まだ名前のない、きみの隣

 晴の試合を見に行くことになったのは、金曜日の昼休みだった。

「そういえば明日、部活の試合があるんだけど」

 晴がご飯を箸でつまんだまま、思い出したように言った。

「試合?」

 莉子が聞き返す。

「そう。地区の春季大会の一回戦。市民体育館でやるから、暇だったら見に来てよ」

 晴はそう言ってから、小林さんたちにも声をかけた。

「みんなも。十一時からだから」

「起きられたら行く」

「それ、絶対来ないやつじゃん」

「勝ったら午後もある?」

「明日は一試合だけ。二回戦は来週」

「じゃあ勝ってよ」

「そのつもり」

 強気に笑って、晴は自分の弁当に戻った。私だけを誘ったわけではない。晴にとっては、友達に試合の予定を知らせただけなのだろう。

「真帆、行く?」

 莉子に聞かれた。

「莉子は?」

「行ってみようかな。市民体育館なら近いし」

「じゃあ、私も」

 答えてから、もし莉子が行かないと言っていたら、自分はどうしたのだろうと考えた。晴とは仲良くなってきたとはいえ、同じクラスになってまだ一ヶ月も経っていない。そんな相手の部活動の試合を一人で見に行くのは、気合いが入りすぎている気がする。

 莉子が行くから、自分も行く。そのくらいがちょうどよかった。

「二人とも来る?」

「たぶん」

 私が答えると、晴は満足そうに笑っていた。

「真帆のたぶん、最近信用できるようになってきた。たぶんって言ったとき、だいたい来てくれる」

「まだそんなに言ってないと思う」

「言ってるよ」

「いや、言ってるね」

 莉子まで頷いた。どうやら、覚えられているほど言っていたらしい。恥ずかしくなって、私は弁当に視線を戻した。

◇

 翌朝、約束の時間より十分早く市民体育館へ着いた。体育館の前には、ジャージ姿の高校生が何人もいた。入口付近には学校名の書かれたバスが停まり、保護者らしい人たちが荷物を運んでいる。人が多い。思っていたより、本格的な大会だった。

 中へ入っていいのか、一瞬迷った。入口には受付らしい机がある。でも、関係者専用と書かれた扉も見える。一般の観客はどこから入るのだろう。スマートフォンを開き、莉子からのメッセージを確認する。

『ごめん、電車一本乗り遅れた! 先入ってて!』

 七分前に届いていた。先入ってて。そう言われても、どこから入ればいいのか分からない。晴に連絡することも考えた。でも、試合前の選手に「入口が分からない」と送るのは迷惑だと思うし、もうメッセージを見られないかもしれない。

 受付の人に尋ねれば済む話だった。分かっている。試合を見に来たのですが、観客はどこから入ればいいですか――頭の中で一度言ってみる。これなら問題ない。そう思って受付へ向かおうとしたところで、後ろから声がした。

「あれ?」

 振り返る。見覚えのある女子生徒が、大きなスポーツバッグを肩にかけて立っていた。晴と話しているところを見たことがある。短いポニーテールで、晴より少し背が低い子だった。顔は分かる。でも、名前を聞いた記憶がなかった。

「確か二組の瀬尾さんだよね? 晴の応援?」

「うん」

「やっぱり。観客席二階だよ。そこの階段から上がれる」

「……ありがとう」

「どういたしまして。晴、喜ぶと思うよ」

 女子生徒はそう言って、関係者用の入口へ向かおうとした。その後ろ姿に、私は思い切って声をかけた。

「あのっ、名前聞いてもいい?」

 女子生徒が振り返る。一瞬、失礼だったかもしれないと思った。向こうは私の名前を知っているのに、こちらは知らない。晴の友達なのだから、以前紹介されていた可能性もある。けれど、彼女は気にした様子もなく笑った。

「相馬七海。バスケ部。晴とは中学から一緒」

「相馬さん」

「七海でいいよ」

 また、下の名前で呼んでもいい人が増えた。でも、呼べるかどうかは別の話だ。

「そっちは真帆でしょ? 晴から聞いてる。じゃ、今日は応援よろしくね」

 七海は爽やかに手を振り、そのまま体育館の中へ入っていった。晴と中学から一緒、その言葉が引っかかった。長い友達なのだろう。ただ、それだけだった。

◇

 試合開始の十分前には、莉子も到着した。

「ごめん! 場所分かった?」

「晴の友達に教えてもらった」

「晴ってほんと、どこにでも友達いるね」

 莉子は会場を見渡しながら、隣へ座った。観客席から見下ろすコートでは、選手たちがウォーミングアップをしている。すぐに晴を見つけた。学校のジャージではなく、白地に紺色のラインが入ったユニフォームを着ている。教室で見るときより、少し細く見えた。

「あ、いた。晴、五番だね。なんか違う人みたい」

 莉子が指をさす。私も同じことを思っていた。晴は笑っていなかった。もちろん、まったく笑わないわけではない。チームメイトと何か話して口元を緩めることはある。でも、教室で見せる笑顔とは違っていた。

 ボールを受け取る。床へつく。走る。ゴールを見る。一つ一つの動作から、余計なものが消えているように見えた。

 晴はいつも、人の顔をよく見ている。話している相手だけではなく、周りに誰がいるかまで気にしている。誰かが会話から外れていれば、自然にそちらへ話を振る。でも、今は違う。晴の目は、ボールとゴールと味方しか追っていなかった。

 笛が鳴ると、選手たちがコートの中央へ集まった。晴は先発だった。

「晴……すごいね。最初から出るんだ」

 私が言うと、莉子が首を傾げた。

「晴、上手いんじゃない?」

 知っていたはずだった。晴がバスケ部であることも、運動が得意なことも。でも、晴はバスケが上手いという情報と、実際にコートを走っている晴は、まったく違うものだった。

 試合が始まる。私は、バスケットボールの細かいルールをほとんど知らない。ボールが入れば点が入る。ラインの外から決めれば三点。それくらいは分かる。でも笛が鳴るたび、何が起きたのか分からない。

「莉子、今の何?」

「ファウルじゃない? 知らないけど」

 莉子も詳しくなかった。それでも、晴が上手いことだけは分かった。ボールを持っていないときも、ずっと動いている。味方に向かって声を出す。

「左!」

「いける!」

「戻って!」

 普段より低く、強い声だった。相手選手とぶつかり、晴が床へ倒れた。その瞬間、息を呑む。でも晴はすぐに立ち上がり、倒れたことなどなかったように走り出した。

 次のプレーで晴がシュートを決めると、観客席から歓声が上がった。莉子が拍手する。私も遅れて手を叩いた。コートの晴には、たぶん聞こえていない。それなのに、もっとちゃんと拍手した方がいい気がして、少し強く手を打った。

 前半が終わった時点で、晴たちのチームが三点負けていた。選手たちがベンチへ戻る。監督を囲み、水を飲みながら話を聞く。七海が晴の肩へタオルをかけた。晴が何か言い、七海が笑う。中学から一緒なのだから、あれくらいの距離は普通なのだろう。

「後半、勝てるかな」

 莉子の声で、視線を戻す。

「……分からない」

「真帆、めっちゃ見てるね」

「だって、試合を見に来たから」

「そうだけど」

 莉子が苦笑する。意味が分からず聞き返そうとしたところで、後半開始の笛が鳴った。

◇

 後半残り一分。点差は二点だった。観客席の空気まで、試合開始直後とは違っている。隣に座る莉子も、もうほとんど話さない。晴たちのチームがボールを奪う。晴が走る。七海からパスを受け取る。ゴールへ向かう。相手選手が前へ出た。晴は一度止まり、横へパスを出す。味方がシュートを打った。外れた。

「あ……」

 自分でも気づかないうちに、声が出ていた。相手チームがボールを取る。残り時間が減っていく。三十秒。二十秒。相手のシュートが決まり、点差が四点になった。晴がボールを受け取り、また走る。

 残り十秒。晴がラインの外からシュートを打つ。入った。歓声が上がる。点差は一点。でも、残り時間はほとんどなかった。相手チームがボールを持ったまま、終了のブザーが鳴った。

 一点差。晴たちは負けた。観客席で拍手が起こる。私も手を叩いた。晴はコートの中央で、相手チームと挨拶をする。頭を下げる。顔を上げる。泣いてはいなかった。少なくとも、遠くから見る限りでは。

「惜しかったね」

 拍手をしながら、莉子が言う。

「うん」

「晴、最後すごかった」

「うん」

 同じ返事しかできなかった。一点。最後のシュートがもう少し早ければ。その前のシュートが入っていれば。素人の私でも、いくつも「もし」を考えられる。実際にコートにいた晴は、もっとたくさん考えているのだろう。

 選手たちはベンチへ戻り、しばらくして体育館の奥へ消えた。その姿を見送って、莉子が立ち上がる。

「帰ろっか」

「晴に声かけなくて、いいのかな」

「試合後だし、ミーティングとかあるんじゃない?」

 私は頷き、椅子から立ち上がった。連絡を送ることも考えた。お疲れさま。惜しかったね。最後のシュート、すごかった。どれがいいのだろう。だけど、負けた直後に惜しかったと言われるのは嫌かもしれない。すごかったと言われても、素直に受け取れないかもしれない。

 結局、何も送らないまま会場を出る。莉子とは、体育館前のバス停で別れた。

「ごめん、今日私こっち。また月曜日ね」

「うん。また」

 莉子の乗るバスが先に来た。私は反対方向のバスを待つ。ベンチへ座り、スマートフォンを開いた。晴とのメッセージ画面を、もう一度表示する。

『今日はお疲れさま』

 打つ。これなら間違っていない。勝っても負けても、試合をしたことには変わりない。でも、あまりにも他人行儀だった。消す。

『試合、すごかった』

 何がすごかったのか分からない。消す。

『最後のシュート、かっこよかった』

 入力しかけて、やめる。かっこよかった。実際、そう思った。けれど、「かっこいい」という言葉を女子の友達へ送るのは別におかしくないはずなのに、なぜか気恥ずかしい。結局、それも消した。何も書かれていない画面を見ていると、体育館の方から声が聞こえた。

「あれっ、真帆?」

 顔を上げると、晴が立っていた。ジャージに着替え、スポーツバッグを肩にかけている。髪は汗で少し濡れていた。

「まだいたんだ」

「バス待ってる」

「そっか。莉子は?」

「反対方向だから、先に帰った」

 晴はバス停の時刻表をちらりと一瞥したあと、私を見た。

「私もこれ」

 そう言って、晴は私の隣へ座った。いつもの晴だった。少なくとも、最初はそう見えた。

「今日は来てくれてありがと。二人がいるの、下から見えてたよ」

 晴が笑う。いつもの笑い方だった。だから、私も普通に話していいのだと思った。

「……最後のシュート、すごかった」

 さっき送れなかった言葉を口にする。その瞬間に晴の笑顔が、ほんの少し止まった。

「入ったけどね」

「うん」

「……負けたから」

 声は明るい。でも、明るくしようとしている声だった。私にも、それくらいは分かった。

「……一点だったね」

「一点」

 晴は前を向いた。バス停の向こうには、大きな道路がある。車が途切れず走っていた。

「あそこで私がもっと早く打ってたら、時間残ったかもしれないし」

「うん」

「その前も一本外したし」

「うん」

「二クォーターの最後、変なパスしたし」

「……うん」

 何と返せばいいのか分からなかった。そんなことないよ、と言うこともできる。晴は十分頑張った。最後のシュートも決めた。実際、すごかった。でも、それを私が言っていいのか分からない。バスケのことを何も知らない私が「晴は悪くない」と言っても、根拠がない。

 次は勝てるよ、も違う。絶対に勝てる保証なんてない。元気出して、も違う。晴は、元気がないことを悪いと言われたいわけではないと思う。だから、何も言えなかった。

 少しして、晴が顔を上げる。

「真帆は、何も言わないんだ」

 責めているようには聞こえなかった。私は俯き、膝の上で指を組んでいた。

「何を言えばいいか分からないから。バスケのことも、私は全然分からないし。だから、晴は悪くないとか、次は勝てるとか……そういうこと言っても、たぶん無責任だと思う」

 晴は黙っている。言いすぎたかもしれない。もう少し簡単に励ませばよかったのかもしれない。一度言葉を止めて、その続きを口にするべきか考える。考えても、正しいかどうかは分からなかった。

 それでも、晴は前に言っていた。

――黙っていると、何を考えているか分からなくて困ることもある。

「でも、晴を……一人にしない方がいい気がした」

 言ってから、自分でも変な言葉だと思った。

「何それ」

 晴が軽く吹き出す。でも、今度の笑い方は少し違った。声が小さかった。

「真帆、たまに変なこと言うね」

「ごめん」

「褒めてる」

「それは褒めてないと思う」

「褒めてるよ」

 晴はそう言って笑ったあと、顔を伏せた。それから、ジャージの袖で目元を軽くこする。一瞬だった。見なかったふりをした方がいい気がした。晴は泣いていない。たぶん、そういうことにした方がいい。

「……汗?」

 だけどなぜか、そんな間抜けなことを聞いていた。晴が鼻をすすって、顔を上げる。

「そう。汗」

 明らかに泣いていた。でも、晴が汗だと言うなら、そういうことにしておく方がいい気がした。

「そっか」

「真帆、そこは信じるんだ」

「晴がそう言うなら」

 晴は控えめに笑った。道路の向こうを車が走っていく。遠くで信号が変わる音がした。晴はしばらく俯いていて、私は隣に座ったまま、何もしなかった。背中をさするべきなのか、ハンカチを渡した方がいいのか、何か別の話をした方がいいのか。いくつか考えたけれど、どれも選べなかった。結局、鞄から未開封のポケットティッシュだけを取り出して、晴との間のベンチへ置いた。晴がそれを見る。

「使っていいの?」

「そのために出したから」

 晴はそこから一枚取って、目元を押さえる。

「ありがと。真帆の前だと、なんか格好つかないな」

「普段格好つけてるの?」

「ちょっとはね」

「知らなかった」

「やっぱり真帆は、私のこと全然知らないね」

 前に、私が晴に言った言葉だった。まだよく知らない。それを、晴は覚えていたらしい。

「これから知ってもらえばいいって言ったの、晴でしょ」

 言い返すと、晴が一度だけ瞬きをする。それから、本当に少しだけ笑った。

「そうだった」

 その顔は、教室で誰かに向けている晴の笑顔とは違っていた。体育館でボールを追っていたときの顔とも違う。目元も鼻も赤い。格好よくはなかった。たぶん、晴自身もそう思っている。でも、なぜか目を逸らしたくなかった。

 やがて、バスが見えてきた。晴がベンチから立ち上がる。

「来たね」

「うん」

 私も立つ。バスへ乗り込むと、後ろの方に二人分の席が空いていた。晴が窓側へ座り、私が隣へ座る。発車してしばらくすると、晴は窓へ頭を預けた。

「真帆、ちょっとだけ寝てもいい?」

「いいけど、降りるところ分かる?」

「さすがに分かるよ。じゃあ真帆、起こして。三つ目のバス停だから」

 晴はそう言って目を閉じた。それから五分ほどすると、頭がこちらへ傾いてくる。最初は、髪の先が肩に触れただけだった。次のカーブで、晴の頭が完全に私の肩へ乗った。身体が固まる。起こした方がいいのだろうか。でも、晴は寝ると言っていた。本人は気づいていないだろうし、疲れているのに起こす理由もない。

 重いわけでもない。むしろ、ほんのり温かい。だから、このままでいい。そう判断した。

 窓の外を景色が流れていく。晴は誰にでも優しい。誰にでも話しかける。誰かが転びそうになれば、きっと相手が誰でも手を伸ばす。でも――試合に負けたあと、目を赤くした晴を見た人は、どれくらいいるのだろう。

 そんなことを考えてから、すぐにやめた。人数を数えたところで、何の意味もない。晴が誰に泣いているところを見せるかは、晴の自由だ。私が気にすることではない。そう思う。それでも、肩に残る重さだけは、晴が降りる三つ目のバス停まで、ずっと意識していた。