まだ名前のない、きみの隣

 文化祭の企画は、思っていたよりすんなり通った。翌週のホームルームで、晴が黒板の前に立って説明した。

「事前に匿名で質問を集めて、それを文化祭当日に展示します。来た人には、付箋で自由に答えを書いてもらいます」

 黒板には、私が前日に作った簡単な説明が貼られている。仮タイトルは、結局そのままになった。

『十七歳の問い』

 晴が考えた名前だ。その下には、「今、あなたが答えを出せないことは何ですか。」と書いた。

「例えば?」

 前の方の席から声が飛んだ。晴が私を見る。説明するのは晴の役目だったけれど、例を考えたのは私だった。

「えっと……将来の夢は、今決めないといけませんか、とか」

「ちょっと重くない?」

 誰かが笑った。教室にも、小さな笑いが広がる。一瞬だけ胸が縮んだ。間違えたかもしれない、もっと軽い質問から出した方がよかった。文化祭の説明なのだから、こんなに真面目なものではなくて――。

「ほかにもあるよ。友達って多い方がいい? とか、好きなことを仕事にするべき? とか」

 晴がすぐに続けた。

「あ、それなら分かる」

「あと、校則って全部守らなきゃだめ?」

「それ学校に怒られない?」

「質問するだけならよくない?」

 また笑い声が起こった。今度は私も息を吐けた。晴は、人前に立っていてもいつもとほとんど変わらない。笑われたら笑い返して、そのまま次の言葉へ進む。私なら一度つまずいただけで、そのあとに用意していた言葉まで全部気になってしまうと思う。

「これは答えを出す展示じゃなくて、いろんな人に、いろんな考えを書いてもらう感じ。だから、すぐ答えが決まらない質問の方が面白いと思う」

 そう晴が言った。文化祭で飲食をやりたかった人も何人かいた。けれど手続きが多いことや、調理できる場所が限られていることを説明すると、強く反対する人はいなかった。

 最後に多数決を取る。賛成の手が思っていたより多く挙がった。企画は承認された。拍子抜けするくらい、簡単だった。

◇

 ホームルームが終わると、莉子が私の机までやってきた。

「いいじゃん。真帆っぽいね、考え込む企画」

「私が考えたわけじゃないよ」

「でも、晴一人だったら絶対もっと適当だったでしょ」

 莉子が笑いながら言うと、後ろから「聞こえてるよ」と声がした。

「だって本当じゃない? 質問はいつ集めるの?」

「来週から。まずこのクラスで試して、それから他のクラスにもお願いする予定」

 教室の後ろには、段ボールで作った小さな箱を置くことになった。質問は無記名。誰が何を書いたのか分からないようにする。中身を確認するのは、実行委員を中心に、準備を手伝うメンバーと先生。個人が特定できるものや、誰かを攻撃するための内容は展示しない。それ以外は、できるだけ書かれたまま使う。そこまで決めた。

「私も書こうかな」

 私を見ながら、莉子が言う。

「何書くの?」

「今言ったら匿名の意味ないじゃん。真帆は?」

「書かないと思う」

「なんで?」

 尋ねられて、少し考える。

「……人に聞きたいこと、あんまりないから。自分で考えればいいし」

「それで答え出なかったら?」

「もう少し考える」

「それでも出なかったら?」

「調べる」

「それでも?」

 次々に質問を重ねられて、莉子が面白がっているのが分かった。

「……保留にする」

「真帆らしい」

「何、その言い方」

「褒めてる」

 最近、この人たちは何でも褒めていることにする。後ろで晴も笑っていた。

◇

 質問箱を置いた初日は、三枚しか入らなかった。一枚目。進路は親の希望を聞くべきですか。二枚目。友達に嫌われても、本音は言った方がいいですか。三枚目。好きなことが見つからないのは、おかしいですか。

「おお、結構ちゃんとしてる。もっと、どうしたら数学の成績上がりますかとか来ると思ってた」

 放課後、晴が三枚の紙を机へ並べながら言った。

「それは答えがあるでしょ」

「勉強する」

「そう」

「耳が痛い」

 顔をしかめて、晴は二枚目の紙を持ち上げる。

「これ、難しいね。言った方がいいとも限らないし」

「相手によると思う」

「じゃあ答え出ないね」

「……だからいいんじゃないの?」

 自分で言ってから、なんだか妙な感じがした。答えが出ないからいい。数週間前なら、たぶんそんな言い方はしなかった。晴の顔が明るくなる。

「真帆、よく分かってきたじゃん」

「企画の趣旨はね」

「そこだけ?」

「そこだけ」

 最初の三枚は、すべて展示候補に残した。翌日には八枚。その次の日には十二枚。質問箱の存在に慣れてきたのか、少しずつ内容もばらけ始めた。

 友達と恋人、どっちを優先するべきですか。部活を辞めるのは逃げですか。親が勧める進路と、自分のやりたいことはどっちを選ぶべきですか。ネットで知り合った人は、本当の友達ですか。好きな髪型と似合う髪型は、どっちを選ぶべきですか。

「これ好き。十七歳っぽい」

 晴が最後の紙を見て笑う。

「そう?」

「うん。本人は結構真剣かもしれないじゃん」

「だったら笑わないの」

「笑ってないよ」

「笑ってた」

「面白いって意味」

「それを笑ってるって言うんじゃない?」

 晴はまだ笑っていた。私も質問を読みながら、この企画を少しずつ面白いと思い始めていた。

 同じ教室にいる人たちが、普段何を考えているのかは分からない。いつも明るく話している人が、進路で悩んでいるかもしれない。恋人がいる人が、本当はその関係に迷っているかもしれない。何も考えていないように見える人が、誰にも言わない問いを持っているかもしれない。

 人は、見えている部分だけでは分からない。そう考えたとき、試合に負けた日の晴の顔が浮かんだ。

「真帆、それずっと持ってるね。何か気になる?」

 声をかけられて手元を見る。友達と恋人、どっちを優先するべきですか。いつの間にか、その紙だけを長く見ていたらしい。

「別に」

「また別にって言ってる」

「本当に別に」

 紙を机へ戻す。晴に彼氏ができたら嫌だと思ったことを、一瞬だけ思い出した。でも、この質問とは関係ない。私は、恋人と友達のどちらを優先するべきなのか知りたいわけではない。晴に恋人はいない。今のところは。

 そこまで考えて、最後の一言だけ頭の中から消した。

◇

 質問箱を置いてから一週間ほど経った。クラスでの試行がうまくいけば、他のクラスにも協力を頼む。その前に、展示方法そのものも考えなければならなかった。実行委員だけでは手が回らないので、晴がホームルームで協力者を募った。

 そのとき、「写真部なら展示の見せ方とか詳しくない?」と晴に声をかけられたのが、牧野修也だった。修也は考えてから、「写真部だからって展示全部詳しいわけじゃないけど」と笑い、それでも手伝うと言ってくれた。記録写真も必要になる予定だったので、結果的にはありがたかった。

 その日の放課後、教室には私と晴、それから莉子と修也が残っていた。

「今日は六枚」

 晴が質問箱を逆さにして、折り畳まれた紙を机へ出した。

「結構増えたね」

 修也が椅子を寄せる。

「そうだね。他のクラスにも置いたら、もっと来るんじゃない?」

「晴。その前に、このクラスでちゃんと回るか確認してから」

 私は紙を一枚ずつ広げる。一枚目。親友に秘密を作るのは悪いことですか。二枚目。夢を諦めるのは負けですか。三枚目。朝、学校に行きたくない日があるのは甘えですか。

「これ、結構重いね」

 莉子が小さく言う。

「でも、そういうのも出すんでしょ?」

 修也が聞く。

「うん。ルールに引っかからなければ」

 四枚目。自分のやりたいことと、得意なことはどちらを選ぶべきですか。五枚目。親に言えないことがあるのは、悪いことですか。最後の一枚を開くと、手が止まった。紙の端を、指で押さえたまま動けなかった。文字は黒いボールペンで、少し右へ傾いている。

 女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。

 誰も、すぐには何も言わなかった。教室の外から、運動部の掛け声が聞こえる。窓の向こうでは、夕方の光が校庭へ長く伸びていた。

 同じ大きさの紙だった。ほかの五枚と何も違わない。なのに、その一枚だけが机の上で妙に目立って見えた。

「……これ、どうする?」

 莉子が先に口を開いた。

「どうするって?」

 晴が聞く。

「展示する?」

「なんでしないの?」

「いや……」

 莉子は紙を見ながら、少し言葉を探した。

「ちょっと、扱い難しくない?」

 晴はすぐには答えなかった。修也が紙へ目を落とす。

「俺は、別にいいと思うけど」

「私もそう思うよ」

 莉子がすぐに言った。

「そうじゃなくて。文化祭って中学生とか親も来るじゃん。もし『変だと思う』って書く人がいたら、どうするのかなって」

 喉元が詰まった。莉子は誰かを否定したわけではない。ただ、起こるかもしれないことを考えているだけだ。それでも、紙を押さえている指先に少し力が入った。

「それだけで、この質問を出さないの?」

 晴が言う。

「出さないって決めてるわけじゃないよ」

「うん。でも、これだけ外すのも変な気がする」

 晴は紙を覗き込む。

「……先生には、確認した方がいいと思う」

 気づいたときには、私が言っていた。三人の視線が集まる。口が少し乾いた。どうして自分がこんなに、この一枚を外したくないのか分からなかった。

「だって内容自体は、決めたルールには違反してない。誰かを名指ししてるわけでもないし、誰かを傷つけるために書かれた質問でもないから」

 一枚くらい外しても、企画全体には何の影響もない。質問は他にもある。わざわざ難しいものを扱う必要はない、と言われれば、その通りかもしれない。それでも、簡単に展示候補から外すのは違うと思った。

「真帆はこれ、出した方がいいと思う?」

 莉子に聞かれる。

「……分からない」

 いつもの答えだった。莉子の口元が緩む。

「そこは分からないんだ」

「先生には確認した方がいいと思う。でも」

 もう一度、紙へ視線を落とした。女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。

「これを書いた人は……誰にも聞けないから、匿名で書いたのかもしれない」

 言葉にした瞬間、胸が苦しくなった。名前を書かなくていい。誰の問いなのか、分からなくていい。だからこそ、外へ置ける問いもあるのかもしれない。

 書いた人は、ただの興味で書いただけかもしれない。友達にそういう人がいるのかもしれない。テレビやネットで見て、疑問に思っただけかもしれない。本人が女の子を好きなのだと決まったわけではない。勝手に決めるべきでもない。それなのに、なぜか。誰にも聞けずに、一人で考えている人の姿が浮かんだ。

「だったら、ここで外したら……その人、やっぱり聞いちゃだめだったって思わないかな」

 晴の声は、いつもと同じだった。特別に真剣な顔をしているわけでもない。目の前にいるかもしれない誰かの気持ちを、いつものように考えているだけだった。

「そうかも」

 莉子が小さく言う。晴は再び、その文字を見た。

「だって、答えが出ないことを集めるんでしょ」

 晴は時々、ひどく単純なことを言う。単純なのにその言葉を聞くと、自分が難しく考えすぎていたような気持ちになる。答えが出ないことを集める。それなら答えが簡単に出ないからという理由で、この問いだけを外すのは変だった。

「じゃ、先生に確認しよ。俺たちだけで決めることでもないし」

 修也が椅子の背にもたれた。

「うん」

 私も頷いた。結論は出なかった。ただ、その紙は他の質問と同じ、展示候補の束へ置いた。白い紙の上に重ねる。それを見て、安心した。なぜ安心したのかは、まだ分からなかった。

◇

 先生は質問を読んで、しばらく黙っていた。机の上へ紙を置き、もう一度読む。

「出していいんじゃないか。ただし、当日の回答は全部そのまま貼るんじゃなくて、お前たちで一度確認した方がいいな」

 やがて、そう言った。

「都合の悪い答えは消すんですか?」

 晴が聞く。

「そういう意味じゃない。意見が違うこと自体は問題ない。でも、誰かの存在そのものを攻撃するような言葉や、ただの誹謗中傷まで展示する必要はないだろ」

「でも……どこからが攻撃なのか、難しくないですか?」

 私が尋ねると、先生は椅子へ深く座り直した。

「難しいな」

 そして、あっさり認められた。

「じゃあ、基準は?」

「ある程度は決める。個人への悪口は出さないとか、属性だけを理由に人格を否定するものは出さないとか。ただ、全部を先に決めるのは無理だ」

 無理。その言葉が苦手だった。先に基準を決めておけば、その場で迷わずに済む。迷わなければ、間違える可能性も減る。

「瀬尾。正解が一個に決まってない企画を選んだんだから、そのたび考えるしかないな」

「毎回ですか?」

「必要なら毎回」

 先生は平然と答えた。

「先生、真帆のこと分かってきましたね」

「三好。お前はもう少し考えてから動け。二人でちょうどいいな」

 そう笑われた。晴と顔を見合わせる。でも、完全には否定できなかった。

◇

 その日の夜、私は机に向かって宿題をしていた。だけど、問題集を一ページ終えたところで、スマートフォンへ手が伸びた。通知は来ていない。晴からのメッセージもない。それでも画面を開き、検索欄を表示する。何を調べたいのかは、もう分かっていた。指を置く。文字を打つまでに、少し時間がかかった。

『女の子 女の子 好き』

 そこまで入力する。検索候補が表示された。女の子を好きになった。女の子が好きかもしれない。同性 好き 高校生。そこで、続きを打てなくなった。さっき自分で打った言葉と、ほとんど同じ意味の文字しか並んでいない。

 それなのに、女の子が好きかもしれない。その「かもしれない」だけが、急に自分の近くまで来たように感じた。画面には、ただの文字しかない。質問箱に入っていた紙と同じだ。

 女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。

 私が書いた質問ではない。誰が書いたのかも知らない。自分には関係ない。そう思う。単に、晴に彼氏ができるところを想像すると嫌だった。それだけだ。友達への独占欲。嫉妬。親しい人を取られるような寂しさ。以前、自分で見つけた言葉なら、いくつもある。そのどれかで説明できるはずだった。

 それなのに、この検索結果を開いたら、自分がまだ考えたことのない言葉が出てくる気がした。あるいはすでに知っている言葉が、自分の方を向く気がした。怖い。何が怖いのかは分からない。知らない言葉を見ることではない気がした。知っている言葉と、自分のあいだに線が引かれること。それを想像した瞬間、指が動かなくなった。

 私は検索欄の文字を全部消した。何もなかった画面へ戻し、ホーム画面を閉じる。そして、問題集に戻った。

 次の設問を読む。方程式。答えは一つ。途中式が間違っていなければ、最後には同じ数字へ辿り着く。答え合わせをすると、間違っていた。もう一度やる。また同じところで、符号を間違えた。普段ならしないような間違いだった。消しゴムで式を消す。白くなった紙の上へ、もう一度数字を書く。それでも頭の片隅には、あの一枚が残っていた。

 女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。

 自分には関係のない問いのはずだった。それなのにその紙だけが、他のどの質問よりも忘れられなかった。