まだ名前のない、きみの隣

 五月の連休が終わると、教室の後ろに一枚の紙が貼られた。『文化祭実行委員 二名』――その下には、まだ誰の名前も書かれていなかった。

 文化祭は九月にある。まだまだ先だ。それでもクラス企画の申請や予算の希望を提出しなければならないらしく、担任は朝のホームルームで言った。

「今週中に実行委員を決めるからな。立候補がいなければ、金曜に話し合う」

 こういう「話し合う」は、たいてい誰も立候補せず、最後には誰かが推薦される。だから、あまり気にしていなかった。金曜日になるまでは。

◇

「文化祭委員、どうする?」

 四時間目が終わると、莉子が空欄の実行委員欄を見ながら言った。

「誰かやるんじゃない?」

「真帆。その誰かをみんな待ってるんだよ」

 後ろで会話を聞いていた晴が、からかうように尋ねてきた。

「真帆、やる?」

「やらない」

 すぐに答えた。それに晴が一瞬止まる。

「真帆、珍しく即答じゃん」

「向いてないから。人に指示したりできないし」

「実行委員って指示する人なの?」

「分からないけど」

「分かんないのに向いてないって決めたの?」

 晴にそう言われると、困った。実際、私だって仕事内容を詳しく知っているわけではない。でも文化祭の実行委員と聞けば、クラスをまとめたり、先生と交渉したり、みんなの前で説明したりする場面があると思う。その時点で、向いていないと思うには十分だった。

「晴は向いてそう。人と話すの得意だから」

「それだけ? じゃあ真帆が私の相方やってよ。一人じゃないならできそうじゃない?」

「私は一人でも二人でも無理」

「相変わらず厳しいなあ」

 冗談なのだと思った。実際、晴はそのあとすぐ別の話を始めた。だから、私もそれ以上は気にしなかった。

◇

 六時間目のホームルームになっても、実行委員の欄は空白だった。担任が黒板の前で腕を組む。

「はい。予告どおり、文化祭実行委員を決めるぞ。立候補する人いないか?」

 気まずい沈黙が続く。先生がため息を吐きかけたところで、晴が手を挙げた。何人かが一斉に振り返る。

「先生。私やります」

「お、三好。助かる」

 その途端、教室の空気が目に見えて緩んだ。

「あと一人だな」

 そして、また静かになる。私は机の上の筆箱を見た。どうやら晴は、本当にやるらしい。さっきの話は冗談だと思っていた。

「じゃあ、晴と仲いい人やれば?」

 誰かが呟く。その声に、何人かが周囲を見回した。

「瀬尾さんとか? 晴とよく一緒にいるじゃん。席も前だし、委員会も部活もやってないよね?」

 教室の視線が、じりじりと私に集まってくる。断っていい。私はやりたいと言っていない。

「真帆、無理しなくていいよ。私から誰かに声かけてみるから」

 晴が言った。教室中に聞こえるような大きな声ではなくて、私にだけ届く程度の声だった。助かった、と思った。これで断れる。晴自身がそう言ってくれたのだから、誰も私を責めたりしない。

 それなのに。

「……やります」

 気づいたときには、そう答えていた。晴が一瞬息を止める。私自身も驚いた。

「真帆、いいの?」

「……晴と二人なら」

 昼休みには無理だと言った。それでも、晴に「無理しなくていい」と言われた瞬間、断りたい気持ちが小さくなった。

「じゃあ三好、瀬尾。頼むぞ」

 先生が二人の名前を黒板に書く。三好晴。瀬尾真帆。その並んだ文字を見ていたら、後ろから声がした。

「真帆、よろしくね」

 顔を向けると、晴は嬉しそうに笑っていた。だから、今更撤回はできなかった。

◇

 放課後は、早速実行委員の説明会へ出た。日程や予算、企画書の締切を聞き、私は資料へ印をつけた。晴の資料はほとんど白い。

「実行委員、真帆がいてよかったよ。もう締切管理してくれてる」

「まだ何もしてないし、これは自分のために書いてるだけ」

「でも助かってる」

 そう言われると、返す言葉がなかった。なんだか照れくさくなって、私は資料へ目を戻した。

 説明会のあと、教室へ戻って二人で企画を考えた。飲食は手続きが多く、お化け屋敷は倍率が高い。展示は案が思いつかない。

「文化祭って、何が正解なんだろうね」

 晴は自分の席に座ったまま、机の上に両手を伸ばした。

「正解?」

「せっかくやるなら、みんなが楽しい方がいいじゃん。でも、全員が同じことやりたいわけじゃないし」

「多数決で決めれば?」

「決めるだけなら、それでいいけどさ。それが正解かは分かんないじゃん」

 晴は頬杖をつき、首を傾げた。私は問題集みたいに、正解があるものの方が好きだ。だけど人の気持ちには、それがない。

「一番多い案にすれば、一番多くの人がやりたい企画にはなるんじゃない?」

「真帆らしい」

 いくら話し合っても、結論は出ない。とりあえず、その日は帰ることにした。晴と並んで階段を下りている途中で、ふいに「あ」と声がした。

「そういえば、去年の文化祭で面白いのあった。三年生の展示で、悩み相談みたいなの」

「占いとか?」

「違う違う。なんか、壁に質問が書いてあって、来た人が答えを書く感じ。夢がないのはダメですか、とか。友達って何人いれば多いですか、とか。そういう質問だった気がする」

「それ、悩み相談なのに答え出ないね」

「そう。それがよかったんだよ」

「答え出ないのに?」

 私は尋ねる。晴は踊り場まで下りると、手すりに軽く触れながら振り返った。

「むしろ、答えがばらばらで面白かった。気にしなくていいって人も、一人でも親友がいれば多いって人もいて。違うのに、どっちが間違いって感じもしなくて」

「じゃあ、結局どれが質問の答えなの?」

「全部でいいんじゃない?」

 晴は、本当に簡単なことのように言った。

「一個に決めなくていいじゃん」

 その言葉に、少し引っかかった。答えなのに、一個に決めなくていい。

「それって、質問した人は困らない? 答えが欲しいから聞くんじゃないの?」

「そういうときもあると思うけど……書くだけでもちょっとすっきりすることない?」

「答えが出てなくても?」

「うん、出てなくても。真帆はない?」

 私は言葉を探す。私ならきっと、分からないなら分かるようにしたい。答えが出ないまま人へ見せるのは、なんだか落ち着かなくなりそうだった。

「……分からない」

「そっか」

 晴は、それ以上聞かなかった。分からないと答えたことにも、特に困った顔をしない。そのまま、また階段を下り始める。私もあとを追った。

「でも、ああいうのやってもいいかもね」

「それだと、去年の三年生と同じになるよ」

「そのままじゃなくて、もっと二年生っぽいやつ」

「二年生っぽい?」

「十七歳って微妙じゃない? もうすぐ成人で子どもでも大人でもないのに、進路は決めろって言われるし」

 進路。将来。最近、先生たちが少しずつ口にするようになった言葉だった。来年になれば、もっと増えるのだろう。十六歳の今ですら分からないことばかりなのに、十七歳になった瞬間、急に答えが増えるとも思えなかった。

「だから……『十七歳の今、答えが出ないこと』を集めるとか」

「答えが出ないこと……」

「うん。みんな一個くらいあるんじゃない? 進路とか、友達とか、家族とか」

「それ……企画になるかもしれない」

「お」

 晴の言っていたイメージを、頭の中で形にする。

「事前に質問を集める箱を置いて……匿名にした方がいいかも」

「匿名?」

「名前を書かなくていいようにするの。質問だけ」

「確かに、その方が書きやすそう」

 匿名なら自分でも整理できていない問いを、名前のない紙として外へ置けるのかもしれない。誰かの前で口にするのとは違う。自分でも整理できていないことを、紙の上に置くだけ。それなら、「話す」よりいくらか簡単なのだろうか。

「それで、集めた質問を文化祭の日に壁に貼る。そのあと、来た人に付箋で答えてもらう……そんな感じ?」

「いいね。タイトル何にする?」

 晴の声で、考えが途切れた。

「決めなくていいよ。まだ思いつきの段階だから」

「『十七歳の問い』とか?」

「晴、聞いてる? それに、そのまますぎない?」

「分かりやすくていいじゃん。なんかかっこいいし。どう?」

「まあ……仮なら」

「じゃあ決まりだ」

「仮だからね」

 校門へ向かいながら、「十七歳の問い」という言葉を考えた。もし本当に、答えが出ないことがあったら。考えても、調べても、誰かに聞いても、それでも分からないことがあったら。そのときは、どうすればいいのだろう。

 まだ分からない。まだ決まっていない。だけど晴は、そういう状態をあまり怖がらないようだった。私には、それが少し不思議だった。