第2話 倒れる側にいた人
翌日の四時間目、体育館の床は朝からの湿気で少しだけ重たく見えた。
萌菜美は体育館シューズのかかとを踏みかけたまま、壁際の時計を見た。開始二分前。間に合っている。
「それ、間に合ったって言わないだろ」
貴嗣がネットの向こうから言った。
「チャイム前です」
「新聞部基準ではそうなんだ」
「学校基準でもそうです」
「じゃあ俺が間違ってる」
貴嗣はあっさり引いた。
その隣で、知正が支柱を運ぶ台車を壁際へ押している。
「貴嗣、そっち持って。これ戻したら終わり」
「はいはい。俺みたいな非力な人間に重量物を」
「昨日、片手で机持ってたじゃん」
「あれは見栄」
「見栄で筋力は増えないって」
二人の前には、今日使わない予備のネット支柱が二本あった。
教師が笛を首から下げたまま、体育館の中央から声を飛ばす。
「台車に戻したらベルトな。二人で指差し確認までやれよ」
「はーい」
知正が明るく返事をした。
貴嗣も片手を上げた。
萌菜美はその声を聞きながら、自分のクラスの列へ入った。
少し離れたところでは、将輝が学校のタブレットを固定スタンドにはめ込んでいた。
「もっと右」
千馬が画面をのぞき込む。
「お前が右に行けばいい」
「俺を中心に撮れって」
「サーブフォームの確認。顔の撮影会じゃない」
「フォームも顔も俺なんだから同じだろ」
「違う」
将輝はスタンドの脚を靴先で軽く押し、ぐらつかないことを確かめた。
タブレットの画面には、サーブ練習をするコートと、その奥の壁際が一緒に入っている。
画面端には、立ち位置を確かめる将輝自身の肩も映った。
「撮れてる?」
「まだ」
「じゃあ今の会話は歴史に残らない?」
「残す価値ない」
「ひど」
千馬は笑いながらコートへ走っていった。
萌菜美は髪を結び直し、昨日の短評欄のことを思い出した。
題材はまだ決まっていない。
体育の授業なら書けるかもしれない、と一瞬考えた。
授業の満足度。
バレーボールは好きか嫌いか。
運動が得意な人と苦手な人で評価は変わる。
その時点で面倒になった。
「萌菜美、ぼーっとしてるとボール来るよ」
知正に言われ、顔を上げる。
「考えてました」
「体育の時間に?」
「体育について」
「じゃあセーフか」
「何がですか」
「知らない」
知正は笑って、自分のチームへ戻った。
準備運動のあと、四つのコートに分かれてサーブ練習が始まった。
将輝のタブレットは、一番奥のコートを斜めから撮っている。
ひとりずつ打って、終わったら後ろへ回る。
千馬の番になると、本人が宣言した。
「見とけよ。今日一番のやつ打つから」
「昨日からそれ言ってる」
将輝が録画ボタンへ指を置く。
「失敗したら?」
「成功する」
「未来見えてる?」
「見えてなくても言うんだよ」
千馬はボールを一度床へついた。
高く投げる。
踏み込む。
手のひらがボールを強く叩いた。
乾いた音が体育館へ響く。
ボールはネットの上を越えたが、狙った場所より大きく右へそれた。
「あっ」
誰かが声を上げる。
ボールは別のコートへ転がっていった。
「今のはコートが悪い」
「動かない床のせいにするな」
将輝が言う。
千馬は言い返しながらボールを追おうとして、途中で止まった。
視線が、将輝のほうではなく、その後ろへ向いた。
萌菜美には最初、何を見たのか分からなかった。
金属が擦れるような音がした。
短い。
けれど、ボールの音とは違った。
壁際の運搬台車。
その上に斜めに収められていた予備の支柱が、ほんの少し動いている。
先端が数センチ、外側へずれた。
将輝は気づいていない。
タブレットの画面を見たまま、録画中のコートへ顔を向けている。
「将輝!」
千馬が叫んだ。
将輝が振り向くより先に、千馬が走った。
二、三歩だったと思う。
千馬は将輝の肩と胸の間を両手で強く押した。
「うわっ」
将輝の身体がスタンドの横へよろける。
同時に、台車の固定ベルトがずるりと滑った。
支柱が傾く。
そこで初めて、何人もの声が重なった。
「危ない!」
「離れろ!」
「千馬!」
押した反動で、千馬自身が台車の近くへ残っていた。
支柱はゆっくり倒れたわけではなかった。
一度傾いたあとは、重さに引かれて急に速くなった。
千馬が顔を上げる。
逃げる方向を探すように一歩動き、止まる。
その前を、別の支柱とスタンドの脚がふさいでいた。
横へ飛べば間に合うのか。
後ろへ下がるのか。
萌菜美には分からなかった。
千馬にも、たぶん考える時間はなかった。
貴嗣が走っていた。
いつ動き始めたのか、萌菜美は見ていなかった。
ただ、貴嗣が千馬を見る。
千馬も貴嗣を見る。
一瞬だけ、目が合った。
何かを言ったようには見えなかった。
それでも貴嗣は進む方向を変えず、千馬もその場で変に飛び出さなかった。
貴嗣の右手が千馬の左腕をつかむ。
「来い!」
今度は声が聞こえた。
貴嗣が全身で引いた。
千馬の足が床を滑る。
二人が倒れ込むようにコート側へ転がった。
直後。
支柱が床へ落ちた。
金属の激しい音が、体育館の天井まで跳ね返った。
萌菜美は両手で耳を塞いでいた。
自分がそうしたことにも、音が止んでから気づいた。
誰も動かなかった。
ボールが一個だけ、遠くで転がっている。
ころころ、と場違いなくらい小さな音を立てて、壁へ当たって止まった。
「全員、そのまま!」
教師の声が響いた。
次の瞬間には走っている。
倒れた支柱を避け、千馬と貴嗣のところへしゃがみ込む。
「頭打ってないか。痛いところは」
「俺、大丈夫」
千馬がすぐ答えた。
「貴嗣は」
「生きてます」
「そういうのいいから」
「じゃあ、たぶん大丈夫です」
「たぶんもやめろ」
教師が貴嗣の腕と肩を確認する。
知正も近づこうとして、別の教師に止められた。
「みんな下がって。触るな」
将輝は、少し離れた場所で立ったままだった。
千馬に押されたせいで体育着の胸元がずれている。
いつもの澄ました顔ではなかった。
目だけが、倒れた支柱と千馬の間を何度も往復している。
「将輝」
千馬が床に座ったまま呼んだ。
「お前、平気か」
将輝は返事をしなかった。
「おい」
「……平気」
「ならいい」
千馬はそれだけ言って、自分の肘についた埃を払った。
教師が保健室へ二人を連れていくことになった。
けががないように見えても、念のため確認するという。
「歩ける?」
知正が貴嗣へ聞く。
「歩ける。救助した側が担架とか格好つかないし」
「今そういう話してない」
「こういう時こそ軽口って必要じゃない?」
「必要かどうかは俺が決める」
「他者の価値観を尊重してくれよ」
貴嗣は笑った。
でも、その笑い方はいつもより短かった。
知正は何も返さず、倒れた支柱のほうを見た。
教師たちが周囲を確認している。
外れたベルト。
横倒しになった支柱。
運搬台車。
知正の顔から、さっきまでの明るさが消えていた。
萌菜美は、その変化を見た。
理由までは分からなかった。
授業は中止になった。
全員が体育館の端に集められ、点呼を受けた。
けが人はいないらしい。
その言葉が伝わると、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
「やばかったな」
「貴嗣、速すぎない?」
「千馬も将輝押したよな?」
「何が起きたか全然分かんなかった」
「動画、撮れてない?」
その一言で、何人かが同時に将輝を見た。
将輝も思い出したように固定スタンドを見る。
タブレットは倒れていなかった。
画面はまだ点灯している。
将輝はゆっくり近づき、録画停止のボタンを押した。
「撮れてる?」
誰かが聞く。
将輝は再生しなかった。
「たぶん」
萌菜美は、その言葉に引っかかった。
たぶん。
昨日、自分も真紗子に言った。
共有設定は、たぶん大丈夫。
確認していないことを、大丈夫の側へ置く言葉。
でも今は、そんなことを考える場面ではないと思って、萌菜美は口を閉じた。
保健室から戻ってきた千馬と貴嗣は、二人とも異常なしだった。
千馬は教室へ戻る途中から、もういつもの声量に戻っていた。
「マジでびびった。あれ俺、あと五センチ遅かったら終わってたろ」
「五センチは時間じゃない」
将輝が言った。
声は平坦だった。
「細けえな。じゃあ〇・一秒」
「根拠ない」
「助かったんだからいいだろ」
千馬は将輝の背中を軽く叩いた。
将輝は振り返らない。
貴嗣は少し後ろを歩いていた。
クラスメートの一人が肩を叩く。
「お前、英雄じゃん」
「やめて」
「いや、あれ普通できないって」
「できたから普通でいいだろ」
「何それ」
「俺を上げると、あとで落ちた時に困る」
笑いが起きた。
貴嗣も笑った。
萌菜美だけが、少し離れたところからその横顔を見ていた。
英雄。
その言葉は分かりやすい。
千馬は助けられた。
貴嗣は助けた。
将輝はそこにいた。
それだけなら、一行で書ける。
けれど萌菜美が見たのは、それだけではなかった。
最初に走ったのは千馬だった。
千馬が押した先に将輝がいた。
そのあと貴嗣が走った。
貴嗣と千馬は、一瞬だけ目を合わせた。
何を考えていたのかは、分からない。
体育館を出る直前、萌菜美は振り返った。
固定スタンドのタブレットを、将輝が一人で外している。
画面には、小さな動画のサムネイルが残っていた。
萌菜美の位置から内容は見えない。
ただ、将輝がその画面を見た瞬間だけ、指を止めたのが見えた。
すぐに画面を消し、タブレットを抱える。
その日の昼休み。
まだ誰も、それを「奇跡」とは呼んでいなかった。
【終】
翌日の四時間目、体育館の床は朝からの湿気で少しだけ重たく見えた。
萌菜美は体育館シューズのかかとを踏みかけたまま、壁際の時計を見た。開始二分前。間に合っている。
「それ、間に合ったって言わないだろ」
貴嗣がネットの向こうから言った。
「チャイム前です」
「新聞部基準ではそうなんだ」
「学校基準でもそうです」
「じゃあ俺が間違ってる」
貴嗣はあっさり引いた。
その隣で、知正が支柱を運ぶ台車を壁際へ押している。
「貴嗣、そっち持って。これ戻したら終わり」
「はいはい。俺みたいな非力な人間に重量物を」
「昨日、片手で机持ってたじゃん」
「あれは見栄」
「見栄で筋力は増えないって」
二人の前には、今日使わない予備のネット支柱が二本あった。
教師が笛を首から下げたまま、体育館の中央から声を飛ばす。
「台車に戻したらベルトな。二人で指差し確認までやれよ」
「はーい」
知正が明るく返事をした。
貴嗣も片手を上げた。
萌菜美はその声を聞きながら、自分のクラスの列へ入った。
少し離れたところでは、将輝が学校のタブレットを固定スタンドにはめ込んでいた。
「もっと右」
千馬が画面をのぞき込む。
「お前が右に行けばいい」
「俺を中心に撮れって」
「サーブフォームの確認。顔の撮影会じゃない」
「フォームも顔も俺なんだから同じだろ」
「違う」
将輝はスタンドの脚を靴先で軽く押し、ぐらつかないことを確かめた。
タブレットの画面には、サーブ練習をするコートと、その奥の壁際が一緒に入っている。
画面端には、立ち位置を確かめる将輝自身の肩も映った。
「撮れてる?」
「まだ」
「じゃあ今の会話は歴史に残らない?」
「残す価値ない」
「ひど」
千馬は笑いながらコートへ走っていった。
萌菜美は髪を結び直し、昨日の短評欄のことを思い出した。
題材はまだ決まっていない。
体育の授業なら書けるかもしれない、と一瞬考えた。
授業の満足度。
バレーボールは好きか嫌いか。
運動が得意な人と苦手な人で評価は変わる。
その時点で面倒になった。
「萌菜美、ぼーっとしてるとボール来るよ」
知正に言われ、顔を上げる。
「考えてました」
「体育の時間に?」
「体育について」
「じゃあセーフか」
「何がですか」
「知らない」
知正は笑って、自分のチームへ戻った。
準備運動のあと、四つのコートに分かれてサーブ練習が始まった。
将輝のタブレットは、一番奥のコートを斜めから撮っている。
ひとりずつ打って、終わったら後ろへ回る。
千馬の番になると、本人が宣言した。
「見とけよ。今日一番のやつ打つから」
「昨日からそれ言ってる」
将輝が録画ボタンへ指を置く。
「失敗したら?」
「成功する」
「未来見えてる?」
「見えてなくても言うんだよ」
千馬はボールを一度床へついた。
高く投げる。
踏み込む。
手のひらがボールを強く叩いた。
乾いた音が体育館へ響く。
ボールはネットの上を越えたが、狙った場所より大きく右へそれた。
「あっ」
誰かが声を上げる。
ボールは別のコートへ転がっていった。
「今のはコートが悪い」
「動かない床のせいにするな」
将輝が言う。
千馬は言い返しながらボールを追おうとして、途中で止まった。
視線が、将輝のほうではなく、その後ろへ向いた。
萌菜美には最初、何を見たのか分からなかった。
金属が擦れるような音がした。
短い。
けれど、ボールの音とは違った。
壁際の運搬台車。
その上に斜めに収められていた予備の支柱が、ほんの少し動いている。
先端が数センチ、外側へずれた。
将輝は気づいていない。
タブレットの画面を見たまま、録画中のコートへ顔を向けている。
「将輝!」
千馬が叫んだ。
将輝が振り向くより先に、千馬が走った。
二、三歩だったと思う。
千馬は将輝の肩と胸の間を両手で強く押した。
「うわっ」
将輝の身体がスタンドの横へよろける。
同時に、台車の固定ベルトがずるりと滑った。
支柱が傾く。
そこで初めて、何人もの声が重なった。
「危ない!」
「離れろ!」
「千馬!」
押した反動で、千馬自身が台車の近くへ残っていた。
支柱はゆっくり倒れたわけではなかった。
一度傾いたあとは、重さに引かれて急に速くなった。
千馬が顔を上げる。
逃げる方向を探すように一歩動き、止まる。
その前を、別の支柱とスタンドの脚がふさいでいた。
横へ飛べば間に合うのか。
後ろへ下がるのか。
萌菜美には分からなかった。
千馬にも、たぶん考える時間はなかった。
貴嗣が走っていた。
いつ動き始めたのか、萌菜美は見ていなかった。
ただ、貴嗣が千馬を見る。
千馬も貴嗣を見る。
一瞬だけ、目が合った。
何かを言ったようには見えなかった。
それでも貴嗣は進む方向を変えず、千馬もその場で変に飛び出さなかった。
貴嗣の右手が千馬の左腕をつかむ。
「来い!」
今度は声が聞こえた。
貴嗣が全身で引いた。
千馬の足が床を滑る。
二人が倒れ込むようにコート側へ転がった。
直後。
支柱が床へ落ちた。
金属の激しい音が、体育館の天井まで跳ね返った。
萌菜美は両手で耳を塞いでいた。
自分がそうしたことにも、音が止んでから気づいた。
誰も動かなかった。
ボールが一個だけ、遠くで転がっている。
ころころ、と場違いなくらい小さな音を立てて、壁へ当たって止まった。
「全員、そのまま!」
教師の声が響いた。
次の瞬間には走っている。
倒れた支柱を避け、千馬と貴嗣のところへしゃがみ込む。
「頭打ってないか。痛いところは」
「俺、大丈夫」
千馬がすぐ答えた。
「貴嗣は」
「生きてます」
「そういうのいいから」
「じゃあ、たぶん大丈夫です」
「たぶんもやめろ」
教師が貴嗣の腕と肩を確認する。
知正も近づこうとして、別の教師に止められた。
「みんな下がって。触るな」
将輝は、少し離れた場所で立ったままだった。
千馬に押されたせいで体育着の胸元がずれている。
いつもの澄ました顔ではなかった。
目だけが、倒れた支柱と千馬の間を何度も往復している。
「将輝」
千馬が床に座ったまま呼んだ。
「お前、平気か」
将輝は返事をしなかった。
「おい」
「……平気」
「ならいい」
千馬はそれだけ言って、自分の肘についた埃を払った。
教師が保健室へ二人を連れていくことになった。
けががないように見えても、念のため確認するという。
「歩ける?」
知正が貴嗣へ聞く。
「歩ける。救助した側が担架とか格好つかないし」
「今そういう話してない」
「こういう時こそ軽口って必要じゃない?」
「必要かどうかは俺が決める」
「他者の価値観を尊重してくれよ」
貴嗣は笑った。
でも、その笑い方はいつもより短かった。
知正は何も返さず、倒れた支柱のほうを見た。
教師たちが周囲を確認している。
外れたベルト。
横倒しになった支柱。
運搬台車。
知正の顔から、さっきまでの明るさが消えていた。
萌菜美は、その変化を見た。
理由までは分からなかった。
授業は中止になった。
全員が体育館の端に集められ、点呼を受けた。
けが人はいないらしい。
その言葉が伝わると、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
「やばかったな」
「貴嗣、速すぎない?」
「千馬も将輝押したよな?」
「何が起きたか全然分かんなかった」
「動画、撮れてない?」
その一言で、何人かが同時に将輝を見た。
将輝も思い出したように固定スタンドを見る。
タブレットは倒れていなかった。
画面はまだ点灯している。
将輝はゆっくり近づき、録画停止のボタンを押した。
「撮れてる?」
誰かが聞く。
将輝は再生しなかった。
「たぶん」
萌菜美は、その言葉に引っかかった。
たぶん。
昨日、自分も真紗子に言った。
共有設定は、たぶん大丈夫。
確認していないことを、大丈夫の側へ置く言葉。
でも今は、そんなことを考える場面ではないと思って、萌菜美は口を閉じた。
保健室から戻ってきた千馬と貴嗣は、二人とも異常なしだった。
千馬は教室へ戻る途中から、もういつもの声量に戻っていた。
「マジでびびった。あれ俺、あと五センチ遅かったら終わってたろ」
「五センチは時間じゃない」
将輝が言った。
声は平坦だった。
「細けえな。じゃあ〇・一秒」
「根拠ない」
「助かったんだからいいだろ」
千馬は将輝の背中を軽く叩いた。
将輝は振り返らない。
貴嗣は少し後ろを歩いていた。
クラスメートの一人が肩を叩く。
「お前、英雄じゃん」
「やめて」
「いや、あれ普通できないって」
「できたから普通でいいだろ」
「何それ」
「俺を上げると、あとで落ちた時に困る」
笑いが起きた。
貴嗣も笑った。
萌菜美だけが、少し離れたところからその横顔を見ていた。
英雄。
その言葉は分かりやすい。
千馬は助けられた。
貴嗣は助けた。
将輝はそこにいた。
それだけなら、一行で書ける。
けれど萌菜美が見たのは、それだけではなかった。
最初に走ったのは千馬だった。
千馬が押した先に将輝がいた。
そのあと貴嗣が走った。
貴嗣と千馬は、一瞬だけ目を合わせた。
何を考えていたのかは、分からない。
体育館を出る直前、萌菜美は振り返った。
固定スタンドのタブレットを、将輝が一人で外している。
画面には、小さな動画のサムネイルが残っていた。
萌菜美の位置から内容は見えない。
ただ、将輝がその画面を見た瞬間だけ、指を止めたのが見えた。
すぐに画面を消し、タブレットを抱える。
その日の昼休み。
まだ誰も、それを「奇跡」とは呼んでいなかった。
【終】



