第13話 訂正しても消えない
訂正欄は、思っていたより小さかった。
紙面の右下。
写真もなく、太い見出しもない。
《前号記事についての訂正とお詫び》
その下に、細い文字が七段落並んでいる。
「これ、何年前ですか」
「十四年前」
「真紗子が入学するより前」
「ずっと前」
萌菜美はページの端を触らないように、机へ顔を近づけた。
前号の記事も一緒に綴じられている。
見出しは、
《文化祭展示中止 準備責任者の確認不足》
だった。
その年、文化祭前日の夜に、特別教室の窓際へ置かれていた展示用パネルが雨で濡れた。
翌朝、作品の一部が使えなくなり、展示は縮小された。
新聞は文化祭後、その原因を「準備責任者だった生徒が窓の施錠確認を怠ったため」と書いた。
「これ、本人が認めたんですか」
「認めてない」
「じゃあ、どうして書いたんですか」
「記事を読んで」
萌菜美は本文へ戻った。
記事には、実名はなかった。
《展示班の責任者》
《二年生の担当生徒》
それだけ。
でも、文化祭の実行委員や同じ学年なら誰のことか分かる書き方だった。
原因については、
《関係者への取材から、前日の最終確認が十分に行われていなかったことが分かった》
とある。
さらに、
《最後に教室を出た担当生徒が施錠を確認していれば防げた可能性が高い》
と続く。
「これだけ読むと、かなり決まってるように見えます」
「うん」
「関係者への取材って、誰に聞いたんですか」
「当時の記録が残ってる」
真紗子は同じファイルの後ろから、透明ポケットに入った紙を出した。
新聞部の取材メモのコピーだった。
二人分の証言がある。
一人目。
《最後まで残っていたのは責任者だったと思う》
二人目。
《帰る時、窓側を確認していたのを見ていない》
萌菜美は二つを読み返した。
「これで『施錠確認を怠った』?」
「当時の担当者は、そう組み立てた」
「でも、一人目は『思う』で、二人目は『見ていない』」
「そう」
「本人には?」
「聞いた」
別のメモ。
《自分が最後だったかは覚えていない》
《窓を閉めた記憶はある》
《鍵まで確認したかは覚えていない》
萌菜美は黙った。
「これ」
「うん」
「今の支柱と似てる」
「そう思う?」
「確認した記憶が曖昧。周りも全部見てない。でも記事では、本人が確認を怠ったことになってる」
真紗子はうなずいた。
「その後、校舎の管理記録が見つかった」
「何が分かったんですか」
「その教室、文化祭準備期間だけ、夜に別の教員も使ってた」
「じゃあ、その人が窓を」
「それも確認できなかった」
萌菜美は顔を上げた。
「分からないまま?」
「うん」
「じゃあ訂正は何を」
「原因を別の人へ変えたんじゃない」
真紗子は訂正欄を指した。
萌菜美は最初から読んだ。
《前号では、展示用作品の一部が雨損した件について、展示班責任者の確認不足が原因であったと受け取れる記述を掲載しました。》
次。
《その後の確認により、当該生徒が最後に教室を退出したこと、施錠確認を怠ったことのいずれも確定できないことが分かりました。》
次。
《確認できていない事項を、複数の証言から推定し、事実であるかのように記述したことを訂正します。》
萌菜美はそこで止まった。
「原因、書いてない」
「分からなかったから」
「雨が入った経路も?」
「窓が完全に閉まっていなかった可能性は高い。でも、誰がいつどうしたかまでは残ってなかった」
「じゃあ、最初の記事だけが断定した」
「うん」
萌菜美は訂正欄の最後まで読む。
本人と関係者への謝罪。
記事作成時の確認手順の見直し。
匿名であっても、校内では対象者が特定される場合があることへの配慮。
そして最後に、
《訂正前の記事は記録から削除せず、本訂正と併せて保存します。》
と書かれていた。
「削除しなかったんですか」
「それが、この新聞部のやり方になった」
「間違った記事なのに」
「間違ったから」
真紗子は即答した。
「消したら、最初から書かなかったことにできる。でも、その記事で傷ついた人は、最初から傷つかなかったことにはならない」
萌菜美は古い紙面を見た。
「その生徒、どうなったんですか」
「ここからは新聞じゃなくて、残ってる引き継ぎ記録の話」
真紗子は別の透明ポケットを開いた。
そこには、当時の編集責任者が卒業前に書いた短い引き継ぎ文があった。
活字ではなく、青いペンの手書き。
真紗子が読ませるために、萌菜美の前へ向きを変える。
《訂正号を出したあとも、「展示を駄目にした人」という言い方はしばらく残った。》
その一行の下に、
《本人は実行委員を辞めた。》
さらに、
《訂正したから元に戻ると思っていた。戻らなかった。》
萌菜美は指を止めた。
「これを書いた人」
「最初の記事の編集責任者」
「自分で?」
「うん」
手書きの文字は、途中から少し乱れている。
《謝った。本人も「分かった」と言った。》
《でも、分かったと言わせたことまで自分の安心に使ってはいけなかった。》
《訂正は、傷つけた事実を消す作業ではない。》
《次に同じことをしないために、間違いを残す作業だ。》
最後の一行だけ、二重線で囲まれていた。
《間違えない新聞ではなく、間違えたときに訂正を残せる新聞にする。》
萌菜美はしばらく、その一行を見ていた。
「これ、真紗子がよく言うやつ」
「うん」
「自分で考えたんじゃなかったんですね」
「残念でした」
「ちょっとだけ」
「伝統って、だいたい誰かの失敗からできてるよ」
真紗子は笑った。
萌菜美は笑えなかった。
失敗。
訂正。
謝罪。
それで終わらない。
一度ついた評価が残る。
「もし最初の記事を出してなかったら」
「その生徒は実行委員を辞めなかったかもしれない」
「かもしれない」
「そこも断定しない」
真紗子が言う。
萌菜美は少しだけ苦い顔をした。
「今、それ言います?」
「大事だから」
「分かってます」
「ほんと?」
「分かってきました」
真紗子は訂正欄を元の透明ポケットへ戻した。
「萌菜美の記事、今どこまで?」
「支柱の確認不足と、直接原因が未特定なことまで」
「七秒は?」
「千馬が記事に使わないでほしいって言ってるので、まだ入れてません」
「将輝の編集理由は?」
「本人は話してくれた。でも、記事にどう入れるかは決めてない」
「貴嗣の救出は?」
「事実として書ける」
「千馬の行動は?」
「本人の同意が取れれば」
「じゃあ、何を記事にしたい?」
萌菜美は答えようとして、止まった。
事故の真相。
英雄の正体。
消えた七秒。
どれも、少し前までなら使いたかった言葉だった。
でも今、その見出しを頭に置くと、誰かを一つの役へ押し込む感じがする。
「まだ分かりません」
「じゃあ、今日も保留」
「はい」
真紗子は古いファイルを閉じようとした。
「待って」
「何?」
「最初の記事、もう一回見せて」
萌菜美は訂正前の記事へ戻った。
《文化祭展示中止 準備責任者の確認不足》
見出しだけで、ほとんど結論が出ている。
本文を読まなくても、
展示が中止になった。
責任者が確認しなかった。
だから起きた。
そう読める。
「これ、嘘を書こうとしたわけじゃないですよね」
「記録を見る限りは」
「本人にも聞いてる」
「うん」
「証言も取ってる」
「うん」
「なのに間違えた」
「確認できたことと、推測したことを分けなかったから」
萌菜美は自分のノートを開いた。
《確定していること》
《確定していないこと》
支柱の原因を整理した時に作った二つの欄。
貴嗣と知正が共同確認を省いた。
事故後、ベルトは正常な固定状態ではなかった。
ここは確定。
誰のどの操作で不完全固定になったか。
いつ不完全な状態になったか。
共同確認をしていれば必ず防げたか。
ここは未確定。
もし見出しを、
《二人の確認不足が招いた支柱事故》
にしたら。
本文の中で「直接原因は未特定」と書いても、読者はどちらを先に受け取るだろう。
見出しだけを画面保存されたら。
そこだけ引用されたら。
十二秒の動画と同じことになる。
「真紗子」
「ん?」
「訂正って、正しい文章を書き直せば終わると思ってました」
「うん」
「違うんですね」
「何が?」
「訂正したあとも、最初の評価は残る」
「残ることがある」
「だったら、最初から間違えないほうがいい」
「もちろん」
「でも絶対は無理」
「うん」
真紗子は穏やかに答えた。
「だから、訂正できる形で書く」
「訂正できる形?」
「どこまで確認したかを残す。誰に聞いたかを残す。分からないところを分からないまま残す。後から新しい事実が出た時に、何を直すべきか分かるようにする」
「断言しない?」
「確認できたことは断言していい」
「確認できないところだけ分ける」
「そう」
萌菜美はパソコンを開いた。
今までの記事下書きとは別に、新しいファイルを作る。
題名はまだ入れない。
最初に四つの見出しだけ置いた。
《確認できたこと》
《当事者が話したこと》
《確認できていないこと》
《この記事を書く側が判断したこと》
「最後の何?」
真紗子が聞く。
「事実と私の考えを混ぜないため」
「いいね」
「まだ記事じゃないです」
「分かってる」
萌菜美は一つ目へ、事実を書き始めた。
貴嗣が千馬を引いた。
千馬も貴嗣もけがをしなかった。
元映像は十九秒。
送信用コピーは十二秒。
将輝は冒頭七秒を切った。
貴嗣と知正は共同確認を省いた。
事故後、固定ベルトは正常固定状態ではなかった。
直接原因は特定されていない。
書き終えて、画面を眺める。
どの行も、一人の全体ではない。
一人の一部。
ひとつの行動。
ひとつの確認結果。
「これを並べるだけで記事になりますか」
「ならないかも」
「ですよね」
「だから、何を批評するか決める」
萌菜美は椅子の背にもたれた。
「誰を、じゃなくて?」
「うん」
誰を批評するか。
貴嗣。
千馬。
将輝。
知正。
今まで、無意識にそのどれかを考えていた。
でも、真紗子は「何を」と言った。
「動画?」
萌菜美が言う。
「それもあり」
「編集?」
「それも」
「事故?」
「それも」
真紗子は答えをくれない。
萌菜美は少し考えた。
十二秒を見て、貴嗣は英雄になった。
十九秒を見ると、千馬も誰かを助けていた。
七秒を切った将輝は、悪意で捏造したわけではなかった。
貴嗣と知正は確認を省いた。
でも、二人が直接の原因を作ったとは断定できない。
情報が一つ増えるたびに、
いい人。
悪い人。
助けた人。
助けられた人。
責任のある人。
その配置が動いた。
「評価」
萌菜美が言った。
「何?」
「同じ事故なのに、見える情報が変わるたびに、人の評価が動いてる」
真紗子は黙って聞いた。
「十二秒では貴嗣が英雄。十九秒では千馬も助けた側になる。七秒を切った理由だけ聞けば将輝が悪く見える。でも本人に聞いたら、恥ずかしくて自分を隠したかった。貴嗣と知正の確認不足を知ったら、今度は二人を原因にしたくなる」
「うん」
「私も、ずっと動かしてる」
「何を?」
「星」
短評欄から消した五つの星。
紙面から消しただけで、自分の中ではずっと誰かにつけていた。
「貴嗣から千馬へ。千馬から将輝へ。将輝から貴嗣と知正へ」
萌菜美は手で位置を動かすように言った。
「星五と星一を、相手だけ変えて」
「それが記事の題材?」
真紗子が聞く。
萌菜美はすぐには答えなかった。
パソコンの画面。
四つの見出し。
古い新聞の訂正欄。
そして、最初の短評欄から消した星。
「たぶん」
「たぶん?」
真紗子が笑う。
萌菜美も少し笑った。
「まだ確認します」
「よろしい」
萌菜美は新しい下書きの一番上に、仮の一文を打った。
《私たちは、見えている部分だけで、人の意味を決めていないか。》
読み返す。
事故の原因ではない。
英雄の正体でもない。
七秒の秘密でもない。
自分が書きたいのは、その手前にあるものかもしれない。
なぜ十二秒だけで、あれほど簡単に貴嗣を英雄にできたのか。
なぜ同じ十二秒で、千馬を無謀だと決められたのか。
そして、十九秒を見た自分まで、今度は別の誰かへ評価を移そうとしたのか。
萌菜美は仮文の下に、小さく書いた。
――誰が正しいかではなく、どうして正しい人を作りたくなるのか。
保存する。
今度は公開範囲も確認した。
自分と真紗子だけ。
確認してから、画面を閉じた。
古い訂正欄は、まだ机の上にあった。
一度書かれた言葉は、訂正しても完全には消えない。
だからこそ、書く前に立ち止まる。
そして間違えたら、消さずに訂正する。
萌菜美は十四年前の小さな枠を見て、初めてその二つが同じ責任の中にあるのだと思った。
【終】
訂正欄は、思っていたより小さかった。
紙面の右下。
写真もなく、太い見出しもない。
《前号記事についての訂正とお詫び》
その下に、細い文字が七段落並んでいる。
「これ、何年前ですか」
「十四年前」
「真紗子が入学するより前」
「ずっと前」
萌菜美はページの端を触らないように、机へ顔を近づけた。
前号の記事も一緒に綴じられている。
見出しは、
《文化祭展示中止 準備責任者の確認不足》
だった。
その年、文化祭前日の夜に、特別教室の窓際へ置かれていた展示用パネルが雨で濡れた。
翌朝、作品の一部が使えなくなり、展示は縮小された。
新聞は文化祭後、その原因を「準備責任者だった生徒が窓の施錠確認を怠ったため」と書いた。
「これ、本人が認めたんですか」
「認めてない」
「じゃあ、どうして書いたんですか」
「記事を読んで」
萌菜美は本文へ戻った。
記事には、実名はなかった。
《展示班の責任者》
《二年生の担当生徒》
それだけ。
でも、文化祭の実行委員や同じ学年なら誰のことか分かる書き方だった。
原因については、
《関係者への取材から、前日の最終確認が十分に行われていなかったことが分かった》
とある。
さらに、
《最後に教室を出た担当生徒が施錠を確認していれば防げた可能性が高い》
と続く。
「これだけ読むと、かなり決まってるように見えます」
「うん」
「関係者への取材って、誰に聞いたんですか」
「当時の記録が残ってる」
真紗子は同じファイルの後ろから、透明ポケットに入った紙を出した。
新聞部の取材メモのコピーだった。
二人分の証言がある。
一人目。
《最後まで残っていたのは責任者だったと思う》
二人目。
《帰る時、窓側を確認していたのを見ていない》
萌菜美は二つを読み返した。
「これで『施錠確認を怠った』?」
「当時の担当者は、そう組み立てた」
「でも、一人目は『思う』で、二人目は『見ていない』」
「そう」
「本人には?」
「聞いた」
別のメモ。
《自分が最後だったかは覚えていない》
《窓を閉めた記憶はある》
《鍵まで確認したかは覚えていない》
萌菜美は黙った。
「これ」
「うん」
「今の支柱と似てる」
「そう思う?」
「確認した記憶が曖昧。周りも全部見てない。でも記事では、本人が確認を怠ったことになってる」
真紗子はうなずいた。
「その後、校舎の管理記録が見つかった」
「何が分かったんですか」
「その教室、文化祭準備期間だけ、夜に別の教員も使ってた」
「じゃあ、その人が窓を」
「それも確認できなかった」
萌菜美は顔を上げた。
「分からないまま?」
「うん」
「じゃあ訂正は何を」
「原因を別の人へ変えたんじゃない」
真紗子は訂正欄を指した。
萌菜美は最初から読んだ。
《前号では、展示用作品の一部が雨損した件について、展示班責任者の確認不足が原因であったと受け取れる記述を掲載しました。》
次。
《その後の確認により、当該生徒が最後に教室を退出したこと、施錠確認を怠ったことのいずれも確定できないことが分かりました。》
次。
《確認できていない事項を、複数の証言から推定し、事実であるかのように記述したことを訂正します。》
萌菜美はそこで止まった。
「原因、書いてない」
「分からなかったから」
「雨が入った経路も?」
「窓が完全に閉まっていなかった可能性は高い。でも、誰がいつどうしたかまでは残ってなかった」
「じゃあ、最初の記事だけが断定した」
「うん」
萌菜美は訂正欄の最後まで読む。
本人と関係者への謝罪。
記事作成時の確認手順の見直し。
匿名であっても、校内では対象者が特定される場合があることへの配慮。
そして最後に、
《訂正前の記事は記録から削除せず、本訂正と併せて保存します。》
と書かれていた。
「削除しなかったんですか」
「それが、この新聞部のやり方になった」
「間違った記事なのに」
「間違ったから」
真紗子は即答した。
「消したら、最初から書かなかったことにできる。でも、その記事で傷ついた人は、最初から傷つかなかったことにはならない」
萌菜美は古い紙面を見た。
「その生徒、どうなったんですか」
「ここからは新聞じゃなくて、残ってる引き継ぎ記録の話」
真紗子は別の透明ポケットを開いた。
そこには、当時の編集責任者が卒業前に書いた短い引き継ぎ文があった。
活字ではなく、青いペンの手書き。
真紗子が読ませるために、萌菜美の前へ向きを変える。
《訂正号を出したあとも、「展示を駄目にした人」という言い方はしばらく残った。》
その一行の下に、
《本人は実行委員を辞めた。》
さらに、
《訂正したから元に戻ると思っていた。戻らなかった。》
萌菜美は指を止めた。
「これを書いた人」
「最初の記事の編集責任者」
「自分で?」
「うん」
手書きの文字は、途中から少し乱れている。
《謝った。本人も「分かった」と言った。》
《でも、分かったと言わせたことまで自分の安心に使ってはいけなかった。》
《訂正は、傷つけた事実を消す作業ではない。》
《次に同じことをしないために、間違いを残す作業だ。》
最後の一行だけ、二重線で囲まれていた。
《間違えない新聞ではなく、間違えたときに訂正を残せる新聞にする。》
萌菜美はしばらく、その一行を見ていた。
「これ、真紗子がよく言うやつ」
「うん」
「自分で考えたんじゃなかったんですね」
「残念でした」
「ちょっとだけ」
「伝統って、だいたい誰かの失敗からできてるよ」
真紗子は笑った。
萌菜美は笑えなかった。
失敗。
訂正。
謝罪。
それで終わらない。
一度ついた評価が残る。
「もし最初の記事を出してなかったら」
「その生徒は実行委員を辞めなかったかもしれない」
「かもしれない」
「そこも断定しない」
真紗子が言う。
萌菜美は少しだけ苦い顔をした。
「今、それ言います?」
「大事だから」
「分かってます」
「ほんと?」
「分かってきました」
真紗子は訂正欄を元の透明ポケットへ戻した。
「萌菜美の記事、今どこまで?」
「支柱の確認不足と、直接原因が未特定なことまで」
「七秒は?」
「千馬が記事に使わないでほしいって言ってるので、まだ入れてません」
「将輝の編集理由は?」
「本人は話してくれた。でも、記事にどう入れるかは決めてない」
「貴嗣の救出は?」
「事実として書ける」
「千馬の行動は?」
「本人の同意が取れれば」
「じゃあ、何を記事にしたい?」
萌菜美は答えようとして、止まった。
事故の真相。
英雄の正体。
消えた七秒。
どれも、少し前までなら使いたかった言葉だった。
でも今、その見出しを頭に置くと、誰かを一つの役へ押し込む感じがする。
「まだ分かりません」
「じゃあ、今日も保留」
「はい」
真紗子は古いファイルを閉じようとした。
「待って」
「何?」
「最初の記事、もう一回見せて」
萌菜美は訂正前の記事へ戻った。
《文化祭展示中止 準備責任者の確認不足》
見出しだけで、ほとんど結論が出ている。
本文を読まなくても、
展示が中止になった。
責任者が確認しなかった。
だから起きた。
そう読める。
「これ、嘘を書こうとしたわけじゃないですよね」
「記録を見る限りは」
「本人にも聞いてる」
「うん」
「証言も取ってる」
「うん」
「なのに間違えた」
「確認できたことと、推測したことを分けなかったから」
萌菜美は自分のノートを開いた。
《確定していること》
《確定していないこと》
支柱の原因を整理した時に作った二つの欄。
貴嗣と知正が共同確認を省いた。
事故後、ベルトは正常な固定状態ではなかった。
ここは確定。
誰のどの操作で不完全固定になったか。
いつ不完全な状態になったか。
共同確認をしていれば必ず防げたか。
ここは未確定。
もし見出しを、
《二人の確認不足が招いた支柱事故》
にしたら。
本文の中で「直接原因は未特定」と書いても、読者はどちらを先に受け取るだろう。
見出しだけを画面保存されたら。
そこだけ引用されたら。
十二秒の動画と同じことになる。
「真紗子」
「ん?」
「訂正って、正しい文章を書き直せば終わると思ってました」
「うん」
「違うんですね」
「何が?」
「訂正したあとも、最初の評価は残る」
「残ることがある」
「だったら、最初から間違えないほうがいい」
「もちろん」
「でも絶対は無理」
「うん」
真紗子は穏やかに答えた。
「だから、訂正できる形で書く」
「訂正できる形?」
「どこまで確認したかを残す。誰に聞いたかを残す。分からないところを分からないまま残す。後から新しい事実が出た時に、何を直すべきか分かるようにする」
「断言しない?」
「確認できたことは断言していい」
「確認できないところだけ分ける」
「そう」
萌菜美はパソコンを開いた。
今までの記事下書きとは別に、新しいファイルを作る。
題名はまだ入れない。
最初に四つの見出しだけ置いた。
《確認できたこと》
《当事者が話したこと》
《確認できていないこと》
《この記事を書く側が判断したこと》
「最後の何?」
真紗子が聞く。
「事実と私の考えを混ぜないため」
「いいね」
「まだ記事じゃないです」
「分かってる」
萌菜美は一つ目へ、事実を書き始めた。
貴嗣が千馬を引いた。
千馬も貴嗣もけがをしなかった。
元映像は十九秒。
送信用コピーは十二秒。
将輝は冒頭七秒を切った。
貴嗣と知正は共同確認を省いた。
事故後、固定ベルトは正常固定状態ではなかった。
直接原因は特定されていない。
書き終えて、画面を眺める。
どの行も、一人の全体ではない。
一人の一部。
ひとつの行動。
ひとつの確認結果。
「これを並べるだけで記事になりますか」
「ならないかも」
「ですよね」
「だから、何を批評するか決める」
萌菜美は椅子の背にもたれた。
「誰を、じゃなくて?」
「うん」
誰を批評するか。
貴嗣。
千馬。
将輝。
知正。
今まで、無意識にそのどれかを考えていた。
でも、真紗子は「何を」と言った。
「動画?」
萌菜美が言う。
「それもあり」
「編集?」
「それも」
「事故?」
「それも」
真紗子は答えをくれない。
萌菜美は少し考えた。
十二秒を見て、貴嗣は英雄になった。
十九秒を見ると、千馬も誰かを助けていた。
七秒を切った将輝は、悪意で捏造したわけではなかった。
貴嗣と知正は確認を省いた。
でも、二人が直接の原因を作ったとは断定できない。
情報が一つ増えるたびに、
いい人。
悪い人。
助けた人。
助けられた人。
責任のある人。
その配置が動いた。
「評価」
萌菜美が言った。
「何?」
「同じ事故なのに、見える情報が変わるたびに、人の評価が動いてる」
真紗子は黙って聞いた。
「十二秒では貴嗣が英雄。十九秒では千馬も助けた側になる。七秒を切った理由だけ聞けば将輝が悪く見える。でも本人に聞いたら、恥ずかしくて自分を隠したかった。貴嗣と知正の確認不足を知ったら、今度は二人を原因にしたくなる」
「うん」
「私も、ずっと動かしてる」
「何を?」
「星」
短評欄から消した五つの星。
紙面から消しただけで、自分の中ではずっと誰かにつけていた。
「貴嗣から千馬へ。千馬から将輝へ。将輝から貴嗣と知正へ」
萌菜美は手で位置を動かすように言った。
「星五と星一を、相手だけ変えて」
「それが記事の題材?」
真紗子が聞く。
萌菜美はすぐには答えなかった。
パソコンの画面。
四つの見出し。
古い新聞の訂正欄。
そして、最初の短評欄から消した星。
「たぶん」
「たぶん?」
真紗子が笑う。
萌菜美も少し笑った。
「まだ確認します」
「よろしい」
萌菜美は新しい下書きの一番上に、仮の一文を打った。
《私たちは、見えている部分だけで、人の意味を決めていないか。》
読み返す。
事故の原因ではない。
英雄の正体でもない。
七秒の秘密でもない。
自分が書きたいのは、その手前にあるものかもしれない。
なぜ十二秒だけで、あれほど簡単に貴嗣を英雄にできたのか。
なぜ同じ十二秒で、千馬を無謀だと決められたのか。
そして、十九秒を見た自分まで、今度は別の誰かへ評価を移そうとしたのか。
萌菜美は仮文の下に、小さく書いた。
――誰が正しいかではなく、どうして正しい人を作りたくなるのか。
保存する。
今度は公開範囲も確認した。
自分と真紗子だけ。
確認してから、画面を閉じた。
古い訂正欄は、まだ机の上にあった。
一度書かれた言葉は、訂正しても完全には消えない。
だからこそ、書く前に立ち止まる。
そして間違えたら、消さずに訂正する。
萌菜美は十四年前の小さな枠を見て、初めてその二つが同じ責任の中にあるのだと思った。
【終】



