まだ名前のない、きみの隣

 月曜日、晴はバス停で泣いたことにも、帰りのバスで私の肩にもたれて眠ったことにも触れなかった。私から話す理由もない。

 だけどあの日から、晴との会話が変わった気がする。晴は愚痴や家で怒られたことみたいな、次の日には忘れそうな話を前より私にするようになった。たぶん、ほかの友達にも同じようなことを話している。それでも以前は人に囲まれて笑っている晴を、私が眺めることの方が多かった。今は、晴の方から声をかける。そのことだけで、教室の中の距離が少し変わった気がした。

◇

「真帆、今日一緒に帰れる?」

 その日の放課後、晴が尋ねてきた。

「晴、部活は?」

「今日は体育館使えないから休み。莉子は?」

「委員会」

「じゃあ、真帆と二人?」

「……たぶん」

「何、そのたぶん」

「莉子が早く終わったら、一緒になるかもしれないから」

「そういうこと? じゃあ、たぶん一緒に帰ろう」

「うん」

 帰り支度をして、二人で教室を出る。一緒に帰るのは二度目だったけれど、前より会話の返事を考える時間が短くなっていた。

 校門を出たところで、後ろから声がした。

「晴!」

 七海が走ってやってきた。自主練帰りらしく、晴と先日の試合について話してから、私にも手を振ってまた走っていった。

「……七海とは、中学から一緒なんだよね」

 そう言ってから、どうしてその話をしたのか自分でも分からなかった。

「中一からずっと同じ部活。高校もたまたま同じになった」

「仲いいね」

「まあ、長いからね」

 晴は何も気にせず、また歩き出す。中学一年生からなら、もう四年以上になる。長いな、と思っただけなのに、しばらく頭に残った。

「……真帆? 急に静かになった」

「考え事」

「何の?」

「別に」

 そう答えてから、晴が以前言ったことを思い出した。

「……七海と、長いんだなって思って」

「うん、長いね」

「そっか」

「……それだけ?」

「それだけ」

 私は頷く。晴は少し不思議そうだったけれど、それ以上は聞かなかった。

 駅に着くと晴がスポーツドリンクを買い、ベンチへ座る。適当に好きな飲み物の話をしていたところで、晴がふいに聞いてきた。

「ねえ。真帆って、彼氏いたことある?」

 晴があまりにも普通の声で言ったので、一瞬、聞かれたことの意味が分からなかった。さっきまで、好きな飲み物の話をしていた。私には紅茶が似合うとか、晴にはスポーツドリンクが似合うとか。そういう、次の電車が来れば忘れてしまいそうな話だった。

 その続きに、突然「彼氏」という言葉が置かれた。

「……ないけど」

 少し遅れて答える。

「やっぱり」

「何が?」

「いや、なんとなく」

 なんとなく、で分かるものなのだろうか。私には恋人がいたことがない。だから、それを見抜かれたことがどこか恥ずかしいような気もした。でも、何を恥ずかしがればいいのかもよく分からなかった。

「……晴は?」

「ないよ」

 今度は、私の方が晴の顔を見た。晴に彼氏がいるかどうかなんて、今まで一度も考えたことがなかった。それでも、もし昨日まで誰かに「三好晴には彼氏がいると思う?」と聞かれていたら、たぶん「いるんじゃない」と答えていた気がする。

「……いるのかと思ってた」

「なんで?」

「だって晴、人気あるから」

「そうかな。それに、人気あるのと彼氏いるのは別でしょ」

「そうだけど」

 言われてみればその通りだった。晴はペットボトルを両手で挟み、何かを考えるように視線を上へ向けていた。

「そもそも中学は、ほぼ部活しかしてなかったし。高校入ってからも、そういうのは」

「告白されたことは?」

「ある」

「あるんだ」

「二回だけ」

 二回。それが多いのか少ないのかは分からない。私には一度もないので、少なくとも私よりは多かった。どんな人だったのだろう、と思った。同じ中学の人か。高校に入ってからの人か。晴のことを、どういうふうに好きだったのか。そこまで考えてから、そんなことを知ってどうするのだろうと思った。

「付き合わなかったの?」

「うん。別に好きじゃなかったから」

 晴はあっさりと言った。好きではないから、付き合わなかった。晴にとっては単純な話らしい。誰かに好かれたからといって、自分も好きになるわけではない。当然のことなのに、晴がそう言うと妙にはっきり聞こえた。

「でも私も、大学とか行ったら変わるのかな」

「何が?」

「恋愛とか」

 晴が顔を上げる。ホームの反対側に、同じ制服の男女が立っていた。男子生徒がスマートフォンを見せ、女子生徒がその画面を覗き込んでいる。二人の肩が触れていた。女子生徒が何かを言い、男子生徒が笑う。晴は、その二人を見ていた。

「私も、彼氏とかできるのかな」

 晴は本当に何気なく、自分の未来を想像しただけなのだと思う。誰かを好きになり、付き合う。よくある話だった。

 来年は受験生になる。その次は、大学へ行くかもしれない。新しい場所で、新しい友達ができる。その中に、好きになる男の子がいるかもしれない。告白して、あるいは告白されて、付き合う。反対側のホームに立っている二人みたいに、隣に並んでスマートフォンを覗き込むこともあるのかもしれない。

 ごく普通の未来だった。晴がそうなることに、不思議なところは何もない。

「晴なら、すぐできるんじゃない」

 気づけばそう答えていた。だけど知らない誰かの隣にいる晴の姿が、なぜか頭の中にうまく収まらなかった。

「じゃ、期待しとこうかな。大学デビュー」

「高校では作らないの?」

「作りたい相手がいれば?」

 そう言って、晴はペットボトルを膝の上で転がす。

「真帆は?」

「何が?」

「彼氏」

 また、その言葉が戻ってきた。

「……分からない」

「真帆って好きな人いないの?」

「いない」

 そこだけは、すぐに答えられた。好きな人はいない。だけど、男子を格好いいと思うことはあるから、いつか誰かを好きになるのだろう思っていた。

「たぶん……そのうちできるんじゃない」

 私が呟いたそのとき、電車がホームへ入ってきた。風が吹き、会話はそこで途切れた。

◇

 夕食のあいだも、晴の「彼氏」という言葉が頭に残った。母に新しいクラスのことを聞かれ、「莉子も一緒だし」と答えたけれど、晴の名前は出さなかった。

 部屋へ戻り、英単語を書いている途中で手が止まった。晴に彼氏ができて、知らない男子と歩く姿を想像した。きっと、駅のホームで話したからだ。晴が幸せなら、友達として喜ぶべきだと思う。それなのに、想像すると嫌だった。寂しいだけなのかもしれない。

 私は咄嗟に、机の上のスマートフォンを手に取る。

『友達 彼氏 できる 寂しい』

 似た相談は多かった。でも、晴と私はまだ親友と呼ぶほど長い関係でも、毎日一緒にいるわけでもない。検索欄を変える。

『友達 独占欲』

 依存。嫉妬。友情。並んだ言葉の中で、嫉妬という文字だけを見つめた。七海や他の友達と話す晴を見ても、やめてほしいとは思わない。晴が他の友達と遊びに行ったとしても、たぶん、それなら何とも思わない。

 でも――彼氏は嫌だった。知らない男子が、晴の隣を歩く。晴がその人へ、どうでもいい話をする。負けた日に泣いていたことも、その人は知るのかもしれない。その想像だけは、うまく飲み込めなかった。

 どうして。

 検索欄に指を置く。続きを打とうとして、止めた。これ以上検索したら、自分が考えたことのない言葉まで出てくる気がした。何が出てくるのかは分からない。画面の文字を全部消し、スマートフォンを伏せる。

 ノートへ戻って、英単語を書く。書き続けていると、気持ちが落ち着いた。答えが出ないことは、一度やめればいい。今すぐ考える必要はない。晴には彼氏はいない。明日も同じ教室にいる。朝になれば、たぶんいつものように、後ろから「真帆、おはよ」と言う。

 それで十分だ。

◇

 翌朝教室へ入ると、思ったとおり晴が声をかけた。

「真帆、おはよ。昨日さ、真帆を見習って英単語の勉強したよ」

「本当に?」

「うん。単語帳を机に置いただけ」

「それって勉強なの?」

「厳しい」

 つい突っ込むと、晴は歯を見せて笑う。何も変わっていない。晴はいつものように後ろの席にいて、私はその友達だ。

「……晴。今日、部活ある?」

 聞いてから、少し不自然だったかもしれないと思った。

「今日は木曜日だから休養日。なんで?」

「別に」

「一緒に帰りたい?」

 晴が冗談っぽく聞いてきた。

「そういう意味じゃない。ただ聞いただけ」

 晴は「そっか」と笑い、机の上に教科書を出し始める。胸の奥が、まだ少しざらついている。ふいに、昨日自分で見つけた言葉を思い出した。

 寂しい。嫉妬。独占欲。どれも、少しずつ違う気がした。でも、ほかの言葉は知らなかった。友達なら、彼氏ができることを喜べるはずだった。それができない私は、たぶん、いい友達ではなかった。