まだ名前のない、きみの隣

 文化祭の企画書には、必要な備品とおおよその金額を書く欄があった。

「全部学校にありそうじゃない?」

 放課後、晴が企画書を覗き込みながら言った。

「でも、大きな付箋はないかもしれない」

「じゃ、真帆。この後値段見ていく? 今日なら部活ないし」

 最近は、晴と二人でいても以前ほど緊張しなくなった。沈黙があっても、晴は困った顔をしない。二人で学校を出て、駅前の店で付箋を見比べる。晴は花型を選びたがったけれど、私は書きやすい普通の形を推した。

「真帆。付箋の色、青が良くない?」

「なんで?」

「好きだから」

 理由が簡単だった。

「晴、青好きなんだ」

「うん。知らなかった?」

「知らない」

「じゃあ今日知ったね」

 今日知った。晴の好きな色。今まで知らなかったことを、一つ知った。

「真帆は好きな色何?」

「緑かな」

「意外。白とかベージュかと思った」

「私のこと地味だと思ってる?」

「そういう意味じゃないって。落ち着いた色が好きそうって意味」

 晴が笑いながら否定する。青い付箋の値段を確認して、企画書の端へメモする。その隣には、同じシリーズの緑も並んでいた。

「じゃあ、付箋は青と緑にする? 実行委員二人の好きな色ってことで」

「文化祭にそんな情報いらないでしょ」

 言いながらも、少し楽しかった。値段を一通り確認して店を出る。そのまま駅へ向かうのかと思ったら、晴が隣のドラッグストアの前で足を止めた。

「ちょっと寄っていい? リップ買いたくて」

「リップ?」

 店頭に置かれた新商品の棚から、晴がピンク色のリップクリームを手に取る。

「うん。この色可愛くない?」

「晴も、そういうの使うんだ」

 そう口にした瞬間、自分の言葉に引っかかった。

「そういうの?」

「リップとか」

「普通に使うよ」

「なんとなく、使わないのかと思ってた」

「なんで?」

「……分からない」

 髪が短くて、バスケ部で。そんな理由だけで、勝手に化粧品には興味がない人だと思っていた。晴はあまり気にしていないらしく、棚へ視線を戻した。

「別に化粧詳しくないけど、リップは好き。色ついてると、なんか気分上がる気がするから」

「そうなんだ。どの色にするの? さっきのピンク?」

「悩んでる。これも良くない?」

 晴が別の商品を手に取る。もう一本は、赤みのあるベージュだった。

「真帆、どっちが良いと思う?」

 困った。晴が普段どんな色を使っているのか知らない。似合う色も分からない。だけど、適当に答えるのも失礼だった。

「晴が好きな方でいいんじゃない?」

「それはそうだけど。真帆ならどっち?」

 二本を見比べる。ピンク。ベージュ。それから、晴の顔を見る。短い髪。少し日に焼けた肌。よく動く眉。話しているあいだに、ころころ変わる表情。笑うとわずかに下がる目尻。

「……ピンク」

「こっち? なんで?」

「……晴が笑ったとき、似合いそうだから」

 口にしてから、自分でも変な選び方だと思った。なぜ、色を選ぶのに晴が笑った顔を思い浮かべたのだろう。晴が一瞬黙る。

「何その選び方」

「変?」

「ううん。じゃあピンクにしよ」

 晴はピンクのリップを持って、機嫌良くレジに向かっていった。私が選んだ――そう考えると、急に責任を感じてしまった。

 晴は花型の付箋を買いたがる。青が好き。可愛いからピンクのリップを使う。どれも、今まで知っていた晴と矛盾しているわけではない。考えてみれば、当たり前だった。バスケが好きなことと、何かを可愛いと思うことは、何も関係がない。私が勝手に、晴を分かりやすい形で覚えていただけだった。

 店を出ると、外はまだ明るかった。六月に入り、日がずいぶん長くなっている。

「早速塗ってみようかな」

 晴は隣でスマートフォンを鏡代わりにして、買ったばかりのリップを塗った。

「真帆、どう?」

 思っていたより薄い色で、いつもより唇の色が柔らかく見えた。

「似合ってる」

「本当? 良かった。真帆、選んでくれてありがとね」

 晴はそう言って、嬉しそうに笑った。その顔を見た瞬間、胸の奥が小さく動いた。色が似合っていたから。自分が選んだものを晴が気に入ったから。たぶん、嬉しかったのだと思う。晴がリップを鞄へしまう。さっきまでその唇を見ていたことを、私は急に意識した。晴はいつもと同じように歩いている。私だけが、少し変だった。

 駅までの途中に、小さな書店があった。晴が店頭のポスターを見て、足を止める。

「あ、新刊出たんだ」

「晴って本読むの?」

「たまにね」

「意外」

 口にした瞬間、また同じことをしたと気づいた。晴がゆっくりこちらを見る。

「私って、真帆の中でどんな人なの?」

「……バスケしてて、明るくて、友達が多くて、人に優しい」

「いいことしか出てこないじゃん」

「褒めてるわけじゃなくて」

「じゃあ何?」

 返事に詰まる。今挙げたものは全部、晴について知っていることだった。でも、どれも教室にいれば分かることだった。バスケ部であること。誰とでも話せること。よく笑うこと。困っている人がいれば手を貸すこと。晴と同じクラスになったばかりの人でも、そのうち気づくことかもしれない。

「……それ以外を、あんまり知らなかったから」

 やっとそう言った。晴が目を丸くする。それから、笑った。

「じゃあ今日は、私のことをちょっと知ったね。私は真帆のこと、何知ったかな」

 そう言われて、少し考える。

「……緑が好き」

「それだけ? なら今度教えてよ、真帆が好きなもの」

 晴は、それ以上具体的には聞かなかった。好きな本。好きな食べ物。好きな音楽。たぶん、何でもよかったのだと思う。

「……うん」

 返事をする。それから歩きながら、自分の好きなものを考えた。だけど、意外と難しかった。嫌いではないものなら、いくつも浮かぶ。本を読むのは好き。紅茶も好き。雨の日に家で過ごすのも嫌いではない。でも、「これが好き」と誰かに言うには、少し自信がいる。

 本当にそれが好きなのか。もっと好きなものがあるのではないか。いつまで好きなのか。一度「好き」と言ったあとで、気持ちが変わったらどうするのか。そこまで考えてから、自分でも考えすぎだと思った。青が好きと即答した晴を思い出す。

 晴は、そのとき好きなら簡単に「好き」と言える。そのことが、なんだか羨ましかった。

 家で企画書を整理しながら、淡いピンクのリップと、晴の嬉しそうな顔を思い出していた。リップでも書店でも、私は「意外」と思った。晴は髪が短い、バスケ部、明るい。そんな特徴だけで、勝手に晴を分かりやすい形へ収めていた。

 だけど青が好きでも、本を読んでも、ピンクのリップを使っても。全部、同じ晴だった。それでも晴の淡いピンク色だけが、しばらく頭の中に残っていた。