七月に入ると、教室の空気が徐々に夏休みへ向かい始めた。期末テスト。夏休みの課題。文化祭の準備。まだ一学期は終わっていないのに、みんなの話題には「夏休み」という言葉が増えていく。
「真帆、夏休み行きたいとこある?」
「家にいたい」
昼休み、莉子が呆れた顔で私を見た。
「ていうか、真帆って夏休み何するの?」
「決めてない。それに、文化祭の準備があるでしょ」
「それ予定に入れるの?」
「入らないの?」
教室の後ろには、文化祭用の大きなファイルが置かれている。質問箱はすでに、二年生の全クラスへ広がっていた。回収した質問は、百枚を超えている。今は、それを内容ごとに分類しているところだった。
進路。家族。友達。恋愛。学校。自分自身。一つに決められないものも多かった。
「ねえ真帆、これどこ?」
後ろから、晴が一枚を差し出した。紙を見ると、『人に期待しない方が楽ですか。』と書いてある。
「自分自身……かな」
「友達でもよくない?」
「でも、相手が友達とは限らないし。だから自分自身」
「便利な分類だなあ」
晴は笑って、ファイルへ紙を挟んだ。最近、私と晴のあいだに気まずさはなかった。七海のことで勝手に距離を取って、晴を不安にさせたあと――私が謝ってからは、むしろ以前より話す時間が増えた気がする。
木曜日には一緒に帰る。文化祭の準備がある日は、放課後に残る。晴がバスケ部へ行く日は、教室で話してから別れる。いつの間にか、それが普通になっていた。普通。最近、その言葉を使うたびに引っかかる。
「瀬尾さん」
声をかけられて振り返ると、牧野修也がスマートフォンを持って立っていた。
「ちょっといい? 展示用の写真、試しに撮ったんだけど」
修也が画面を差し出すと、文化祭で使う予定の掲示スペースが映っていた。質問カードを壁へ貼り、その横に回答用の付箋を置いた試作版。実際にはまだ教室の一角だけだけれど、写真にすると完成形を想像しやすかった。
「すごい。でも、質問の文字がちょっと小さいかも」
「やっぱり? じゃあ紙のサイズ、B5にする?」
「大きすぎない?」
「試してみるか」
修也はすぐにメモを取る。晴とは違うタイプだった。晴は、とりあえず手を動かしながら考える。修也は一度見て、考えて、それから動く。どちらかというと、私に近い。でも、私ほど一つのことに引っかかり続けない。
「牧野くんは写真部なんだよね。文化祭、部活の展示もあるの?」
「あるよ」
「クラスも手伝って、大変じゃない?」
「でも、好きでやってるから」
修也はさらりと言った。その言い方に、目が止まる。好きだからやる。それだけで、自分の行動を決められる。
「夏休みは記録用に、文化祭用の写真も撮るからさ」
「じゃあ、学校来るの?」
「部活もあるし。撮影会とかする予定」
「どこ行くの?」
「今年は港の方。夕方の景色撮る」
頭の中に景色が浮かんだ。夏の夕方。海沿い。日が傾いて、光が少しずつ柔らかくなる時間。カメラを持って歩く修也には、そういう場所が似合う気がした。
「いいな、楽しそう」
「瀬尾さん、もしかして写真好き?」
「見るのは好きかも」
「じゃあ今度、撮ったやつ見せるよ」
修也はそう言って、口元を緩めた。その会話を、晴が聞いていたかどうかは分からない。晴は少し離れたところで、莉子と一緒に質問カードを並べていた。
◇
放課後、今日は晴の部活がある。私は、文化祭の資料を整理してから帰るつもりだった。晴が立ち上がり、鞄を肩にかける。
「ごめん、真帆。私部活行くね。今日どのくらい残る?」
「三十分くらいかな」
「真帆一人?」
「ううん。牧野くんも残るって」
言った瞬間、晴の視線がわずかに動いた。
「牧野?」
「写真の確認するから」
「ああ。じゃあ真帆、また明日」
返事はそれきりだった。晴はいつものように手を振り、そのまま教室を出ていった。私は閉まった扉を一度だけ見る。何も変わらない。変わったように見えたものがあったとしても、たぶん気のせいだ。
「三好は部活? 忙しいな」
教室の後ろに立っていた修也が聞く。
「ほとんど毎日やってるから」
「瀬尾さん、詳しいね」
「同じクラスだから」
答えてから、なぜ説明を足したのだろうと思った。修也は特に気にした様子もなく、机へ写真を並べ始める。
「これ、どっちがいいと思う?」
同じ掲示を、違う角度から撮った二枚だった。一枚は正面。もう一枚は少し斜め。
「……正面かな。展示の説明に使うなら、分かりやすい方がいいかも」
「やっぱり? 瀬尾さん、こういうの決めるの早いね。普段は結構悩んでそうだけど」
その言葉に、手が止まった。
「それ、晴にも言われた。返事する前に、考えてる顔してるって」
「確かに、そんな感じする」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすいっていうより」
そこまで言って修也は視線を外し、一度言葉を探した。
「……ちゃんと答えようとしてる感じがする。悪いことじゃないと思うよ」
それは、思っていなかった言い方だった。
「でも、返事遅いでしょ。困らない?」
「急いでるときは困るかも。でも、今は急いでないし」
修也はそう言って、また写真へ目を戻した。私は何も言えなかった。晴なら、ここで「また考えてる」と笑う気がした。修也は何も言わず、待っている。その違いを意識したのは、たぶん晴とのやり取りを思い出したからだった。
「……牧野くんって、誰にでもそうなの?」
「何が?」
「人の返事を待てるの」
「考えたことないな」
修也は頭に手をやり、少し困った顔をした。
「自分も、すぐ答え出せない方だからかも。写真選ぶのとか、めちゃくちゃ遅いよ」
「何枚くらい撮るの?」
「一日で三百枚とか撮って、それで使うの五枚とか。でも、その五枚選ぶのが好きなんだよ」
「選ぶのが?」
尋ねると、修也は机の上の写真を見る。
「うん。同じ場所撮っても、ちょっとずつ全部違うから。その中から、これだって思うの探すのが楽しい」
三百枚から、五枚。そう聞くだけで、私なら途方に暮れそうだった。どれが一番正しいのか。残さなかった二百九十五枚に、もっといいものがあったのではないか。たぶん、そんなことを考える。
でも修也は、それを「迷う」とは言わなかった。選ぶ、と言った。
「……楽しそうだね」
「楽しいよ」
そのときだけ、声が明るくなった。晴が青いものを手に取ったとき。リップを見比べていたとき。好きなものについて話す人の声は、わずかに変わる。
「瀬尾さん。夏休み、写真展があるんだけど」
「写真部の?」
「うん。市のギャラリーで、高校生の合同展があって。うちの部も出す」
修也は机の上の写真へ視線を落とした。さっきまでより、ほんの少し話す速度が遅くなる。
「……よかったら、見に来ない?」
すぐには答えられなかった。文化祭の写真を見に行く話ではない。学校行事でもない。夏休み。学校の外。修也と二人で。そこまで考えたところで、誘いの形が急に変わったように感じた。
「他の人も行くの?」
最初に聞いたのは、それだった。修也が一瞬だけ黙る。
「今のところ、誘ってない」
胸の中がわずかに速くなる。ただ写真を見てほしいだけかもしれない。文化祭の参考にしたいだけかもしれない。でも、それならなぜ自分だけなのだろう。
「忙しかったら全然いいよ。文化祭の参考にもなるかなと思っただけだし」
修也が言う。その言い方に、晴を思い出した。嫌なら断っていい。無理ならしなくていい。先に逃げ道を作ってくれるところが、似ている。断ってもいいと言われた。だから、自分に断る理由があるのかを考えた。
写真を見るのは好き。修也とは話しやすい。嫌ではない。むしろ、少し楽しそうだと思った。そこまでなら簡単だった。でも、修也は男子だ。その事実だけで、さっきまで曖昧だった誘いに、急に知っている形が与えられたような気がした。
男子と二人で出かける。夏休みに待ち合わせをする。友達に知られれば、たぶん少しくらいからかわれる。もし、一緒にいて楽しかったら。また会いたいと思ったら。その先にあるものも、私は知っている。少なくとも、知っているつもりでいる。
胸の中にある分からないものを、そこへ当てはめれば。もしかしたら、全部もう少し分かりやすくなるのだろうか。
「……いつ?」
「八月の最初の土日」
予定はない。文化祭の作業日でもなかった。
「……行く」
答えると、修也が目を見開いた。
「本当?」
「うん」
「じゃあ、明日チラシ持ってくるよ」
「分かった」
修也が嬉しそうに笑った。それを見て、私も嬉しかった。嫌ではない。写真を見るのも楽しみだった。修也と話すことも苦ではない。だから行く。それでよかった。
◇
翌日の昼休みに昼食を取る準備をしていると、修也がこちらへ来た。
「瀬尾さん。これ、昨日言ってたやつ。場所とか時間、載ってるから」
差し出されたのは、一枚の薄いチラシだった。
「ありがとう」
私は受け取って、クリアファイルへ入れる。
「じゃあ、詳細はまた連絡する」
修也はそう言って、自分の席へ戻っていった。
「何それ?」
隣から莉子の声がした。
「……見てたの?」
「見えただけ。写真展? 牧野と出かけるの?」
莉子がいきなり聞いてきて、弁当袋を開けようとしていた手が止まる。
「……たぶん」
「へえ」
そう言った莉子の声には、妙な響きがあった。
「何?」
「別に? なんか青春だなって」
「写真見に行くだけ」
「うんうん」
「本当に」
「分かってるって」
莉子が笑う。その向こうで、晴が黙って弁当を食べていた。普段なら、途中で何か言う。牧野って写真部だよね、とか。どこのギャラリー、とか。少なくとも、会話を聞いている顔くらいはする。だけど今日は、入ってこない。
「晴、聞いてた?」
名前を呼ぶと、晴がようやく顔を上げた。
「……何を?」
「写真展」
「ああ」
ほんの一拍遅れて、晴の表情がほどけた。
「いいね。楽しそう」
いつもの笑い方に見えた。それなのに、その一拍だけが妙に気になった。
「じゃあ――」
言葉が口元まで出た。じゃあ、晴も来る? なぜ、それを言おうとしたのだろう。修也が誘ったのは、私だった。
「真帆、どうしたの?」
晴が聞く。
「……何でもない」
「そっか」
晴はまた弁当へ視線を戻した。莉子が一瞬だけ目を上げる。何か言いたそうな顔をしたけれど、何も言わなかった。私も、続きを言わなかった。
◇
その日の放課後、晴は部活へ行った。私は莉子と帰った。駅へ向かう途中、スマートフォンが震える。修也からだった。
『写真展、8月2日で大丈夫?』
アプリでカレンダーを見ると、日曜日だった。
『大丈夫』
『じゃあ一時に駅前で』
『分かった』
そこで会話は終わった。短い。必要なことだけだった。晴とのメッセージなら、ここから別の話が続くことがある。今日の授業。文化祭。晴が見つけた動画。新しく買った飲み物。別に知らなくても困らないようなこと。でも、それを送り合う。
修也とのやり取りが悪いわけではない。ただ、違う。
「誰?」
隣から莉子が聞く。
「……牧野くん」
「もうデートの約束?」
「デートじゃない」
「まだ何も言ってないじゃん。真帆が嫌じゃないならいいんじゃない?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ楽しんできな」
楽しむ。そのつもりだった。写真を見て、修也と話して、楽しかったと思って帰る。それでいい。もし。もし修也を好きになれたら。そのとき、ふいに足が遅くなった。
「真帆? また何か考えてるでしょ。牧野のこと?」
「……少し」
「おお」
「変な反応しないで」
「ごめんごめん」
莉子は楽しそうだった。私も笑った。男子と夏休みに二人で出かける。友達にデートだとからかわれる。そこで少し照れる。もしその人を好きになれば、もっと分かりやすい。
そういう自分なら、説明の仕方を知っている。誰かに説明する必要すら、ないのかもしれない。
◇
その週から、晴とのメッセージが少し減ったように感じた。最初は気のせいだと思っていた。晴は部活が忙しい。期末テストも終わって、夏の大会へ向けた練習が増えている。だから、返信が遅い日があっても不思議ではない。私から送ることだって、もともと多くない。毎日連絡を取り合う約束なんてない。何も変わっていないつもりだった。
木曜日になった。いつもなら晴から、『今日一緒に帰れる?』と聞かれることが多かった。でも、その日の晴は言わなかった。昼休みに晴の姿を見る。何もない。五時間目が終わったあとにも見る。やっぱり何もない。
放課後になり、晴が鞄を持つ。
「晴。今日部活休みだよね。帰る?」
気づけば、私から聞いていた。
「今日は七海と買い物行く。部活で使うテーピング買いたいって言ってたから。ごめん」
「そうなんだ。晴、なんで謝るの?」
「いや、最近木曜一緒に帰ってたから」
申し訳なさそうな晴の顔に、胸の奥が少し動いた。
「でも、別に約束じゃないし」
その言葉が、思ったより早く出た。
「そうだね」
「うん」
「じゃあ、また明日」
「また明日」
晴はいつものように笑った。何もおかしくない。七海と買い物へ行くことも、木曜日に一緒に帰らないことも、全部普通だ。それでもその夜、机の上でスマートフォンを開いて、ようやく気づいた。最後に晴から個人的なメッセージが来たのは、三日前だった。
三日。以前なら、そんなことを数えもしなかったと思う。毎日連絡する関係ではない。それに、私から送ったっていい。メッセージ画面を開く。何か送る理由を探した。文化祭のこと。明日の授業。夏休みの課題。どれも学校で聞けばいい。送る理由がないのに、画面を閉じられなかった。
晴との最後のやり取りを読み返す。大した内容ではない。文化祭の質問カードのこと。授業中に先生が言い間違えたこと。晴がコンビニで見つけた変な名前の飲み物。知らなくても何も困らない。それなのに、そういう話が届かなくなったことが、妙に静かだった。
修也との約束を思い出す。八月二日。一時。駅前。写真展。男子と二人で出かける。
楽しみなはずだった。少なくとも、嫌ではない。もしかしたら、そこで何か分かるかもしれない。それなのに晴から何も届かないことの方が、ずっと気になっていた。
画面を見つめたまま、その事実に触れる。考えれば、たぶん、また何かが増える。知らなかった問いではない。もう何度も、近くまで来ている問い。その先まで考えたら、今度こそ何かに気づいてしまいそうだった。
「真帆、夏休み行きたいとこある?」
「家にいたい」
昼休み、莉子が呆れた顔で私を見た。
「ていうか、真帆って夏休み何するの?」
「決めてない。それに、文化祭の準備があるでしょ」
「それ予定に入れるの?」
「入らないの?」
教室の後ろには、文化祭用の大きなファイルが置かれている。質問箱はすでに、二年生の全クラスへ広がっていた。回収した質問は、百枚を超えている。今は、それを内容ごとに分類しているところだった。
進路。家族。友達。恋愛。学校。自分自身。一つに決められないものも多かった。
「ねえ真帆、これどこ?」
後ろから、晴が一枚を差し出した。紙を見ると、『人に期待しない方が楽ですか。』と書いてある。
「自分自身……かな」
「友達でもよくない?」
「でも、相手が友達とは限らないし。だから自分自身」
「便利な分類だなあ」
晴は笑って、ファイルへ紙を挟んだ。最近、私と晴のあいだに気まずさはなかった。七海のことで勝手に距離を取って、晴を不安にさせたあと――私が謝ってからは、むしろ以前より話す時間が増えた気がする。
木曜日には一緒に帰る。文化祭の準備がある日は、放課後に残る。晴がバスケ部へ行く日は、教室で話してから別れる。いつの間にか、それが普通になっていた。普通。最近、その言葉を使うたびに引っかかる。
「瀬尾さん」
声をかけられて振り返ると、牧野修也がスマートフォンを持って立っていた。
「ちょっといい? 展示用の写真、試しに撮ったんだけど」
修也が画面を差し出すと、文化祭で使う予定の掲示スペースが映っていた。質問カードを壁へ貼り、その横に回答用の付箋を置いた試作版。実際にはまだ教室の一角だけだけれど、写真にすると完成形を想像しやすかった。
「すごい。でも、質問の文字がちょっと小さいかも」
「やっぱり? じゃあ紙のサイズ、B5にする?」
「大きすぎない?」
「試してみるか」
修也はすぐにメモを取る。晴とは違うタイプだった。晴は、とりあえず手を動かしながら考える。修也は一度見て、考えて、それから動く。どちらかというと、私に近い。でも、私ほど一つのことに引っかかり続けない。
「牧野くんは写真部なんだよね。文化祭、部活の展示もあるの?」
「あるよ」
「クラスも手伝って、大変じゃない?」
「でも、好きでやってるから」
修也はさらりと言った。その言い方に、目が止まる。好きだからやる。それだけで、自分の行動を決められる。
「夏休みは記録用に、文化祭用の写真も撮るからさ」
「じゃあ、学校来るの?」
「部活もあるし。撮影会とかする予定」
「どこ行くの?」
「今年は港の方。夕方の景色撮る」
頭の中に景色が浮かんだ。夏の夕方。海沿い。日が傾いて、光が少しずつ柔らかくなる時間。カメラを持って歩く修也には、そういう場所が似合う気がした。
「いいな、楽しそう」
「瀬尾さん、もしかして写真好き?」
「見るのは好きかも」
「じゃあ今度、撮ったやつ見せるよ」
修也はそう言って、口元を緩めた。その会話を、晴が聞いていたかどうかは分からない。晴は少し離れたところで、莉子と一緒に質問カードを並べていた。
◇
放課後、今日は晴の部活がある。私は、文化祭の資料を整理してから帰るつもりだった。晴が立ち上がり、鞄を肩にかける。
「ごめん、真帆。私部活行くね。今日どのくらい残る?」
「三十分くらいかな」
「真帆一人?」
「ううん。牧野くんも残るって」
言った瞬間、晴の視線がわずかに動いた。
「牧野?」
「写真の確認するから」
「ああ。じゃあ真帆、また明日」
返事はそれきりだった。晴はいつものように手を振り、そのまま教室を出ていった。私は閉まった扉を一度だけ見る。何も変わらない。変わったように見えたものがあったとしても、たぶん気のせいだ。
「三好は部活? 忙しいな」
教室の後ろに立っていた修也が聞く。
「ほとんど毎日やってるから」
「瀬尾さん、詳しいね」
「同じクラスだから」
答えてから、なぜ説明を足したのだろうと思った。修也は特に気にした様子もなく、机へ写真を並べ始める。
「これ、どっちがいいと思う?」
同じ掲示を、違う角度から撮った二枚だった。一枚は正面。もう一枚は少し斜め。
「……正面かな。展示の説明に使うなら、分かりやすい方がいいかも」
「やっぱり? 瀬尾さん、こういうの決めるの早いね。普段は結構悩んでそうだけど」
その言葉に、手が止まった。
「それ、晴にも言われた。返事する前に、考えてる顔してるって」
「確かに、そんな感じする」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすいっていうより」
そこまで言って修也は視線を外し、一度言葉を探した。
「……ちゃんと答えようとしてる感じがする。悪いことじゃないと思うよ」
それは、思っていなかった言い方だった。
「でも、返事遅いでしょ。困らない?」
「急いでるときは困るかも。でも、今は急いでないし」
修也はそう言って、また写真へ目を戻した。私は何も言えなかった。晴なら、ここで「また考えてる」と笑う気がした。修也は何も言わず、待っている。その違いを意識したのは、たぶん晴とのやり取りを思い出したからだった。
「……牧野くんって、誰にでもそうなの?」
「何が?」
「人の返事を待てるの」
「考えたことないな」
修也は頭に手をやり、少し困った顔をした。
「自分も、すぐ答え出せない方だからかも。写真選ぶのとか、めちゃくちゃ遅いよ」
「何枚くらい撮るの?」
「一日で三百枚とか撮って、それで使うの五枚とか。でも、その五枚選ぶのが好きなんだよ」
「選ぶのが?」
尋ねると、修也は机の上の写真を見る。
「うん。同じ場所撮っても、ちょっとずつ全部違うから。その中から、これだって思うの探すのが楽しい」
三百枚から、五枚。そう聞くだけで、私なら途方に暮れそうだった。どれが一番正しいのか。残さなかった二百九十五枚に、もっといいものがあったのではないか。たぶん、そんなことを考える。
でも修也は、それを「迷う」とは言わなかった。選ぶ、と言った。
「……楽しそうだね」
「楽しいよ」
そのときだけ、声が明るくなった。晴が青いものを手に取ったとき。リップを見比べていたとき。好きなものについて話す人の声は、わずかに変わる。
「瀬尾さん。夏休み、写真展があるんだけど」
「写真部の?」
「うん。市のギャラリーで、高校生の合同展があって。うちの部も出す」
修也は机の上の写真へ視線を落とした。さっきまでより、ほんの少し話す速度が遅くなる。
「……よかったら、見に来ない?」
すぐには答えられなかった。文化祭の写真を見に行く話ではない。学校行事でもない。夏休み。学校の外。修也と二人で。そこまで考えたところで、誘いの形が急に変わったように感じた。
「他の人も行くの?」
最初に聞いたのは、それだった。修也が一瞬だけ黙る。
「今のところ、誘ってない」
胸の中がわずかに速くなる。ただ写真を見てほしいだけかもしれない。文化祭の参考にしたいだけかもしれない。でも、それならなぜ自分だけなのだろう。
「忙しかったら全然いいよ。文化祭の参考にもなるかなと思っただけだし」
修也が言う。その言い方に、晴を思い出した。嫌なら断っていい。無理ならしなくていい。先に逃げ道を作ってくれるところが、似ている。断ってもいいと言われた。だから、自分に断る理由があるのかを考えた。
写真を見るのは好き。修也とは話しやすい。嫌ではない。むしろ、少し楽しそうだと思った。そこまでなら簡単だった。でも、修也は男子だ。その事実だけで、さっきまで曖昧だった誘いに、急に知っている形が与えられたような気がした。
男子と二人で出かける。夏休みに待ち合わせをする。友達に知られれば、たぶん少しくらいからかわれる。もし、一緒にいて楽しかったら。また会いたいと思ったら。その先にあるものも、私は知っている。少なくとも、知っているつもりでいる。
胸の中にある分からないものを、そこへ当てはめれば。もしかしたら、全部もう少し分かりやすくなるのだろうか。
「……いつ?」
「八月の最初の土日」
予定はない。文化祭の作業日でもなかった。
「……行く」
答えると、修也が目を見開いた。
「本当?」
「うん」
「じゃあ、明日チラシ持ってくるよ」
「分かった」
修也が嬉しそうに笑った。それを見て、私も嬉しかった。嫌ではない。写真を見るのも楽しみだった。修也と話すことも苦ではない。だから行く。それでよかった。
◇
翌日の昼休みに昼食を取る準備をしていると、修也がこちらへ来た。
「瀬尾さん。これ、昨日言ってたやつ。場所とか時間、載ってるから」
差し出されたのは、一枚の薄いチラシだった。
「ありがとう」
私は受け取って、クリアファイルへ入れる。
「じゃあ、詳細はまた連絡する」
修也はそう言って、自分の席へ戻っていった。
「何それ?」
隣から莉子の声がした。
「……見てたの?」
「見えただけ。写真展? 牧野と出かけるの?」
莉子がいきなり聞いてきて、弁当袋を開けようとしていた手が止まる。
「……たぶん」
「へえ」
そう言った莉子の声には、妙な響きがあった。
「何?」
「別に? なんか青春だなって」
「写真見に行くだけ」
「うんうん」
「本当に」
「分かってるって」
莉子が笑う。その向こうで、晴が黙って弁当を食べていた。普段なら、途中で何か言う。牧野って写真部だよね、とか。どこのギャラリー、とか。少なくとも、会話を聞いている顔くらいはする。だけど今日は、入ってこない。
「晴、聞いてた?」
名前を呼ぶと、晴がようやく顔を上げた。
「……何を?」
「写真展」
「ああ」
ほんの一拍遅れて、晴の表情がほどけた。
「いいね。楽しそう」
いつもの笑い方に見えた。それなのに、その一拍だけが妙に気になった。
「じゃあ――」
言葉が口元まで出た。じゃあ、晴も来る? なぜ、それを言おうとしたのだろう。修也が誘ったのは、私だった。
「真帆、どうしたの?」
晴が聞く。
「……何でもない」
「そっか」
晴はまた弁当へ視線を戻した。莉子が一瞬だけ目を上げる。何か言いたそうな顔をしたけれど、何も言わなかった。私も、続きを言わなかった。
◇
その日の放課後、晴は部活へ行った。私は莉子と帰った。駅へ向かう途中、スマートフォンが震える。修也からだった。
『写真展、8月2日で大丈夫?』
アプリでカレンダーを見ると、日曜日だった。
『大丈夫』
『じゃあ一時に駅前で』
『分かった』
そこで会話は終わった。短い。必要なことだけだった。晴とのメッセージなら、ここから別の話が続くことがある。今日の授業。文化祭。晴が見つけた動画。新しく買った飲み物。別に知らなくても困らないようなこと。でも、それを送り合う。
修也とのやり取りが悪いわけではない。ただ、違う。
「誰?」
隣から莉子が聞く。
「……牧野くん」
「もうデートの約束?」
「デートじゃない」
「まだ何も言ってないじゃん。真帆が嫌じゃないならいいんじゃない?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ楽しんできな」
楽しむ。そのつもりだった。写真を見て、修也と話して、楽しかったと思って帰る。それでいい。もし。もし修也を好きになれたら。そのとき、ふいに足が遅くなった。
「真帆? また何か考えてるでしょ。牧野のこと?」
「……少し」
「おお」
「変な反応しないで」
「ごめんごめん」
莉子は楽しそうだった。私も笑った。男子と夏休みに二人で出かける。友達にデートだとからかわれる。そこで少し照れる。もしその人を好きになれば、もっと分かりやすい。
そういう自分なら、説明の仕方を知っている。誰かに説明する必要すら、ないのかもしれない。
◇
その週から、晴とのメッセージが少し減ったように感じた。最初は気のせいだと思っていた。晴は部活が忙しい。期末テストも終わって、夏の大会へ向けた練習が増えている。だから、返信が遅い日があっても不思議ではない。私から送ることだって、もともと多くない。毎日連絡を取り合う約束なんてない。何も変わっていないつもりだった。
木曜日になった。いつもなら晴から、『今日一緒に帰れる?』と聞かれることが多かった。でも、その日の晴は言わなかった。昼休みに晴の姿を見る。何もない。五時間目が終わったあとにも見る。やっぱり何もない。
放課後になり、晴が鞄を持つ。
「晴。今日部活休みだよね。帰る?」
気づけば、私から聞いていた。
「今日は七海と買い物行く。部活で使うテーピング買いたいって言ってたから。ごめん」
「そうなんだ。晴、なんで謝るの?」
「いや、最近木曜一緒に帰ってたから」
申し訳なさそうな晴の顔に、胸の奥が少し動いた。
「でも、別に約束じゃないし」
その言葉が、思ったより早く出た。
「そうだね」
「うん」
「じゃあ、また明日」
「また明日」
晴はいつものように笑った。何もおかしくない。七海と買い物へ行くことも、木曜日に一緒に帰らないことも、全部普通だ。それでもその夜、机の上でスマートフォンを開いて、ようやく気づいた。最後に晴から個人的なメッセージが来たのは、三日前だった。
三日。以前なら、そんなことを数えもしなかったと思う。毎日連絡する関係ではない。それに、私から送ったっていい。メッセージ画面を開く。何か送る理由を探した。文化祭のこと。明日の授業。夏休みの課題。どれも学校で聞けばいい。送る理由がないのに、画面を閉じられなかった。
晴との最後のやり取りを読み返す。大した内容ではない。文化祭の質問カードのこと。授業中に先生が言い間違えたこと。晴がコンビニで見つけた変な名前の飲み物。知らなくても何も困らない。それなのに、そういう話が届かなくなったことが、妙に静かだった。
修也との約束を思い出す。八月二日。一時。駅前。写真展。男子と二人で出かける。
楽しみなはずだった。少なくとも、嫌ではない。もしかしたら、そこで何か分かるかもしれない。それなのに晴から何も届かないことの方が、ずっと気になっていた。
画面を見つめたまま、その事実に触れる。考えれば、たぶん、また何かが増える。知らなかった問いではない。もう何度も、近くまで来ている問い。その先まで考えたら、今度こそ何かに気づいてしまいそうだった。
