まだ名前のない、きみの隣

 七月に入ると、教室の空気が徐々に夏休みへ向かい始めた。期末テスト。夏休みの課題。文化祭の準備。まだ一学期は終わっていないのに、みんなの話題には「夏休み」という言葉が増えていく。

「真帆、夏休み行きたいとこある?」

「家にいたい」

 昼休み、莉子が呆れた顔で私を見た。

「ていうか、真帆って夏休み何するの?」

「決めてない。それに、文化祭の準備があるでしょ」

「それ予定に入れるの?」

「入らないの?」

 教室の後ろには、文化祭用の大きなファイルが置かれている。質問箱はすでに、二年生の全クラスへ広がっていた。回収した質問は、百枚を超えている。今は、それを内容ごとに分類しているところだった。

 進路。家族。友達。恋愛。学校。自分自身。一つに決められないものも多かった。

「ねえ真帆、これどこ?」

 後ろから、晴が一枚を差し出した。紙を見ると、『人に期待しない方が楽ですか。』と書いてある。

「自分自身……かな」

「友達でもよくない?」

「でも、相手が友達とは限らないし。だから自分自身」

「便利な分類だなあ」

 晴は笑って、ファイルへ紙を挟んだ。最近、私と晴のあいだに気まずさはなかった。七海のことで勝手に距離を取って、晴を不安にさせたあと――私が謝ってからは、むしろ以前より話す時間が増えた気がする。

 木曜日には一緒に帰る。文化祭の準備がある日は、放課後に残る。晴がバスケ部へ行く日は、教室で話してから別れる。いつの間にか、それが普通になっていた。普通。最近、その言葉を使うたびに引っかかる。

「瀬尾さん」

 声をかけられて振り返ると、牧野修也がスマートフォンを持って立っていた。

「ちょっといい? 展示用の写真、試しに撮ったんだけど」

 修也が画面を差し出すと、文化祭で使う予定の掲示スペースが映っていた。質問カードを壁へ貼り、その横に回答用の付箋を置いた試作版。実際にはまだ教室の一角だけだけれど、写真にすると完成形を想像しやすかった。

「すごい。でも、質問の文字がちょっと小さいかも」

「やっぱり? じゃあ紙のサイズ、B5にする?」

「大きすぎない?」

「試してみるか」

 修也はすぐにメモを取る。晴とは違うタイプだった。晴は、とりあえず手を動かしながら考える。修也は一度見て、考えて、それから動く。どちらかというと、私に近い。でも、私ほど一つのことに引っかかり続けない。

「牧野くんは写真部なんだよね。文化祭、部活の展示もあるの?」

「あるよ」

「クラスも手伝って、大変じゃない?」

「でも、好きでやってるから」

 修也はさらりと言った。その言い方に、目が止まる。好きだからやる。それだけで、自分の行動を決められる。

「夏休みは記録用に、文化祭用の写真も撮るからさ」

「じゃあ、学校来るの?」

「部活もあるし。撮影会とかする予定」

「どこ行くの?」

「今年は港の方。夕方の景色撮る」

 頭の中に景色が浮かんだ。夏の夕方。海沿い。日が傾いて、光が少しずつ柔らかくなる時間。カメラを持って歩く修也には、そういう場所が似合う気がした。

「いいな、楽しそう」

「瀬尾さん、もしかして写真好き?」

「見るのは好きかも」

「じゃあ今度、撮ったやつ見せるよ」

 修也はそう言って、口元を緩めた。その会話を、晴が聞いていたかどうかは分からない。晴は少し離れたところで、莉子と一緒に質問カードを並べていた。

◇

 放課後、今日は晴の部活がある。私は、文化祭の資料を整理してから帰るつもりだった。晴が立ち上がり、鞄を肩にかける。

「ごめん、真帆。私部活行くね。今日どのくらい残る?」

「三十分くらいかな」

「真帆一人?」

「ううん。牧野くんも残るって」

 言った瞬間、晴の視線がわずかに動いた。

「牧野?」

「写真の確認するから」

「ああ。じゃあ真帆、また明日」

 返事はそれきりだった。晴はいつものように手を振り、そのまま教室を出ていった。私は閉まった扉を一度だけ見る。何も変わらない。変わったように見えたものがあったとしても、たぶん気のせいだ。

「三好は部活? 忙しいな」

 教室の後ろに立っていた修也が聞く。

「ほとんど毎日やってるから」

「瀬尾さん、詳しいね」

「同じクラスだから」

 答えてから、なぜ説明を足したのだろうと思った。修也は特に気にした様子もなく、机へ写真を並べ始める。

「これ、どっちがいいと思う?」

 同じ掲示を、違う角度から撮った二枚だった。一枚は正面。もう一枚は少し斜め。

「……正面かな。展示の説明に使うなら、分かりやすい方がいいかも」

「やっぱり? 瀬尾さん、こういうの決めるの早いね。普段は結構悩んでそうだけど」

 その言葉に、手が止まった。

「それ、晴にも言われた。返事する前に、考えてる顔してるって」

「確かに、そんな感じする」

「そんなに分かりやすい?」

「分かりやすいっていうより」

 そこまで言って修也は視線を外し、一度言葉を探した。

「……ちゃんと答えようとしてる感じがする。悪いことじゃないと思うよ」

 それは、思っていなかった言い方だった。

「でも、返事遅いでしょ。困らない?」

「急いでるときは困るかも。でも、今は急いでないし」

 修也はそう言って、また写真へ目を戻した。私は何も言えなかった。晴なら、ここで「また考えてる」と笑う気がした。修也は何も言わず、待っている。その違いを意識したのは、たぶん晴とのやり取りを思い出したからだった。

「……牧野くんって、誰にでもそうなの?」

「何が?」

「人の返事を待てるの」

「考えたことないな」

 修也は頭に手をやり、少し困った顔をした。

「自分も、すぐ答え出せない方だからかも。写真選ぶのとか、めちゃくちゃ遅いよ」

「何枚くらい撮るの?」

「一日で三百枚とか撮って、それで使うの五枚とか。でも、その五枚選ぶのが好きなんだよ」

「選ぶのが?」

 尋ねると、修也は机の上の写真を見る。

「うん。同じ場所撮っても、ちょっとずつ全部違うから。その中から、これだって思うの探すのが楽しい」

 三百枚から、五枚。そう聞くだけで、私なら途方に暮れそうだった。どれが一番正しいのか。残さなかった二百九十五枚に、もっといいものがあったのではないか。たぶん、そんなことを考える。

 でも修也は、それを「迷う」とは言わなかった。選ぶ、と言った。

「……楽しそうだね」

「楽しいよ」

 そのときだけ、声が明るくなった。晴が青いものを手に取ったとき。リップを見比べていたとき。好きなものについて話す人の声は、わずかに変わる。

「瀬尾さん。夏休み、写真展があるんだけど」

「写真部の?」

「うん。市のギャラリーで、高校生の合同展があって。うちの部も出す」

 修也は机の上の写真へ視線を落とした。さっきまでより、ほんの少し話す速度が遅くなる。

「……よかったら、見に来ない?」

 すぐには答えられなかった。文化祭の写真を見に行く話ではない。学校行事でもない。夏休み。学校の外。修也と二人で。そこまで考えたところで、誘いの形が急に変わったように感じた。

「他の人も行くの?」

 最初に聞いたのは、それだった。修也が一瞬だけ黙る。

「今のところ、誘ってない」

 胸の中がわずかに速くなる。ただ写真を見てほしいだけかもしれない。文化祭の参考にしたいだけかもしれない。でも、それならなぜ自分だけなのだろう。

「忙しかったら全然いいよ。文化祭の参考にもなるかなと思っただけだし」

 修也が言う。その言い方に、晴を思い出した。嫌なら断っていい。無理ならしなくていい。先に逃げ道を作ってくれるところが、似ている。断ってもいいと言われた。だから、自分に断る理由があるのかを考えた。

 写真を見るのは好き。修也とは話しやすい。嫌ではない。むしろ、少し楽しそうだと思った。そこまでなら簡単だった。でも、修也は男子だ。その事実だけで、さっきまで曖昧だった誘いに、急に知っている形が与えられたような気がした。

 男子と二人で出かける。夏休みに待ち合わせをする。友達に知られれば、たぶん少しくらいからかわれる。もし、一緒にいて楽しかったら。また会いたいと思ったら。その先にあるものも、私は知っている。少なくとも、知っているつもりでいる。

 胸の中にある分からないものを、そこへ当てはめれば。もしかしたら、全部もう少し分かりやすくなるのだろうか。

「……いつ?」

「八月の最初の土日」

 予定はない。文化祭の作業日でもなかった。

「……行く」

 答えると、修也が目を見開いた。

「本当?」

「うん」

「じゃあ、明日チラシ持ってくるよ」

「分かった」

 修也が嬉しそうに笑った。それを見て、私も嬉しかった。嫌ではない。写真を見るのも楽しみだった。修也と話すことも苦ではない。だから行く。それでよかった。

◇

 翌日の昼休みに昼食を取る準備をしていると、修也がこちらへ来た。

「瀬尾さん。これ、昨日言ってたやつ。場所とか時間、載ってるから」

 差し出されたのは、一枚の薄いチラシだった。

「ありがとう」

 私は受け取って、クリアファイルへ入れる。

「じゃあ、詳細はまた連絡する」

 修也はそう言って、自分の席へ戻っていった。

「何それ?」

 隣から莉子の声がした。

「……見てたの?」

「見えただけ。写真展? 牧野と出かけるの?」

 莉子がいきなり聞いてきて、弁当袋を開けようとしていた手が止まる。

「……たぶん」

「へえ」

 そう言った莉子の声には、妙な響きがあった。

「何?」

「別に? なんか青春だなって」

「写真見に行くだけ」

「うんうん」

「本当に」

「分かってるって」

 莉子が笑う。その向こうで、晴が黙って弁当を食べていた。普段なら、途中で何か言う。牧野って写真部だよね、とか。どこのギャラリー、とか。少なくとも、会話を聞いている顔くらいはする。だけど今日は、入ってこない。

「晴、聞いてた?」

 名前を呼ぶと、晴がようやく顔を上げた。

「……何を?」

「写真展」

「ああ」

 ほんの一拍遅れて、晴の表情がほどけた。

「いいね。楽しそう」

 いつもの笑い方に見えた。それなのに、その一拍だけが妙に気になった。

「じゃあ――」

 言葉が口元まで出た。じゃあ、晴も来る? なぜ、それを言おうとしたのだろう。修也が誘ったのは、私だった。

「真帆、どうしたの?」

 晴が聞く。

「……何でもない」

「そっか」

 晴はまた弁当へ視線を戻した。莉子が一瞬だけ目を上げる。何か言いたそうな顔をしたけれど、何も言わなかった。私も、続きを言わなかった。

◇

 その日の放課後、晴は部活へ行った。私は莉子と帰った。駅へ向かう途中、スマートフォンが震える。修也からだった。

『写真展、8月2日で大丈夫?』

 アプリでカレンダーを見ると、日曜日だった。

『大丈夫』

『じゃあ一時に駅前で』

『分かった』

 そこで会話は終わった。短い。必要なことだけだった。晴とのメッセージなら、ここから別の話が続くことがある。今日の授業。文化祭。晴が見つけた動画。新しく買った飲み物。別に知らなくても困らないようなこと。でも、それを送り合う。

 修也とのやり取りが悪いわけではない。ただ、違う。

「誰?」

 隣から莉子が聞く。

「……牧野くん」

「もうデートの約束?」

「デートじゃない」

「まだ何も言ってないじゃん。真帆が嫌じゃないならいいんじゃない?」

「嫌じゃないよ」

「じゃあ楽しんできな」

 楽しむ。そのつもりだった。写真を見て、修也と話して、楽しかったと思って帰る。それでいい。もし。もし修也を好きになれたら。そのとき、ふいに足が遅くなった。

「真帆? また何か考えてるでしょ。牧野のこと?」

「……少し」

「おお」

「変な反応しないで」

「ごめんごめん」

 莉子は楽しそうだった。私も笑った。男子と夏休みに二人で出かける。友達にデートだとからかわれる。そこで少し照れる。もしその人を好きになれば、もっと分かりやすい。

 そういう自分なら、説明の仕方を知っている。誰かに説明する必要すら、ないのかもしれない。

◇

 その週から、晴とのメッセージが少し減ったように感じた。最初は気のせいだと思っていた。晴は部活が忙しい。期末テストも終わって、夏の大会へ向けた練習が増えている。だから、返信が遅い日があっても不思議ではない。私から送ることだって、もともと多くない。毎日連絡を取り合う約束なんてない。何も変わっていないつもりだった。

 木曜日になった。いつもなら晴から、『今日一緒に帰れる?』と聞かれることが多かった。でも、その日の晴は言わなかった。昼休みに晴の姿を見る。何もない。五時間目が終わったあとにも見る。やっぱり何もない。

 放課後になり、晴が鞄を持つ。

「晴。今日部活休みだよね。帰る?」

 気づけば、私から聞いていた。

「今日は七海と買い物行く。部活で使うテーピング買いたいって言ってたから。ごめん」

「そうなんだ。晴、なんで謝るの?」

「いや、最近木曜一緒に帰ってたから」

 申し訳なさそうな晴の顔に、胸の奥が少し動いた。

「でも、別に約束じゃないし」

 その言葉が、思ったより早く出た。

「そうだね」

「うん」

「じゃあ、また明日」

「また明日」

 晴はいつものように笑った。何もおかしくない。七海と買い物へ行くことも、木曜日に一緒に帰らないことも、全部普通だ。それでもその夜、机の上でスマートフォンを開いて、ようやく気づいた。最後に晴から個人的なメッセージが来たのは、三日前だった。

 三日。以前なら、そんなことを数えもしなかったと思う。毎日連絡する関係ではない。それに、私から送ったっていい。メッセージ画面を開く。何か送る理由を探した。文化祭のこと。明日の授業。夏休みの課題。どれも学校で聞けばいい。送る理由がないのに、画面を閉じられなかった。

 晴との最後のやり取りを読み返す。大した内容ではない。文化祭の質問カードのこと。授業中に先生が言い間違えたこと。晴がコンビニで見つけた変な名前の飲み物。知らなくても何も困らない。それなのに、そういう話が届かなくなったことが、妙に静かだった。

 修也との約束を思い出す。八月二日。一時。駅前。写真展。男子と二人で出かける。

 楽しみなはずだった。少なくとも、嫌ではない。もしかしたら、そこで何か分かるかもしれない。それなのに晴から何も届かないことの方が、ずっと気になっていた。

 画面を見つめたまま、その事実に触れる。考えれば、たぶん、また何かが増える。知らなかった問いではない。もう何度も、近くまで来ている問い。その先まで考えたら、今度こそ何かに気づいてしまいそうだった。