文化祭の企画は、思っていたよりすんなり通った。翌週のホームルームで、晴が黒板の前に立って説明した。
「事前に匿名で質問を集めて、それを文化祭当日に展示します。来た人には、付箋で自由に答えを書いてもらいます」
黒板には、私が前日に作った簡単な説明が貼られている。仮タイトルは、結局そのままになった。
『十七歳の問い』
晴が考えた名前だ。その下には、「今、あなたが答えを出せないことは何ですか。」と書いた。
「例えば?」
前の方の席から声が飛んだ。晴が私を見る。説明するのは晴の役目だったけれど、例を考えたのは私だった。
「えっと……将来の夢は、今決めないといけませんか、とか」
「ちょっと重くない?」
誰かが笑った。教室にも、小さな笑いが広がる。一瞬だけ胸が縮んだ。間違えたかもしれない、もっと軽い質問から出した方がよかった。文化祭の説明なのだから、こんなに真面目なものではなくて――。
「ほかにもあるよ。友達って多い方がいい? とか、好きなことを仕事にするべき? とか」
晴がすぐに続けた。
「あ、それなら分かる」
「あと、校則って全部守らなきゃだめ?」
「それ学校に怒られない?」
「質問するだけならよくない?」
また笑い声が起こった。今度は私も息を吐けた。晴は、人前に立っていてもいつもとほとんど変わらない。笑われたら笑い返して、そのまま次の言葉へ進む。私なら一度つまずいただけで、そのあとに用意していた言葉まで全部気になってしまうと思う。
「これは答えを出す展示じゃなくて、いろんな人に、いろんな考えを書いてもらう感じ。だから、すぐ答えが決まらない質問の方が面白いと思う」
そう晴が言った。文化祭で飲食をやりたかった人も何人かいた。けれど手続きが多いことや、調理できる場所が限られていることを説明すると、強く反対する人はいなかった。
最後に多数決を取る。賛成の手が思っていたより多く挙がった。企画は承認された。拍子抜けするくらい、簡単だった。
◇
ホームルームが終わると、莉子が私の机までやってきた。
「いいじゃん。真帆っぽいね、考え込む企画」
「私が考えたわけじゃないよ」
「でも、晴一人だったら絶対もっと適当だったでしょ」
莉子が笑いながら言うと、後ろから「聞こえてるよ」と声がした。
「だって本当じゃない? 質問はいつ集めるの?」
「来週から。まずこのクラスで試して、それから他のクラスにもお願いする予定」
教室の後ろには、段ボールで作った小さな箱を置くことになった。質問は無記名。誰が何を書いたのか分からないようにする。中身を確認するのは、実行委員を中心に、準備を手伝うメンバーと先生。個人が特定できるものや、誰かを攻撃するための内容は展示しない。それ以外は、できるだけ書かれたまま使う。そこまで決めた。
「私も書こうかな」
私を見ながら、莉子が言う。
「何書くの?」
「今言ったら匿名の意味ないじゃん。真帆は?」
「書かないと思う」
「なんで?」
尋ねられて、少し考える。
「……人に聞きたいこと、あんまりないから。自分で考えればいいし」
「それで答え出なかったら?」
「もう少し考える」
「それでも出なかったら?」
「調べる」
「それでも?」
次々に質問を重ねられて、莉子が面白がっているのが分かった。
「……保留にする」
「真帆らしい」
「何、その言い方」
「褒めてる」
最近、この人たちは何でも褒めていることにする。後ろで晴も笑っていた。
◇
質問箱を置いた初日は、三枚しか入らなかった。一枚目。進路は親の希望を聞くべきですか。二枚目。友達に嫌われても、本音は言った方がいいですか。三枚目。好きなことが見つからないのは、おかしいですか。
「おお、結構ちゃんとしてる。もっと、どうしたら数学の成績上がりますかとか来ると思ってた」
放課後、晴が三枚の紙を机へ並べながら言った。
「それは答えがあるでしょ」
「勉強する」
「そう」
「耳が痛い」
顔をしかめて、晴は二枚目の紙を持ち上げる。
「これ、難しいね。言った方がいいとも限らないし」
「相手によると思う」
「じゃあ答え出ないね」
「……だからいいんじゃないの?」
自分で言ってから、なんだか妙な感じがした。答えが出ないからいい。数週間前なら、たぶんそんな言い方はしなかった。晴の顔が明るくなる。
「真帆、よく分かってきたじゃん」
「企画の趣旨はね」
「そこだけ?」
「そこだけ」
最初の三枚は、すべて展示候補に残した。翌日には八枚。その次の日には十二枚。質問箱の存在に慣れてきたのか、少しずつ内容もばらけ始めた。
友達と恋人、どっちを優先するべきですか。部活を辞めるのは逃げですか。親が勧める進路と、自分のやりたいことはどっちを選ぶべきですか。ネットで知り合った人は、本当の友達ですか。好きな髪型と似合う髪型は、どっちを選ぶべきですか。
「これ好き。十七歳っぽい」
晴が最後の紙を見て笑う。
「そう?」
「うん。本人は結構真剣かもしれないじゃん」
「だったら笑わないの」
「笑ってないよ」
「笑ってた」
「面白いって意味」
「それを笑ってるって言うんじゃない?」
晴はまだ笑っていた。私も質問を読みながら、この企画を少しずつ面白いと思い始めていた。
同じ教室にいる人たちが、普段何を考えているのかは分からない。いつも明るく話している人が、進路で悩んでいるかもしれない。恋人がいる人が、本当はその関係に迷っているかもしれない。何も考えていないように見える人が、誰にも言わない問いを持っているかもしれない。
人は、見えている部分だけでは分からない。そう考えたとき、試合に負けた日の晴の顔が浮かんだ。
「真帆、それずっと持ってるね。何か気になる?」
声をかけられて手元を見る。友達と恋人、どっちを優先するべきですか。いつの間にか、その紙だけを長く見ていたらしい。
「別に」
「また別にって言ってる」
「本当に別に」
紙を机へ戻す。晴に彼氏ができたら嫌だと思ったことを、一瞬だけ思い出した。でも、この質問とは関係ない。私は、恋人と友達のどちらを優先するべきなのか知りたいわけではない。晴に恋人はいない。今のところは。
そこまで考えて、最後の一言だけ頭の中から消した。
◇
質問箱を置いてから一週間ほど経った。クラスでの試行がうまくいけば、他のクラスにも協力を頼む。その前に、展示方法そのものも考えなければならなかった。実行委員だけでは手が回らないので、晴がホームルームで協力者を募った。
そのとき、「写真部なら展示の見せ方とか詳しくない?」と晴に声をかけられたのが、牧野修也だった。修也は考えてから、「写真部だからって展示全部詳しいわけじゃないけど」と笑い、それでも手伝うと言ってくれた。記録写真も必要になる予定だったので、結果的にはありがたかった。
その日の放課後、教室には私と晴、それから莉子と修也が残っていた。
「今日は六枚」
晴が質問箱を逆さにして、折り畳まれた紙を机へ出した。
「結構増えたね」
修也が椅子を寄せる。
「そうだね。他のクラスにも置いたら、もっと来るんじゃない?」
「晴。その前に、このクラスでちゃんと回るか確認してから」
私は紙を一枚ずつ広げる。一枚目。親友に秘密を作るのは悪いことですか。二枚目。夢を諦めるのは負けですか。三枚目。朝、学校に行きたくない日があるのは甘えですか。
「これ、結構重いね」
莉子が小さく言う。
「でも、そういうのも出すんでしょ?」
修也が聞く。
「うん。ルールに引っかからなければ」
四枚目。自分のやりたいことと、得意なことはどちらを選ぶべきですか。五枚目。親に言えないことがあるのは、悪いことですか。最後の一枚を開くと、手が止まった。紙の端を、指で押さえたまま動けなかった。文字は黒いボールペンで、少し右へ傾いている。
女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
誰も、すぐには何も言わなかった。教室の外から、運動部の掛け声が聞こえる。窓の向こうでは、夕方の光が校庭へ長く伸びていた。
同じ大きさの紙だった。ほかの五枚と何も違わない。なのに、その一枚だけが机の上で妙に目立って見えた。
「……これ、どうする?」
莉子が先に口を開いた。
「どうするって?」
晴が聞く。
「展示する?」
「なんでしないの?」
「いや……」
莉子は紙を見ながら、少し言葉を探した。
「ちょっと、扱い難しくない?」
晴はすぐには答えなかった。修也が紙へ目を落とす。
「俺は、別にいいと思うけど」
「私もそう思うよ」
莉子がすぐに言った。
「そうじゃなくて。文化祭って中学生とか親も来るじゃん。もし『変だと思う』って書く人がいたら、どうするのかなって」
喉元が詰まった。莉子は誰かを否定したわけではない。ただ、起こるかもしれないことを考えているだけだ。それでも、紙を押さえている指先に少し力が入った。
「それだけで、この質問を出さないの?」
晴が言う。
「出さないって決めてるわけじゃないよ」
「うん。でも、これだけ外すのも変な気がする」
晴は紙を覗き込む。
「……先生には、確認した方がいいと思う」
気づいたときには、私が言っていた。三人の視線が集まる。口が少し乾いた。どうして自分がこんなに、この一枚を外したくないのか分からなかった。
「だって内容自体は、決めたルールには違反してない。誰かを名指ししてるわけでもないし、誰かを傷つけるために書かれた質問でもないから」
一枚くらい外しても、企画全体には何の影響もない。質問は他にもある。わざわざ難しいものを扱う必要はない、と言われれば、その通りかもしれない。それでも、簡単に展示候補から外すのは違うと思った。
「真帆はこれ、出した方がいいと思う?」
莉子に聞かれる。
「……分からない」
いつもの答えだった。莉子の口元が緩む。
「そこは分からないんだ」
「先生には確認した方がいいと思う。でも」
もう一度、紙へ視線を落とした。女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
「これを書いた人は……誰にも聞けないから、匿名で書いたのかもしれない」
言葉にした瞬間、胸が苦しくなった。名前を書かなくていい。誰の問いなのか、分からなくていい。だからこそ、外へ置ける問いもあるのかもしれない。
書いた人は、ただの興味で書いただけかもしれない。友達にそういう人がいるのかもしれない。テレビやネットで見て、疑問に思っただけかもしれない。本人が女の子を好きなのだと決まったわけではない。勝手に決めるべきでもない。それなのに、なぜか。誰にも聞けずに、一人で考えている人の姿が浮かんだ。
「だったら、ここで外したら……その人、やっぱり聞いちゃだめだったって思わないかな」
晴の声は、いつもと同じだった。特別に真剣な顔をしているわけでもない。目の前にいるかもしれない誰かの気持ちを、いつものように考えているだけだった。
「そうかも」
莉子が小さく言う。晴は再び、その文字を見た。
「だって、答えが出ないことを集めるんでしょ」
晴は時々、ひどく単純なことを言う。単純なのにその言葉を聞くと、自分が難しく考えすぎていたような気持ちになる。答えが出ないことを集める。それなら答えが簡単に出ないからという理由で、この問いだけを外すのは変だった。
「じゃ、先生に確認しよ。俺たちだけで決めることでもないし」
修也が椅子の背にもたれた。
「うん」
私も頷いた。結論は出なかった。ただ、その紙は他の質問と同じ、展示候補の束へ置いた。白い紙の上に重ねる。それを見て、安心した。なぜ安心したのかは、まだ分からなかった。
◇
先生は質問を読んで、しばらく黙っていた。机の上へ紙を置き、もう一度読む。
「出していいんじゃないか。ただし、当日の回答は全部そのまま貼るんじゃなくて、お前たちで一度確認した方がいいな」
やがて、そう言った。
「都合の悪い答えは消すんですか?」
晴が聞く。
「そういう意味じゃない。意見が違うこと自体は問題ない。でも、誰かの存在そのものを攻撃するような言葉や、ただの誹謗中傷まで展示する必要はないだろ」
「でも……どこからが攻撃なのか、難しくないですか?」
私が尋ねると、先生は椅子へ深く座り直した。
「難しいな」
そして、あっさり認められた。
「じゃあ、基準は?」
「ある程度は決める。個人への悪口は出さないとか、属性だけを理由に人格を否定するものは出さないとか。ただ、全部を先に決めるのは無理だ」
無理。その言葉が苦手だった。先に基準を決めておけば、その場で迷わずに済む。迷わなければ、間違える可能性も減る。
「瀬尾。正解が一個に決まってない企画を選んだんだから、そのたび考えるしかないな」
「毎回ですか?」
「必要なら毎回」
先生は平然と答えた。
「先生、真帆のこと分かってきましたね」
「三好。お前はもう少し考えてから動け。二人でちょうどいいな」
そう笑われた。晴と顔を見合わせる。でも、完全には否定できなかった。
◇
その日の夜、私は机に向かって宿題をしていた。だけど、問題集を一ページ終えたところで、スマートフォンへ手が伸びた。通知は来ていない。晴からのメッセージもない。それでも画面を開き、検索欄を表示する。何を調べたいのかは、もう分かっていた。指を置く。文字を打つまでに、少し時間がかかった。
『女の子 女の子 好き』
そこまで入力する。検索候補が表示された。女の子を好きになった。女の子が好きかもしれない。同性 好き 高校生。そこで、続きを打てなくなった。さっき自分で打った言葉と、ほとんど同じ意味の文字しか並んでいない。
それなのに、女の子が好きかもしれない。その「かもしれない」だけが、急に自分の近くまで来たように感じた。画面には、ただの文字しかない。質問箱に入っていた紙と同じだ。
女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
私が書いた質問ではない。誰が書いたのかも知らない。自分には関係ない。そう思う。単に、晴に彼氏ができるところを想像すると嫌だった。それだけだ。友達への独占欲。嫉妬。親しい人を取られるような寂しさ。以前、自分で見つけた言葉なら、いくつもある。そのどれかで説明できるはずだった。
それなのに、この検索結果を開いたら、自分がまだ考えたことのない言葉が出てくる気がした。あるいはすでに知っている言葉が、自分の方を向く気がした。怖い。何が怖いのかは分からない。知らない言葉を見ることではない気がした。知っている言葉と、自分のあいだに線が引かれること。それを想像した瞬間、指が動かなくなった。
私は検索欄の文字を全部消した。何もなかった画面へ戻し、ホーム画面を閉じる。そして、問題集に戻った。
次の設問を読む。方程式。答えは一つ。途中式が間違っていなければ、最後には同じ数字へ辿り着く。答え合わせをすると、間違っていた。もう一度やる。また同じところで、符号を間違えた。普段ならしないような間違いだった。消しゴムで式を消す。白くなった紙の上へ、もう一度数字を書く。それでも頭の片隅には、あの一枚が残っていた。
女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
自分には関係のない問いのはずだった。それなのにその紙だけが、他のどの質問よりも忘れられなかった。
「事前に匿名で質問を集めて、それを文化祭当日に展示します。来た人には、付箋で自由に答えを書いてもらいます」
黒板には、私が前日に作った簡単な説明が貼られている。仮タイトルは、結局そのままになった。
『十七歳の問い』
晴が考えた名前だ。その下には、「今、あなたが答えを出せないことは何ですか。」と書いた。
「例えば?」
前の方の席から声が飛んだ。晴が私を見る。説明するのは晴の役目だったけれど、例を考えたのは私だった。
「えっと……将来の夢は、今決めないといけませんか、とか」
「ちょっと重くない?」
誰かが笑った。教室にも、小さな笑いが広がる。一瞬だけ胸が縮んだ。間違えたかもしれない、もっと軽い質問から出した方がよかった。文化祭の説明なのだから、こんなに真面目なものではなくて――。
「ほかにもあるよ。友達って多い方がいい? とか、好きなことを仕事にするべき? とか」
晴がすぐに続けた。
「あ、それなら分かる」
「あと、校則って全部守らなきゃだめ?」
「それ学校に怒られない?」
「質問するだけならよくない?」
また笑い声が起こった。今度は私も息を吐けた。晴は、人前に立っていてもいつもとほとんど変わらない。笑われたら笑い返して、そのまま次の言葉へ進む。私なら一度つまずいただけで、そのあとに用意していた言葉まで全部気になってしまうと思う。
「これは答えを出す展示じゃなくて、いろんな人に、いろんな考えを書いてもらう感じ。だから、すぐ答えが決まらない質問の方が面白いと思う」
そう晴が言った。文化祭で飲食をやりたかった人も何人かいた。けれど手続きが多いことや、調理できる場所が限られていることを説明すると、強く反対する人はいなかった。
最後に多数決を取る。賛成の手が思っていたより多く挙がった。企画は承認された。拍子抜けするくらい、簡単だった。
◇
ホームルームが終わると、莉子が私の机までやってきた。
「いいじゃん。真帆っぽいね、考え込む企画」
「私が考えたわけじゃないよ」
「でも、晴一人だったら絶対もっと適当だったでしょ」
莉子が笑いながら言うと、後ろから「聞こえてるよ」と声がした。
「だって本当じゃない? 質問はいつ集めるの?」
「来週から。まずこのクラスで試して、それから他のクラスにもお願いする予定」
教室の後ろには、段ボールで作った小さな箱を置くことになった。質問は無記名。誰が何を書いたのか分からないようにする。中身を確認するのは、実行委員を中心に、準備を手伝うメンバーと先生。個人が特定できるものや、誰かを攻撃するための内容は展示しない。それ以外は、できるだけ書かれたまま使う。そこまで決めた。
「私も書こうかな」
私を見ながら、莉子が言う。
「何書くの?」
「今言ったら匿名の意味ないじゃん。真帆は?」
「書かないと思う」
「なんで?」
尋ねられて、少し考える。
「……人に聞きたいこと、あんまりないから。自分で考えればいいし」
「それで答え出なかったら?」
「もう少し考える」
「それでも出なかったら?」
「調べる」
「それでも?」
次々に質問を重ねられて、莉子が面白がっているのが分かった。
「……保留にする」
「真帆らしい」
「何、その言い方」
「褒めてる」
最近、この人たちは何でも褒めていることにする。後ろで晴も笑っていた。
◇
質問箱を置いた初日は、三枚しか入らなかった。一枚目。進路は親の希望を聞くべきですか。二枚目。友達に嫌われても、本音は言った方がいいですか。三枚目。好きなことが見つからないのは、おかしいですか。
「おお、結構ちゃんとしてる。もっと、どうしたら数学の成績上がりますかとか来ると思ってた」
放課後、晴が三枚の紙を机へ並べながら言った。
「それは答えがあるでしょ」
「勉強する」
「そう」
「耳が痛い」
顔をしかめて、晴は二枚目の紙を持ち上げる。
「これ、難しいね。言った方がいいとも限らないし」
「相手によると思う」
「じゃあ答え出ないね」
「……だからいいんじゃないの?」
自分で言ってから、なんだか妙な感じがした。答えが出ないからいい。数週間前なら、たぶんそんな言い方はしなかった。晴の顔が明るくなる。
「真帆、よく分かってきたじゃん」
「企画の趣旨はね」
「そこだけ?」
「そこだけ」
最初の三枚は、すべて展示候補に残した。翌日には八枚。その次の日には十二枚。質問箱の存在に慣れてきたのか、少しずつ内容もばらけ始めた。
友達と恋人、どっちを優先するべきですか。部活を辞めるのは逃げですか。親が勧める進路と、自分のやりたいことはどっちを選ぶべきですか。ネットで知り合った人は、本当の友達ですか。好きな髪型と似合う髪型は、どっちを選ぶべきですか。
「これ好き。十七歳っぽい」
晴が最後の紙を見て笑う。
「そう?」
「うん。本人は結構真剣かもしれないじゃん」
「だったら笑わないの」
「笑ってないよ」
「笑ってた」
「面白いって意味」
「それを笑ってるって言うんじゃない?」
晴はまだ笑っていた。私も質問を読みながら、この企画を少しずつ面白いと思い始めていた。
同じ教室にいる人たちが、普段何を考えているのかは分からない。いつも明るく話している人が、進路で悩んでいるかもしれない。恋人がいる人が、本当はその関係に迷っているかもしれない。何も考えていないように見える人が、誰にも言わない問いを持っているかもしれない。
人は、見えている部分だけでは分からない。そう考えたとき、試合に負けた日の晴の顔が浮かんだ。
「真帆、それずっと持ってるね。何か気になる?」
声をかけられて手元を見る。友達と恋人、どっちを優先するべきですか。いつの間にか、その紙だけを長く見ていたらしい。
「別に」
「また別にって言ってる」
「本当に別に」
紙を机へ戻す。晴に彼氏ができたら嫌だと思ったことを、一瞬だけ思い出した。でも、この質問とは関係ない。私は、恋人と友達のどちらを優先するべきなのか知りたいわけではない。晴に恋人はいない。今のところは。
そこまで考えて、最後の一言だけ頭の中から消した。
◇
質問箱を置いてから一週間ほど経った。クラスでの試行がうまくいけば、他のクラスにも協力を頼む。その前に、展示方法そのものも考えなければならなかった。実行委員だけでは手が回らないので、晴がホームルームで協力者を募った。
そのとき、「写真部なら展示の見せ方とか詳しくない?」と晴に声をかけられたのが、牧野修也だった。修也は考えてから、「写真部だからって展示全部詳しいわけじゃないけど」と笑い、それでも手伝うと言ってくれた。記録写真も必要になる予定だったので、結果的にはありがたかった。
その日の放課後、教室には私と晴、それから莉子と修也が残っていた。
「今日は六枚」
晴が質問箱を逆さにして、折り畳まれた紙を机へ出した。
「結構増えたね」
修也が椅子を寄せる。
「そうだね。他のクラスにも置いたら、もっと来るんじゃない?」
「晴。その前に、このクラスでちゃんと回るか確認してから」
私は紙を一枚ずつ広げる。一枚目。親友に秘密を作るのは悪いことですか。二枚目。夢を諦めるのは負けですか。三枚目。朝、学校に行きたくない日があるのは甘えですか。
「これ、結構重いね」
莉子が小さく言う。
「でも、そういうのも出すんでしょ?」
修也が聞く。
「うん。ルールに引っかからなければ」
四枚目。自分のやりたいことと、得意なことはどちらを選ぶべきですか。五枚目。親に言えないことがあるのは、悪いことですか。最後の一枚を開くと、手が止まった。紙の端を、指で押さえたまま動けなかった。文字は黒いボールペンで、少し右へ傾いている。
女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
誰も、すぐには何も言わなかった。教室の外から、運動部の掛け声が聞こえる。窓の向こうでは、夕方の光が校庭へ長く伸びていた。
同じ大きさの紙だった。ほかの五枚と何も違わない。なのに、その一枚だけが机の上で妙に目立って見えた。
「……これ、どうする?」
莉子が先に口を開いた。
「どうするって?」
晴が聞く。
「展示する?」
「なんでしないの?」
「いや……」
莉子は紙を見ながら、少し言葉を探した。
「ちょっと、扱い難しくない?」
晴はすぐには答えなかった。修也が紙へ目を落とす。
「俺は、別にいいと思うけど」
「私もそう思うよ」
莉子がすぐに言った。
「そうじゃなくて。文化祭って中学生とか親も来るじゃん。もし『変だと思う』って書く人がいたら、どうするのかなって」
喉元が詰まった。莉子は誰かを否定したわけではない。ただ、起こるかもしれないことを考えているだけだ。それでも、紙を押さえている指先に少し力が入った。
「それだけで、この質問を出さないの?」
晴が言う。
「出さないって決めてるわけじゃないよ」
「うん。でも、これだけ外すのも変な気がする」
晴は紙を覗き込む。
「……先生には、確認した方がいいと思う」
気づいたときには、私が言っていた。三人の視線が集まる。口が少し乾いた。どうして自分がこんなに、この一枚を外したくないのか分からなかった。
「だって内容自体は、決めたルールには違反してない。誰かを名指ししてるわけでもないし、誰かを傷つけるために書かれた質問でもないから」
一枚くらい外しても、企画全体には何の影響もない。質問は他にもある。わざわざ難しいものを扱う必要はない、と言われれば、その通りかもしれない。それでも、簡単に展示候補から外すのは違うと思った。
「真帆はこれ、出した方がいいと思う?」
莉子に聞かれる。
「……分からない」
いつもの答えだった。莉子の口元が緩む。
「そこは分からないんだ」
「先生には確認した方がいいと思う。でも」
もう一度、紙へ視線を落とした。女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
「これを書いた人は……誰にも聞けないから、匿名で書いたのかもしれない」
言葉にした瞬間、胸が苦しくなった。名前を書かなくていい。誰の問いなのか、分からなくていい。だからこそ、外へ置ける問いもあるのかもしれない。
書いた人は、ただの興味で書いただけかもしれない。友達にそういう人がいるのかもしれない。テレビやネットで見て、疑問に思っただけかもしれない。本人が女の子を好きなのだと決まったわけではない。勝手に決めるべきでもない。それなのに、なぜか。誰にも聞けずに、一人で考えている人の姿が浮かんだ。
「だったら、ここで外したら……その人、やっぱり聞いちゃだめだったって思わないかな」
晴の声は、いつもと同じだった。特別に真剣な顔をしているわけでもない。目の前にいるかもしれない誰かの気持ちを、いつものように考えているだけだった。
「そうかも」
莉子が小さく言う。晴は再び、その文字を見た。
「だって、答えが出ないことを集めるんでしょ」
晴は時々、ひどく単純なことを言う。単純なのにその言葉を聞くと、自分が難しく考えすぎていたような気持ちになる。答えが出ないことを集める。それなら答えが簡単に出ないからという理由で、この問いだけを外すのは変だった。
「じゃ、先生に確認しよ。俺たちだけで決めることでもないし」
修也が椅子の背にもたれた。
「うん」
私も頷いた。結論は出なかった。ただ、その紙は他の質問と同じ、展示候補の束へ置いた。白い紙の上に重ねる。それを見て、安心した。なぜ安心したのかは、まだ分からなかった。
◇
先生は質問を読んで、しばらく黙っていた。机の上へ紙を置き、もう一度読む。
「出していいんじゃないか。ただし、当日の回答は全部そのまま貼るんじゃなくて、お前たちで一度確認した方がいいな」
やがて、そう言った。
「都合の悪い答えは消すんですか?」
晴が聞く。
「そういう意味じゃない。意見が違うこと自体は問題ない。でも、誰かの存在そのものを攻撃するような言葉や、ただの誹謗中傷まで展示する必要はないだろ」
「でも……どこからが攻撃なのか、難しくないですか?」
私が尋ねると、先生は椅子へ深く座り直した。
「難しいな」
そして、あっさり認められた。
「じゃあ、基準は?」
「ある程度は決める。個人への悪口は出さないとか、属性だけを理由に人格を否定するものは出さないとか。ただ、全部を先に決めるのは無理だ」
無理。その言葉が苦手だった。先に基準を決めておけば、その場で迷わずに済む。迷わなければ、間違える可能性も減る。
「瀬尾。正解が一個に決まってない企画を選んだんだから、そのたび考えるしかないな」
「毎回ですか?」
「必要なら毎回」
先生は平然と答えた。
「先生、真帆のこと分かってきましたね」
「三好。お前はもう少し考えてから動け。二人でちょうどいいな」
そう笑われた。晴と顔を見合わせる。でも、完全には否定できなかった。
◇
その日の夜、私は机に向かって宿題をしていた。だけど、問題集を一ページ終えたところで、スマートフォンへ手が伸びた。通知は来ていない。晴からのメッセージもない。それでも画面を開き、検索欄を表示する。何を調べたいのかは、もう分かっていた。指を置く。文字を打つまでに、少し時間がかかった。
『女の子 女の子 好き』
そこまで入力する。検索候補が表示された。女の子を好きになった。女の子が好きかもしれない。同性 好き 高校生。そこで、続きを打てなくなった。さっき自分で打った言葉と、ほとんど同じ意味の文字しか並んでいない。
それなのに、女の子が好きかもしれない。その「かもしれない」だけが、急に自分の近くまで来たように感じた。画面には、ただの文字しかない。質問箱に入っていた紙と同じだ。
女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
私が書いた質問ではない。誰が書いたのかも知らない。自分には関係ない。そう思う。単に、晴に彼氏ができるところを想像すると嫌だった。それだけだ。友達への独占欲。嫉妬。親しい人を取られるような寂しさ。以前、自分で見つけた言葉なら、いくつもある。そのどれかで説明できるはずだった。
それなのに、この検索結果を開いたら、自分がまだ考えたことのない言葉が出てくる気がした。あるいはすでに知っている言葉が、自分の方を向く気がした。怖い。何が怖いのかは分からない。知らない言葉を見ることではない気がした。知っている言葉と、自分のあいだに線が引かれること。それを想像した瞬間、指が動かなくなった。
私は検索欄の文字を全部消した。何もなかった画面へ戻し、ホーム画面を閉じる。そして、問題集に戻った。
次の設問を読む。方程式。答えは一つ。途中式が間違っていなければ、最後には同じ数字へ辿り着く。答え合わせをすると、間違っていた。もう一度やる。また同じところで、符号を間違えた。普段ならしないような間違いだった。消しゴムで式を消す。白くなった紙の上へ、もう一度数字を書く。それでも頭の片隅には、あの一枚が残っていた。
女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。
自分には関係のない問いのはずだった。それなのにその紙だけが、他のどの質問よりも忘れられなかった。
