まだ名前のない、きみの隣

 七海が晴の机に座っているのを見たとき、最初に思ったのは、行儀が悪い、だった。

 昼休み、私は飲み物を買いに行き、教室へ戻ってきたところだった。晴の机の横に、相馬七海がいる。正確には、晴の机の端へ腰を乗せている。

「七海、それ私のせいじゃないって」

「いや、晴があそこでパス出したからでしょ」

「でも七海だって……」

 二人は顔を近づけて、スマートフォンの画面を一緒に見ていた。先日の試合動画らしい。晴が座ったまま画面を操作して、七海がその肩越しに覗き込んでいる。距離が近い。そう考えた直後に、考え直した。

「あ、真帆。おかえり、何買ったの?」

 晴が私に気づいて、顔を上げる。

「お茶」

「いいね。私も喉乾いた」

 晴が机の横に置いていたスポーツドリンクへ手を伸ばした。蓋を開けようとしたところで、七海がそれを奪い取る。

「一口ちょうだい」

「ちょっと、七海。教室帰れば?」

 言いながらも、晴は止めなかった。七海が一口飲んで、晴へ返す。

「ありがと」

「飲みすぎ」

 そう言いながら、晴もそのまま飲んだ。その様子をちらりと見て、私は自分の席へ戻る。莉子と一緒に昼食を取ろうとしたけれど、耳へ入ってくるのは後ろの会話だった。

「これ、七海の守備遅くない?」

「晴が言う? 一回止めて。もう一回見る」

 二人は楽しそうだった。晴は私ともよく話す。昼休みも一緒に食べる。文化祭のことで、放課後に二人で残ることも増えた。でも、晴と七海の会話には、説明しなくても分かることが多かった。

 あれ、そこ、この前の――そんな言葉だけで通じている。それは当然のことだった。それなのに、胸の奥に小さな引っかかりだけが残った。

◇

 午後の授業が終わると、晴はすぐにジャージへ着替える準備を始めた。今日はバスケ部の練習日だ。鞄からTシャツを取り出しながら、晴が言う。

「真帆、明日部活休みなんだけど、一緒に帰れる?」

 明日は木曜日。バスケ部の休養日だった。答えるまでの短いあいだに、今日の七海との距離が浮かんだ。

「……明日は莉子と帰ると思う」

 勝手にそう口から出た。晴の動きが、ほんの少し止まった。

「そっか。じゃあまた今度だね」

 晴はすぐにいつもの顔へ戻り、スポーツバッグを持って立ち上がる。

「部活行ってくる」

「うん。頑張って」

「ありがと」

 晴は教室を出ていった。その数秒後、自分の席に座っていた莉子が入れ替わるようにこちらへ来る。

「真帆、明日一緒に帰るの?」

「え?」

「今、晴に言ってなかった? どっか行きたいとこでもあるの?」

「ないけど」

「誘われたんだし、晴と帰ればよかったじゃん」

「別に、晴とはいつでも帰れるし」

「そう?」

「うん」

 私は頷く。晴と毎週帰る約束はない。だから、莉子と帰る日があっても何もおかしくないはずだった。

◇

 翌日の放課後、私は約束したとおり、莉子と一緒に学校を出た。晴はまだ教室にいた。文化祭の資料を鞄へしまいながら、私たちが帰る気配に気づいて顔を上げる。

「真帆、また明日」

「うん。また明日」

 いつもと同じ声だった。昨日、私が誘いを断ったことなんて、もう何とも思っていないみたいに聞こえた。私が莉子と帰ることに、晴が何か思う理由なんてない。だから自分も、いつもどおり教室を出ればいい。そう思っているのに、廊下へ出てから一度だけ振り返りそうになった。

 階段を下りる。昇降口で靴を履き替える。校門を出る。そこまで来て、やっと息がしやすくなった気がした。

「せっかくだし駅前寄ってく? 新しくクレープ屋できたって。久しぶりに二人だし」

 久しぶりに二人。言われて初めて、その事実に気づいた。莉子とは一年生の頃から友達だし、以前なら放課後に二人で帰ることなんて珍しくもなかった。それが最近は減っている。晴と一緒に駅まで歩くことが増えたからだった。

 駅前のクレープ屋には、同じ学校の生徒が何人も並んでいた。莉子はいちごクリーム、私はチョコバナナを選んだ。近くのベンチへ並んで座る。

「あっ、美味しい。真帆のはどう?」

「美味しい」

 クレープはちゃんと美味しかった。なのにその味を確かめながら、私は別のことを考えていた。

「……晴、クレープ好きかな」

 口から出てから、自分で驚いた。莉子がちらりとこちらを見る。

「知らない」

「卵焼きは、甘いの好きって言ってた」

「そうなんだ」

 莉子はそう言って、クレープを一口食べる。私も食べた。

「真帆って……ほんと晴の話するようになったよね」

 その言葉に、心臓が一瞬跳ねた。

「だって、文化祭も一緒だから」

「確かにね。晴とすっかり仲良しじゃん」

「仲は……いいと思う」

 言葉にした瞬間、気持ちが少しだけ緩んだ。晴と仲がいい。そう言ってもいい。晴も、そう思っているだろうか。

「でも……七海の方が、晴とずっと仲いいけど」

 気づけばそう続けていた。莉子がクレープを食べる手を止める。

「なんで突然七海が出てくるの?」

 莉子の言葉に、胸が冷えた。昨日の光景は簡単に浮かんだ。晴の机に腰をかけた七海。近い距離。少ない言葉で通じる会話。共有したスポーツドリンク。

「……中学からずっと一緒だから、長いなって思ってるだけ」

「ふうん」

「何?」

「何でもないけど……」

 そこまで言って、莉子は困ったように笑った。

「真帆、晴のこと好きすぎじゃない?」

 冗談だった。莉子が笑っていることも分かっていた。なのに。

「……友達としてだから!」

 思ったより大きな声が出て、近くを歩いていた高校生がこちらを見る。莉子も驚いたような顔をして、私を見ていた。

「……うん」

「待って。違う、今のは」

「分かってるって」

「晴とは、友達だから」

「真帆、誰もそこまで聞いてないよ」

 莉子が遮って、言葉が止まった。莉子は恋愛だなんて一言も言っていない。私が勝手にその意味を足して、勝手に否定した。

「……ごめん」

「謝らなくていいけど、晴と何かあった?」

「何もない」

「じゃあ、なんで一緒に帰らなかったの?」

 答えられなかった。晴に誘われて、本当は嬉しかった。それなのに断った。七海と仲がよさそうだったから。そう言葉にすると、ますます意味が分からない。

「……ちょっと一人で考えたかったから」

「でも、私と帰ってるじゃん。まあ、話したくなったら聞くよ」

 莉子が笑う。いつもと同じ笑い方だった。

「……ありがとう」

 残ったクレープへ視線を落とす。友達としてだから。どうして私は、誰にも求められていない答えを、あんなに急いで口にしたのだろう。

◇

 翌日の昼休みは莉子が購買へ行き、晴は先生に呼ばれて職員室へ向かっていた。私は一人で教室を出て、自動販売機へ飲み物を買いに行った。廊下には、生徒たちの声が響いている。開いた窓から入ってくる風が、掲示物の端を小さく揺らしていた。廊下の突き当たりまで来たところで、向こうから歩いてきた人と目が合った。

「あ、真帆」

「七海」

 自然に名前が出た。最初に会った頃なら、一瞬考えてから呼んでいたと思う。最近は何度か話しているから、もうそこまで身構えなくなっていた。七海は飲みかけの紙パックを片手に持っていた。そのまますれ違うのだと思ったけれど、七海は私の横を通り過ぎる直前で足を止める。

「ねえ、真帆。晴と何かあった?」

 身体が一瞬だけ固まった。二日続けて、同じことを聞かれた。

「……どうして?」

 七海はストローを口先で噛みながら、数秒考えた。深刻そうな顔ではない。

「昨日さ、晴がちょっと変だったから。真帆に一緒に帰ろうって言ったら、断られたって嘆いてた」

 そう言ってから、七海はほんの少し笑った。

「晴、地味に落ち込んでたよ」

「本当に?」

「うん。何かしたかなって気にしてた」

 その言葉だけが、急に近くで聞こえた気がした。昨日の晴を思い返す。教室では普通だった。今日の朝だって、いつもと同じだった。昼休み前にも、文化祭の資料について普通に話した。何も変わっていないように見えた。少なくとも、私には。

「でも私、莉子と帰るって言っただけで。それに晴は、誰とでも仲いいから……ああいうの、気にしないと思ってた」

 思っていたことが、そのまま口から出た。七海は一度まばたきをして、それから目を細めた。

「私に聞かれても。それに、晴って誰とでも話すけど、誰でも同じってわけじゃないよ」

 心臓が一度だけ強く鳴った。誰でも同じではない。その言葉を、自分のことへ繋げそうになった。

「……それ、どういう意味?」

 口にしてから、自分の声が思ったより硬いことに気がついた。だけど七海は、ただ不思議そうな顔をしただけだった。

「そのままだけど」

 そのまま。七海にとっては、きっと本当にそれだけなのだ。なのに私の中では、その言葉の先にいくつもの意味が勝手に増えていく。

「じゃあ、私は」

 そこまでで止めればよかった。何を聞こうとしているのか分かった瞬間に、口を閉じればよかった。でも、言葉の方が一歩先へ出た。

「私が特別ってこと?」

 言った。言ってしまった。七海が一瞬だけ黙る。その一瞬で、自分が何を聞いたのか全部理解した。頬が熱い。耳まで熱くなる。

「違う。今のなし。忘れて」

「真帆って、意外とそういうの気にするんだね」

「気にしてない」

「分かったよ」

 七海はただ口元だけで笑った。その温度の低さが、逆に恥ずかしかった。

「ま、私は晴じゃないから、晴が真帆のことどう思ってるかは知らないよ。ただ、真帆に避けられたら嫌なんじゃない?」

 七海は紙パックのジュースを持ち直す。避けた。その言葉が、思った以上に真っ直ぐ刺さった。

「とりあえず、本人に聞けば? 私を間に入れないでよ」

 それも、あまりにあっさりしていた。七海は晴の昔からの友達だ。私よりずっと晴を知っている。でも七海にとって、晴の気持ちは晴のものらしい。当然のことなのに、少しだけ意外だった。

「ごめん」

「別に怒ってないよ。ただ、晴ってああ見えて意外と気にするから、覚えておいてあげて。じゃあね」

 七海はそれで会話を終わらせて、歩き出した。だけど数歩進んだところで、思い出したように振り返る。

「あと、昨日の昼さ。私、晴の飲み物勝手に飲んでたけど」

 その言葉に、息が止まりそうになった。

「あれ昔からだから」

「……別に」

 声が少し遅れた。

「気にしてない」

「ならいいけど」

 それだけ言うと、七海は本当にそれ以上何も言わなかった。ただ片手を上げて、そのまま廊下を歩いて行った。残された私だけが、その場から動けなかった。七海がわざわざ何を思ってあんなことを言ったのか。たぶん、分かっている。けれど、その意味を自分の中できちんと言葉にしてしまうのは、まだ嫌だった。

◇

 教室へ戻ると、晴はもう席に戻っていた。私が入ってきたことに気づいて、すぐに顔を上げる。

「真帆、おかえり」

「ただいま」

 いつもと同じ晴と、七海の「地味に落ち込んでた」がうまく重ならない。謝りたい。でも、七海との距離が嫌だったとは言えなかった。

「……晴」

 ようやく振り返る。名前を呼ぶだけで、思ったより喉が乾いた。

「昨日……一緒に帰れなくて、ごめん」

「え?」

 予想していなかったらしく、晴が目を丸くした。

「別に、晴が何かしたわけじゃないから」

 言葉を足す。これでは謝罪になっているのか、説明になっているのか分からない。晴は数秒、私を見た。そのあと、嫌な予感がしたような顔をする。

「もしかして……七海から何か聞いた?」

「少し」

「あいつ……! 真帆、別に落ち込んでないから」

「でも、地味に落ち込んでたって」

「盛ってる」

「私、何かしたかな、って言ってたって」

 晴が止まった。それから、ほんの少し視線が逸れる。

「それは……ちょっと思っただけ」

「ごめん」

「だから謝らなくていいって」

 晴はすぐに顔を上げた。

「真帆が莉子と帰るの、普通でしょ。私も分かってる」

「じゃあ、なんで……」

 聞きかけて、止まる。なんで気にしたの。そこまで口にすると、また何かを期待しているみたいだった。晴は一拍、黙った。そして、机の上に置いたシャープペンを指先で転がす。

「たださ。最近、木曜は一緒に帰ること多かったじゃん。だから……」

 晴がそこで一度、視線を机へ落とした。さっきまで普通に話していたのに、その言葉だけ言いづらそうだった。

「……ちょっと楽しみにしてただけ」

 身体が一気に熱くなった。晴が、私と帰ることを楽しみにしていた。

「真帆? また何か考えてる?」

 言葉を失っていると、晴がこちらを覗き込む。

「……うん」

「やっぱり。じゃあ、考え終わったら教えて」

 晴はそれ以上聞かなかった。私だけではない。晴には七海もいる。他の友達もいる。それでも、私との時間が晴にとって何でもないわけではなかった。嬉しかった。そう認めると、昨日の自分の声が戻ってくる。友達としてだから――また、それで説明しようとした。でも、今度は途中で止まった。

 友達なら嬉しくて当然。そうなのかもしれない。ただ、どうして私は毎回、それを急いで確認しなければならないのだろう。その答えは、まだ分からなかった。