七秒の外側

第1話 星をつけないレビュー

 昼休みの新聞部室には、印刷機の熱と、誰かが開けたままにした紙パックの紅茶の甘い匂いがこもっていた。

「今月から、短評欄を変える」

 真紗子がそう言って、机の上に昨年度の校内新聞を三部並べた。

 萌菜美はパンの袋を閉じながら、三部を順に見た。文化祭、球技大会、図書委員会の展示。見出しの太さは違うのに、どの記事も最後は似ていた。

 ――大成功だった。
 ――今後にも期待したい。
 ――多くの生徒が楽しんだ。

「何を変えるんですか」

「学校生活をレビューする欄にする」

「レビュー」

「そう。行事でも、校則でも、購買の新商品でもいい。実際に見て、確かめて、短く批評する」

 萌菜美はパンを一口かじったまま、黙った。

 レビューという言葉を聞くと、星が並んでいる画面を思い出す。星五つ。星一つ。おすすめ。微妙。二度と買わない。

 物ならまだいい。
 けれど学校生活は、たいてい人が作っている。

「星、つけるんですか」

「つけたい?」

「嫌です」

「即答だね」

 真紗子は笑った。

「じゃあ、つけなくていい」

「レビューなのに?」

「星をつけないレビューがあってもいいでしょ」

 真紗子は去年の新聞を一部だけ裏返した。余白に、赤いボールペンで細かい書き込みがある。日付、取材先、確認者。印刷された記事より、そちらのほうがずっと文字数が多い。

「批評って、人に点数をつけることじゃないから」

「じゃあ何ですか」

「それを考えるのが担当者」

 ずるい、と萌菜美は思った。

 真紗子は、答えを持っている顔で答えを渡さないことがある。

 窓の向こうでは、昼休みの中庭を一年生が横切っていた。誰かが誰かを追いかけ、植え込みの前で止まり、また笑いながら走っていく。

 萌菜美はそういう光景を文章にするのが苦手だった。
 楽しそうだった、で済ませれば簡単だ。けれど「楽しそう」と書いた瞬間、笑っていなかった一人まで勝手に楽しんだことにしてしまう気がした。

「私、読まれる文章、あんまり得意じゃないです」

「知ってる」

「そこは否定してください」

「でも、確認する文章は得意」

 真紗子は机の端に積んであった萌菜美の取材ノートを指で叩いた。

 日付。
 場所。
 発言した人。
 あとで聞き直すこと。
 数字の出典。

 萌菜美は毎回、同じ順で書いていた。面倒だと思う日はある。それでも空欄が残るほうが気持ち悪い。

「先月の図書室の記事、貸出冊数を三回確認したでしょ」

「最初と二回目で数字が違ったので」

「三回目まで行く人、そんなにいないよ」

「違ったまま載せるほうが嫌です」

「だから、向いてる」

 萌菜美は納得できずに紅茶を飲んだ。

「でも、レビューって、もっと断言するものじゃないですか。『これはいい』『これは悪い』って」

「ネットでは、そういうのが読まれやすいね」

「新聞も読まれないと意味ないですよね」

「うん」

「じゃあ、結局、強く言った人が勝ちじゃないですか」

 真紗子はすぐには答えなかった。

 机の上の新聞を揃え、角を指先できっちり合わせる。

「強く言えば、早く届く。でも、早く届いた言葉ほど訂正が追いつかないこともある」

「訂正」

「新聞部が一番嫌いで、一番大事にしなきゃいけないもの」

 壁際の棚を真紗子が指した。

 一番下の段に、古い校内新聞が年度ごとにファイルされている。創刊号から全部ある、と聞いたことがあった。紙は黄ばんでいて、背表紙の文字も薄い。

「それ、全部読むんですか」

「読んでもいいよ」

「今ので読む気なくなりました」

「萌菜美なら読むかと思って」

「読みません。たぶん」

 たぶん、と付けた自分に気づいて、真紗子がまた笑った。

 昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。

「最初の題材、今日中に決めて」

「今日ですか」

「一週間考える?」

「考えます」

「締切は変わらないけど」

「じゃあ今日決めます」

 部室を出る前、真紗子が一枚の紙を渡した。

 新しい短評欄の仮レイアウトだった。

 上に大きく、

 『SCHOOL REVIEW』

 と印刷されている。

 その右端には、デザイン案として五つの空白の星が並んでいた。

「星、あるじゃないですか」

「仮だから消していいよ」

 萌菜美は五つの星を見た。

 全部塗れば、五点。
 一つなら、一点。
 真ん中なら三点。

 便利だと思う。

 便利すぎる、とも思った。

 五時間目の現代文でも、萌菜美はその紙を教科書の下に挟んでいた。

 教師が黒板に「抽象」と「具体」と書いている。

 萌菜美は星の横へ小さく線を引き、余白に書いた。

 購買の焼きそばパン。
 放課後の自習室。
 新しい校則。
 体育館の冷水機。

 どれも記事にはできそうだった。
 でも、書きたいかと聞かれると違う。

「萌菜美」

 隣の列から小声が飛んできた。

 顔を上げると、知正が教師に見えないよう顎だけで紙を示している。

「それ、評価表?」

「新聞」

「俺のこと星五で書いていいよ」

「頼まれたので一個減らします」

「厳しくない?」

「依頼による加点はしません」

 知正が肩を震わせて笑った。

 その前の席にいた貴嗣が振り返る。

「俺なら星二で頼む」

「なんで自分から下げるの」

「期待値を下げとくと楽だから」

「貴嗣はいつもそれ言うね」

 知正が呆れたように言う。

 貴嗣は悪びれず、口元だけで笑った。

「自己評価は本人の自由だろ」

 教師がこちらを向き、三人とも同時に前を向いた。

 萌菜美は紙の星を指で隠した。

 たとえば、知正は明るい。
 貴嗣は自分を低く言う。
 それは、たぶん事実だ。

 でも、明るい人がいつも正しいわけではない。
 自分を低く言う人が、本当に自信のない人とも限らない。

 一個の言葉で人をまとめるのは、便利だ。
 便利すぎる。

 放課後、萌菜美は部室に戻ると、仮レイアウトを机へ置いた。

「題材決まった?」

 真紗子がパソコンから顔を上げた。

「まだです」

「今日決めるって言ったのに」

「今日が終わるまで、まだ時間あります」

「マイペースだなあ」

「褒め言葉として受け取ります」

 萌菜美は赤いペンを借りた。

 五つの空白の星の上に、一本ずつ線を引く。
 最後の一個を消すと、紙面の右上だけが不自然に白くなった。

「全部消した」

「はい」

「じゃあ、代わりに何を置く?」

 萌菜美は少し考えた。

 星の代わり。
 点数の代わり。
 良い、悪い、の代わり。

 まだ分からない。

「保留で」

「紙面に『保留』って載せる?」

「それもありかもしれません」

 真紗子は笑わなかった。

 代わりに、少しだけ真面目な顔をした。

「うん。分からないなら、分からないって書ける欄にしよう」

 萌菜美は、白くなった場所を見た。

 何もないのに、さっきより窮屈ではなかった。

 真紗子がパソコンを閉じる前に、萌菜美は自分の端末で新聞部の共有フォルダを開いた。

 先月の記事、取材写真、紙面の下書き。フォルダ名の先頭には日付が並んでいる。萌菜美は先月の記事の校正で使った「校正用」フォルダを開き、その中に新しく「短評欄」というフォルダを作って、仮レイアウトを保存した。

「共有、部内だけになってる?」

 真紗子に聞かれ、萌菜美は画面の右上を見た。

「たぶん」

「たぶん?」

「いつもの新聞部フォルダの中なので」

「設定は親フォルダと同じとは限らないよ」

「あとで見ます」

「事実確認は三回するのに、そういうところ雑だよね」

「記事の中身じゃないので」

「中身じゃないところから事故ることもある」

 真紗子はそう言ったが、ちょうど職員室へ届ける校正紙を抱えた一年生が入ってきて、話はそこで切れた。

 萌菜美は共有設定を開きかけたまま、別のタブへ移った。

 忘れたわけではない。
 あとでやるつもりだった。

 ただ、「あとで」は、確認したことにはならない。

 その時の萌菜美は、そこまで考えなかった。

 帰り支度をして廊下へ出ると、体育館のほうからボールの弾む音がした。明日の体育はバレーボールだったはずだ。

 階段の踊り場で、千馬が将輝の肩を後ろからつかんだ。

「明日、撮影係代わってくれ」

「嫌」

「即答すんなって」

「俺、サーブのフォーム確認したいからタブレット触る。撮る側でいい」

「じゃあ俺のも撮っとけ。めちゃくちゃ格好よく」

「フォーム確認に格好よさ要る?」

「要るだろ。どうせ見るなら」

 千馬は声が大きい。思ったことが、そのまま音になる感じがする。

 将輝は対照的に、制服の襟を直しながら涼しい顔をしていた。

「失敗したら消して」

「自分で失敗しといて記録のせいにするなよ」

「進路資料に使わない記録は整理したほうがいい」

「体育の動画を何の進路に使うんだよ」

 二人が笑いながら階段を下りていく。

 萌菜美は、その後ろ姿を見送った。

 同じ会話を聞いても、千馬をうるさいと思う人もいれば、明るいと思う人もいる。
 将輝を冷たいと思う人もいれば、落ち着いていると思う人もいるだろう。

 評価は、見た側の中にもある。

 そんな一文を思いついて、萌菜美は端末のメモへ打ち込んだ。

 ――レビューする側も、レビューされる。

 悪くない。

 けれど、少し格好をつけすぎている気がして、消した。

 その日、最初の題材は決まらなかった。

 ただ、新しい短評欄から星が消えた。

 翌日の体育の授業で、一本の支柱が倒れるまでは、それで十分だと思っていた。
【終】