが正しいの」
「それ、俺に聞く?」
知正は苦笑した。
「俺、正解知ってそうに見える?」
「いつも自信ありそう」
「自信あるのと、正しいのは別」
「ずるい」
「何が」
「答えないところ」
「分からないから」
知正はそう言って、少しだけ声を落とした。
「俺は、犯人とか英雄とか、早く決めないほうがいいと思ってる」
「前にも言ってたね」
「うん」
「どうしてそんなに」
知正は一瞬、何か言いかけた。
でも、廊下の向こうから部活仲間に呼ばれた。
「ごめん、行く」
「知正」
「また今度」
知正は手を上げて走っていった。
萌菜美はその場に残った。
また、答えが先延ばしになった。
新聞部室へ行くと、真紗子が昨日の閲覧記録を整理していた。
「千馬、どうだった?」
「使わないでって」
真紗子は手を止めた。
「七秒?」
「はい」
「理由は?」
「『俺が将輝を助けたって話に取り替えるだけなら、やってることは同じ』って」
「なるほど」
「なるほどで終わらないでください」
「じゃあ、萌菜美はどう思う?」
「事実なのに」
言ってから、自分でも少し子どもっぽいと思った。
真紗子は笑わなかった。
「事実なら何?」
「書く意味がある」
「誰にとって?」
「千馬への誤解を解くために」
「本人が今は出してほしくないって言ってるのに?」
「でも、今のままだと誤解が残る」
「残るね」
「それでいいんですか」
「よくない。でも、『よくない』からすぐ出す、以外にもやり方はあるかもしれない」
「例えば?」
「考えるのが担当者」
「またそれ」
萌菜美は椅子へ座った。
昨日の仮文を開く。
《公開された十二秒の前には、七秒がある。》
《その七秒には、千馬が将輝を危険な位置から押し出す姿が映っていた。》
二行目を選択する。
削除。
一行目だけ残った。
それも、しばらく見たあと削除した。
画面が空白になる。
昨日は、十九秒を見れば記事が進むと思っていた。
実際には逆だった。
確認できたことが増えたぶん、書けることが減った。
「レビューって」
萌菜美が言った。
「難しいですね」
「今さら?」
「今までは、確認すれば書けると思ってた」
「今は?」
「確認したあとに、出すかどうかも決めないといけない」
「うん」
「それって、隠すのと何が違うんですか」
真紗子は少し考えた。
「誰かに都合が悪いから消すのと、出すことで何が起きるか考えるのは、同じじゃないと思う」
「でも結果は同じ。書かない」
「そういう時もある」
「じゃあ読者には分からない」
「全部分からせるのが記事?」
萌菜美は返せなかった。
真紗子は机の上の赤ペンを回した。
「萌菜美が昨日見た十九秒も、学校が持ってる事実の一部。千馬が覚えてることも、将輝が覚えてることも、貴嗣が覚えてることも一部」
「一部ばっかり」
「そうだね」
「じゃあ、何を書けばいいんですか」
「まだ決めなくていい」
「締切あります」
「だからって、人の意味を先に決める?」
萌菜美は画面を閉じた。
空白のまま保存する。
ファイル名は変えなかった。
《未確認_十二秒の奇跡をレビューする》
確認できたことは増えている。
でも、何を言う記事なのかは、前より分からなくなった。
帰り道、萌菜美は十二秒の動画を開かなかった。
十九秒も、もう一度見たいとは思わなかった。
代わりに、千馬の言葉を思い出した。
――俺が将輝を助けたって話に取り替えるだけなら、やってることは同じ。
英雄と被害者を入れ替える。
それだけなら、確かにレビューではない。
ただ、新しい星を別の人へつけるだけだ。
萌菜美は昨日消した仮文の代わりに、取材ノートへ一行だけ書いた。
――訂正は、評価の反転ではない。
その下に、もう一行。
――では、何を訂正するのか。
答えは空白のまま残した。
【終】



